第三十八話:多重人格

 とある車内の、一人の男の通話。 


 ――――もしもし。ああ、ジェウロ? 君からかけてくるなんて珍しいね。どうしたんだい? さっきの今じゃないか、何か問題でも……。

 

 ――――……いや、いやいやいや。ちょっ待って待って。落ち着きなよ、何を怒って……え? 怒ってない? だって、君いつも怒ってるみたいな声してるからつい……。


 ――――とにかく何があったんだ? 場合によっては作戦変更を……うん、うん。尋常じゃない叫び声? 教会の方から聞こえたって……ああ。ということは、エトーを起こしたか。思ってたよりも早かったね。

 

 ――――ふむ……ということは、かなり危ない状態だったわけか……やはり、厄介だな。タクジには荷が重いか?


 ――――え? 何のことかって? ああ、僕はその正体を知ってるよ。でもお義父さんは知らないはずだ。かくいう僕も、レッジから聞いたことしかまだ知らないんだけどね。


 ――――それは多分、エトーって呼ばれてる『the billy』の人格の一つだよ。男の子の人格でね、数あるうちの一つというか、一番最初の主人格というべきか……。


 ――――ん? ビリー=ミリガンだよ。知らない? 有名な多重人格者から僕が勝手にもじったんだけど。『彼ら』にも便宜上でも名称がないと話し辛いからね。


 ――――まあそれは置いといて。エトーはね、彼ら人格の中で、一番の古株なんだって。ミランダやコウタロウ達が出来る以前、ずっと前からそこにいる。一体何時からそこにいたのかは、誰も知らない。だから、一番最初の主人格なんじゃないかと言われていたらしい。


 ――――そして、エトーは『the billy』の中で最も力のある人格なんだよ。


 ――――……うん? 『頭痛が痛い』だって? ははは、なんだいそれ。また君らしくもなく変なこと言っちゃって。


 ――――それこそ頭の痛くなるような話になるけどまずは聞いてくれないか。エトーのことについて、ね。



◆◆◆



『いやぁ~正社員の方々お疲れ様よねぇ。絶景かな絶景かな』


 現在、ミランダの人格である赤い髪の女が、気の抜けた声を上げる。感心した様子で口笛を吹いた。


 そんな彼女を先頭にして、ジャッカル、カマタリ、そして俺とメリーがぞろぞろと後ろから続いていく。

 そう、たったの五人だ。少数精鋭どころの話じゃない。

 何十人が撃ち合いをしている程のこの抗争の規模を考えると、あまりに心もとない。この面子だけで、おそらく一番身を固めているグレイシー=オルコットを討つというのだからそれも当然か。


 俺達は、堂々と正門から教会の中に突入した。

 まるで、本当に信徒であるかのように。

 入ってすぐ戦闘になるかと全身に意識を集中させていたが、何も襲いかかってこない。

 思わず、少し気が抜けた。息でもつきたいくらいだ。


 ただ、発砲音は今も続いている。ここじゃない所で、しかし距離は遠くない。ちらちらと、傭兵達はネブリナが抑えている様子が見える。

 と、ここまではマクシミリアンが言った通りだった。


 敷地の中は、すっかり荒れ果ててしまっていた。

 来たことの無い俺でも、荒らされた結果の光景であることは、痛いほど分かった。

 整えられていたはずの花壇は土がめちゃくちゃに散乱し、慎ましく礼拝者を出迎える花々は無残にも埋め込まれたかのように花弁が踏み潰されている。

 その様は普段の姿とは見る影もない。嵐が過ぎ去った後のようだ。

  

 レンガで作られた道が、レッドカーペットのように目の前の聖堂に続く。

 その扉付近に、台座に乗っかった人物像が立っていた。

 マリア聖母像だ。ヴェールを被った神秘的な女性の彫像は、今は散弾を受けて大きく破損しているが。


 聖堂の両脇には、二階建ての寮と円柱の形をしたゲストハウスが設けられている。まるで聖堂の付属品のような佇まいで、小さいわけではないが、あまり目立たない印象を受ける。

 

 ……だがそれも、俺の意識が一番にこの聖堂に集中しているからだろうか。

 

 ネブリナが突撃してからのラグは、おおよそ十分前後。


 この建物の中だけは、まだ誰も侵入していない。

 そして今の所、グレイシー及びエレンの姿を見た者はいない。


 間違いなく、グレイシーはここにいる。

 


 そして、ミランダが思わず唸った時に視線の先にあったものは、いくつか転がっている人影だった。

 おそらく、傭兵達のものだろう。

 血があちこちに飛沫し、聖堂前の庭を汚す。壁に囲われて籠った生ぬるい臭気が、鼻から身体中に染み渡るような感覚。

 率直に、惨い有様だった。


『う、うえっ……』


 だから、こんなもの見慣れていないメリーには、やはり酷な光景だろう。


『大丈夫かメリー。吐きたいのか?』

『アンタ達、よく平気そうにしてられるわね……だい、じょぶ……だから。大丈夫……』


 彼女は前かがみの姿勢で口元を懸命に抑えている。背中をさすってやろうとしたら、手で制された。

 彼女なりに必死に違いない。こうなることは予想が出来ていた。


『……分かった。もう堪えるな、


 それだけ声をかけて、俺は他の三人に視線を送る。

 そして、ミランダ、カマタリとジャッカルは分かってると言わんばかりに視線で応えた。

 言葉の無い合図とともに、三人は銃を前に構えた。俺も、ホルスターから銃を引き抜く。


 ――――そして、一斉に引き金を絞った。


 


