第三十九話:取引
『エレン! エレン!!』
祭壇の上に横たわるエレンの姿を認めた途端、メリーが声を上げた。
いてもたってもいられずといった様子で、駆け寄ろうとする。
『メリー、落ち着け』
まあ案の定、目の色を変えたメリーを手錠を使って御した。
ついに会えたエレンへの思い入れの強さからか、かなり重い力で引っ張られた。
『放してっ! アンタカギ持ってんでしょ、手錠の! 早くこれ外しなさいよお!!』
『落ち着け!』
取り乱し叫ぶ彼女の声に上塗りするように、芯の通った強い語気で返す。
ぐいと身体を引き寄せ、暴れられる前に拘束するように肩を抱いた。
『っ……!』
『……落ち着くんだ』
背丈のあるメリーを抑え、首に絡ませた手でその頭をぽんと叩いた。
耳元で、息を吹き込むように囁きかける。
ピクリ、と肩を揺らし、その動きが止まった。
『今まであったことを、カマタリ達の気持ちを無駄にするな』
『う……っ、分かったわよ……』
数十秒程、メリーは自身の葛藤に苛まれているように身を震わせ、 やがて静かに頷いた。
『アイカワさん、貴方がメリーをここまで?』
『ああ。予想通りだったか?』
『まさか。今でも信じられないくらいです。……でも、ありがとうございます』
グレイシーは、たおやかに笑う。
まるで、どこかのカフェテラスで普通におしゃべりを楽しんでいるかのように。
『私に引き合わせてくれたのでしょう? ご丁寧に手錠までしてまで……でも、残念ながら貴方は連れていけませんよ?』
『全然違うな。お前の末路を見届けさせたくて連れてきたんだ。そして、エレンも返してもらう』
『……面白くないジョークです。ジャッカルにでも教わったんですか?』
顔をしかめ、俺を睨み付けるグレイシー。
思ったが、今の彼女はかなり表情豊かだ。笑うし、怒る。俺といた時は、意図的に表情を隠していたのか。
これが、素のグレイシーというわけか。
『ね、ねえ……ギル』
その時、俺から身体を離したメリーが、おずおずと顔を持ち上げ、向こう側に声を伸ばす。
『どうして、こんなことしたの?』
『…………』
それは、メリーがずっと抱えていた疑問。
必死に押し隠し、こらえにこらえたその問いは、意外と静かに口から出ていた。
『あたし、馬鹿だから……ギルが何やったかなんて分からないけど、でも……』
声が震えている。
『……もう、もう戻れないの……っ!?』
彼女の頬に、抑えきれない感情の結露が伝った。
『…………』
グレイシーは、何も答えないし、応えない。
そして、涙を目に蓄えるメリーを見て、何も堪えなかった。
『……そうだわ、二人とも、エレンとお話ししたいでしょ?』
まるでメリーの言葉など無かったかのように、言葉を紡ぐ。
『せっかくの感動の再会だもの……さ、お嬢様』
グレイシーは、少女の身体を揺する。
小さな呻き声と同時に、エレンが身じろぎした。
『う……ん……こ、ここは……』
『え、エレン! お姉ちゃんよ!! エレン!』
『お、姉様……?』
眠っていた彼女は、姉の声によって徐々に意識を覚醒させているようだった。
『ど……して』
『助けに来たのよ! もう大丈夫だからね!』
『だ、ダメ……お姉様、来ちゃダメだよ……』
エレンは、あまり人質らしい拘束を施されていなかったらしい。簡易的に手を縛っているだけのようだ。
彼女は車椅子での生活を余儀なくされていた。足まで縛らなくとも、逃げられることはない。
現に寝転んだ状態のまま、起き上がろうとしない。起き上がれないのだ。
『エレン、聞こえるか』
『お、お兄様!?』
エレンはそこで初めて俺の存在に気付いたのか、驚いた風だった。
『どうして、ここに……』
『お前の姉ちゃんの言う通りだよ。お前を連れ返しに来た』
『もしかして二人だけ? たった二人で?』
『今ここにいるのは俺達だが、外に大勢のネブリナ家の人間もたくさんいる。お前のためにみんな集まったんだ』
『そう……』
ポツリと消え入るような声が返ってくる。俺の言葉に、あまり喜色を見せない。
『……お兄様、お願い。お姉様を連れて、みんなと一緒にここから逃げて』
かと思うと、少しの間をおいて、エレンは静かにこう告げた。
『なっ……エレン、何を』
『お姉様も聞いて。この人の狙いは、私とお姉様なの』
