番外第三話:『the billy』
『the billy』の元人格、エトー。
本名、ステファニー=ベイカーは、名の知れた上院議員の元に生まれた女児だった。
彼女は知能的に非常に優秀で、他の一般的な子供よりも早熟で、言葉もその平均よりも数ヵ月も早く話し始めた。
その才能は遺憾なく発揮され、五歳になるまでに、とある数学者の、フォーチュン予想の部分証明の研究論文を読み漁っていたという。
また、当然のように運動能力にも長け、何をするにもたった一度で他の人間を圧倒した。
まるで各分野において優秀な人間達を、一人の器に凝縮したかのような逸材。神から万物を与えたもうた、選ばれた人間だった。
────ベイカー家のお嬢さんは天才だ! 数百年に一人の逸材だろう!
────信じられないわ! まるで神の子のよう……!!
周囲の人間は、手を変え品を変え、毎日のように彼女にそんなありとあらゆる賛辞を送った。
世俗に羨まれ、尊ばれる。それが彼女の日常だった。
そして、彼女────『ステファニー』は、誰もが理想と羨むきらびやかな道を歩んでいく。
小学校、中学高校と、一等有名な女子学校にトップの成績で進学した。
何の不自由もなく、恵まれた人生を得た、選ばれた人間。気品ある両親と、裕福な家庭、そして有り余る自身の才能。
何もかもを手にした少女、それがステファニー=ベイカーだった。
────しかしそれは、表向きの情報。
謂わば、
当時、ベイカー家お抱えの二十人の召し使いでも知らない、裏の顔が『ステファニー』にはあった。
『ステファニー』は────いや、『エトー』は、解離性同一性障害、つまり多重人格になる以前から、性同一性障害だったのだ。
身体の構造上は女でも、人格はれっきとした男であること。その体質的乖離を『ステファニー』の中の『エトー』は認識していたのだ。
『彼』の親は、そのことを知っていた。
感付いていた、と言ってもいい。しかし彼らは、知らない振りをした。
異変に気付いていながら、医者に診せることをしなかった。
自分の娘に、欠点があることを信じたくなかったのだ。稀代の我が子の、あってはならない異常を確かにしたくなかったのだ。
世間に名の知れたベイカー家の一人娘は、完璧でなくてはならなかった。
むしろ、『エトー』を押さえ付け、無理矢理『ステファニー』らしく振る舞うよう強要するようになった。
『エトー』が自分を『僕』と称すると、母親は彼を小さな物置に閉じ込め罵倒した。
『エトー』が無邪気に庭の虫を指で摘まむと、父親は気絶するまで棒で激しく殴打した。
────名家に生まれた『エトー』は、
────完璧で瀟洒なお嬢様、『ステファニー』を強要され続けた。
格式ある食事をさせられ、見映えばかり豪華なドレスで社交場に連れられ、人付き合いは親の選んだ利のある者以外に限られ、外に遊びに行くことさえ禁止されていた。
それも全て、女として育てられた。やることなすこと、女としての生き方を強いられてきた。
彼に施した英才教育も、尋常ではないものだった。
子供の頃から分刻みのスケジュールで、彼が持った習い事の数は、一時期には十五を凌いだ。
言ってしまえばスパルタ的な教育で、一を聞いて十が出来なければ打たれ、十が出来たとしても二十でも五十でもやれとまた打たれる。
上に挙げた研究論文だって、幼い子供が読みたくて読むはずがなく。実のところ、父親が無理に読ませたものだった。
どんな人間でも普通は精神的にすぐに根を上げるはずの、エスカレートした教育方法だった。
────だが、『エトー』は耐え続けた。耐え続けてしまった。
皮肉にもその人並み外れた才能ゆえに、人格そのものを押し潰す目的の親の過剰な教育にも、ずっと堪えることが出来てしまったのだ。
与えられたプログラムをただひたすらこなし続け、『ステファニー』は、いつしか笑わなくなり、必要以上のことを喋らなくなったという。
助けを求めることは出来なかった。過度の才能を代償に、『エトー』はどこにいても孤独だった。常に独りなので、もはや孤独だと感じることもなかった。
そして、『エトー』は、自分の中に起きた『歪み』を感じ始めていた。
それは、
ある日の夜が更けた時間、『エトー』がふと目を覚ますと、彼は屋敷の中庭に呆然と突っ立っていた。
それも、自室で寝た時の寝巻き姿ではなく、何故か一糸纏わぬ裸体で。
『……これは』
いつもの自分ではあり得ない、異変。
