第二十八話:作戦開始

 オリバー=ハンディ。歳は二十六、O型。十月生まれのてんびん座、どこにでもいるような善良で真面目な青年である。


 子供の頃から、世に言う正義の味方である警察官に憧れ、それまでの学生生活で何度か転機を迎えた後、大学卒業と同時に警察学校に入り直した。もうすぐ定年を迎える会社員の父と、専業主婦の母、そして三つ年下の弟がいるだけの、取り立てて特筆すべき点の無い人生を歩んできた。


 だが、彼はまだ警察官になって間もない。心身ともに若く、経験に乏しいゆえ、やや狭的な視野からなる思いつきの行動が多かった。


 彼のその純粋な一面は、警官にとってはプラスであり、そしてマイナスでもあった。

 至って人当たりのいい好青年であるものの、いかんせん人を疑うことを知らず、まだまだ未熟であったのだった。


『はあ……やっと鼻血が止まった』


 オリバーは、もらったティッシュで鼻を押さえ、血の付いたそれをポケットに仕舞い込みつつ、そうぼやいた。


 そう、もうお気づきだろう。

 彼は先ほど、一人の少年に顔面を壁に叩きつけられ、手酷く痛めつけられた挙句色々内部事情を吐かされた若手の警官であった。 


『……ああ、くそっ。あいつ……!』


 そして今、あのアジア系の少年の姿や、先ほどまでの自分を思い出し、彼は苛立ちながらも自己嫌悪に陥っていた。

 だが、その実あの少年に対して怒っているというよりも、どちらかというと自分への不甲斐無さを噛みしめていた。

 自分よりも年下の少年に、言いようにしてやられ、何も出来なかった自分を恥じていた。

 

 結局、オリバーは誰にも、自分の直属の上司にも先ほどまであった事を言っていない。

 もちろん、本来ならそんなことあってはならないのだが、それは彼なりの理由あってのものだった。

  

 あの少年は、自分をマフィアの関係者だと名乗った。正確には彼の口からそのように直接的言動は無かったのだが、そう名乗ったも同然だとオリバーは考えていた。


 ネブリナ家といえば、あの『棍棒マフィア』で有名なイギリス暗部の代表格であった。

 その名称は、時のアメリカ大統領、セオドア=ルーズベルトが提唱し、その元となった西アフリカの諺である『でっかい棍棒を手に持ってれば、穏やかな口調でも言い分は通る』という文句で今なお語られる『棍棒外交』からもじったもの。

 ネブリナは、こちらから手出ししなければ直接的害意や危険性は低く、そこら辺のゴロツキやローカルギャングよりも比較的おとなしめな性格を有することで知られ、一つのマフィア組織というよりも、何でもやるビジネス企業のようであるとさえ言われる珍しいケースだった。


 だが、だからこそ彼らはイギリスの一部界隈————ちょうどロンドン警察などからは最も恐れられている。その理由が、先ほど述べた『棍棒マフィア』とネブリナ家が称される理由であった。

 一見紳士のような柔和な顔を取りながら、その手はイギリスのありとあらゆる業界を囲んでいる。武器商会から町はずれの小さな小物売りブティック)。マスメディアに不動産、まさに謙遜も虚飾もなく、信じられないくらいありとあらゆる業界に根を張っている。

 

 そして────警察上部にもその手は既に及んでいる。 


 一部の見方では、今のロンドン警視庁とタメを張れるくらいの力を持っているのではないかとさえ囁かれてさえいる。

 触らぬ神に祟りなし。それだけの幅広いコネクションもそうだが、それらを手に入れる過程を想像すると、表立った事件以外の武力的な介入・摘発行為は躊躇われるというものだ。