メリーの言葉をバッサリと遮り、続ける。
彼女の声は、年相応の少女には持ちえない、『裏社会の人間』特有の冷たさを含んでいた。
それはつまり、自分の死やそれ以上を覚悟した人間が出す声音だった。
『ここでネブリナを待ち構えていたのは、後にお姉様の身柄をなんらか交換条件に挙げるため。どんな約束であろうと、反古にする気しか無かったみたいだけど……』
『え、エレン……?』
『これじゃ、この人の思い通りになっちゃう……どうして、こんなところまでお姉様を連れてきちゃったの……』
『そ、そんな……あたしは、ただ……』
メリーは、戸惑っているようだ。
自分が助けに来て、さぞ妹は喜ぶかと思っていたはずだ。まだ幼いエレンが、こんな得体の知れない事態に巻き込まれて、姉の助けを何よりも求めていると思っていたはずだ。
しかし、実際に会ってみれば、エレンは自分に帰れと言う。自分は来るべきじゃなかったと、身を案じてというよりも、失望の色合いが濃い口ぶりで。
メリーは、知らないのだ。
自慢の可愛い妹は、姉である自分よりもずっと『暗がり』に棲む存在であることを。
『帰って。お願い』
『…………』
メリーは拳をぐっと握りしめた。
俯いて、唇をかみしめる。
強く、強く。
『そして、できるだけ遠くに逃げて。でないと、お姉様まで……』
『……エレン、アンタ────』
そして、顔を持ち上げ────
『────誰に向かって帰れっつってんのよ、このバカ妹!!』
────ビイイン、と空気が震えるほどの声量で、メリーは叫んだ。
鬱屈した感情を吹っ飛ばすような、爆発したかのような絶叫だった。
『っ……』
向こうで横になるエレンが、息を呑んだのが分かる。
その予想外に強い語気に、驚きを隠せないようだった。
だが、俺からしたら、当たり前だ。
例えエレンから拒絶されても、来るなと言われても。メリーは絶対こう返すと思っていた。
俺はよく知っている。
メリーの持つ、その意固地さを、
その頑固さを、
気丈さを、
真っ直ぐさを、
強さを。
もう既に、彼女はイギリス系マフィア組織、その
『アンタねえ、ちょっとはこっちの気持ちも考えてから言ってくれる? なんだかんだ言って、やっぱりまだまだお子様ね』
『なっ……私は、ちゃんと考えて……!』
『────あたしはっ、何にも知らなかった!!』
教会中に、通る声が響く。
『自分のルーツも、自分の立場も、父さ────ううん、あのバカ親父の本当の姿も! 何も教えられずに、のほほんと生きてきたわ! アホ丸出しでね! 一週間前……一昨日までの自分を殴ってやりたいくらい』
彼女の独白は続く。
エレンも、俺も、グレイシーも、それを止めようとはしなかった。
『でも、そんなあたしがここまで来た! 色んな人に助けられて、教えられて、諭されてここに来たの! きっとアンタ達からしたら場違いでしょうけど、それでも!』
きっとこれが、彼女の偽りざる本心。
何度もくじけそうになりながら、何度も諦めようとしながら。
それでも、ここまで来ることが出来た理由。
『それもエレン、全部アンタを助けるためじゃない!!』
『……!!』
『ここまで来て誰が帰ってやるもんですか! ねえタクジ!』
『ああ』
……何だろうな。今は、メリーが大きく見える。
『お前を助けなきゃ、イギリス発の世界恐慌は間違いなく起こる。お前はそのカギなんだ、救わない理由がない』
メリーがここにいて、よかった。
彼女の、言葉という形となったメリーを助ける気持ちに、俺も鼓舞された気がする。
……俺には、とても出来ないことだろうな。
『マクシミリアンは言ってた。俺がグレイシーと決着をつけられると。つまり、お前の父親は俺ならお前を助けられると思ったってことだ。グレイシーに対抗しうるってな』
────他の誰でもない────君こそが、彼女に直接ケリを着けるんじゃないかって、そんな予感がしてるんだけどね。
マクシミリアンの言葉が頭の中に蘇る。
────マクシミリアンが血の掟を交わしたということは、そこに必ず意味はある。私には思いもしない意味が。だから、思いもしない重責に不安がらず、君は君の為すべきことをすればいいんだよ。
ボルドマンの声が耳の奥から響いた。
────いいから早く行けっつうの! 時間はねえ、立ち止まるなってんだよ!!