『ひっ!?』 


 突然の撃鉄音。続いてメリーが悲鳴を上げる。

 同時に、男のくぐもったような断末魔の叫び声が聞こえてきた。


 どうやら、全員死体のふりをしていたわけではなかったらしい。俺の撃った『死体』は、本物の死体だった。

 しかしやはり、死体に紛れて、俺達が見過ごしたところを奇襲しようとしたようだ。

 

 手の中にあるこの重みを見やる。

 つい先程、マクシミリアンから借り受けたハンドガンだ。

 FNファイブセブン。装弾数は現行の銃で最多の二十発。限界まで弾を装填しても七百グラム程度の質量で、反動も小さい。オートマチックの中でもかなり使いやすく、実用的な銃だと思う。

 念のため予備マガジンはもう二つ貰ってきたが、多分使われることは無いだろう。

 

 こんな上物ではないが、銃を使った経験自体はあった。それもここ数か月の話ではなく、以前のループでの経験だ。

 何度か練習したこともあるくらいで、そこそこ上手くなったこともある。

この世界ではまだ一度も銃の練習をしていなかったが、グレイシーを撃った時もそうだったが、なんとかかろうじて命中させられた。

 運動神経や感覚は、次のループ世界に持ち越せる。どうやら数メートルくらいの距離であれば、難なく目標を打ち抜けるようだ。鈍りながらも、一応の感覚は忘れ去っていなかったらしい。


 俺の撃ったモノは、本当に死体だったようだった。

 死体蹴りをするかのような、冒涜的な行いに何も感じないわけではないが、こうした騙し討ちも当然の状況で、細かいことは気にしていられない。


『っ、っぐう、お、おえぇぇええ……!』


 人が目の前で撃たれるところをまざまざと見て、とうとう耐えられなくなったのか、メリーが吐いた。

 苦しそうに息を荒げ、目元を雑に拭う。


『おいおいお姫様、やっぱ来ない方がよかったんじゃねえの? さっきまでジャリジャリ生意気だったのはどうしたんだ? えっ?』

『だ、大丈夫って……言ってんでしょ、このブサ男』

『んだとコラァ!!』


 にやにや見下すように笑うジャッカルにメリーが悪態を吐くと、一瞬で顔に血をたぎらせ、激昂した。

 そんなことしてる場合ではないというのに、ジャッカルは口やかましく唾を飛ばさん勢いでまくし立てる。


『テメエこっちが下手に出りゃいい気になりやがって、ぶっころ――――』

『はいはい、ストップストップ。ジャッカルちゃんが素敵なのはあたしが知ってるからいいじゃないの、ね?』

『テメエに素敵だ言われてもケツの穴が寒くなんだよ!』


 ぎゃあぎゃあとやかましいジャッカルを、カマタリが抑える。

 そして、それをけらけらとおかしそうに笑うミランダ。いつ何時だろうと、相変わらずな連中だ。


 彼らは置いておいて、俺はメリーの様子を確認した。

 メリーも俺の視線に気づいたかと思うと、ぷいと目を反らした。


『……なによ、やっぱりアンタもあいつと同じこと言うつもり? 言っとくけど、あたしは――――』

『リタイアはしない、だろ? 知ってるよ、お前の強情さは。でなきゃ、お前を連れて行くなんて言わない』 

『あ……』


 それに、と言い置いて、左手首を見せつけるように持ち上げる。

 じゃらり、と鎖が揺れた。パンキッシュな分厚い鉄のブレスレット紛いのものが巻き付いている。

 それは細長い鎖で結ばれていて、俺の左手首から始まり、メリーの右手首へと連なっていた。


 


『俺達は運命共同体だ。一緒にエレンを救出するって、約束したもんな』

『……うん』


 あの後マクシミリアンは、メリーの同行に一つだけ条件を付けていた。

 つまり、俺のそばに必ずメリーを付き添わせるというもの。奴なりに、娘の安否を心配してのものだろう。

 ちなみにこの特注の手錠は、ベッキーがさも当たり前のように持っていたものだ。もはやツッコミもしない。


 しかしまさか、ここまで物理的な方法で行動を共にさせてくるとは思わなかった。

 でも今のところ、手錠のせいで動きに支障があるわけでもない。むしろ、変な弾みで動かれる方がよっぽどまずい。

 かなり強引な策だが、悪い手ではない。いざという時に開錠するための鍵はもらってあるし、出来る限りそばにいてもらった方が目を離さないで済む。

 かなり猟奇的な構図であることは否めないが。


『あーご両人、いちゃついてる場合じゃないわよぉ。嵐に巻き込まれたいなら別だけどね?』

 