 さて、話は長くなったが、当然オリバーもそのことは聞かされ、知っていた。

 ネブリナ家と関わるのは冥土への語り草にする気になってからにしろという先輩刑事の忠告も聞かされていた。

 正義の味方、警官であるとはいえ、彼もまた人間である。

 迂闊であると言えるのは、その少年の言うことを疑いもせずそのまま鵜呑みにしたことくらいだろう。彼を無能と称すのは、少々辛い評価であろう。


 彼が何も言わずにすっころんで鼻血が出たと笑い話としたのは、決して自分のミスを叱られたくなかったからではない。始末書を書くのが面倒だったからではない。

 誰かに話したせいで父や母、弟や友人などの愛する者達に危害が及ぶのを、彼なりに避けようとしたからであった。


 彼は、まだ未熟であった。


 その少年のことを誰かに言ってさえいれば、この物語もまた違った結末を迎えていたかもしれない。



『――――もし、そこの若い警官さん?』



 癖のない、綺麗なイギリス英語だった。 

 まるでどこかのご令嬢のような、閑雅で上品な響きのある声がかけられた。


 その声の赴くまま、オリバーは振り返る。


 まっさきにその目についたのは、傘だった。天候が変わりやすいイギリスには、傘を常備する人間はさほど多くない。だから、その声の主の姿をすっぽり覆い隠すような大きめの傘に、つい目を奪われた。


『少々、道を尋ねたいのですが……お時間、よろしいでしょうか?』


 傘の黒い生地の向こうから、艶っぽい女の声が重ねられる。


『あ、はい、どうぞなんなりと……』


 思わず恐縮し、かしこまるオリバー。

 こんな裏路地に、しかも深夜時間帯に一人の女とはいかにも怪しいと、彼も考えてはいた。てっきり、娼婦か何かの誘いかと勘ぐっていた。


 あいにく、風俗に一度として行ったこともなく、今はまだ捜査中の現場付近の見回りもしている以上、彼の中ではどのようにその誘いを断ろうかという思索が生まれていた。


『ああ、よかった。……じゃあ、こちらにいらして? 地図を持っているの、私の代わりに見てくださる?』


 その傘の下から、そっと右手が伸びる。子供のように小さく、きめ細やかな手だった。


 まるでオリバーを誘うように、その手の平の上で五指が蠱惑的に揺蕩う。


『……分かりました。本官に分かる限りであれば』


 すっと、その女のもとへ近づく。

 それは、もし本当に道が分からず困っているのだとしたら、という彼のお人よしっぷりがそうさせたのであるが、彼女の言うことが嘘で襲い掛かられたとしても男女の力の差があるから振りほどけると考えた上での行動だった。


 警戒はしていた。

 だが、彼はさらに思考を推し進めるべきだった。

 

 


 一歩。


 オリバーが踏み出したその一歩が、次の一瞬を決した。


 次に彼が見たのは、自分の目の前にある濃い人影。あたかも、墨でも塗りたくったようなシルエットだった。

 

 ————いや、目の前ではない。それは正しい表現ではない。



 その影は、

 


『————っ!?』


 自分の身体が引き倒れていることに気付いたのは、体感速度にして数秒を要した。 


 しかし、このような一瞬が左右する『せめぎあい』において、それはあまりにも遅い。


 自分の失態に気付いた時には、その視界は光のない闇が覆いつくしていた。



「モブ警官、乙」



 薄れゆく意識の中、最後にオリバーが聞いたのは、あの女の声ではなかった。まるで別人の、男の日本語。

 だが、日本語が分からない彼には、その言葉の内容を知ることも出来なかった。



◆◆◆



 場所は、再び『the workplace』付近。

 俺達は遠目で店が見える位置に車を停めていた。

 

 流石に野次馬はいなくなり、人員は減っているようであるものの、まだ数人店内の警察の人間がせかせかと動いているのを見た。


「あああ……あたしのお店、すっかり変わり果てた姿になっちゃって……」


 ハンカチを食いちぎらんばかりに噛みしめ、そのつぶらな瞳からは滝のような涙を流しながら、男は言う。

 その視線の先には、無惨に破壊された店の残骸があった。


「ありがとう、今まで本当にありがとうね……」


 そのビッグサイズの指で止めどなく流れる涙をぬぐう。


 まさにマッチョという言葉を見事体現しているこの巨漢は、カマタリと呼ばれている生粋の日本人らしい。


 ネブリナ家と関わる前から、このイギリスで店を構えていたという。今はネブリナ家の庇護こそあるものの、店そのものはカマタリ自身の所有物であるため、今の彼の立場はやや複雑である。

 カタギでもなければ正式なマフィアの一員というわけでもない、俺と似て曖昧な存在。ネブリナ家を一つの店だと例えたとして、俺が臨時スタッフであるなら、彼は差し詰めフロントマネージャーといったところだろうか。