────あたし、エトーを止めて来るわ。エレンを、よろしくねん。
────エレンを助けるのにあたしが行かないで誰が行くってのよ!
フリーク達の声が、メリーの声が胸の内をよぎる。
すべての要素が重なって、俺達はここにいる。
『それなら、俺達二人ならグレイシーを超えられる。二人なら、お前をこっちに連れて帰られる!』
────運命という言葉は嫌いだ。
でも、この世界で、エレンが救われる運命があるのなら、俺はそれを信じたい。
自分でも都合の良い矛盾だと思うが、それでも俺は、この姉妹が一緒にいるべきだと思う。
『────だからお前は、黙って助けられてろ』
『……っ……うん』
詰まったような声だ。泣いているのかもしれない。
『……うんっ……』
エレンだって、本気で助けられたくないわけがない。
彼女は賢い子だ。グレイシーを取り巻く現状をちゃんと理解している。
理解しているから、心にもないことを口に出したのだ。
────今目の前に迫る、俺達の命の危機を理解しているから。
『……まるで、私が悪者のような言いざまですね』
それまで黙っていたグレイシーが、ついに口を開いた。
そろそろ、グレイシーもいつ俺達を────いや、というより俺を狙うか分からない。突然銃を抜いて、俺を撃ち殺すとも限らない。
これ以上ない警戒が必要だ。ここは、創作上の
『違うってのか?』
『ええ。ネブリナの敵というだけで、私は二人と敵になったわけじゃないですから。むしろ二人の味方なんですよ』
少し、足を開かせる。腰を落とした。
じっと彼女の様子を見据えながら、手錠の鎖を音を立てないように揺らした。メリーはぴくりと肩を動かした。
『……そう。貴方達は、マフィア関係者なのよ……どうしようもなく、裏社会の人間なのよ……今のままじゃ……』
グレイシーは、何かを呟いたようだった。
気落ちしているというか、何故か、悲しそうに。
『……アイカワさん。今から一つ、取引をしませんか?』
『取、引……?』
そして、彼女は俺に向けてこんな話を持ち掛けてきた。
『ええ、取引です。メリーと手錠で繋がっているのもちょうどいいです』
『どういうことだ?』
ここまできて、ずいぶん流れをぶった切るような発言だ。
俺はもうグレイシーとの対決をと考えていて、身構えつつあった。だからこそ、グレイシーの言う『取引』は思いもしない言葉だった。
そして、一つ分かることがある。
こういう唐突に持ちかけられる取引というのは、決まって怪しい。
「…………」
『何のことはありません。私と貴方で、一騎打ちの決着が着くように場を整えたいのですよ。そして、勝者こそが全てを手に入れられる……』
『……全て、って?』
『もちろん、メリーとエレンお嬢様の二人を賭けた戦いよ……どうです、アイカワさん?』
メリーの問いにそう返すグレイシー。
……俺が考えていたその通りのことを言ってくる。
メリーは戦闘には使えない。まず俺とグレイシーが闘うことになるのは間違いないだろう。
問題は、どうやってその状態まで持っていけるか。
より具体的に言うなら、どうやってグレイシーのそばまで近寄るか、という点に尽きる。
グレイシーも馬鹿じゃない。きっと不用意にここから先に踏み込めば、俺の身体を穴の開いたレンコンのように出来るような装備があるはずだ。
だが、そこまでの過程を確実に保障してくれるというのであれば、これほど上手い話は無い。
が……。
『そんなもんに誰が信じると……』
『担保は、そこにいるメリーですよ』
『あ、あたし?』
突然名前を呼ばれたメリーが目を丸くする。
『何で、あたしが……』
