第九章 洗礼者の黄昏

 西空には、夕焼けの残滓ざんしがあった。

 カモの小さな群れが白い腹を見せて、ガアガアとねぐらへ飛び去っていく。

 宵闇と夜の空隙――陽の沈みが遅い、夏の黄昏時トワイライト

 今しも昼夜のに乗じて、逢魔の宴がさかんであった。

 闇を透かして銀縁のメガネを閃かせた男が、皮相に優しげな表情を浮かべて、冷えきった狂宴舞台の口火を切る。

「結城ひかるさん、ですね。この街にいらっしゃるとは。たいそう腕の立つ祈祷師きとうしであるとか……」

「ほめことばと受け取っておくよ。そういうあなたは、見たところ神祇院じんぎいんのお役人だね。なにを企んでいるのか知らないけど、この子たちに関わるのは、よしてくれないかな?」

「みなさんそろって人聞きの悪いことをおっしゃる……私は救いの手を差し伸べているつもりなのですよ」

「見解の相違というやつかな?」

「でしょうね……。あなたの〈憑き神〉が、状況を打開できるというのなら……お任せしてもい」

「ええっ⁉」

 叫ぶ少女たちに圧倒され、会話はブツ切りになった。

「結城さん、も……⁉」

「〈神懸かり〉なんですかあ⁉」

 良子が、はっとした顔で菊花を見たが、向き直って結城へ噛みつき、

「あなたが、何でも誰でも、構いません! 菊花を助ける方法があるのか……それを聞きたいです!」

「それはワケないよ、良子さん」

 こともなげに言った乱入者は、

「ただし、」

 と言葉を切って、両肩に手をそえて立ちあがらせた。

「その〈中成り〉はやめて、前の形態に戻すんだ」

「せっかくのに戻すんですか? これ、軽くて速くて気に入ってるんですけど……」

「自分自身が惜しかったら言うとおりにしたほうがいいよ。最後の段階に……〈本成ほんなり〉になれば、それは〈依り代〉の人格崩壊を意味する。君は自分を失うことになるからさ」

「自分を……?」

「それとも君は、あの子に……菊花さんに、どこまで自分を捧げることができるのかな? 犠牲は少ないほうがいいでしょう?」

「あたしが、どこまで……?」

 結城は眉根をよせて、困ったような顔を浮かべると、さとすように続けた。

「君は自分で思っている以上に、危険な状態に身をおいているんだよ。最後の一線を越えるか越えないか……どこが壁なのかは、その変身を遂げた者ならわかるはずだ。内奥の叫びに応じるまま、心まで〈犬神〉に乗っ取られたくなければ、その形態は戻したほうがいい」

「菊花のためにできることなんて、あたしには、無い。けど菊花を助けられるなら、あたしは死んでもいい」

 きっぱりといい放つと、戦意を取り戻した獣の脚が地面をつかみしめた。

 放心したように、菊花が立ちすくんでいる。

 いよいよ苦笑した結城は、切れ長の両眼を引き締めると、やおら緊張をほぐすように首を回し、その勢いで菊花を正面にするや、背中越しに、

「勝負は一瞬でつくよ。君はあの忌々しいにアタックするんだ。ただし傷つけちゃダメだ、わかってるね? あいつを引きつけてくれればいい……やれるかい」

「上等ですっ‼ 信じますっ‼」

 ――その接近は神速だった。

 瞬く間に菊花の眼前に迫った挙動を、目に留めたものはいない。

 朱塗りの皿を、両腕に待機させていた〈皿数え〉も、その円盤を放り投げるのが精一杯だった。

 良子の鼻先へ飛んだ一枚は、力まかせの素手で弾き返された。

 もう一枚は――。

 もう一枚は結城の手前で、真っ芯から、落下した。

 結城は、右腕をつきだして静止している。

 その肩先から上腕にかけては尋常だったが、前腕は人の形から大きく逸脱していた。

 ひとことで言って、それは巨大なハサミだった。

 前腕部を構成する主たる骨格――ならんだ尺骨しゃっこつ橈骨とうこつが、筋肉もろとも肥大して、さながらくろがねのように形質を変えている。

 前肢の先も、本来あるべき手指ではなかった。

 手首から先には一対の鉄柱のようなはがねが伸び、先端は鈍く光るゴールドの刃紋を持ったハサミ――一般的な洋バサミではなく、クワガタ虫の頭部のような和バサミ――が、切っ先を閉じて静止しているのだ。