外に出た記憶はもちろん、服を脱いだ記憶もやはり無い。
今のこの痴態が親に知れてしまえば、一体どれだけの折檻を受けるのか。
その聡明な頭脳が弾き出した、両親が行う可能性のある『教育』方法の数々は、そのどれもが世間一般で言う虐待の範疇を絶すると言えた。
『……風って、こんな気持ちいいものだったっけ』
『エトー』が、口を開いた。
女としての『ステファニー』ではなく、男の『エトー』が。
驚きこそすれ(彼女なりに)、不思議と恐ろしさは無かった。
むしろ、一種の爽快感、心地よささえあった。
『……あはは』
夜空を仰ぎ、そっと目元を緩ませる。
顔の筋肉がぎこちなく張った。
『あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは』
それは、
『はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは────』
◆◆◆
『────他にも、S&W M29の6 1/2インチモデル一丁、グロック17一丁、ベレッタPx4一丁、そして小型のフラッシュバンが二個に通信機一個。取り敢えず、以上が車の中に補填されている武装です。何か不十分な点などは?』
『いえ、これで十分です。ご協力ありがとう、グレイシー』
車内。
後部座席でじっと控えていた男の耳に、知った女の声が届く。
長めの黒髪の下にそっと差し込んだ電話口を、耳に当てているためだ。
『そうですか。もうまもなくベイカー邸に到着する頃合いかと思われますが』
彼の顔つきは中性的に整っており、アジア系ながら欧米特有のはっきりした目鼻立ちが入り交じっている。足組みして腰かけるその佇まいは、色香すら感じられた。
『────準備の方は万全でしょうか、レスター?』
『ええ。いつも通りですよ』
レスター=バレッド。それが彼の名前だった。
ネブリナ家の幹部にして、マクシミリアン直属の腹心の一人。血の掟を交わした、数少ないマクシミリアンの義理の兄弟。それが彼だった。
『しかし、にわかに信じがたいですね。あの尊大で有名なベイカー郷から、我々ネブリナに救援を求めてくるとは……』
思案気に表情を曇らせながら、レッジは呟いた。
話は、今からちょうど二時間前のこと。マクシミリアンは、一人の男から連絡────SOSを受けた。
フランス上流議員、ハドソン=ベイカー。
ネブリナ家が今一番贔屓にしている男からだった。
ネブリナ家は、彼に対するロビー活動、及び固定票を作るだけでなく、表になると少々まずい手立てを提供している。貢ぎ物を送るかのように、献身的に彼自身の名誉を保持した。
レッジが言った通り、彼は尊大な態度の男で、口では公平な取引とあたかも自分とネブリナ家を飼い主に集る乞食かハイエナという構図を意識した、上から下への物言いが多かった。
間違ってはいない。あくまでも今のところは、だが。
見返りとしてハドソンに掲げてもらう政案のうちの一つに、『組織的存在の特定秘密における開示能力の向上及び民事との共有化』というものを盛り込んでいる。
合法カルト団体や麻薬カルテルの実態を表出することを目的とした施策。正義を謳う、真っ当に見せ貸せたマニフェスト。
しかし、『開示能力の向上』『共有化』と一口に聞けば耳障りの良い言葉だが、実のところは『機密情報の露呈化、またはそのランクダウン』を指し示しており、
ハドソンは、まんまとその『自分で決めた』正義的法案の数々を後押しする。
その中に、触れてはいけない地雷があることにも気付かず。
当然、話はハドソンにも無関係ではなくなる。
それら団体に癒着している他の強力な政治家・グループを敵に回すも同等の政案なのだ。ハドソン一人如きが無事で済むはずがない。
ハドソンは、自分を保護する後ろ盾を求める。司法、警察……結果巡り巡って、ネブリナへと流れ着く。
そうなると、上からの物言いは出来なくなり、構図は逆転。今まで力を隠し下手に出ていたネブリナ家が、一転ハドソンを傀儡にすることが出来るのだ。
まるで迷路の壁に偽の順路を描き、その先に仕掛けた罠に獲物を掛けるような、単純な計謀。
しかし、こと現実に限っては、これくらい素朴な仕掛けの方が罠はかかりやすい。事実、ハドソンはもう既に戻ることの出来ない泥沼にずぶずぶと浸かっているところだった。
……しかし、ここで事態は急変する。
それが、今回の電話だった。
────助けてくれ、襲われているんだ!