『私の目的は、メリーとエレンお嬢様の二人を連れて行くこと。アイカワさんは、二人を連れて帰ること。お互いに、 二人を殺し合いに巻き込んでうっかり死んでしまっては都合が悪いのです。お分かりですか?』
『……つまり、二人をいわば「賞品」にすることで、二人の安全は保障しようってことか』
『ええ。そしてその「賞品」は今片方ずつ、私達のどちらにもあります。これで、今の私達の身も保障されるのですよ』
なるほど、『賞品』がどちらの手にもあるなら、お互いに滅多なことは出来ない、か。
『そのまま、こちらに。この祭壇まで来たら、その手錠を外し、二人はまとめて離してから、殺し合いましょう?』
『……なるほど』
……理にはかなっている。
確かに、お互いに利害が一致するように見える。それに、彼女の言う通りになれば、俺には得だ。
『ダメ、お兄様……』
『エレン?』
そう考えていた折り、向こう側からエレンは言った。
『この人、嘘吐いてる。きっとお兄様を騙そうとしてるんだよ』
『お嬢様? 今はアイカワさんとお話ししてるのです。黙ってもらえませんか』
『お兄様、信じて! そんな言葉に乗せられちゃダメ────』
『お嬢様……またお注射されたいのですか?』
エレンの首筋に、グレイシーの手が掛かる。
まるでマフラーのように、その細い首に腕を回す。
注射器の針は、そのエレンの白い肌にちょんと触れているようだった。
『っ、う……』
『あいにくと、もう睡眠薬の替えを切らしておりまして……代わりの薬ならいくらでもあるのですが』
『ギル、やめて!』
『いいんですよ、私は。お嬢様やメリーが生きてさえいれば、例えラリろうがシャブってようが、お二人はお二人ですもの』
ふふふ、とグレイシーは笑う。
淡い夢を見る少女のように。美しい想像に、思いを馳せていた。
『大丈夫。どんな姿になろうと、私は二人を愛してあげる……』
『や、やめっ────!』
『────やめろ!!』
声を張り上げた。
しん、と空気が静まり返る。
『……分かった。お前の言う取引をしよう』
『お兄様、それは────』
『いいんだ。お前の無事が優先事項だから、気にすんな。……メリーも、それでいいな』
『う、うん……分かった』
メリーは不安そうだ。
エレンの言葉が引っ掛かっているのか、それとも単純にグレイシーのことを信用できなくなっているのか。
もちろん、俺も彼女の言うこと全てを信用している訳じゃない。一度裏切ったから、というより命が懸かったこの状況で、真っ向から勝負をしようという提案はいかにも臭い。
俺をその気にさせておいて、騙し討ちを喰らえばそれまでだ。
こと殺し合いにおいて、卑怯は許されるのだ。
『……ただし二つ、条件がある』
その可能性も考慮して、しばらく考えた結果、こう言うしか無かった。
『……聞きましょう』
『固くなんなよ、そう難しいことじゃない。まず一つは……俺達がそっちに行く間、俺とアンタはお互いに銃を構えて牽制しあうこと』
『……もう一つは?』
流石に、条件を全部聞かないうちに呑むような適当な真似はしないか。
『エレンの姿を、よく見せてくれ。今のまんまじゃ寝転がってて安全か分からない。俺達の賞品だって言うなら、ちゃんと分かるように』
『ふむ……』
これは、一つの賭けだ。保険といっていい。
この条件が意味を為さない可能性ももちろんあるだろう。
もしこれが必要となった時は、全ての建前が破綻した時だ。
呑むのか、一蹴するのか。
唇を舐めて、相手の反応を待った。
『……分かりました。その二つの条件を聞き入れましょう』
『……! そうか、分かった』
よかった。と心のなかで呟いた。
『
『ああ、分かった』
俺が首肯するのを見て、グレイシーはエレンを起き上がらせた。
俺達と正面切るような形で、祭壇の上に乗せる。