天牛てんぎゅうか……こいつは珍しい」

 我知らず、蟇目は感嘆を発していた。

 なめらかに踏み出した結城は、すべるような走りで菊花の背後にまわると、

「その覚悟に、僕は応えられる!」

 メイド服をはさんで、犬神の少女と、うなずきあう。

 明らかに対応にまどう皿数えに向かって、良子はその身をさらけだすように跳躍すると、同時にハサミの白刃を構えた結城も跳んでいた。

 回転するノコのような、陶器の攻撃を受け流しつつ、獣の耳は震えた。

 研ぎすました金属の擦れる音とともに、

御髪みぐし下ろしにて、憂いを落とす……」

 澄んだ響き。

「……われは、よろずの神を断つ者なり!」

 飛び交った二人が着地したとき、パサっと乾いた音をたたて地面に落ちたものがあった。

 それは二つしばりにしていた菊花の、右の一房だった。

 栗色の房は、結わえていた赤いリボンごと切断されて、転がっている。これを赤子をだく母のように愛おしげに拾いあげた結城の指は、もとの繊細な手先に戻っていた。

 出現したときと同じ、ゴボゴボという不快な音とともに、無念を浮かべた皿数えは、しだいに依り代の体内に引きこまれ、やがて潮が引くように見えなくなった。

 荒ぶる心を髪とともに落とされ、ひと呼吸おくと気を失い、つっかえ棒をはずしたように倒れる背中を、良子がドっと抱えていた。

「なんたる手荒てあらな神送り……いや〈髪切かみきり〉と呼ぶべきですか……」

 傍観をきめこんでいた蟇目から、称賛がもれた。

 すでに夕闇は、完全な暮夜ぼやに時をうつしている。

 蟇目は相変わらずの引き際の良さで、闇に溶けこむと、

「ですが〈災厄〉は避けられません……ご用心めされ……」

 残響が、夜空に踊る。

 濡れた上天が、西の空に宵の明星を飾っていた。

 


「本来、斎戒沐浴さいかいもくよくとは厳格なもの。ですが、決斎けっさいなく御前みまえに座ることをお許しください。これより、鎮魂おおみたまふりの神事を執りおこないます」

 照峰あかるは祭壇にぬかずくと、厳かに宣言した。

 すっかり陽も落ちた、拝殿のなかである。

 向きなおった巫女の背後には、白い幣帛みてぐらをめぐらした祭壇、祭壇から拝殿の扉にかけて、板張りの床に緋毛氈ひもうせんが敷かれている。

 布の中央には、らせんに編んだイグサの座布団に、眼を閉じた菊花が良子にささえられていた。

 良子の変身は解かれ、右腕にはハンカチが巻かれている。

 円盤によって受けたキズだったが、車中で結城に応急手当をしてもらったあと、出血も痛みも止まっていた。足のうらの肉球に刺さった破片は、にわかに盛りあがった肉が追い出したようだ。

 依り代となってからの良子は、疲労もキズも、回復が早い。

 祭壇には、すでにお神酒みきや鏡餅、あずき飯といった神饌しんせんが供えられ、拝殿の四隅には提灯の代わりに、高脚たかあし御神灯ごしんとうに点されたロウソクの明かりが、三人の顔をオレンジ色に染めていた。

