番外第四話:とある夫婦の馴れ初め
『……馴れ初め?』
あるうららかな昼下がりでのこと。
穏やかな日差しの下、庭先に二人の親子がいた。
ウェーブ状にたなびく、綺麗な金髪をした母娘。
彼女らの名前は、エイシア=ランスロットとメリー=ランスロット。
メリーはこの時十歳。
これは、イギリス世界恐慌未遂から七年も前の話。
そして、メリーの母、エイシアが存命の時の話である。
『えーと……どうしたのメリー?』
目を輝かせて見上げてくるメリーに、尋ね返してみる。
すると、メリーがその足下に抱き付いて、照れ臭くなったかのように頭をそのスカートに頭を埋めさせた。
『いいから! なれそめ! パパとママの、教えてよ!』
『ん、んー……メリー、メリーちゃん? なんでいきなり、そんな話聞きたいのかな?』
突然の娘の問いに、やや困惑げに 手を頬に添えるエイシア。
スカートの裾が、その小さな手で握りしめられる。エイシアは、そのモゴモゴとくぐもった幼い声を待つ。
『それは……』
『うんうん』
『…………』
『…………』
『お、教えないもん!』
『え?』
がばっ、と身を離し、何故か気分を悪くしたように膨れっ面で声を荒げた。
『ママのバカっ!』
『え、え?』
『もう知らないもん! ふん!』
突然尋ねられ、いきなり怒鳴られたエイシアが訳も分からず狼狽えるより先、娘のメリーは逃げるように駆け出していってしまった。
『あっ、ちょっと……』
かと思うと、駆けていたメリーが思い切りずっこけた。
『ふ、ふぐっ……』
『メ、メリー!? 大丈夫?』
声をかけて駆け寄ろうと、椅子から腰を浮かせる。
しかしメリーはすぐに立ち上がり――――
『う、ううっ……うわあーーーーん!!』
そして、泣きながら猛ダッシュで逃げ出していってしまった。
『あ……』
そして、エイシアは置いてきぼりを食らう形で一人取り残された。
娘の怒涛の勢いに、呆気に取られながら。
『なんか、悪いことしちゃったのかしら……?』
◆◆◆
『はい? 馴れ初め、ですか?』
エイシアの言葉に、一人の銀髪の女が答える。
彼女は、グレイシー=オルコット。エイシアが特に気に掛けている『家族』の一員である。
今はエイシアの側近として控えており、相互の信頼は厚い。
『そうなのよ。それも急に訊かれちゃって。ギル、何か知らない?』
『いえ……私は何も存じ上げませんが』
そのグレイシーの真剣な物言いと、エイシアのふわふわした軽い口調が、なんとも対照的である。
『そもそも、私はメリーお嬢様とお目通りしたことがないので』
そう、まだこの時はグレイシーはメリーと面識はなかった。
メリーに至っては、グレイシーのその存在すらも知らないのだ。
――――彼女らが出逢うのは、この二年後のこと。
『そうよねえ……。あの子、どうしたのかしらね』
『何か、そのような事を話したりなさったので?』
『いやー、覚えてないなあ。ドラマの影響かしら……』
口を尖らせてうんうん唸るエイシア。
庭を駆け回って、服を泥だらけにして帰ってきたり。
外に出て年上の男の子とケンカして、ボロボロになって帰ってきたり。
いつもいつも、ジェウロを困らせてきたあのじゃじゃ馬娘も、今は十才。
年頃の女の子のように興味を持ち始めたことに、エイシアは微笑ましさとどことない寂しさを覚えていた。
『……あの、ところで』
『うん?』
『私、今化粧直しの最中なのですが』
――――グレイシーが花を摘んでいる個室の前で。
『私は気にしないわよ?』
『そこは気にしてください』
『だって中には入ってないじゃない』
『中に入っていたらなお問題ですよ』
グレイシーがトイレから出てきたところで、閑話休題。
『――――それで、お話なさるのですか。その、お二方の馴れ初めについて』
次の彼女の言葉に、エイシアは難色を示した。
『ううー……ん、それは……』
メリーは、ただ普通の女の子として生きてきた。
メリーは、裏社会から意図的に遠ざけられている。それは、誰よりも何よりもエイシア本人たっての願いだった。
ネブリナ家の人間でも、彼女に接触できる者は極一部に限られているのだ。