少女はとても小さかった。その整った容貌も相まって、人形のようだと思った。
ただ、どことなくその顔には疲れが見える。今にも倒れてしまいそうなほど、虚ろに映った。
『エレン……』
俺と似たようなことを考えたのだろう。メリーの口から辛そうな呟きが溢れた。
『……では、手順は私が指示します。まず、銃を構えましょう。指は離し、両の手のひらだけで挟み込むようにし、そしてよく見えるように掲げてください』
ゆっくりとした動きで、銃を持ち上げる。
指を離したまま、構えをとるのはかなり難しかった。銃口が垂れないか俺が気を付けてようやく構えた時には、グレイシーは既に同じ構えを終えていた。
しかしよく見ると、左手の人差し指が痛々しく折れ曲がっている。
昨日ジェウロと争った時に負った傷だろう。にもかかわらず、なんてことないというように俺の条件に乗って来た。よほど狙撃に自信があるということか。
「…………」
正直に言って、今撃ち合いになれば、確実に俺は負ける。
素人よりはよっぽど出来るとはいえ、ここから狙って、グレイシーに命中させられる気がしない。せめてもっと近づかないと。
お互いに構えることで牽制しあう、なんてハッタリ、何時バレてもおかしくない。俺の腕前のほどを気付かれてないのが幸いしている。
だから今、必死で浮き出る冷や汗を誤魔化している。
息が詰まる。口の中カラカラに渇く。
出来る事なら早く近づきたい。こちらの射程距離内に踏み入れたい。
だが、急いてはいけない。気付かれれば、一瞬で終わる。
『……オーケーですね。では、
まるで、授業でもしているのかというような朗々とした声が続く。
緊張しながら、その声の指示する通りに銃を握った。
お互いに、確かにトリガーに指は掛けていない。
『では、そのままこちらへ』
「…………」
距離にして、三十メートル弱。
あとは、ゆっくりとグレイシーのところへ近付くだけだ。
『……メリー、気を張ってろ。もし何かあればすぐに動くぞ』
『分かってる』
一歩を踏みしめながら、そばのメリーに囁きかける。メリーも、この緊迫した空気は理解しているのか、緊張感を孕んだ声でもって返した。
果てしないと思えるくらい長い距離だ。歩を進めるだけで、徐々に重い空気がまとわりつく気がする。足音を立てられない。
『……そうだ、一つ』
『……?』
そして、最後列の長椅子のそばまで近づいた時、俺は口を開いた。
足を浮かせ、座っているエレンが顔を持ち上げた。
『エレン、マクシミリアンから伝言がある』
『え、お父様、から?』
もちろん、これは嘘だ。グレイシーを欺く方便に過ぎない。
グレイシーは、やはり何かを仕掛けている。俺はそう考える。
もし本当に何も無ければ、それまでのことだ。
しかし、俺の思ってる通りなら。
『ああ、それは────』
これは、最後の保険になる。
「────そこから、何か見えるものはあるか?」
俺は、思い出していた。
────生憎と日本語は分かりませんが……。
────私、日本語は不慣れなもので。
グレイシーは、何度かそう言っていた。裏切ったとはいえ、あの言葉までも嘘だとは思えない。
俺は、思い出していた。
────例えば、そうなあ────エレンがどっかに誘拐されて、英語で助けを呼んでも犯人にその内容はバレるけど、日本語で叫んでもその意味はバレない、とかな。
そして、これは俺がエレンに言ったことだ。
まさか、本当にその通りの状況になるとは思わなかったが。
エレンは、日本語を使える。そしてそのことは、俺以外に父親であるマクシミリアンしか知らない。
「あっ! お兄様、そこの椅子の陰に!」
────人影が────
だから、俺達が日本語で会話しても、その内容をグレイシーが知ることはない。