マクシミリアンに言い残した、彼の最後の言葉。
それは嘘ではないとマクシミリアンは考えた。嘘を吐く理由はないし、鬼気迫る切羽詰まったその声、そのバックから聞こえる轟音、老若男女の悲鳴……とても演技のそれとは考えられなかった。
『
電話越しに、グレイシーがそう答えた。
ちょうど、レッジも同じように危惧していたことだった。
『もう既に向かわせた同胞数人、警官とも連絡がとれません。かなりの勢力でしょう。危険度はかなり高いと思われます』
『……あまりにも行動的過ぎるように思いますが』
『しかし間違いなく、ベイカー邸は武力的な勢力に襲撃されているとのことです。それ以外に考えられないでしょう』
『どうも、予期せぬ事態が起きたようですね。……マクシミリアンは、どのように?』
レッジが訊くと電話の声の主は答える。
『────取り敢えず、お客人に紅茶を用意すると』
『……なるほど』
一度聞くだけでは何のことはない呑気な言葉だが、レッジはその言葉の意図を正確に読み取っていた。
────すなわち、『客人として招け』と。ネブリナ家が保護出来るよう暗示的に命令しているのだ。
彼の今回の任務は、ハドソン=ベイカーの身柄の確保だ。
『……まさに「棍棒マフィア」と言われるだけのことはありますね────おっと』
口の中で転がすように呟いた自分の言葉に、くすりと苦笑した。
そうこうしているうちに、その目的地に到着した。
大きな門扉の前に車が停まる。その先には広々とした庭と屋敷まで伸びるレンガ作りの道があり、これまた広大な豪邸が鎮座している。
遠目で見ると、特別何かが起きているようには見えないが……。
『こちらレスター。目的地に到着したので、これで』
『了解しました。無事のご帰還をお待ちしております』
そして、通話は切れた。
『ご苦労様、ここまでで結構。また帰りの足に呼びますので』
『は、はい。お気を付けて……』
レッジが運転手の部下に一声かけ、自動で開いたドアからゆっくり外に出た。
もちろん、片手に準備されていた武装をまとめたバッグを持ち、ベイカー邸宅前に降り立つ。
車は逃げるようにエンジンを吹かし、レッジはたった一人、危険とされるその場に残った。
そんな彼はスーツの皺を伸ばして整え、ネクタイを締め直す。
そして、一言。
『……さて。取り敢えず、まずはチャイムはどこでしょうか』
そう言えば、彼を語る上で、もう一つ描写を加えるべき事柄がある。
それは────レスター=バレッドは、誰よりも嘘を嫌う、ネブリナ家一の英国紳士だということだ。
◆◆◆
『やれやれ、この私が空き巣の真似事をすることになるとは……』
結局、チャイムに誰の反応もなく、レッジは敷地内に侵入した。
彼にしたら渋々だったが、返事をいつまでも待ち続ける訳にもいくまいと、返事を待つことなく屋敷までの道を歩み進んでいく。彼の言う空き巣にしては、堂々と正門から真っ直ぐに。
脇に公園のように芝生が敷かれ、開けた空間がある。小さく隆起しており、寝転べは気持ちのいい丘になりそうだ。奥には小さめのプールがあり、木の葉が何枚か浮いている。
レッジを迎えるように連なる植え込みから天へと伸びる木々は、小綺麗に整えられていた。
『素晴らしいですね……』
まるでそばにこの邸宅の人間がいるかのように、レッジは屋敷へと歩みながらもため息を吐いた。
金持ちの享楽だろうが、この庭はとても美しかった。新緑が映え、さらにその緑一面をポツポツと白百合やバラの花が彩る。
計算され、見せるために作られた美しさ。絵に描いたような光景に、彼は今包まれている。
『────ただ、マクシミリアンは嫌いそうですがね』
彼は、誰ともなしに小さく呟く。
周りに人の気配が無いことが分かっている今だからこそ言える独り言。
マフィアのボス、マクシミリアンではなく、彼の昔からの友人を語るその一言は、実はかなり貴重なものだったのかもしれない。
この庭は、美しい。
しかしそれは、ありのままの自然を見せた景色ではなく、誇示するような人工的な自然を浮かび上げさせた庭園。
客人を待つかのように、道ばたに添えられた豊かな野花も。
遠くで緑が大きく隆起したかのように設置されたアーチ状の植物も。