『カマタリ、泣いてる。どっか痛い?』


 そんな彼のそばに、一人の少女が寄り添うようにしてカマタリの泣き顔を覗き込んでいた。


『ありがと……そうよ、とっても痛いの。色々思い出があったなあって思うとね、胸が痛くて痛くて苦しいから泣いてるのよう。およよよよ……』

『胸、痛い? ……まだ鞭も針もしてないよ?』

『……ベッキー、いい? 聞いて? アナタがよくやってる拷問的な意味じゃないからね? これは心のい・た・み』

『? よく、分かんない』


 なんかとんでもないことを言ってる気がするが……。


 ────死なないように、殺されないように。とっても面白いお話をして頂戴?

 ────ね、撃ってもいい? 足だけ、足だけでいいから撃たせてお願い!

 

「…………」


 触らぬ幼女に祟りなし。うん、そっとしておこう。


『……なあ。本当にあいつ一人で大丈夫なんだろうな?』


 後部座席の二人を尻目に、隣の運転席のグレイシーに向き直って話しかけた。


『コウタロウ〝達〟のことですか』

「…………」


 グレイシーだけじゃない、少しでも奴らのことを知る人間は皆、彼(あるいは彼女)の人格一つ一つをまるで本当に生きている一個人のように語る。


 奴は、このフリークの中でも特に異質だ。数人分の生き方や心情が、一つの身体に無理なく共存している。

 例えば多重人格によくある、一つの人格が表に出ている時は他の人格が眠っているなんてことはないらしい。見たもの聞いたものは全て共有され、いつもそばに控えているのだという。