エレンは、確かに俺の意を汲んでくれた。
『……グレイシーさん。俺は本当に、アンタの言葉を信じたかったんだが……』
人差し指を、そっと『あるべき場所』に添える。
何かを破壊するための指、誰かを傷付けるための指が、引き金を引いた────。
『────残念、信用切れだよ』
取引は、不成立で終わった。
要するに、グレイシーは、先程まで積み上げてきた取り決めを反古にしたのだ。
『ぐお……っ!!』
野太い悲鳴が響く。そして、何かが倒れるような鈍い音がした。
伏兵。長椅子の隙間に、もう一人、男が隠れていたのだ。
注意を自分に向けさせ、騙し討ちで俺を始末しようとしたのだろう。
やはり、取引は罠だった。しかも、俺達が来る前から、この男を待ち伏せさせていたのだろう。
最初から、俺を騙す気しかなかったのだ。
『────なっ!?』
まさか見破られるとは思わなかったのか、不意を突かれた形になる彼女の反応は、ほんの一瞬だけ遅れた。
俺は、メリーを引っ張って、椅子と椅子の間に飛び込むように潜り込んだ。
その隙間は案外狭く、結果的にメリーを下に敷いて押し倒す形となったが、今はそれどころじゃない。
長椅子に身を隠した瞬間、弾けるような甲高い音が木霊した。
かなり近い。ひっ、と悲鳴を上げて耳を塞ぐメリー。
かなり的確に、そばの長椅子の一片が銃弾に貫かれて破砕された。
少しでも動きが遅れていれば、少しでもグレイシーが反応を早くしていれば。俺の命は無かったといっていいだろう。
『くっ……お嬢様が教えたのですね。余計なことは話すなと申し上げましたのに』
その時、乾いた音が響いた。
何かをひっぱたいたような音────こちらからは何も見えないが、恐らく頬を張った音────に続いて、エレンのうめき声が耳に入った。
『あうっ……!』
『いけない子です、お仕置きが必要ですね』
『い、いた、い……っ!』
『何してるのギル! やめなさい!!』
妹の悲鳴に耐えきれなくなって、メリーが叫ぶ。
だが、グレイシーの返答はあっけからんとしていた。
『何って、ただの躾よメリー。おいたをした子供には、こうするんでしょ?』
『ふざけないで! 先に騙したのはアンタでしょ、エレンにこれ以上何かしたら────』
『ふざけてなんてないわ。むしろ、一番ふざけてるのはアイカワさんよ。そのまま黙って殺されれば丸く収まったのに……』
『な、なに言って……』
『あ、そうだわ、いいこと思い付いた』
パチン、と指を鳴らしてから、グレイシーはこう言った。
『アイカワさん、もう一度取引しましょう? 難しいことじゃありません、そこから顔を出すだけでいいのです。私はその額を撃ち抜く。貴方の命と引き換えに、メリーとエレンお嬢様の命は今度こそ保障しましょう。どうですか?』
……もはや、彼女の言い分は理に反していた。
めちゃくちゃもめちゃくちゃ、支離滅裂と言ってもいい。まず俺が、そんな提案に乗るとでも思っての台詞だろうか。
当然、俺の答えは『NO』だ。
そもそも俺の目的は、姉妹二人の命の保証じゃない。
二人を生きたまま連れて帰ることだ。グレイシーの言う通りでは俺の任務は失敗したも同然。
『────俺にはやることがある。こんなとこで死んでられない』
『まあ。アイカワさん……貴方はつまり、自分のためなら二人を見捨てるということでしょうか? 薄情なのですね』
『ギル、アンタ言ってることメチャクチャよ。分かってんの!?』
メリーが俺の代わりというようにグレイシーに言い返した。
メリーは知っている。命を懸けることと、命を捨てることの違いを。
彼女もまた、命を捨てるのでなく、懸けるためにここに来た。
タダで命を捨てろというような物言いに、その姿勢に腹を立てたのだろう。