区画的に区切って作られた、色とりどりのバラ園も。
良くも悪くも西洋的。自然を制御するという発想から生まれた、箱庭のような庭。
意のままにコントロールして出来上がった、よそいきの美しさ。
こんなにも開放的なのに、息が詰まるような閉塞感をどこか感じていた。
『……私は────』
その時だった。
屋敷の中から、男の野太い悲鳴が響いた。
それはまさしく絶叫だった。獣の咆哮のような、出そうと思って出せる声ではない激しい声。
『────おっと、急がなければ』
思わず感傷に浸っていたレッジが我に返るのには、十分な叫び声だった。
それまで歩いていた足を動かし、急ぎ駆けだす。
生存者がいるということを確認したためというのもそうだが、庭に誰もいないことを確認したからということが大きい。
先ほど、彼はこの事態がハドソンを敵視する勢力だと話していた。
しかしそれにしては────あまりにも静かすぎる。
庭に誰もいないだけでなく、人間の気配が屋内にも無さすぎる。足音を消して、神経を張り巡らせていたというのに、悲鳴が起きるほんの一瞬前まで人がいるとは思えなかったのだ。
『ノック……はしてる場合じゃありませんね』
レッジはそうぼやくと、駆け出したままの勢いで屋敷の扉を思い切り蹴破った。
甲高い人間の悲鳴のような音を立てて、荘厳な扉は大きく開かれた。意外と軽い手応えで、鍵は掛けられていなかったのだと一瞬考えた。
────そして、レッジは見る。
屋敷の大広間。二階と吹き抜けになっているロビー的空間に、人が倒れている。
それも、五や十で済まされない、おびただしい数の人間。エプロン姿の女もいれば、初老を迎えた男などなど、たくさんの人間達が。
────腐ったような臭いの血を流し、瞳孔が見開かれたまま動かない。
皆、死んでいる。
『これは……!!』
素早くレッジはポケットから取り出したスカーフで鼻を覆い、襲い来る吐き気を必死に堪える。
目を背け、口から息をする。しかし、喉頭から血特有の鉄臭さが昇ってくる。目尻から生理的な涙がにじんだ。
これは、彼だからこれで済んだと言うべきなのだろうか。
『……あら、お客さんかしらぁ?』
声がかけられた。
落ち着き払った女の声。この場で聞こえることが不釣り合いなくらいの。
階上から声は聞こえた。気配や物音も、自分が今いるこの場に降ってくるようだった。そこにすぐさま視線を持ち上げ、装着した銃に手を添えた。
『両手を上げてゆっくりと出てきなさい!!』
姿が見えない声の主に向けて叫ぶ。
反応は芳しくなかった。聞いているのかいないのか、もぞもぞと動いている様子だけは分かった。
『ん、誰ー? やっぱりお巡りさん?』
彼女こそ、現時点で唯一のこの館の生存者だ。
しかし、それが自分の味方とは限らない。
『……あー、悪いけど、今ちょっと立て込んでるのよね。相手してらんないっていうか』
すると、ひょこっと顔だけが二階の階段付近から覗いた。
間違いなく、この声の主だろう。まだ年若い、十代の生気ある顔だった。
それに……どこか見覚えがある。そんな気がした。
『イケメンのお兄さん、悪いけど今日は出直してきてくれない? というかここから逃げてくれると、うん、まあ助かるんだけどなぁ』
『……助かるとは? 私が君になにか不都合でも?』
『違う違う、お兄さんが助かるの。死にたくないなら早く逃げた方がよろしくてよ』
ぞくり、と背筋が強張った。
どうやら、彼女はこの惨状に関わっているらしい。それも、被害者としてでなく、もっと積極的な意味で。
つまり、彼女がやったのだ。この屋敷の人間を、山盛りに皆殺した張本人。
『……君以外に、誰か人がいるのですか?』
一旦自分を落ち着かせる意味もかねて、そう尋ねてみる。
相手の少女からしたら、その問いにまともに答える道理もないのだが、何故か、彼女は嘘を吐かずに答えてくれるような気がした。
『……見ての通りよ。屋敷の人達はほとんど死んじゃったわ。「あの子」がみんな殺したのよぉ』
『「あの子」……?』
やはり、彼女には連れがいるのか。
レッジは視線をずらして辺りを見回す。しかし、少なくとも一階の見える範囲には他に人はいない。