 ミランダが急かすようにジェスチャーを交え、俺に呼びかけた。


 そうだ、聖堂に向かわなくては。

 門から聖堂までのこのわずか十数歩は、ネブリナ百名弱の精鋭によって開かれた道だ。

 十戒のモーセの如く、今俺達が撃たれずに済むのは彼らが敵を押し込めているこの数瞬だけ。じきにこの庭全体が戦場と化すだろう。


『もう二人とも行っちゃったわよぉ? あと数秒持つか持たないかですってー』

『よし行こうメリー!! このままじゃ死ぬぞ俺達!』

『え、ちょ待っ――――きゃっ!』


 手錠ごとメリー引っ張り上げ、走り抜けた。

 鎖が思い切り突っ張った。強い重量感で身体が持ってかれそうになるが、なんとか踏ん張って三人が入った扉をくぐった。


『は、早く閉めてぇん!!』


 俺に続いてメリーもちゃんと建物に入ったのを見届けてから、飛びつくように扉を押し閉めた。


 その直後、本当に扉を閉めた瞬間に、向こうから銃弾が交錯する風切り音が響いた。


「せ、セーフ……」


 扉にもたれ、ずるずると腰を下ろした。


 すると、すぐ頭上から甲高い鳥の鳴き声のような音が貫いた。

 緩慢な動きで頭を傾けた。

 木製の扉に、小さな風穴が見える。外からわずかな光が漏れている。


 夜にも夜の明るさがあるのか、とぼんやり思ってから、はっと我に返った。

 その穴の位置が、ちょうど俺の頭があった場所だったことに気付いた。


「――――うおわっ!」


 慌ててその扉から脇に隠れるように離れた。

 外の濃い弾幕が、耳の中を突き抜け続ける。


『いっ、つううう……』

『あ、メリーか』


 隣に、メリーが座り込んでいた。

 頭を打ったのか、後頭部をさすっている。


『……ちょっと、痛いじゃない! いきなり引っ張らないでよ!』


 きっ、と俺を睨んでくる。涙目になっているのは、この暗さでも隠しきれなかったが。


『あーすまん、死ぬとこだったからしょうがない。でもまさか、いきなり手錠こいつが役に立つとは思わなかった。これで引っ張ってなかったら今頃蜂の巣だ』

『うー、手首にアザ付いちゃった……ってうそっ、青アザになってんじゃんこれ! サイアク!』

『まあまあ、信号機と戦争中の緑(あお)色は安全ってな。真っ赤になるよか縁起いいじゃん』

『なによそれー! ジャパニーズメイシンってやつ? ばっかばかしー』

『……あー、お二人さんお二人さん。本当に仲がよろしいとこ悪いんだけど、まだ赤ランプは点滅中らしいわよ』

『『へ?』』


 その時、ぬっと視界に黒い物がちらついた。

 顎先に固いその先端が当たる。細長い筒状の『それ』に、くいと顎を持ち上げられた。


『動くな』


 フリークチームの誰ともない声が聞こえた。


 何時の間にか、俺達以外の人間がいる。

 そして、俺達を取り囲んでいた。


「…………」

『銃を捨てろとも、壁に手を付けろとも言わない。、それだけでいい。従わなければ――――』

『――――そいつはこっちのセリフって奴だぜぇ~あんちゃん達よお?』


 ジャッカルが、男に対し余裕そうな口ぶりで言い返す。

 しかし、あまり頼りがいがある言葉だとはこの状況では言い難い。


 数はおそらく十四、五名。俺に銃――――ショットガンを向けている者の他にも、遠巻きからこちらを牽制するように構えている。

 聖堂の中は、開けたところだった。まず、中心に綺麗な正方形の広さの中庭があり、それを囲うような形で回廊が続いている。ここから、向こうの辺となる廊下の様子がよく見える。廊下には一定間隔にドアが取り付けられており、それぞれの部屋に繋がっているようだった。一つ一つ確認する暇はないが、おそらくこのドアのうちのどれかが、グレイシーがいる部屋に繋がっているのだろう。

 どうしても視界に映る中庭は、緑が豊富で、整備が追い付かないのかどうなのか、木の枝は葉擦れも起きないほど一杯の葉をたくわえ、廊下の中に大きくしなだれて入ってきているくらいだ。水たまりのような小池があり、その前を丸石が並列に埋められて出来た道が通り過ぎる。


 落ち着いた雰囲気の、深い森の中に迷い込んだかのような透明感ある風景だった。その背景として、廊下の石造りがあまり手入れされてないことが逆に、きらびやかで整えられた庭園とは違って、自然そのものを体現しているようだ。中庭というよりも、教会に囲まれた箱庭だと思った。


 ――――そこに、無骨な迷彩服やら防弾チョッキやらで身を包み、銃を構える集団さえいなければ。


『……もっとも、従ったからと言って、命の保証もしない。じき始末させてもらうからな』

『これまたこっちのセリフだ、ハイエナ共』


 へたり込んだ状態の俺達を見下ろすように向けられた銃口。それが今も火を吹かないのは、フリーク達の存在あってのものだった。


『その引き金は、テメエら用の死刑執行ボタンだ。軽い気持ちで引いてみな、テメエら揃って地獄見るはめになんぜオイ?』

『……フン、クソ以下のクズが。今のうちに吠えておくがいい。そこの男、貴様も妙な動きは――――』

『――――ふむん? あんらぁ、あなたよく見ると結構いい感じねん。ちょっと今溜まってるのよお……やらないか』

『…………』

『あららー、よかったわねぇー男前さん。地獄の前にお花畑を見れそうよー。バラ色の』


 お互いが銃を構え、三竦みの状態でいるからだ。

 誰も、動けない。お互いの銃口が生み出す、気の休まらない休息の刹那。


 だが、あまりこちらに有利な状態とは言えない。

 まず単純に、人数の差がある。あちらが犠牲を無視し、今単純に撃ち合いを始めたとして、間違いなくこちらの方が先に全滅させられる。

 彼らにはグレイシーと連絡を取り合う術がある。その彼女が撃てと一言言うだけで、俺達はあっけなく命を散らすことになるだろう。いずれ、撃ち殺されるのが関の山だ。


 このまま立ち往生しているだけでは、状況は悪化しかしない。


 それにこれはあくまで、グレイシーを打倒を目的とした電撃戦だ。撃たれずとも、こうして動けずに彼女を逃がすかもしれない。それだけで、俺達の負けなのだ。


 ……なのだが、そのことを知ってか知らずか、何故かこの状況下で、どうでもいいフリーク達同士の会話が弾む。


『あぁん、だってぇ、いざ日本に帰るとなるとイギリスが恋しくなってきたのよぉん。だってこんなにもまだ、ここにはいい男がいるんですもの。はあ……後ろ髪引かれるっていうのかしらん、チャーリーワトスンジョージレミー……色んな人達とのっ、思い出がっ……』