そして、家でも決してネブリナのことは話しはしなかった。
『……メリーには、正直には話せない、かなー……』
『……そうですか』
例えいつの日か、隠しきれなくなる日が来るかもしれなくても。
そのことでショックを受ける日が来るかもしれなくても。
ただただ、健やかにいて欲しい。それだけが、エイシアの望むたった一つの願いだった。
『……まあ、というわけでね。お願いギル! いい感じに誤魔化せられる話を一緒に考えてくれない?』
『はあ……そういうことでしたら』
そこに、ネブリナ家としての垣根はなく、まるで仲の良い姉妹のような気楽さがあった。
こうしていると、娘のことで悩んで妹に相談するごく普通の母親だ。
実際、エイシアはネブリナ家のことなどまるで意識していない、甘えかかるような柔らかな笑みをグレイシーに見せる。
グレイシーはというと、やはりその親しげな態度に戸惑ってしまう。それが嘘でないと分かるから、なおのこと肩身の狭さを感じてしまうのだ。
『そう、ですね……。職場恋愛というのはどうですか?』
『あら素敵ねえ! 血と硝煙の薫りで高ぶり、戦場で背中を合わせて手を握りしめる二人……やぁーん、胸がときめくわぁ~♪』
『いえその、ネブリナ家の基準ではなくて、普通に会社勤めという設定のつもりで……』
……まあ、肩身の狭さ以前に、エイシアの独特なペースに呑まれて面食らうことも多いのだが。
◆◆◆
結局、それから数時間は、ああだこうだと議論を交わした。
ハリウッドも驚くボーイミーツガールストーリーまで飛躍したところで話は途切れ、グレイシーが仕事に向かってしまう。
エイシアは、まだピンとは来ないでいた。これまで疑われすらしなかったネブリナ家のことを、この程度の事で気取られるわけにはいかない。
例えまだ十歳のメリー相手でも、完璧な方便を用意しなければならないのだ。
そこで、グレイシーが去り際に一言残していった。
曰く、
――――他の者にも意見を募ってみてはどうでしょう。私一人だけでなく、広い視野から答えが見つかるかもしれません。
と、いうわけで。
『――――ねえジェウロ。何か良い案はないかしら?』
『……何故私などに、そのようなことを』
グレイシーの言葉に従い、ジェウロにも話を聞きに来ていた。
他にも色んな人間にあったことを話し、良い感じの助言をもらったらそれを採用するという魂胆。
たった今、平積みになった書類と格闘している彼は、眉間に皺を寄せ、指で揉む。
『もっと適切な者もおりますでしょうに……』
『えー、でもでもー。さっきギルと話してて、ドラマティックなお話がいいって映画を参考にしようとしたら、死ぬ度にループを繰り返して、死ねば死ぬほど戦火の中で強くなっていくマキシーとそれを見守る私、が有力候補になっちゃって』
ちなみに、マキシーとは彼女の夫マクシミリアンの略称である。
『……取り敢えず、倒錯した話し合いだったのは察せられましたが』
『だよねー、これじゃリアリティが無いものねー……』
そう言う問題では……と口に出しかけた言葉を抑え、ジェウロは何かを理解したように嘆息した。
『お願いよジェウロ、力を貸してちょうだい!』
『しかし、お二方の馴れ初めなど、私には余りある恐縮の極み。性分ではありませんな』
『そこをなんとか!』
ずいと近寄って食い下がるエイシア。
『同じ仕事場だった貴方しか頼れないのよー。ね? ダメ?』
『む……』
その詰められた距離に、ジェウロが慌ててふいと視線を逸らした。
しかし、彼女の期待の眼差しに押しきられたか、思わず口を滑らせるように溢してしまった。
『そ、そこまで仰られるのであれば、分かりました……このジェウロの知恵を、お貸ししましょう』
『わぁーい! ありがとうね、ジェウロ!』
『……いえ、お安いご用です。御身のお役に立てるのであれば、この程度のことなど』
当惑する彼をよそに、無邪気に喜びを表現するエイシア。ジェウロは、目の前にあった書類を諦観の念で放棄した。
決してちょろいなどと思ってはいけない。これも彼女の人徳あってのものなのだ。