 世界にはこんな人間がいるのか、と思ったところで、俺自身もムゲンループの住人であることを思い出した。


『彼らもプロですから。警察程度に遅れをとるようなことはないでしょう』


 俺の言葉に対し、キッパリと答える。そんな彼女の様子に、奴への心配というものは無さそうだった。


『フリークチームの戦闘の要ですしね。実際、私でも勝てるかどうか』

『へえ、そうなのか』

『はい。それぞれの人格が何かに特化した能力を持っているプロフェッショナルで、それらが一つに集まっているわけですから、単純に万能なのですよ』

『ほー……』


 そういえば、あのカフェで始めてミランダ達と会った時も、何度か人格を変えていた。あれを見るに、かなり汎用性の高い能力と言える。


『特にコウタロウちゃんはね、隠密行動が得意なのよ』


 その時、俺達の会話にカマタリが口を挟んだ。チーンと鼻を噛んでから、続ける。


『力も武術のたしなみも全く無いけれど、気配を消して隠れたり、忍び込んだり、暗殺したりするのが得意なのねん』

『ああー、それで……』


 あの時、コウタロウの気配を全く感じなかったのはそれか。


 なるほど、その場に応じた能力を持つ人格を表に出すことが出来るのか。

 便利なんだな、多重人格ってのは。

 それも、あいつらだけのものなのかもしれないが。


『それだけじゃなく、彼らは……』

『うえっ。まだ何かあるのか』

『────……いえ、何でもないです。話が逸れすぎましたね』

『っておい、なんだそのあからさまなのは。言ってくれよ、気になって仕方ない』


 聞き出そうとしても、グレイシーはクスリと笑うだけだった。


『この話はまたいずれとしましょう。いずれ見ることになるでしょうし、実際に見た方が早いです』


 彼女がそう言い終えたその時、それまで黙りこくって空気となっていた『こいつ』が、口を開いた。



『……ねえ。本当にここに、エレンを助ける物があんの?』



 しんと、場が静まりかえる。

 この場にいる全員(まだ眠りこけているジャッカルを除く)が、顔を見合わせた。


 『彼女』は腕組みをし、逸る気持ちを必死に堪えるかのように、指でこめかみをトントンと叩いている。


『……必ず、「アレ」はあるはずだ。それだけは間違いない』


 俺はなるべく断定的に答えた。

 根拠はある。が、絶対の確証は無い。

 それでも、『こいつ』にあまり曖昧な答えを言いたくもなかった。


 ……大丈夫だ。今までの『流れ』が、まだ死んでいない。その感覚がある。

 道は、ここに続いている。


『でもそれがここにあるっての? 他の場所は?』

『「アレ」を隠す場所は、限られてる。フリークチームと俺が「必ず」知ってる場所を考えるなら、絶対にここだ』

『警察に踏み込まれてるんだから、とっくに見つかって取られたんじゃ』

『俺の考えが正しければ、それはない。レッジがそこまで迂闊とは思えない』

『そんなの、何の根拠も……!』


 分かってる、と頷いて『メリー』を制する。


『まあもし万が一ここになかったら、探すっきゃない。例え警察敵に回しても、「アレ」は絶対必要だ。何としても手に入れる、エレンのために』

『…………』

『そのことはもうあっちで話しただろ?』


 そっと、その『彼女』の方を見やる。



『レッジを信じよう────なあ、メリー』

『……名前で呼ぶな、バカ』



 何故、フリークチームでないメリーまでもがここにいるのか。

 そして『アレ』とはなんなのかを説明するには、少し前の時間まで遡らないといけない。



◆◆◆



「おーおー、主人公みてえなこと言いやがる。カッコイーイ」


 時間は遡り、ボルドマンの家でのこと。


 俺の言葉に最初に反応したのは、コウタロウだった。


「ええっと、相川って言ったか。エレンを助ける? ……ああ、良い響きだよな。敵に捕らわれた女の子を救い出すってんだから、ありきたりとはいえ、王道的だ。俺は王道とかテンプレとか言われる話は嫌いじゃない」


 先程までの興味なさげの態度とは打って変わって、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。見た目女なのに男の声と口調、そして男のような笑みを浮かべているところに、酷くちぐはぐな印象を受ける。


 コウタロウの返しは、俺の考えていた反応とはまるで逆、ガキが偉そうにとてっきり反発されるものと思っていたのに、これは素直に意外だった。

 だが、


「────だがな、その意味をお前、何も分かってねえよ」


 すっと、彼の顔に愉悦の色が消えた。


「百歩譲って、お前の話が全部本当だったとする。とすると、俺達の敵はトップファイブ全員ってこった。マクシミリアンとほぼ同等の権力を持った天上人四人を相手に、おまけで何故かジェウロもついて来る」


 朗々と、彼は今の状況を語り紡いでいく。


「一方俺達は、ボスが瀕死の重傷、その娘が攫われてる。残ったのは上司不在の食いっぱぐれ寸前だけ……これでどうしろって?」

「…………」

「大ボラと昂然は紙一重だ。今のお前がどっちかなんて、教会に通う前の子供にだって分かる。世の中、関わることすら出来ない禁忌ってもんはある。どうしようもない圧倒的存在ってやつがな。エレンを救うのなんて不可能、だ。アニメと現実の区別くらいは付けようぜ主人公くん?」


 やはり、そう簡単に『はいそうですか分かりました』とはならないか。

 実際、彼の言うことは一理ある。


 ……なら、仕方ない。


「……俺は、そのどちらでもないさ」

「あん? どういう意味?」


 意地でもこっち側に引きずりこんでやるよ。


「意味も何も無い────今の俺は、ただの案内人。アンタの言葉を使うなら……|主人公(ロビン・フッド)は俺じゃない、アンタらフリークチーム全員だ」

「はっ?」


 意味が呑み込めず、目を丸くしているコウタロウに、俺はゆっくり説明してやる。


「俺一人で事をどうにかしようなんてとんでもない。おこがましいくらいさ……だってそうだろ、もう既に一度失敗してる身なんだから」


 そう、俺はエレンを助けられるチャンスを逃してしまった。それは、コウタロウにも言われたことだった。


 本当は最初から、心のどこかでは気付いていたのかもしれない。

 俺という存在は、誰かを助けるためにいるわけではない事を。


 思い返せば、痛いくらいによく分かる。


 マクシミリアンのことも、レッジのことも、エレンのことも。

 何度も、自分の手に届かない所で何かが起こっていた。そんな気は無かったのに、まるで自分は助かるように、観客席で見届けるかのようにその時の彼らとの距離は開いていた。


 だから言う。。物語の主人公達のように、誰からも進んで協力されないし、特別慕われもしない。 都合よく俺個人を無償で助けてくれる味方がいるわけでもなければ、気に入られて力を貸してくれる奴がいるわけでもない。