『ていうかお兄さん、誰? お巡りさん……にしては落ち着いてるというかぁ、他に誰かいるわけじゃなさそうだし……』
『私は……』
少し俊巡してから、レッジは静かに口を開いた。
『……私は、マフィアの者です』
『へえ……!』
レスター=バレッドは嘘を吐かない。
まるで家前まで押し売りに来たセールスマンのように、自分の正体を明かす。
『ハドソン=ベイカー氏の保護を依頼されてここに来ました。ご存じありませんか?』
『ご存じもなにも! あたしの父さんよ!』
『何ですって……?』
レッジは驚愕した。
彼女は、目的の人物の娘だという。
しかしそれでは、先ほどの考えと食い違う。彼女は、ここの屋敷の人間を襲った張本人だと考えていたのだが……。
『まあ「あたしの」……というと、ちょっと語弊があるけどねぇ。ちょうど良かったわ』
『……というと?』
『今、あたしが持ってんの、そのハドソンさん』
そして、こともなげにそのようなことを告げた。
『……そこにいるのですか?』
『うん、気絶しちゃったのよ。これでも、ギリギリだったわ。もうちょっとでやっちゃうところだったもの』
驚きこそすれ、あまりその動揺を表にすることなく、尋ねかけた。
今は平静を保つ必要がある。いつ殺されてもおかしくないこの状況。人質を取られているに等しい。まずは自分が落ち着いて、相手をなだめなければならない。
『────ねえお願い、マフィアのお兄さん。この人を連れて行って! でないと「あの子」、自分の父親まで殺しちゃう……!!』
しかし、彼女の次の一言は、レッジの思惑を大きく外れた。
というより、混乱した。一瞬自分の頭がおかしくなったのかと思った。
どうもおかしい。また話が掴めない。
あの少女の言うことがちぐはぐで、状況が分からない。
ここに彼女ら二人以外に人がいるのかいないのか。
「あの子」とは誰か。何者か。殺しているのは彼女か、それともその「あの子」なのか。
『貴方は……無害なのですか?』
尋ねる。それしか出来ない。
まだ、あの少女を撃つわけにはいかない。限りなく黒でありながら、確証が足りない。
罪のない人間を殺すこと。それはレッジの矜持に反する。
『無害だというのなら、降りてきてください。ハドソン氏も連れて』
『……分かったわ。今連れてくる』
あっさりと彼女は了承し、らせん状の階段をゆっくりと降りてきた。
ずるずる、と重い物を引きずるような音が、静かなこの屋敷に木霊する。
そして、ハドソンとその娘(話を聞く限り)が、姿を現した。
ハドソンは、言葉通り意識を失っているようで、ぐったりと引きずられている。死んではいないように見えた。
『────ストップ。そこで動かないでください』
そして、問題の少女はじっとこちらを見ている。
服はあちこち酷く裂け、スカートは足の付け根までビリビリに破けて艶やかな生足が露となっていた。
そして何より一番目を引くのは、その赤い髪。
自前かと一瞬思っていたら、違う。
あれは────血だ。
大量の血をまぶして、あたかも赤毛のように見せかけているのだ。
『……こちらレスター。目標を確認。命に別状なし。車を一台表に』
耳に装着していた通信機を繋げ、向こうに囁くように連絡をいれた。そのすぐに、簡単な了承の意を伝える声が返ってきた。もう十分も掛からず迎えが来るだろう。
『では、お父上を預かります。そのままで』
『いきなりズドンは止めてちょうだいね?』
『神に誓って』
レッジが歩み寄る。
少女は、彼が近付いても特に何をするでなく気だるそうに突っ立っていた。
『…………』
『え?』
しかしレッジは、まずそばにいたハドソンではなく、自分のスーツを脱いだかと思うと、それを少女に羽織らせた。
『せめてこれを。貴方のようなレディが、そんなに肌を見せるものではありません。』
『あ、ありがと……』
『貴方の名前は?』
『……ミランダ』
ぽかんとしている様子の彼女────ミランダの肌をしっかりと隠し終えた。
『ミランダ……こちらでそのような名前のお嬢さんは存じ上げませんが』
レッジは、少なからずこの家のことを知っていた。