『けっ、気ン持ちワリィ思い出だなオイ』

『――――カマタリさん帰っちゃうんでしたっけ ? 寂しくなりますねー』

『だ、だからこの人達好きにしてもいいかしらん? 最後の淡い思い出としてじゅるり』

『とっとと日本でもどこでも帰りやがれ尻堀り野郎! キメェんだよ!』

『――――あらあら、カマタリ様。こんなドブネズミ共……あ、これではカマタリ様に失礼でしょうか。とにかくこんな屑どもなど好きにしてくださって構いませんが、ほどほどになさってくださいましね』

『まあマキュリー、出てきたの? ミランダは?』

「――――ん? 俺、マキュリーでもミランダでもポリーでもねーよ」

「あ、あらら? コウタロウちゃん? もう入れ替わったの?」

『黙れ貴様ら!! 口を閉じろ!』


 敵の一人が、我慢できなくなったというように叫んだ。引き金に指を伸ばし、次は無いと動かす。

 その男の言ったことは、フリーク達以外ここにいる全員の内心を代弁したものだった。正直、俺もこの状況を打開するための思索に焦っていたから。

 この状況でのんきに会話してる方がどうかしているのだ。敵味方問わず、緊張感の有無について怒鳴り散らしたくもなる。


『あ、アンタら、それどころじゃ――――むぐっ!』


 だから、メリーの言おうとしていることも分かる。

 しかし、俺はその口を手で抑えて黙らせた。


『むうっ! むううー!!』

『ちょっと待て、様子がおかしい』


 俺がそう言った瞬間、鈍い音が響いた。

 何かと思うと、赤毛がそばの壁を蹴った音だった。


『――――チッ、しっかしシケたとこだなァ! モク一つやれそうにねえ、これじゃ薬莢までしけちまわあ! 何が悲しくてこの俺が修道士ババアのたまり場に来なきゃなんねえんだボケカスがっ!! 死ねっ!!』


 あまりに唐突に、とち狂ったかのように壁を蹴りまくり、うるさく吠え立てる。

 この怒鳴り声、訛りの強い英語、癇癪持ちのように辺りを蹴りまくるその仕草。

 見覚えがある人格だった。名前は、確かロナルドと言ったはずだ。

 

『動くなと言っているだろう!! 大人しくしろ!』


 また傭兵の一人が叫ぶ。その声でここにいる相手側の大半が、慌てた様子でロナルドに銃を向けた。あまりに突然ので面食らったのかもしれない。

 相手側の意識のほとんどが彼(または彼女)に向けられている中、その暴れるような動作はピタリと止まった。怒鳴り声もしなくなり、だらんと身体から力が抜けたように突っ立っていた。


 そして――――この瞬間から、奇妙な事態が起こった。



『――――まあまあロナルドさん、煙草なんて外出てやればいいでしょー? あ、でもまたこないだみたいにポリーに吸わせようとすんの、あれ止めてよねー。まだあの子十五なのよ?』



 英語じゃない、イタリア語……これはミランダの声だ。

 ロナルドの言葉を受け、彼に向けて会話をしている。 



『――――ミランダ様のおっしゃる通りですわ。未成年の飲酒、喫煙は体に毒ですもの。いくら同じ身体とはいえ、他人への強要は犯罪ですわよ?』



 まるで独り言のように、声が紡がれる。今度は、メディスンだろうか。


『貴様一体何を言っている!! 黙れ! 黙らんか!!』


 別のショットガンを構えるその男は、彼女の妙な雰囲気に呑まれたかのようだった。

 それはそうだ。全く別の言葉遣いで、全く違う仕草を一人の人間が壊れた機械のように『演じて』いるかのようだったのだから。


 俺でさえ、とても信じがたいことだった。今あるこの状況がすっかり頭から抜け落ちるくらいには。


 まさか。いや、おそらく俺の想像している通りだ。

 ――――


 様々なメディアで、多重人格を取り上げるものは多い。例えば、今浮き出ている意識と、沈み込んでいる意識との記憶の共有の有無について、といった情報は探せばいくらでもある。

 

 そして、素人の見聞から言わせてもらうが――――こんなこと、この目で見るまで本当に信じられなかった。



「――――まあ、日本のアニメでもそういうの厳しいしな。女の子が酔っぱらうっつったらウイスキーボンボンか場酔いとかだし、高校生が煙草吸ってる所には露骨に謎の影さんが出てきたり、まああそこまで行くと潔癖だけどな。こんなことしてる俺達なんて何時捕まるか分かったもんじゃねえよ、多重人格ってだけで風当りも強いだろうしよー」