 

 俺はあくまで蚊帳の外。出来るとすれば、舞台の役者に大向こうを掛けることくらいだ。


「俺じゃ、エレンを救えない────。俺はそれを、見守るだけでいい」

「おい、おいおいおい!」


 流石の彼も、その語気は荒い。

 そりゃそうだ。

 


「ふざけたこと抜かすなよ? そりゃお前、俺らに厄介事押し付けてるだけじゃねえか! トップファイブだとか世界恐慌とか冗談じゃねえ、俺〝達〟だけでも逃げてやるぜ。日本にとんずらこいて、アキバ行ってメイド喫茶でニャンニャンしまくってやる!」

「え、その表現古っ」


 いや、まあメイド喫茶云々はさておき。 

 俺〝達〟と言っているところから、どうやら他の人格達もその意見で統一しているといったところだろうか。


『あのー……私、日本語は不慣れなもので。今、一体何のお話を……?』


 いきり立つコウタロウを見て、グレイシーがきょろきょろと俺と彼に何度も視線を彷徨わせる。

 あいにく今は、そっちに構ってやる暇は無い。


「……そうか、怖気づいてエレンを見殺しにするのか。自分のボスの娘を」

「無理難題を諦めるのと見殺しは断然違うね。流石に相手の桁が違う。マフィアってのは危険ばっか犯すジャンキーの集まりじゃない。むしろ無理は禁物、寿命を縮めるだけだ。例え他のチームでもお前の面にエールビールぶっかけてたと思うぜ」

「ふうん……そんなもんか、お前らの言う『義』ってやつは」


 すっくと身体を起こし、立ち上がる。この場にいる全員が、俺に視線を集中させている。

 


「でもさあ……少なくとも一人、エレンを見殺しにしそうにない奴がここにいるぜ?」



 そして、おもむろにリビングの扉に近づき、開けた。


『────あっ!?』


 そこには────


『メ、メリー!?』

『…………』

 

 俺達の会話に聞き耳を立てるような仕草のまま、メリーがそこにいた。

 いるような気はしてた。あのじゃじゃ馬が、誰かに大人しくしてるわけないと思った。


『な、何よ? あたし悪いことしてないわ。何も聞いてないし、ってかたまたま……そう! トイレ行こうとして通りかかっただけで』

『その格好で聞いてないはないだろ……』


 そもそも、会話といっても俺とコウタロウが日本語で会話していたわけで、ほとんど何も分からなかったんじゃないか。

 ……まあその方が、俺としては好都合だがな。


『それで、一体何の話? あたしにも聞かせなさいよ』


 あっさり開き直りやがった。

 こいつ、ある意味大物かもしれん。ってか、既に大物の娘だったわ。


『あっ、もしかしてエレンの話? 皆で助けに行くのね!?』


 すると、まだ何も言っていないのに、合点がいった、とばかりに手を叩くメリー。

 目の端で、コウタロウが嫌そうな顔を浮かべたのが見えた。


 もう次に、メリーの口から出る言葉が分かる。コウタロウも、そう思ったのだろう。

 


『それ、あたしも混ぜてよ!』



 ぱあっと花が咲くかのようにその顔が明るく彩られ、興奮している様子でメリーはこう続けた。

 ほらやっぱり。分かりやすいったらないな。


『メリー……』


 そんな彼女の明るい顔に当てられたかのように、グレイシーは沈痛そうにわずかに目を伏せた。


『……アナタはいいのよ。これは、私達だけの問題で────』

『あたしだって関係者よ、聞くだけならいいじゃない!』


 その様子からすぐに自分を避けようとする意図を察したのか、メリーは怒ったかのように声を荒げる。

 メリーも、心配してないわけがなかった。

 ただでさえ普通の人間とは違って足を悪くしている妹の安否が、姉として気がかりなのだろう。

 その気持ちの強さを、言葉の節々の語気に感じた。


 しかしグレイシーもまた、あまりメリーには自分達の世界にいて欲しくないのだろう。

 グレイシーはメリーの事となると、それまでの彼女自身の雰囲気を一変させる。だからそれがよく分かる。

 今まで素性を隠していたのも、それはメリーを思っての事に違いない。


『ね? ギル、いいでしょ?』

『……聞いてメリー、あのね』

『────メリー、一つ訊いていいか?』


 だからまあ、申し訳ないとは思う。


 