マクシミリアンの付き人として、その側で何度かハドソンとは対面したことがあった。その時に、彼の一人娘という女の子を連れていたことがあった。
名前は、確かステファニーと言ったはずだ。
『へえ、そうかしら?』
『いや、しかし……』
────あの時見た少女によく似ている。
レッジはそう感じた。見覚えがあると感じたのは、ここにあると分かった。
記憶と比べて、ほとんど差異がない。ややステファニーよりも目元が鋭く細まって、レッジを値踏みするような色が見受けられる。
顔の作りはそのままで、雰囲気だけがどこかずれているような。
『ステファニーに会ったの? お兄さん』
『ええ。貴方は、彼女のご親族の方で?』
『ううん────あたしがステファニーよ』
彼女は、こう言った。
『そして、ミランダでもある。でも、でも違うの。僕は────あれ? 僕?』
彼女は、途端に首を大きく横に振る。
『ちがうちがう、あたしはステファニーじゃなくて……俺、あれ、あたし?』
『彼女』は、手で顔を覆い、犬のように呻く。
『私? 僕? じゃあこれは誰? え、え? ボクハ、私、ワタシは、俺は、ヴォク、僕は、ぁ…あ、あああ、ああああああああああああああああ……!!』
『ミランダ?』
がくがくと足は震え、今にも崩れ落ちそうな様子で、くの字にうつむき始めた。
その尋常ではない様子に、レッジが近寄る。
『どうしました、ミラ────』
レッジが見たその顔は────烈々たる憤怒の表情だった。
『────僕は僕だあ!! 私じゃねェ! 失せろ消えろ邪魔するなテメェらァァァァァァァァァァァァ!!!!!』
刹那、何かが顔の横を横切った。
空気を貫く、激しい勢いのあるもの。
それは、手だった。女の、華奢な腕が、レッジの顔すぐそばまで伸びている。
レッジはそれを、信じられないくらいの豪腕が襲いかかったような錯覚を抱いていた。
ちりちりと頬の擦れた感覚。
音という音が止まった。この世の音という概念が消し飛んだかのようだった。
『……貴方は、一体……』
『彼』は、再び目を覚ました。
────この時のレッジには知る由もないことだが、『彼』はこの時非常に不安定な状態にあった。
生まれていく他の人格に多くの力を分散し、今にも寸前だったのだ。
口の端から獣のように唾液を垂らし、その頭脳に詰め込んだ、ありとあらゆる言語を口走る。
『────あ、ぎあぁ────『私。頭。鈍痛。いたい。痛いよぉ……』────「お、俺は、俺はアキバのメイドが好きなっ、ふつっ……ぐうぅ、普通の日本じ」────『違ェ!! 違ぇ違ぇええええ! オイテメエらあああああ! このロナルド様の場所を取るんじゃねええ!!』────や、めっ、僕は、ステファニーなんかじゃ────『み、皆さん、やめてぇ! こ、壊れますぅっ』────ああ、ああああ止めろおおおおおおおおおおおおお────『これは、っ! 極めて脳に負担が掛かって……あうっ! このままでは、障害として残る可能性がっ……!』────『皆様っ! いけませんわ! このまま、では』────僕は、僕は僕は僕は僕は!! 『僕』は僕で、『私』は僕で『俺』は僕で『あたし』は僕で』
くぐもった叫び声が、屋敷中に響いた────。
『────僕は!! 僕は自由なんだあああああああああああああああああああ!!!!! ぜんぶ、ゼンブ全部、邪魔なんだよォオオオオオオオオオオオオオオオオオオっっっっっ!!』
びりびりと痺れるように空気が震えた。
『くっ……!』
レッジは脅威を感じ、一度目の前の少女から距離を離した。
────それは、あまりに悲痛な絶叫だった。
『彼』は、何もかも押さえつけられてきた。親が望む『ステファニー』に、長い期間押し潰されてきた。
何年も、何年も。
これは、『彼』の反発。
ゴム鞠のように、長年押しつけてきた分が一度に跳ね返った。
たった、それだけの話だ。
『ひっ、ひぃっ!!』
その時、裏返ったような悲鳴が上がった。
今まで気絶していたハドソンが、叫び声で目を覚ましたのだ。情けなく尻餅をつき、狼狽える。
手をついた先に、誰ともしれぬ血肉が付着し、さらに喚いた。
『……なにそんな慌ててるのさ、お父様』