『そう、ですな……馴れ初め、恋愛……とあれば、学園の初恋ということでいかがでしょうか』
『おおー、初恋! いいよねえ!』
このような話題に不慣れな様子のジェウロが提示したのは、至ってありふれた答えだった。
もしこの場の会話をどこぞの日本の少年が聞いていれば、似合わないと笑い堪えていただろうが。
それを、目を輝かせながらエイシアは大仰に頷く。
『でもマキシーは学校通ってないからなあ。 ボロ出さないかしら』
『いくらでも言い訳はつくと思いますがね……あの方の口の達者っぷりであれば』
話の内容ではなく、話をすること自体が楽しいというように。
『でもさ、学校での初恋だなんて。ちょっと意外。ジェウロも、そんな経験あったの?』
『私は、そのようなことなど……』
『うふふ、照れた照れた』
『照れてなどおりません! 私は――――』
エイシアが笑い、ジェウロが狼狽える。
もはや話の目的そっちのけな気もするが、しかし。
和気あいあいと、二人の会話と笑い声が弾んだ。
◆◆◆
ケース3:レスター=バレッドの場合。
『申し訳ありませんが、私は奥様のお力にはなり得ません』
イギリスのやや奥まったところにある小振りのパブ、『the-workplace』。
店側から見えない関係者入り口をくぐり、『公爵家の相続人』よろしく隠された地下への通路を潜るように通ってその小部屋はある。
エイシアは、そこで夫の友人であるレッジの元を訪れていた。
『そこをなんとか~! お願い、レディが困ってるのよー?』
ジェウロの時同様に、ワンパターンなお願いを試みてみる。
『もちろん、貴女の助けになりたいとは存じますが、私にも矜持がありますゆえ』
が、しかしレッジは強情に首を振る。
『私は、決して嘘は吐きません。それが例え、「white lie(悪意ない嘘)」だとしても、嘘は吐かない主義なのです』
涼しげな切れ目がこちらを鋭く射抜いた。
『ご存知いただけていると、思っておりましたが……?』
『う……そ、それは……そうだけど……』
真っ正面に対面する彼の、端的な言葉にたじろぐ。
普段こうした突き放すような態度をありありと出すことのないレッジにとって、こうした言動は激しい拒絶とも言える。
『でも――――っ!?』
いっそのこと、『命令』してみようかしら、という考えがちらりとよぎったところで――――エイシアはハッとした。
レッジの、目。
あれは、強固な意志を持った目だ。例え、『命令』に背いてでも――――死んだとしても貫こうとする意志が。
その証拠に、表情は僅かに固く強張り、今すぐにでも死ぬ覚悟が出来た色合いを帯びていた。
嘘を吐くことを無理強いしようとした自分が悪いのに。
『うん、そうね……ごめんなさい』
しゅんと肩を縮めこませて、自分の非礼を詫びた。
辛うじて口にはしなかったものの、身勝手な思考を一瞬でも考えてしまったこと、それもレッジは自分を全く責めないと分かっている分、かえって罪悪感を覚えていた。
静まり返った空気の中で、厳かに口を開いたのはレッジだった。
『……私は、嘘を吐きません』
表情に影を落としたエイシアに、レッジは再度こう告げる。
まるで、自分自身に言い聞かせるかのように。
『正直こそが、 矮小な私が持ち得る、何物にも揺るがせない矜持。たった一つの「道」なのですよ』
『…………』
『しかし』
『え?』
うつむいた顔を上げた彼女に、レッジはこう続けた。
『しかしですね、私も嘘のようなお話を語ることは出来ます。子供におとぎ話を読み聞かせるようにね』
そう言って、エイシアににこりと笑いかけた。
『例えば――――そう、どこかの夫婦の語り草という名目でお話しするのであれば、知恵をお貸しするということも、やぶさかではありませんよ』
『…………』
『それで、いかがでしょう? お約束いただけますか?』
エイシアは、しばらく呆気に取られた。
そして、小さく苦笑した。
おそらく、彼なりに譲歩した結果のことなのだろう。他の人間からして見れば、意味のない体裁に過ぎないのかもしれない。
でも、違う。他の誰もが知らなくても、エイシアは知っている。
この前置きこそ、彼にとっては至極意味のあることなのだと。