 軽度の人格解離なら、セラピーによって症状を軽減させることが出来るらしい。

 つまり、生まれた人格を統合し、消滅に近いことをすることは可能であると。


 だが、こんなことは今まで聞いたことが無かった。

 ここまでしっかりと、他の人格同士がまるでそこにいるかのように自然と会話していることはまずない。本来は創造上の産物と言ってもいい。

 彼らは、まったく意識が統合されていないのだ。作られた人格の一つ一つが、ここまで平等に独立している。

 まるで綱渡りのような奇跡的なバランスで、一つの身体にいくつもの人格が住み込んでいるということだ。


『多重人格として完成されている』などと、良い言葉では言い表せない。

 ――――。どこまでもどこまでも、もはや改善の余地が無いくらいに、症状が極まってしまっている。

 どんな医者に診せても、どんな権威を前にしても、現代の精神医学では匙を投げつけられるものかもしれない。


 多重人格を、同一性解離性障害という病を、意図的に『操っている』のだから。

 



『――――犯罪。怖い。カティア。逮捕。禁錮。嫌』



 ……こんな。

 こんな人間も、いるのかと。

 俺は、ただただ、目の前の『一人』の異形に、ある種の畏怖を感じていた。

 彼ら個人だけでなく、こんな存在がこの世にいるという事実に。



『――――大丈夫ですよぉ。私達が捕まることは無いですから、安心してください。何かやってもそれは全部私達の誰かのせいにしちゃば犯罪にならないって、どこかで聞いたことありますもん。ね、メディスンさん?』



 ――――そして同時に、ここに一つの疑問が俺の中にふと浮かんだ。

 


『――――……精神保健法。精神疾患、つまり精神や行動における特定の症状を呈することによって、機能的な障害を伴っている状態と判断され、責任無能力が証明された場合、無罪判決を言い渡されて精神病棟行きとなるケースが多いようね』



 この『彼ら』が、いわゆる生み出された人格であるというのなら。



『――――なるほど! つまり、しらばっくれればいいんですね! 了解です!』



 



『――――はいはい、そろそろ全員「出た」かしらぁ? 迎える準備はよろしい? いい加減時間も押してるし、早く「起こし」ましょ』



 くるくる、くるくると。数多くの人格達が交代している間、誰も何もしなかった。

 いや、出来なかった、と言うべきか。


 一瞬一瞬のうちに顔つきが変わり、言語が変わり、身ぶり手振りが変わり、あまつさえ身体つき(腕の筋肉や骨格)さえ変わる。

 

『な、なんなの……何が起こるってのよ……!』


 この奇々怪々な光景に、誰もが『期待』していたのだと思う。怖いもの見たさで、今に起ころうとしていることに、興味を抱いてしまった。


 まるで、サーカスのように。一挙一動も見逃せない、観客の意識を釘づけにするピエロのショー。

 まさにそれは、フリークフリークの真骨頂だった。



『さーて、と。それじゃあ起きておいで、――――「エトー」』



 そのハミングするかのような、歌うような軽やかな声て、その名前を囁いた。

 彼らの『八人目』であり、最後の人格。



 その産声は、天地を貫く慟哭のように広く広く響き渡った。

 


◆◆◆



 ――――エトーは、ずっと眠りについていた。他の七つの人格が何をしても、なんの反応もしない。やがて、一度皆で彼を起こしてみようという話になった。当時は名前も知らないこの人格が、一体何者なのか、確かめようとした。


 ――――結果、最悪の事態を招くことになった。地元の警察官を数名殺害し、一般人、ギャング問わず計十七名を乱射する大事件に至った。なお最悪なことに、エトーは一度目を覚ますと完全に身体の主導権を握り、他の人格達をまるで寄せ付けなかったらしい。


 ――――誰も、内からも外からもエトーを止められなかった。何故か? その理由は、七つの人格が生み出した理由そのものにある。


 ――――ミランダは近接格闘、コウタロウは気配を殺した騙し討ちといったように、彼らは人格一人一人がそれぞれの一分野に特化してるプロフェッショナルだ。だが、エトーだけは例外だった。彼は、他の七つの人格が持つ取り柄を、一人で全部持っていたんだよ。一つの能力でもたぐい稀なる能力だというのに、全てを兼ね備えてちゃ、当然誰にも止められないわけだ。


 ――――どういうことかって? そこだよ、エトーの特異さは。これには一応、考えられる限りの推論が一つあってね。


 ――――結論から言わせてもらうと、〝他七つの人格は、エトーの力を分散するためのストッパーの役割を担っているんじゃないだろうか〟、ってね。


 ――――エトーを除く他の人格が持つ個性は、元は全てエトーの物だったのさ。おそらく能力だけじゃない、喜怒哀楽や性格も、一個の人間が持てる物を分割し、多重人格を形成した。エトーの力は、一人の人間の範疇に収まるようなものじゃなかったんだ。何故自分の力を分け与えるに至ったのか、それこそエトーしか分からないことなのだろうけどね。


 ――――エトーは他の七人が起こそうとしなければ起きないし、逆に一度起こせば意識がなくなるまで止まらない。理性なく見る者すべてを排除し、皆殺しにするだけのただの殺戮マシンだ。


 ――――まあつまり、何が言いたいかというと。エトーは今回の作戦において、最後にして最強の切り札だ。状況が状況なら、たった一人で場の空気を一変させられる存在だろう。


 ――――出来れば避けたかった事態だったけど、もうこうなってしまった以上、エトーが全てを滅茶苦茶にしてしまいかねない。最悪、あの子達が、敵でもないエトーの手によって殺されるかもしれない。


 ――――……だから、落ち着きなよジェウロ。心配なのはわかるけどね、もう僕達に出来ることは無い。彼らに出来ることは、信じてあげることだけだ。それに、なにもあそこにいるのは、フリークチームと傭兵達だけじゃないだろう?