ぐりん、と首だけをひねり、娘は自分の父親を見やる。
『ねえ見てよお父様、みんな死んでるよ。血ぃ吹き出して倒れてるよ。あそこで寝てるのが乳母のマキュリーさんでしょ? で、そこの絨毯で額撃たれて死んでるのがロナルド。あっちからポリー、メディスンさん、カティア、少し離れてコウタロウくん……』
『ひっ、ひいいいっ!?』
甲斐甲斐しくも一つ一つ丁寧に指差しながら、倒れている者の名前を挙げていく。
彼らは皆、この屋敷に従事していた者『だった』。
『あっ、ひ、ひひ、ば、ははばっ、化け物め!! 貴様なんぞ地獄へ落ちろォ!!!』
『…………』
『貴様は人殺しだ! 人殺しッ!!! 死ねっ、死んで俺に詫びろっ』
壊れたラジオのように、父親はただただ思いつく限りの悪態を飛ばした。
命の危機で頭が回っているからなのかなんなのか、思いつく限りのボキャブラリーで、娘を罵倒する。
『……ふうん』
素早い挙動で、目にもとまらぬ早さで腕が伸びた。
首元をひっつかみ、力を籠める。
『かっ……かあっは、は……!!』
『バケモノ、化け物か……あっは、奇遇だね』
途端にハドソンは、締め付けられる気管から、絞り出すような息づかいをこぼす。
ハドソンがもがきながら蹴っても殴っても、『彼』はびくともしない。
むしろ動けば動くほど、余計にその五指は絡みついていくようだった。
その喉笛を毟り取らんとするように。
『────僕も、自分がそうなんじゃないかって思ってたところだった』
この時、『彼』がどんな表情になったのか。
それは誰にも分からない。
『かっ、かかっ……』
『────さよなら、
必死なあえぎ声と、暴れる布擦れの音。
ついに窒息するその瞬間、一層の力で握り潰そうとし────
はじけるような発砲音が、その全てを上書きした。
『っ────?』
親子共々、撃たれたような衝撃は無かった。
レッジが引き金を引いた銃から、硝煙がゆらめく。
しかし、その銃口は彼自身の床に向けられていた、いわば『警告』の発砲だった。
『────そこまでだ』
『……あ?』
『彼』が、不機嫌そうに睨み付ける。
『────ぶはあっ!! はあっ、はあっ……!!』
するり、と締め付けていたその手が緩み、ハドソンは解放された。
『ひっ、ひい! た、助けてくれえ!!』
意識が自分から逸れ、このままでは殺されると知るやいなや、這いつくばるようにレッジへと駆け寄った。
途中重たそうな身体をすっころばせ、足下に縋る。
『き、ききき君! 助けてくれるんだろう、私を!! あ、あ、あの化け物を殺せ!! さあ早く、撃ち殺せェええええ!!』
『五月蠅いですよ』
再び、持っていた銃が火を吹く。
そのすがりつく彼の頭のすれすれ、絢爛な模様の絨毯に焦げ臭い穴が開いた。
『あ、あ……』
『助かりたいなら、逃げなさい。────早く!!』
『ひっ、ひいいっ』
ハドソンは、たまらず背を向け、足をもたつかせながら外へと逃げ出した。
『……アンタ』
対峙する、『彼』とレッジ。
『彼』は、唇を剥いて激しく睨み付ける。
『アンタ、何してくれちゃってんのさ。もっともっと、苦しませたかったのに』
『私はね、貴女の事情なんてどうでもいいんです。マクシミリアンの名の下、ハドソン=ベイカー氏の身柄を確保すること。そのためにここにいます』
対するレッジは、平然と言葉を返す。
『貴女の事情に首を突っ込む気はない。かといって、もしここで君を放置したら、きっと貴女は彼を追って殺すでしょう。例えそれによって、多くの人間を巻き添えにしても、貴女は気にも掛けない。違いますか?』
『…………』
その沈黙は、言葉より多くを語った。
放ってはおけない────そう悟ったレッジは、静かに構えを作った。
『是が非でも、彼は保護させてもらう。────だから、再起不能です。貴女には、動けなくなる程度に沈んでもらいます』
そして、何を思ったか、手に持っていた物と、腰に引っ提げていた銃の計三丁を明後日の方向に投げ捨てた。
『……?』
『先ほど誓ったはずですよ。────「ズドンはしない」と』
きょとんとした素振りを見せる『彼』に、レッジははっきりと言った。
それは先ほど、ミランダと交わした会話だった。