『名前で呼ぶな。っていうか、だから何でアンタは良くてあたしは駄目なのかそこんとこ────』

?』


 空気が固まった。

 

 カマタリが息を呑み、コウタロウは目を細める。ベッキーというらしい女の子は、コテンと首をかしげている。

 メリーと、そしてグレイシーは目を見開いてこちらを見ていた。


『……ほ、本当!?』

『ああ、本当だ。────


 ────そう、あの時の、ほんの一瞬。

 車を追いかけ、手を伸ばして、指先が届こうとするまさにその一瞬のこと────


〝実は、俺は車に発信機を取り付けることに成功していたのだった〟。


 正確には、バックライトのすぐ横にあるとっかかりのある窪みに置いてきたと言った方が正しい。

 隠さずにセットする分には、マグネット式の物なら一瞬で済む。おそらくは、もうその存在にも気付かれていることだろう。

 だが、別にかまわない。ああいう物は、車が走った道筋だけじゃなく、破棄された場所も時間も分かる。そこを中心に範囲を絞っていけば、エレンのいる場所に検討をつけることが出来る。


『信じてくれ。マフィアボスの娘に、嘘は吐かない。そうじゃなくとも、俺だって、エレンを助けたいんだ』

『……へ、へえ。意外ね。アンタ、あの子のことなんかどうでもいいと思ってたわ』

『エレンは、初めてイギリスで出来た友達でな。友人を助けたいと思うのは、当たり前だろ……?』


 我ながら、まるで悪魔のような誘いの口上がすらすらと頭に浮かび上がる。メリーを釣るための台詞回しが、手に取るように分かる。

 不思議なもんだ、今はかなり頭が回る。


『俺はエレンを連れて帰る。絶対に、例えそれで俺の方が死に目に遭ったとしてもだ』

『…………』

『無理することはないし、怖いと思うのも当たり前だ。俺だって怖い。死ぬかもしれないし、出来れば行きたくない。エレンじゃなかったら、無視してたさ』


 聞く者からすれば、実にわざとらしい間を挟んで、静かに告げる。


『生きて帰れる保障は流石に出来ない。会える事なく撃ち殺されるかもしれない……それを踏まえて、もう一度聞くぞ。────メリー、お前はどうする?』


 ────この言い方なら、絶対メリーは食いつく。その自信がある。

 敢えて困難さを先に話すことで、むしろこいつは、このままではエレンに永遠に会えないと考えるタイプだ。

 逆に言えば、それだけの恐怖と立ち向かえば、必ず会えると信じ込むタイプ。ドラマチックな展開を現実に持ち込みたがる人間だ。

 生憎、言葉以上に現実は厳しく重い。良くて二割。エレンと会える確率があればいい方だろう。 それ以外の八割は、ただエレンを見ることなく死ぬ可能性じゃない。《《エレンと会えずに惨たらしく死ぬ可能性だ》》。


『アイカワさん、貴方────!』


 非難めいた目で俺を見るグレイシーに、こっちからも睨み返し、黙殺する。

 黙ってろ、と。


『……アンタのことは、正直まだ気に食わないけど』


 そして、メリーがそれに答えた。


 答えは、当然イエスだった。


『オーケー。あたしも付いてったげる。……ちょっと、アンタを見る目が変わったわ』

『……そりゃどうも』


 プラスの意味でそう言ってくれたんだろうが……お前にゃ分からないだろうな。

 俺はお前を、利用しようとしているだけなのに。


『メリー、考え直して……』

『無駄だよ。グレイシーさん、俺よりこいつの性格知ってんだろ? 一度言った事を撤回するような奴なら苦労はねえよ』


 俺の言葉に、冷ややかな視線で返すグレイシー。


『貴方……わざと口車に乗せましたね』

『さあな』


 それを全く意に介さない俺は、なかなか悪い奴だ。

 改めて、コウタロウの方へ向き直る。


「……さて。聞いてたか、今までの流れ」

「……ああ」


 さて、俺はこのやり取りで、この場の何人を敵に回してしまったのだろう。


「やってくれたな、てめえ……!」


 グレイシーだけじゃない────コウタロウも、俺を咎めるような形相で睨みつけていた。


「知らないね。俺はただの案内人。来たい奴だけ来ればいい……けど、このままでいいのか?」


 そんな彼に、俺はにこりと笑いかけてやった。


?」

 