 ――――なんのための同胞達九十二名ほけんだと思ってるんだい? ネブリナの力があれば、エトーを上手く抑えられるさ。きっとね。



◆◆◆



「Whoooooooooooooooooooop!! Fuck you! Fuck you!! Get lost rat bastard mother fucker!! Yeeeeeeeehaaaaa!」


 

 それはまるで、獣の咆哮のような。

 それはまるで、悪魔の断末魔のような。


 それはもはや声でなく、『音』だった。この世のものとは思えない、

 空気が小刻みに震え、頭が割れそうなくらいの絶叫が轟いていた。


 激しい銃撃音が飛び交う。

 マクシミリアンの言う『the billy』の人格、エトーに襲いかかる実弾。


「Yuuuuuuuuuuuuuuuuuummy!!」


 しかし、エトーは倒した傭兵を盾にし、事なきを得る。

 しかも奪った二丁の銃で応戦していながら、その弾幕をものともしない。


 被弾しのけ反った男の間に一瞬で接近したかと思うと、その顎を流れるような動きで蹴り抜いた。蹴られた男の顔が、身体を置き去りにして背中を見ることが出来るくらいに折れ曲がった。

 銃口から僅か十センチ、ほぼゼロ距離にも等しい近さで、悲鳴をあげる相手の額を撃ち抜いた。確実なヘッドショット。弾を受けた傭兵は即死した。


 全身が飛び散った血で濡れる。俄に立ち上る臭気と熱気の中、恍惚の笑みを作った。


 場は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。圧倒的多勢に対し、エトーはまるで踊るように自在に鉄火場を駆け巡る。

 混沌と混乱の渦中を駆け、飛び、舞った。


 彼は、銃を撃つにしても近接格闘を繰り出すにしても、いちいち一人一人に近づいていた。

 まるで、自らの手に人を殺める感覚を染み込ませようとしているかのように。全身にその熱い血潮を浴びようとするかのように。

 

 一人、また一人と、人間離れした俊敏さで以てして、反面丁寧に堅実に屠っていく。

 一瞬で肉薄し、殺す。また瞬時に接近し、殺す。それはもはや、虐殺だった。

 誰一人として、彼を止めることが出来ない。二十名弱はいた傭兵達も、時間とともに着実に減っていき、今や半数を切ろうとしていた。

 ――――まぎれもない、化物の姿がそこにあった。

 

『――――はっ、はっ、はあっ!!』


 そんな化物のこだわりは、『彼ら』にとって幸運だった。

 背後には、地獄が展開されている。振り向くことすら憚れる地獄が。

 敵からしたら自分達がエトーの始末をしようとしているつもりなのだろうが、彼らフリークチームからすればエトーに対し身を張った『時間稼ぎ』をしてくれているおかげで、幸運にも逃げは時間が生まれたのだ。


『――――走れ、走れ走れ走れ走れ走れっ! もう足が使えなくなってもいいぐらい死ぬ気で走れええええ!』

 

 拓二が走りながらそう叫ぶが、それは他の三人にも言わずもがなであった。

 あれには太刀打ちできる気がしない。敵に殺される状態から、味方に殺される状態に変わっただけに過ぎないのだ。

 

 そしてエトーは、元味方であるその四人を『敢えて』無視していた。


 エトーは、近くの傭兵の腕をあっさりとへし折りながら、こう考える。



 ――――



『――――くっ、邪魔よぉ!!』


 先頭を走るカマタリが、行く手に待ち伏せた人間を軽々と持ち上げて、投げ飛ばす。

 そして、奪った重火器を大きく振り回し、威嚇していた。

 

『それで、ギルのいる礼拝堂ってどれよ!?』

『あの突き当たりの扉をくぐった先の部屋だ!』


 その距離、五十数メートルといったところか。このまま駆け抜ければ、もう十秒あればたどり着ける。

 手を伸ばせば届くような距離。グレイシーと、エレンがすぐそこにいる。

 ずっと、追い求め続けていた存在が。


『――――おい坊っちゃん、ここでアンタと俺とは一旦お別れだぜぇ!』

『はっ!? なに言ってんだいきなり!』


 拓二とメリーの後ろに付いて走っていたジャッカルが、ピタリと足を止める。

 その突然の言葉に、拓二とメリーが立ち止まり、振り返った。


『言った通りだ、俺はあのキチガイを止めてくらぁ。先にあのアマんとこ行って待ってろ』

『死ぬ気か!? あんな敵味方の区別なく乱射しまくってきた奴だぞ! 説得なんて余裕もあるかどうか……!』

『テメエ見くびんなよ。俺様はなぁ、天下の「フェニックス」様だぜ、ヒヒヒッ。俺ァこんなとこで死ぬ気なんざさらさらねーよ!』


 銃声は、今なお途切れることなくやや離れた所で続いている。


『坊ちゃんが死んじまったら、誰が俺様の活躍を吹いて回るんだ? マクシミリアンが気に入ってるアンタと嬢ちゃんを助けりゃ、俺の株も上がってウハウハって寸法よッ』

『……呆れた。アンタ、こんな時でもそんなことしか言えないわけ?』

『いいから早く行けっつうの! 時間はねえ、立ち止まるなってんだよ!!』


 ジャッカルが声を荒げ、目的の部屋へ大仰な仕草で指をさす。 

 その様子を、じっとまっすぐ見つめていた。その瞳に、何ら込み入った感情は見受けられない。

 ただ黙って、ジャッカルを眺めていた。


 そして、数秒程の逡巡の後、拓二は彼に頷いてみせた。


『……よし、行こうメリー。カマタリさんも』

『えっ? でっ、でも……』


 困惑したようなメリーの顔。

 いいの? と言いたげな表情だった。


 戦闘能力がどうこうの以前に、エトーは大きく人間としてのタガが飛んでいるのだ。人間として扱うには大事な何かが欠損しているというか、正気と狂気をはき違えているような、道理も常識も矜持もないケダモノだ。理屈が通じないことほど、怖いものは無い。