 つい先ほど――。

 ガコガコときしむサーフブルーの軽自動車が巨大な鳥居に横づけされ、降車した良子は、長い手足をおりたたむようにいた友人をお姫様だっこして鳥居をくぐった。

〈照峰神社〉と墨書きされた、四角い扁額を見あげたままで、荷下ろしを助けたあとの結城は立ち尽くしている。

 見かえる視線を感じたのか、ややあって結城は身じろぎしたが、遠く森へと視線をおくっただけだった。

 良子が拝殿を正面に見ると、そこには巫女装束に身を包んだあかるの、怪訝な顔があった。

 電話でざっくりと事情を伝えたつもりだったが、あらためて思いかえすと、結城について説明していなかったことに気づき、

「あ、この人は……」

 釈明のような口をひらいても、あかるはまるで「眼中に無い」という様子で、白染めの髪を凝視していた。

 結城の薄い唇が、なにごとかささやいたように見えたのは錯覚だろうか。

 その唇が、良子の目には、

「たのむ……」

 と動いたように見えた。

 だが、パスンパスンと心もとない吹きあがりを響かせて、去っていく白屋根の車に向けて、

「にいさん……?」

 かすれた声を、すれ違った良子は確かに聞いたのだ。

 それから拝殿に入って、三人が儀礼の座につくまで、良子はあかるとひと言も交わしていない。

 疑問がうずを巻いて、なにから質問すべきかわからないのだ。

 ここへ来るときは、いつもそうだと言ってもいいのだが――。

 端座した巫女は、細い指を祈りの形に組むと、腰から上をまわす、ゆるやかな挙動で円を描きはじめた。

 かたわらにはいつの間にやら、かの〈琴古主ことふるぬし〉こと八橋やつはしが控えて、以前のトボけた顔はどこへやらの霊妙な面持ちで、背中の十三弦をかき鳴らしている。

 おどろにふり乱した髪が、器用に琴爪ことづめを引っつかんで爪弾く、こちらもあくまで耳ざわりのよい涼やかな演奏であった。


 ――ひふみ よいむなや こともちろらね

 ――しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか


 魔をはらう歌、〈ひふみ祝詞のりと〉を奏上する、あかるの声音は悠然として、聞きいる良子のまぶたをとろかしていった。

 遠くに、明日からの街をあげた祭典、〈星祭り〉の前夜を祝って歓声が上がっている。しかしどよめきは石づくりの境内と、これを囲む森に吸いこまれて静寂が揺らぐことはなかった。

 御神灯に照らされた三人の火影が、巫女の起こす微風に伸縮して、踊る陰影に囲まれた拝殿内は、暗夜に浮かぶ回り灯籠のように、よろめいた。

 遠のく情景のなかで、意識は幽玄に誘われていく。

 かすかな光が部屋を満たしていくのを感じ、


 パシャン――!

 と、踏みこんだところから、水音が撥ねて、彼女はようやく目を覚ました。

 見わたす限りの水平線が、天と地の境界を、おぼろにしている。

 空は冴えて、透きとおる青さは銀河の星々をも、その胸中におさめておだやかだった。

 星を背景にして、一羽のひばりが高く鳴き、どこまでも高空を飛びわたっていく。

(スニーカーが濡れる……)

 良子はそんなことを気にしながらも、空を映す海面を歩いた。

 これが夢中の光景だという認識はあったが、と言って明晰夢でもない。例えるならば、慣れぬ旅先で列車を乗り過ごしたような、ふわふわと浮ついた感触だった。

 陸はすべてが水におおわれてしまい、どこにも島はおろか影すら見いだせない。

 鏡のような水面みなもを、映りこんだ空の上を、赤いスニーカーが踏むたびに、

 カンっ――。

 という澄んだ残響。

 それとともに波紋がひろがっていくのを、ぼんやりと眺めつつ、歩みつつも、あてど無く。

(あたしは、なんで歩いてるんだ……目的があったはず……だけど)