 これは、一種の脅しだ。

 俺とメリーだけでエレンを助けるのは、何があったって不可能だ。

 先の二割でエレンに会える確率(それも、こちらの命の保障は無い上、俺の個人的な推測)は、彼らフリーク達が一緒に来ることが条件だった。


 だったら、逃げられないようにすればいい。

  

 エレンを連れて行かれ、メリーまで見殺しにしたとなれば、フリークチームは自分達のボスの娘を二人、手も出さずに殺したことになる。

 ネブリナ家は、義を重んずる。みすみすメリーまで見殺しにした人間を、ネブリナ家が許すわけがない。例えしばらくは逃げおおせたとしても、いずれは始末されるだろう。

 

 つまりこいつらはもう、俺達と共にエレンを救出しなくてはいけなくなったのだ。

 自分が殺されないように、メリーを守るために。


「何が案内人だ……てめえ、ろくな死に方しねえよ」

「ろくな生き方してないもんでね。ま、エレンを連れて行かれた責任、ここで取ってもらおうか」


 それだけ言うと、この場を見回し、全員に告げる。


『時間はあまり無い。俺と来る奴はすぐに出発の準備を』

『一体、どこへ……?』


 グレイシーが尋ねた。


『まずは、発信機と連動しているパソコンを見つける。────レッジが残した、最後の手がかりだ』



◆◆◆



 とまあ、こういうわけで、メリーはいわばフリークチームを釣る餌としてここにいる。

 俺の理由で巻き込んだと言えばその通りだが、どちらにせよメリーを一人では放っておけない。俺達と共に来る方がまだ安全と言える。


『……私、少し怒ってますよ。アイカワさん』


 グレイシーが、ムッとしたふくれっ面で言う。小さな声だった。

 かれこれコウタロウが『the workplace』に潜入して、十五分が経った。仮眠ということで、メリー達後部座席の四人は寝息を立てている。


『メリーを巻き込んで……そんなことしなくとも、私はお供しましたのに……』

『すんません。フリークチームをその気にさせるには、これしかないと思って』


 あの時は寝ていたが、起きていたら、ジャッカルも果たしてエレン救出に乗り出していたか分かったもんじゃない。

 いずれにせよ、結局こうするのが一番なのだ。俺達は一蓮托生、死ぬ時は一緒だ。


『とにかく、パソコンだ。ちゃんと見つけてくれればいいけど……』


 話を変え、言葉を続けようとした。

 その時、こんこんと運転席の窓から手が覗き、軽く叩かれる。


 俺達は振り返った。

 が、そこにいるのはコウタロウではなかった。


 少し逡巡してから、グレイシーは窓を開けた。

 

『────君達、ここで何してる?』


 壮年期を過ぎたくらいの、いい歳をした警官だ。ずっと車を停めていることに不審がったのだろうか。


『……人を待っています』


 グレイシーが答えた。


 ごくりと息を呑んだ。

 冷や冷やする。何て言ったって、ここにいるのは皆マフィアの一員だ。警察を相手にするのは、やはり緊張する。


『人? こんな時間に?』

『白ラインの交通法規は守っておりますが』

『ふぅーん……あっそ』


 じろり、と俺達に視線を向ける。


『ま、いいや。それより、おたくら。向かいのバーで強盗があったのは知ってるか? ほら、あそこ』

『いいえ、存じませんでした』


 ぬけぬけと、警官の質問に彼女はそう答えた。


『本当か? 結構派手な壊れっぷりなのに』

『ええ、まあ』

『…………』

『…………』


 怪しまれている、のか? 実際、事件を一番よく知ってる張本人達を乗せているのだから、この警官の見る目は間違ってないわけで。勘にしたって大したもんだが、今ここにおいては面倒だ。