 あんな怪物を一人で立ち向かおうなど、自殺行為に等しい。それは素人である彼女でも分かる。


 だから、メリーは戸惑う。これでは、ジャッカルを自分達の目的の犠牲にしているかのようだったのだから。


 だが、拓二はメリーに何も返さない。

 もう一度だけ、行こうと言って、そのままジャッカルの方を振り向きもしなかった。当然メリーも、立ち止まったままのジャッカルを気にしながらも、その後に続いた。


『……はあああ……』


 二人が動き出したのを見て、背を向ける。そばの壁にもたれて、今も聞こえる銃声を音楽でも聞くかのように聞き流した。

 ジャッカルは、大きく息を吐く。がしがしと、半分しかない髪の毛を掻きむしる。ノミが跳ねた。


 握られているのは、一丁の拳銃。武器は、これだけだ。

 

『死ぬ気は無い、か……ひへっ、そうだなぁ。死にたか、ねえなあ』

『あらぁん? あんな威勢良いこと言っちゃって、もう後悔しちゃってるのん?』

『――――んなっ!?』

 

 独り言のつもりだった。

 完全に思いがけない声に、ジャッカルが慌ててその声の主を見やる。


『おまっ、カマ野郎!? ンでここに……!!』

『あら、ご挨拶ねん。相川ちゃん……リーダーにはちゃんと断ったわ』


 言葉遣いに似合わない、筋骨隆々の大男。

 何故か、拓二とメリーの二人に付いて行ったはずのカマタリが、ここにいた。


『テメエ、何で……!』

『応援に来てあげたのよん。いけなかった?』


 しかも、ここから立ち去る気配はない。応戦する気だ、エトーと。

 多重人格達を統合した、真の姿となった『the billy』と。


『てっめえ……ふん、テメエはこういうのに興味ないと思ってたんだぜ?』

『うん? なんのことかしらん?』

『テメエも、手柄が欲しいんだろ? あのガキんちょ二人を身を挺して守ったっつう実績が欲しいんだろ? 分かるぜぇ、俺だって、今日は気持ちよかった。俺と通り過ぎると、正規構成員共がへこへこと隅っこ歩いてたんだ。処女ん中でイッちまった時よりも気分が良かった。テメエも――――』

『ジャッカル、アナタ、背中傷めてるでしょ』


 そうなんだろ? とジャッカルが言い終えるより前に、カマタリが遮った。


『それも流れ弾数発……いくら防弾チョッキもあって、アナタのその能力があったとしても、無茶し過ぎよ。死んじゃうわん』

『…………』

『ねえ、ジャッカル。アナタ、ずっと私達の後ろについてたけど、もしかして私達を庇って――――』

『何が言いたいのか知らねえけどよぉ』


 ジャッカルが頭を振った。

 そして、へらりと表情を崩した。


『俺は地位が欲しい。名誉が欲しい。酒が欲しいし女も抱きてえ。俺は利口だからよ、必要不要の分別くれぇは付いてるんだわ。人間っつのは株みてぇなもんさ。乗るも反るも時期によっちゃまるで違う。今はそのためにあいつらを利用してるだけだぁ』

『つまり、二人は守る価値があると思ってるってことでしょ? そこは、あたしも同じよ。だからこうして、あたしはここに残ってるの。死ぬかもしれないけど、死にたくないけど、ここがいいって思ったのよ』


 カマタリは、ジャッカルの言葉にそう返して破顔した。

 彼自身が言うように死ぬかもしれないという状況下で、しかし全く不安を感じさせないような、確かな活力が宿った笑みだった。


『グレイシーちゃんのことは、もう全部任せようと思ってたのよん。ついさっき、あのマクシミリアンに真っ向から挑んでるのを見た時から。きっと、二人ならなんとかしてくれる……そこも、あたしと同じかしら?』

『フン、しらねぇな……』


 その時、前方から激しい地響きと共に強い熱気と爆風が二人の顔をあぶった。

 二人は慌てて身を庇う。

 黒煙の柱が立ち上り、この回廊を夜の帳よりも暗く包み込む。もくもくと、あたかも地面から噴き出しているかのように、煙はまったく止まらなかった。


『……五対大勢から、二対一、か。この方が分かりやすくていいわよね』


 弾けるように焼ける音と、籠ったような重々しい燃える音。他に耳が拾うのは、ぱらぱらと小石が転がる音だけ。それ以外は何一つとして無い。

 火の粉が飛び散り、石畳の地面を鮮やかな赤色が燃やしている。まるで、炎の水溜りだった。

 焦げた粉塵は構造上そのまま籠ることなく、すぐに上へと逃げていき、上空へと昇って行っている。天へと昇る、煙の川だ。

 あたかも暗幕が上がったかのように、徐々に赤い小火が目立ち始める。


『……ねえジャッカル? 今アナタが二人に感じてること、あたしが一言で言い表してあげる』


 そして、その煙の暗幕から『何か』が覗いた。


 人影だ。一つの人影が、ぬっと姿を現す。

 じゃり、と踏みしめるような足音が、確かに迫ってくる。


『それはね――――「信じてる」って言うのよ。ただの一般人なのに、ここまでたどり着いた二人……相川拓二を、メリー=ランスロットを、信じてるのよ。きっと。だから、今あたし達はここにいる。そして多分、相川ちゃんもそれが分かったから、私達を信じて、何も言わずにあっちへ行ったのよ』