『メチャクチャはそちらよ。つくづく私の計画を狂わせる、それも狙ったように。最初見た時から気に食わないとは思ってきたけれど、まさかここまでとはね。二人はね、私と一緒に来るの。それは、運命なのよ』
『アンタが勝手に決めんな! 何が運命よ、ふっざけんな! アンタと一緒なんてあたしはゴメンよ、この卑怯者!』
『……卑怯者?』
メリーの言葉は激しく続く。
凄い剣幕で、近くにいる俺の耳が痛くなるような声量でグレイシーを言いこなす。
『そうよ! ネブリナ家の反逆者、なんてご大層なこと言われてて、実際凄い数のマフィアの人間をたった一人で相手にして! 結局やることは子供騙して自分の手を汚さないで殺そうとしただけ! やってることがみみっちいのよ! こっちが命張ってんのに命張り返す度胸も無いわけ!! 意気地なし!』
『…………』
『取引だかなんだか知んないけど、今のでアンタが裏切ったのはタクジじゃない。あたし達二人よ! そんなことも分からないからこんな真似したんでしょ!?』
俺は思わず、メリーに感心していた。
メリーの言葉に、素直になるほどと思っていた。
メリーとグレイシーは……いや、俺とも考えの違いがある。
俺はどちらかというと、グレイシーの考えに近かった。前述の通り、命掛かった場面で、ズル卑怯を責めるのは無意味だと思う方だ。
西部劇のガンマンじゃあるまいし、卑怯も正道。そう思っていた。
だが、彼女は彼女なりの考えがある。それが正しいのかどうかは別として、それを臆することなくプロフェッショナルにぶつけられる芯の太さに、一種の敬服の念を抱いていた。
……まるで、夕平のようだ。何時かの時も思ったことだが、二人はどこか似てる。
『だから────!!』
しかし、その恐れ知らずの声も、簡単にかき消された。
まるで連続したエンジン音のような銃声。それ程大きな音ではなく、軽く連綿に続く音だ。近くの椅子に次々と撃ち込まれていく。
その音はすぐに止んだ。しん、と礼拝堂の中が静まり返る。
たった数秒だけの連続射撃なのだろうが、恐ろしい数の銃弾が放たれた。身を晒せばどうなっていたことか。
『……私が、卑怯者? 私が……』
間違いない。実物を見たことは無いが、素人でも分かる。代表的な銃の一つだ。
『────今まで安穏と暮らしてきた貴方に、何が分かるッ!!』
グレイシーが叫ぶとまた連続した銃声が響く。
まるで銃声がこの中のあちこちに暴れまわっているかのようだ。
耳の奥にまで焼き付きそうな音の連続に、動悸が収まらない。
常に何時、数十発、数百発のうちの一つが俺達を撃ち抜くか分からない不安がある。
『マシンガン、か……!!』
音が反響する中、頭の中に浮かんだ想像を言葉にした。
『マシンガン!? そんな、嘘でしょっ!?』
『間違いないな。冗談か何かかと思いたいくらいだ……まさかそんなものまで持ってたなんてな』
機動性やコストパフォーマンスの低さを犠牲に、秒間数十発以上の連続射撃による濃い弾幕から生み出される破壊力(貫徹力)は相当なものだ。
ジェウロとの闘いから、暗器の手練れであることは知っていた。今も、その身には数知れないほどの量の暗器を纏っているのだろう。
しかし、そんな素人の俺でも分かることが、一つだけある。
そんな、今彼女の装備している武器の中で、このマシンガンは間違いなく最強の武器だ。
『これじゃなおさら、近付けなくなっちまったな……!』
マシンガンは、その機動性の無さから迎撃用に使われるのがほとんどだ。
こういう
『まるで、ガンアクションのアーケードゲームだ。俺達はゾンビか恐竜かよ』
『そんなこと言ってる場合じゃ────ひっ!』