 空を越えた先には、茫漠とした、しかし濃厚な青さを放つ神秘がひろがり、良子はその果てしない領域に向かって歩んでいくかのようだ。

 濃紺をたたえた空の一角に、亀裂がはしって、

「あ、流れ星……」

 知らず、声が出た。

 強がる者は、本質的には寂しがりである。であるから、このような一人きりの環境に耐えるには、無言では通せないのだ。

 声は無限の空間に、吸いこまれて消えた。

 孤独はすぐに解消された。

 通学の距離ほども歩いたあたりで、ぼんやりと白く、かげろうが立っているのがわかったのだ。

 スニーカーに透明な水が撥ねるのもかまわず、

 カンっカンっカンっ――。

 透きとおるような足音を響かせ、走った。

 立ちあらわれた男に、微笑を浮かべたその顔に、見覚えを感じながらも、

「どなた…………?」

 薄い狩衣かりぎぬの男は、屈託なげに笑った。

 凪いだ海に、水面まで届こうかという銀の髪がゆれ、かたちのよい眉が笑っている。

 ほっそりした、紙のような白い顔に、切れ長の瞳は彼女を見つめるのか、かなたへ視線を投じるのか、見通すまなざしだった。

 透き通る声が、

「……だれか、と言ったのかい。そんなことも知らずに、を持っているの?」

「それ……って、これ……ですか?」

 スカートのポケットから取り出した桜模様のお守りは、温かく手のなかにあった。

「そうさ」

「……あなた……誰なんですか?」

「そうだな……私は欠片かけらなんだ」

「カケラ、ですか」

「そう、満たされぬ欠片だ」

「満たされない……?」

「三十年に一度だけ、私は仲間たちと再会する。それまではただの断片にすぎないのさ」

「そんなに……長くひとり? あたしなら耐えられないな」

「そう決められているからね」

 包みこむ声音に誘われ、良子は白衣の男に歩みよった。

 白魚のような手が伸びて、キズだらけの指に触れたとき、良子は気恥ずかしげな表情を浮かべて身を引こうとしたが、男はそれを許さず小さな背に手をまわしてを引きよせた。

 力強い腕に抱えられたとき、比喩ではなく、良子は一匹の子犬になっていた。かすかに尻尾を震わせる黒い柴犬に、男は苦笑すると、鼻先にくちづけして水面におろした。

 再び、赤いスニーカーが透明な液体を踏むと、胸の鼓動があふれたように、視界の果てまで水紋が広がっていった。

「あなたは、ずっとここにいるんですか?」

「私は、あそこに」

 男は、はるか上空に視線を振りむけると、懐かしげに目を細めた。

「そうなんですか……じゃあ、ここはどこなんですか」

「ずっとここにいるのは、むしろ君さ」

「え……?」

「ここは程よく清濁せいだくのある、良いところだ。気鬱きうつを忘れられる、なにしろ箱は退屈なんでね」

「箱……ですか」

「さあ、来て」

 微風のように良子の腰に手をまわすと、男の足が浮かびあがり、水面を離れかける。

 しかし良子はかたくなに、その場にとどまると、眼下の水中をのぞきこむしぐさで強引な腕を振り払った。

 幾層もの海流をへだてた向こう――最奥の中心に、一糸まとわぬ姿でヒザを抱える、見慣れた少女を発見したからだ。

「……あ……! あの子を! あの子が、あたし、彼女を助けたいんです……けど、あの子の名前……」