『…………』

『でしょ? 違わない?』

『……何かと思えば、くだんねぇ。俺ァ――――』


 その長い手を垂らし、両手にはボール状の物体をわしづかみにしている。

 ボール状の物体には、長いものがくっ付いていた。まるで、タコの足を彷彿とさせるそれを、だらしなくずるずると引き摺っている。

 しかし、視力の良い者なら、ここで気付くだろう。

 

 その手に掴んでいるものが、火に焼けた人間の頭であり、

 引き摺っているものは、黒こげになって事切れた人間の頭から下の部分であるということを。



『――――俺ァただ、我が身が可愛いだけだ。どこまで行っても、自分が一番なんだよ……クソッたれ』



 カマタリとジャッカルが、ほぼ同時に銃を構え――――

 ――――長い赤髪を垂らし、猫背のように腰を曲げた『彼』は、歯を剥き、顔の下半分を裂いたかのような笑みを浮かべた。



◆◆◆



「はっ……はっ……はっ……!」

『はあっ、はあっ……はあっ……!!』


 逃げ込むようにして飛び込んだ部屋で、俺達は肩で息をし、呼吸を整えていた。

 

『し、死ぬかと……何度も死ぬかと、はぁっ、思ったわ……! はあ、はあ、心臓止まり過ぎて、ぜはー、ぜはー、ショック死しそう……!』

『大丈夫か? 悪い、無茶させ過ぎた……』

 

 メリーは苦しそうだ。

 無理もない。手錠で繋がれている以上、走る時はどうしても俺のペースに合わさざるを得なくなる。

 当然、女のメリーが男の、しかもそれなりに鍛えている俺の全力疾走の速度に合わせるのはかなりの困難だっただろう。

 メリーが遅いとか言う気はない。むしろ女にしてはかなり足は速い方のようだ。正直、よく一度もつんのめらずにいられたものだと思う。

 もし彼女の運動神経が悪く、転んだりしていたらと思うと、ぞっとしない。


『な、何よ今更。あたしのことなんて気にしないでよ。邪魔になってるみたいじゃん』

『あ……なるほど』


 膝に手を突き、上体を屈ませていたメリーが、俺の言葉に対し、顔を持ち上げる。


『いや、その、うん。まあここまで相当邪魔になってんだろうけどさ。それは知ってるけど。でもなんていうか、これ以上……アンタの負担にだけはなりたくない。言いたいこと分かる?』


 上目遣いになりながら、何かを期待するような目で俺を見た。


『ああ。よく分かったよ』

『……ん、よし。そんじゃー……これからどうするわけ?』


 きょろきょろと、俺達は辺りを見回す。


 そう、ここは教会の中でも奥まった場所に位置する礼拝堂だ。

 俺達はその手前側、奥の祭壇を見やると、整然と並べられた長椅子の背もたれ側を見るような形になる。

 静かな場所だ。とても、周りが今殺し合いをしているとは思えない。この空間だけ、切り離されたかのようだった。

 ここに、グレイシーとエレンがいるはずなのだが……。


『……まずは、探索だな。ここの構造を頭に入れて、動き方から脱出経路もろもろを確認し――――』


 その時、微かな音が聞こえた。

 透き通るような高い音の羅列――――美しい音色が流れる。

 この礼拝堂中に響き、壁の中に染み込んでいくようだ。

 

 いや、聞き覚えがある。とある曲の一節だ。


『これ……「きらきら星」……?』


 やがて、音が続かなくなった。

『きらきら星』は、消え入るように、静かに止んだ。


『懐かしいわね。昔、よく貴方にせがまれて弾いたっけ』


 声が、した。

 聞き覚えのある声が。


『私、本当はピアノは全然からきしだったのよ? それまで弾いたことが無かったから、初心者用の本を買って、毎晩練習して……結局、私にこっちの才能は無かったから、弾けるのは今も昔もたったこれだけ。でも貴方は、ずっとこれを弾いてほしいって、そう言ってたわね……』


 いつの間にか、祭壇の脇にあるピアノの前に、一人の人影があった。

 頭上にあるステンドグラスから注がれる月の光が、たなびく銀髪を照らす。


『ギ……ギル……』

『でも良かったわ。メリー、まさか貴方から来てくれるなんて。怖かったでしょう? 辛かったでしょう? もう大丈夫だからね』


 こそばゆくなるような優しい声だと、関係ない俺でさえ思った。

 さっきのピアノで演奏した『きらきら星』が、まだ流れているのかと思うくらいに。

 


『――――さ、私と一緒にいらっしゃい、メリー。姉妹揃って、ケンカせず仲良くね』



 柔らかい物腰で佇むグレイシー=オルコットと、その祭壇に眠るエレンの姿が、月明かりの下に照らされた。


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