レッジにとっては、嘘を吐いてないという事実に意味があるのだ。
それは呪いのように、楔のように。彼を形作る根幹に、『嘘を吐かない』という掟がある。
そこに意義が無ければ――――そこに固執しなければ、レスター=バレッドは生きていけない。
『……貴方って、嘘が嫌いなのに、嘘をつくのが上手よね』
『ふふ、〝だからですよ〟』
口元に手を当て、自嘲気味な笑みを溢す。
過去にあるしこりを思い出したかのような、難しい笑み。
そこに深くは突き詰めなかった。話として聞かされたレッジの事情を、本人に蒸し返すようなことはしなかった。
……また一つ、レッジのことを知ったエイシアであった。
『……分かったわ、レッジがそこまで言うんなら』
『ありがとうございます』
『それはこっちの台詞よ。ごめんね。貴方が嘘を吐かない理由を、私は知ってたのに……こんなこと頼んで』
『なに、レディが困っているのを放ってはおけませんからね』
『……うん、ありがとう!』
花開くように、エイシアは満面の笑みを浮かべた。
『だから私、貴方が好きよ♪』
『おやおや、ふふ。流石、お上手だ』
……ちなみに、この会話にこっそり聞き耳を立てていたミランダが、後日アンダーボスの夫人を誘惑しているとして噂を立てて、うっかり殺されそうになったのは別の話。
◆◆◆
エイシア=ランスロット。
イギリスの出身。父は不動産業を営み、小学校に入学。その後ケンブリッジ大学生物学科に進学し、獣医を志す。テニスサークルに入部、ボランティア活動にも意欲を見せる。成績良好で、コンクールにも数度出場経験がある。
大学院に在籍中、スティーブ=ガリバーに出会う。同じ将来の展望を抱いていることから意気投合し、大学卒業後に結婚――――……etc.
A4用紙にして三十枚強。
これが、エイシア=ランスロットの
『……まさか、こんな綿密な設定表を渡されるとはねえ』
『the-workplace』から帰ってきた彼女の手には、エイシア=ランスロットが歩んできた偽物の人生が書かれた紙の束が、重そうに抱えられていた。
子供相手に吐く嘘とは思えないほど、細かい人物表や家系図、性格や幼少期からつらつらと書かれた経歴、質問の対処法を記した指示など、完全に経歴詐称の出来る代物。
大人げない程に本当に良くできている。エイシア自身の性格など本当のこともちょくちょく加味された、完璧な嘘っぱちの設定だった。
エイシア=ランスロットという、同性同名の別人の人生が、そこには書き列ねられていた。
『レッジったら、本当に嘘つきなんだから……』
ここまで大がかりで、徹底した嘘を用意していたのだから。
レッジがノリノリ過ぎて、苦笑いしか出てこない。ネブリナ家の英国紳士とはなんだったのか。
『お、重たいなあ……ただいま~』
ついでに今週分の買い物も済ませていたエイシアは、両手一杯の買い物袋を持って我が家へ帰ってきた。
『……あら?』
すると、その家の扉から、大きな白衣を身に纏った男が退出しようとしていたのが見えた。
『…………』
振り返ったその男と、目があった。
アッシュ色の、腰まで届くような長髪を一束に括っている長身の男だ。
ルーペを嵌め込んだかのように大きなギョロ目と目下の濃い隈が特徴的で、まるで骸骨を見るかのような骨ばった顔つきからして不気味な雰囲気が漂っている。
少なくとも、エイシアには見覚えはない。
が、分かる。
これは、ランスロットではなくネブリナに用がある人間だ。
『ええと……こんにちわー』
ややその奇抜な風貌に圧倒されつつ、彼女はペコリと頭を下げた。
男はその挨拶にも何も応えず、エイシアのそばの家の門まで歩み寄っていく。まるで幽霊のように足音も立てず。
エイシアの前数メートル前でその足取りは止まり、対峙する形となった。
『……エイシア=ランスロット』
ゾッとするほど低い、押しこもったような声。
名前を呼ばれると、まるで心臓を鷲掴みされたような心地になった。
『は、はい……どうも』
『…………』
『あの……?』
かと思うと、ほんの目前まで顔を近付け、じろじろとエイシアの顔を眺める。