「やっと望みを言ったね……。では聞くが、君は彼女のために、なにを犠牲にできるんだい?」

 良子は下を向いてだまった。口ごもったのではない、こみあげる笑いを押しころすのに必死なのである。

 男はとまどって、

「なにを、笑う?」

「だって……あっは……あの人と同じことを聞くんだもん……!」

 余裕を取りもどした良子は、キッと見かえすと、

「あたしのすべてを」 

「よかろう、では……」

 男が歩みよったとき、ゴボゴボと、あの嫌な音が聞こえてきた。

 汚濁は水平線の果てからとどろき、瞬く間に黒い波が囲むと、深奥に見え隠れしていた裸身をも、かき消していった。

 男の腕が良子に伸び、

「さあ、こちらへ来なさい」

「目を覚まして……菊花!」

 その時――天を割って叱咤しったの声が響いた。

「やめなさい! 若日子わかひこ‼」

 男は、バツの悪そうな表情を浮かべると、うちから発して閃く光に溶けて、すぐに見えなくなった。

 良子の体は重油のような暗黒に取りこまれて、身動きひとつできぬままにヒザから胸、頭を飲みこまれて――。


「は……!」

 かすかな水音が、拝殿にこだましている。

 夢幻から覚醒した良子は、室内を見まわした。

 両手に、菊花の体をささえたままだ。

 友人から伝わるぬくもり。

 わずかにあたたかいポケットに気をそらしたとき、良子は垣間みた幻想を忘れた。

 あかるの詠唱は止まっている。

 琴の余韻がパタリ、と止んだ。

 やがて、半眼の巫女が焦点の合わぬ双眸を薄くひらいたとき、最初の兆候があらわれはじめた。

 あかるの背後には祭壇へと続く短い段があり、すぐ上には真ん中をつまんだ紫幕が下げられている。

 供物台の奥に収められた小さな白木の扉の隙間から、針のようにするどく冷ややかな燐光りんこうがもれだしているのを、良子は見た。

(気のせい……じゃないよね。けど、この光……どこかで……)

 はじめは目を見ひらいていた良子は、じきにまともには前方を見られなくなった。

 もれだした光が力を増して、まごうことなき一条の輝きとなって満ちると、寄りそう二人の影を壁の羽目板に焼きつけるほど強くなる。

 そう、あかるの影はそこには無い。

 あかる自身も、青白く発光しているからだ。

 いまや巫女は、己の意思を持たぬ〈依り代〉と化していた。

 白衣と赤い袴を透かして、光で構成された力が顔をのぞかせる。

 良子たちから、三歩ばかり先。

 あかるの肉体からもれでる光はやわらかに、力強く、徐々に勢力を増して四十畳ばかりの拝殿を押し広げるように膨張すると、一対の腕と頭部のような光が出現した。

 その顔にあたる部位が大きくアゴをひらくと、良子は思わず絶叫をもらそうとするおのれの口を両手で押さえ、ついでささえていた菊花が倒れそうになるのを、あわてて引き止めた。

 あかるの〈憑き神〉――。

 いや、照峰神社の祭神の一柱である〈天若日子あめのわかひこ〉は、沈黙のままに巨大な腕を伸ばして、無造作に菊花の頭をむずとつかんだ。

 結城に切られたときのまま、片方しばりになっている髪ごと、メイド服の体すべてをおおうがごとく輝く手のひらでつかみとると、次の瞬間、光の肉体はゼリーに指を突っこむように菊花の体を貫通して内部に侵入した。