 厄介だな、一体どうすれば……。


『……もう少し、おっちゃんの話に付き合ってもらうよ。なに、すぐおわ――――くぺぇっ!』


 突然、紫電が走る音が聞こえたと思ったら、その警官は奇声を上げ、泡を吹いて倒れ伏した。



『ごめんあそばせ、警官の殿方』


 

 女の声。聞いたことの無い口調と声質だが、俺はその人物に心当たりがあった。


『……コウタロウ、か?』

『いいえ、私の名はマキュリー。マキュリー=リートンです。どうかお見知りおきを、アイカワ様』


 女は、そう挨拶して、片手に持っているスタンガンをポケットにしまった。

 今の彼女は、自前の赤い髪を三つ編みにして纏め、肩に置くように垂らしている。ミランダの時はそのまま髪をくくらなかったり、コウタロウは髪全体をオールバックのようにうしろに流し、ゴムでざっくばらんに留めていた。

 なるほど、他人が見ても、髪で判断出来るようにしてあるのか。


『パソコンは? パソコンはあったか?』

『……ええ。アイカワ様の仰る通り、ございました。地下室のワインラックに隠すように』


 それを聞いて、まず一番に、ほっと息を吐いた。


 よかった。レッジの意志は確かに受け取れたのだ。


『地下室は店の奥、倉庫の荷物棚の下に隠れて出入口があるのよぅ。だから、気付かれなかったのねぇん』


 後ろから、マキュリーの言葉に答えるように、カマタリがそう言って起き上がった。


『カマタリ様。お久しぶりでございます。マキュリーでございます』

『お・ひ・さ・し・ぶ・りぃ~ん! 元気してた?』 

『はい。お話は中で伺っておりました。エレンお嬢様を助けに行くとか』

『そうなのよお~、ま、私はね、もとからそのつもりだったけどさぁ。ねね、また今度出てきたら、一緒に美味しい物食べに行きましょうよ』

『ええ。ぜひ』


 キャピキャピと話し合う二人はさて置いて、俺は受け取ったパソコンを立ち上げた。グレイシーが、横から覗き込んだ。

 発信機のページは、すぐに見つかった。全部英語なのが面倒だが。


『よし、あった……発信機のIDとパスワードは登録済み。このパソコンが欲しかったんだ……これならすぐに検索を────』


 その時、デスクトップに表示されている、『to begin with (はじめに)』という題のワードアイコンが目に留まった。

 それを開く。暗号化も何もしてなかったから、本当に何の気無しだった。


『っ……!?』

『……こ、れは……っ』


 そして、そこに記されていたものは────。



◆◆◆



 場所は、どこかのとある高層ホテル。

 

 イギリスのロンドンを上空から見下ろせるその一室に、『彼』はいた。

 窓際で、ついとあおるそのグラスの中身は、ロマネ・コンティ。軽く揺らすと、まるでグラスの中で踊るかのように、その赤はうごめく。

 この日のためにずっと取っておいた、珠玉の一品だった。


 じき訪れる、記念すべき祝祭の前祝いとして、そのワインを掲げる。


『……マクシミリアンは瀕死。その厄介で有能な手下は葬り去った。エレン嬢はこちらの手中にあり、ネブリナ家内部はガタガタ。事が起こるまで、もう奴らはまともに機能するまい』


 最後の一滴まで、そのグラスの中で舞う赤色の液体を、自身の身体に滑らせるように取り込んだ。


『……だが、一匹。ネズミが這い回っているようだな』

 

 マクシミリアンが呼び寄せた、正体不明の人間部外者。それが暗躍している。

 既に、エレンの車からは発信機を発見したという報告を受けた。それは、フリークチームの誰かではありえない。それ以外の何者が仕掛けたものだ。


 それが、『彼』にとって唯一の不確定要素であった。


『……くだらん。今更、何をしようというのかね』


 部屋に、誰かがいるわけではない。

 だが、『彼』はその正体不明の『客人』に向けるように、そっと静かに尋ねかけた。


『────もうまもなく、世界は「生まれ変わる」というのに』


 この高さから見るイギリスは、まるでこの世のあらゆる宝石を詰めた宝箱の中身のように美しい。

 

 窓ガラスに映った自分の顔が、一瞬だけぐにゃりと歪んで見えた。

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