銃弾が、寝転がっている俺達の上を掠めた。空気を貫くような音が鼓膜に残響する。
『分かってる。このままじゃ無駄な時間が過ぎるだけだ。なんとかこの状況を打破したいんだが……!』
一つ、奥の手はある。
グレイシーが、マシンガンを用意してきていたように、俺が持ってきた武器は銃だけじゃない。
ポケットから、その『武器』を取り出す。
スプレー缶のようなそれは、スタングレネード────グレイシーが一度、マクシミリアンの前から逃げ出した時に使っていたものだ。外側であるスチール製の本体は爆発しても壊れないため、中身を詰め替えて何度か使うことが出来る。
あの時爆発したものを拾って、そのまま代用するようにマクシミリアンに頼んでいたのだ。
これで、グレイシーの不意を突くことは出来るだろうが……。
『それ、昨日の!?』
メリーも、見覚えがあったのかこの飛び交う銃声の中、声を上げた。
『ああ。これで、何とか状況を変えられるか……?』
『使い方分かんの!?』
『さっき教わった!』
『うげ。ご、誤爆だけはやめてよね! 本気で!』
これはもともと、グレイシーの持ち物だ。
ある程度意識を反らせることくらいは出来るだろうが、その対処法を考えてないわけがない。
これで仕留めるなんて考えない方がいいだろう。
「…………」
上空を横切る耳障りな連射音で、集中が掻き乱れそうになる。
たったこれ一つで、グレイシーに近づく方法はあるのだろうか。
『……囮、か』
『へ!? 何か言っ────きゃっ!?』
『メリー、聞いてくれ……一つ、作戦を思い付いた』
作戦、なんて都合のいいものじゃない。
これは賭けだ。ルーレットで赤か黒かを選ぶように、チンチロで丁か半かを決めるように。
生きるか死ぬか。在るのはその二択だけ。
『でもそれには、お前の存在が欠かせない。お前がいないと────』
『やるわ』
即答だった。
まだ何も聞いてないというのに、こいつは。
『やらないと、どうしようもないんでしょ?』
『……そうだな。俺には他に思い付かない』
『じゃあやるわよ。じゃないと始まらない。エレンを助けられないじゃない』
躊躇してるのは、どうやら俺だけのようだ。
何も聞かずして俺を信じている。軽率というか、向こう見ずというか。少しは、グレイシーの爪の垢を煎じて飲むべきじゃないのか。
でもまあ、それなら。
俺も、メリーを信じるしかない。
『……分かった。覚悟はいいな』
そう言って、俺はポケットからもう一つ、ある物を取り出した。
鍵だ。それで、俺達を繋いでいた手錠を外した。
これで俺達は、お互い自由に行動出来るようになった。
『これから俺達は、二手に分かれようと思う。俺がこのフラッシュバンを投げるから、そしたらお前は、これから言う通りに動いてくれ。俺の言葉に正確に従えよ』
『分かったわ』
『くれぐれも、軽はずみな行動は控えてくれ。いいか、マジで俺の言う通りに……』
『分かってるってば! アンタの中であたしはどんだけバカだと思われてんのっ!?』
何やら怒らせてしまったらしいが、これは本当に何度でも念押ししたい事項だ。
『本当に頼むぞ……これで失敗したら、俺だけじゃない。お前も死ぬことになる』
『……え。ちょっ、それは聞いてな』
『でも、もし上手く嵌れば……エレンの身柄を奪い返すことが出来るはずだ』
『……!!』
マシンガンの銃弾が飛び交い、長椅子によってグレイシーに近付ける道は限られている。
これを撃たれることなく、祭壇まで辿り着かなければならない。
『────俺達二人で、エレンを救うぞ』
勝ち筋は、ある。
ここまで来たら、あとはやるだけだ。
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