……しかし、それを『彼』は知らない。
『私は決して嘘を吐きません。────だから、君は絶対に殺しません』
『ごちゃごちゃごちゃごちゃと……みんな、みんな僕を邪魔するんだね……』
ぬらり、と身体を妖しく揺らす。
身体の芯が一本抜けたかのように、ふらふら、ふらふらと。
そして。
『────だったら、アンタもぶっ壊れちゃえ』
地面を蹴る音が、その速度に遅れた。
そして、一人の人間には余りある才能を与えられし傑物が、レッジに襲いかかった────。
◆◆◆
ハドソン=ベイカーの保護は、成功に終わった。
結局、レッジが危惧したような、敵対勢力の襲撃はまだ無く、今回の出来事は偶然のタイミングで起きた別の事件だったのだ。
屋敷の住人や駆けつけた警官、ネブリナ家の人間を含め、計十七名が死亡。さらに、重傷者はその数を遥かに凌ぐ。
その中に、ベイカー夫人の死体もあった。
ハドソン=ベイカーは、ネブリナによって保護された後、精神病院に入院。その間に、後釜の人材を指名してから、議員を辞職した。
というのは、表向きの世間に知れたお話。
事実は、地位に固執した彼との一悶着の後で、名前も顔も変え、東南アジアへと『旅行』に行った男の末路やらがあるのだが……今回は割愛させてもらう。触れてやむ無しなことだろう。
そして────最後に。
ベイカー家の一人娘、ステファニー=ベイカーは、この日をもって死んだ。
────もっとも正しくは、『死んでもらった』と言うべきだろうか。
あれから、レッジが屋敷に侵入した後、グレイシーは保険として、ネブリナ本部隊二十数名を屋敷前に手配していたのだ。
完全武装をして、集団との抗争にも対応できるだけの戦力を整えていた。
しばらくして、外へ狂乱した様子で逃げてきたハドソンを車に放り込むように保護し、入れ替わるように部隊は突撃。
開け放たれ壊れた扉から屋敷に乗り込んで、彼らが見た光景は────
『……ぅぐっ、ぁ……』
『…………』
いつものキチンと整ったスーツ姿を血まみれでボロボロに崩し、じっと佇むレッジ。
そして、死体散らばる床に膝をついて跪く、少女の姿。
大量の死体。大量の血。肉や臓器。
そこは、彼らが予想した以上の地獄絵図。
だが、彼らが予想した『交戦中』とは違う────『全てが終わった後』が、そこにはあった。
『……私は、貴女の事情に干渉できません。それは間違いのないことです』
レッジは、囁きかけるように告げる。
『何も知らない私が、張本人である貴女を差し置いて物申すなど、なにより貴女に失礼だから』
だが、と言い繋いで、レッジは話した。
『自分は自由だと、君は叫んでいましたね』
それは、自由を確かめるかのように。
自由を
『ステファニーという名前が嫌いと言いましたね』
それは、『彼』を縛る
それは、『彼』を逃さないための
『では……今日から君は、「エトー」と名乗りなさい────かつての私の名です』
それは、過去を捨てた男の、誰も知らない彼の
それは、貧しく無法ながらも、自由だった幼少の頃の
『……エトー、私とともにネブリナ家に来なさい。見せたいものがあります』
ざわ、とどよめいた外野を、レッジは手で制した。たったそれだけで、彼らは口をつぐんだ。
レッジは、目の前の少女からじっと視線を動かさなかった。
『見せ、たいもの……って?』
か細く、今にも潰れてしまいそうな声。
応えた声は、対照的に芯の通った明朗な口調だった。
『君が一人じゃないことを教えてあげましょう。君以外の『人間』を見せてあげましょう。化け物としてたった独りで生きるのではなく、人間として他の人間と手を取り合う生き方を』
『彼女』は、緩慢な動作で顔を持ち上げた。
相反する者から差し伸べられた大きな手。
『……ちゃんと教えてくれないと、アイツの代わりにアンタを殺しちゃうからね』
『────……ええ。私は、決して嘘を吐きません。約束しますよ』
────そして。
『彼』は、この時。
『ステファニー』を捨て、『エトー』を手に取った────。
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