『……なるほど、いかにも障害児を産みそうな面立ちだ』
そして、第一声がこれだった。
真正面から向けられたその視線に、見定めるような色を感じ取り、身構えた。
エイシアは臆さず、きっと男のことを睨む。
『……貴方は、どちら様ですか? ネブリナ家に貴方のような失礼なお客様なんて知りませんが』
『……これはこれは、ご挨拶だな』
『お互い様にね』
ニタリ、と歪んだ口元から歯を覗かせる。
この男なりに笑ったのかもしれないが、唇を逆剥けて睨み返しているかのような、獰猛な獣の威嚇にしか見えない。
『グーバ=ウェルシュ。ドイツから来た。一応医者だが、別段覚えておかなくてもよい』
『言われなくとも』
『……生意気な女だ。まあいい、貴様に用は無いのでね。失礼』
皮肉にもとれる一礼の後、グーバと名乗った男はさっさとエイシアの前を素通りして出ていった。
『ねえ』
『……?』
『医者の不摂生って言葉、覚えておいた方がいいわよ。お医者様なら腕の次に愛想が良くなくっちゃ』
『……ククッ、これはわざわざご忠告どうも』
その細長い背広を、彼女はしばらく見送った。
『……なんだったのかしら』
嫌な雰囲気の男だった。底しれない薄気味悪さを感じる。人の形をした泥人形のように生気の薄いその風体は、どことない異質さを放っていた。
ネブリナ家の力を無心に来た
確かに、それなら納得出来る点もある。あのような手合いは、『そういうところ』から無尽蔵に溢れ出てくるものだ。
しかし、そう仮定したとして。引っ掛かるとすれば先程の『障害児』というフレーズ。
あの男は、自分だけでなく今三才になる次女、エレンのことも知っている。
つまり、ある程度ネブリナ家の事情に通じている人間ということになる。
『……まあ、いいわ』
元々、ネブリナ家の環境からは退いている身。
あまり深く考えても仕方ない。
そう思い直し、切り替えるようにグーバと名乗った男の事は忘れることにした。
入れ替わりのように、家の扉を開けた。
すると、声が聞こえてきた。
その声で、先ほどの気味の悪い男のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
リビングの方からだった。エイシアは荷物を玄関前に置き、部屋に入る。
『――――その時、その夫婦は出逢って、そして今も至って普通に、幸せに暮らしているんだよ』
『ええー……普通なんて、つまんなぁい……』
エイシアが見たのは、親子の一枚絵だった。
ソファにどっしり座り込んでいる男と、その膝に小さな身体を乗せ、甘えている女の子。
優しげな視線を注ぐその男性は、少女の言葉に朗らかに笑う。
『ははは。普通でいいじゃないか。彼は最愛の妻に、二人の娘っていう最高のプレゼントを貰ったんだ。きっと、普通でとても幸せだよ』
『そう……なのぉ……?』
『メリーにも、きっと分かる時が来るよ。いつか、ね』
どうやら何かを話していたようで、子守唄のような柔らかな彼の口調に、女の子はそのまま眠りこけそうなのか、緩慢に瞼を何度も擦っていた。
父親は、その透き通るような金髪に指を入れ、ゆっくり撫でるように梳いてやる。
『さあおやすみ。僕の天使ちゃん。安らかに、ね』
すう、と寝息を立て始めるのに、数十秒と立たなかった。
その子供特有の寝つきの良さを、彼――――マクシミリアンは静かに微笑んだ。
『おかえりママ』
『ただいま、マキシー。帰ってたのね』
彼は、家に帰ってくることがあまり頻繁な方ではない。週に一度、寂しがりやな娘がこうしてべったりと甘えてくるには十分な頻度だった。
『何話していたの?』
『僕達の馴れ初めだって。家に帰ったら突然、顔を真っ赤にしながら訊いてきたから驚いたよ』
どうやらあれから、メリーは母親に訊くのは止めて父親に訊こうとしたようだった。
『君が出かけてたのも、この子への返事に困ったからなんだろう? それで、色んな人にアイデアを求めてきてた』
『ええ。でもよくそんなこと――――ああ、そっか。なるほど』
その時、エイシアが腑に落ちたような声をあげる。
『レッジに凄い量の私の設定資料を貰ったんだけど……〝あれ、貴方が頼んだの〟?』
『うん、まあね』
マクシミリアンは、あっさり頷く。
『やっぱりね……変だと思った。レッジがあんな嘘、まるで計ったように準備してるなんて』
『いやあ、いつかこういう日が来ると思ってね』
『相変わらず、貴方の予測は怖いくらいよく当たるのね。昔は、貴方のそういうところが苦手だったっけ……』
別のソファーに腰掛け、遠くを見るような素振りを見せるエイシア。
『なんだい、メリーの言葉にあてられでもした?』
『……ええ、ちょっとね』
懐かしむように目を細め、呟く。
『私達の馴れ初めと言ったら、月光と星の明るさが水面に煌めいて見えた、これ以上無い月夜で、場所は……』
『サウサンプトンの港場の一画だね。プロポーズしようが「星を背に眠」ろうが、何をしても男と女が一組いさえすればムードが生まれるような、そんな情緒ある夜だった』
『それが生きるか死ぬかの
エイシアはおどけたように片目をウィンクし、手で作った銃でマクシミリアンを『BANG♪』と撃つ仕草をした。
肩を竦めさせ、彼は答える。
『素敵な語らいだったと思うけど? 人生史上であの夜ほど、一人の女性にときめいた瞬間はない』
『でもあの時は、ずいぶんと私を傷物にしてくれて。お陰で今でもお腹の中に鉛弾が詰まってるのよ?』
『それを言うなら、僕は左手の指を全部折られた。吐きそうなくらい痛かったよ』
そこまで言って、二人は顔を見合わせる。
『……ぷっ』
『ははっ』
そして、どちらともなく、吹き出すように笑った。
『とても教えられないね、こんなこと』
『そうね……一人の女の子じゃ押し潰されそうなくらい。ねえ、この子が生まれた時にした約束、覚えてる?』
尋ねると、マクシミリアンは大きく頷いた。
『メリーには、ネブリナ家のことを最低十五年は隠すこと。その時が来たら、僕か君、生きている方がメリーに全てを話す』
『そうそう』
彼らの約束は、たった一つだけ。
もし片方が死んだ時、もう片方がメリーとエレンの行く末を必ず見届けるというもの。
一人の女の子としての幸せを見守ると。
『もし、私が先に死んじゃったら、後はよろしくね』
『……分かってるさ。それが君との約束だったね』
人は皆、いとも簡単に死ぬ。
事故や災害、多くの不確定事項で、振り返る暇も与えず、突発的に。
彼らは、生死に関わる裏社会の住人。その確率は、一般人より高いのだ。
それを、二人は知っている。悲しいまでに、よく知っていた。
『……もしついでに、もう一個訊いていい?』
『うん?』
エイシアが、眠りに着いている愛娘の寝顔を見つめている。
少し躊躇って、彼女はこう話した。
『――――もし、死んじゃって生まれ変わって、人生をやり直したとしたら、貴方はもう一度私に出逢ってくれる?』
それはどこか、寂しげな笑みだった。
自分が死ぬと分かっているかのような、死期を悟ったかのような、ある程度以上の確信を募らせた表情。
彼女は、時折思い出したかのようにこんな表情を浮かべる。
あるいはこの問いも、家族を取り残すことへの恐怖心から来るものだったのかもしれない。
愛する人と離れることを恐れていたからなのかもしれない。
『……後で、メリーに聞いてみたらいいんじゃないかな』
『え……?』
幸せとは、遠くて脆いもの。
誰も、そのことを真の意味で理解は出来ない。
理解出来ないからこそ、幸せなのだから。
『きっと――――それはそれは幸せな夫婦の馴れ初め話が聞けると思うよ』
マクシミリアンは、メリーを起こさないように愛する妻をそっと抱き寄せた。
そして――――包み込むように優しいキスをした。
――――果たして、その女の勘は当たったのか、どうなのか。事実この二年後に、エイシア=ランスロットはこの世を去ることとなる。
多くの人間が彼女の死を嘆き、その生前の姿を想起しネブリナ家全員が涙を流すことになる。
しかし今は、誰もその事を知らない。
今はただ、この儚げで幸せな時間を謳歌していく。
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