 ゴボゴボと、あらがう音が拝殿の空気を震わせ、引き出された光る手には、黒い汚水のような和装の女――さんざん戦った〈皿数え〉の半身が、つかみ捕られていた。

 強制的に引き出された格好の、彼女の双眼は赤く燃えている。

 繰り出された両腕の電気鋸パズソーをなんなく叩き落とした光は、しかしそれ以上の干渉をさけるように〈依り代〉である、あかるのもとへ退いた。

 菊花は相変わらず目を閉じたまま。

 良子は息をのんで、この二神の対決を見守るしかない。

 あかるが、突如まぶたをひらいた。

「う……」

 うめいた巫女は再び目を細めると、

「そう。ならば、祭却さいきゃくやむなし」

 言うが早いか脚を組みかえて白いももを露わに、正座から安座――あぐらのように座り足袋をはいた足の裏どうしを合わせる――に姿勢を転ずると、

「八橋、曲目変更! 〈天津祝詞あまつのりと〉!」

 両手を組んで奏上をはじめた。


 ――高天原たかまのはら神留坐かみづまりま

 ――神魯岐神魯美かむろぎかむろみ命以みこともち

 ――皇御祖神伊邪那岐命すめみおやかむいざなぎのみこと


 先ほどまでとは変わって攻撃的な、不浄を許さぬ喨喨りょうりょうたる詠唱、琴の弦。

 とたんに皿数えが苦痛をうったえるように、もがきだした。

 だが良子は、そちらを注視してはいられなかった。

 菊花が突然、体を硬直させて反りかえったからだ。良子は即座にうしろへまわると、羽がい締めに押さえこむ。

 もし儀式の途中で動きだしたときは、

「決して自由にさせてはいけない」

 と、厳命されていたからだ。

 めりめりと筋肉が鳴るほど高潮した菊花は、かたく目を閉ざしたまま身をよじり、ボリュームのある全身を使って立ちあがろうと背を反らしたが、良子は万力のようにこれを封じていた。

 巫女装束からにじみだした輝きが、これまでに無いほどまばゆい閃光を発して、空気をも焦さんばかりに燃えあがった。

 永劫とも思える時が過ぎ――実際には五分ほどの間だったのだが――苦悶の色を浮かべて菊花の青黒い〈憑き神〉が、内側から膨らんだかと思うと、

 バシャン!

 弾ける水音が響いて、砕け散る。

 同時に、噴き出す汚水のような音も、あかるの奏上も、琴のも、すべてが鳴りをやめて、拝殿内に水を打ったような静寂がおとずれた。

 禍々まがまがしく濁っていた液体は飛散して、しかし床に届くことなく蒸発して跡形もなく消え失せていく。

 菊花は全身を脱力させて、友人の腕にもたれるように倒れた。

 その頭上には、さっきまでの汚水ではなく、そそりたつ清らかな水柱がなごり惜しそうに滞留していたが、それも間もなくプクプクと、かすかな水音をたてて菊花の体内に吸いこまれて――水泡となって消えていった。

 呼吸が落ちついたのを確かめると、座布団を頭にあて、板間へゆっくりと横たわらせる。

 しかし菊花の安静とは対照に、あかるの呼吸が乱れはじめた。

 足をくずすと徐々に腰を丸め、ついには息荒くうつ伏せに寝そべった巫女へ、良子はあわててにじりよって抱きおこした。

「あかるさん……!」

「だい、じょうぶよ。私も、菊花さんも、それより仕上げ……」

「仕上げ……ってなんですか⁉」

「菊花さんに……れ、れい……」

「霊?」

「……れいぞうこに……」

 良子は面くらう。

「……れいぞうこの……ひ……やし……し……」

「え、なんですか、冷蔵庫……⁉」

 あかるは、腕のなかでガックリと肩を落とすと、額に玉の汗を浮かべて、浅い呼吸のまま意識を失った。

 良子は倒れている二人を眺めて、しばしの呆然のあと、意を決して立ちあがった。

 夜だというのに汗ばむほどの熱気を残した境内は、すべてが死に絶えたように森閑としていた。

 以前にも訪れた社務所のドアをくぐると、神職の生活空間――すなわち、あかるの居住スペースに足を踏み入れる。

 この社に冷蔵庫がありそうな場所は、

(ここしかないよね……)

 と想像したからだ。および腰でギシギシと廊下を踏み鳴らし、間取りから考えてキッチンであろう方向へ。

(……あかるさんって、ひとり暮らしだよなぁ。めっちゃ荒れてたりしたらどうしよう……顔合わせたとき、気まずいかも……)

 明かりのスイッチを入れると、お世辞にも片付いているとは言えない自分の部屋を思い起こしていた良子の、余計な懸念は裏切られた。

 キッチン――というより台所、という呼び名がふさわしい、古びた日本家屋の調理場だった。生活感がない、というのではなく、きちんとした炊事の使用感が伝わってくる。身ぎれいなのだ。

(カップラーメンのカラとか積んであったらどうしよう……)

 などと発想した自分を恥じると、

「失礼しまあす」

 容量五百リットルはあろうかという冷蔵庫の扉を、思い切ってひき開けた。

 ――中には。

 これでもかとばかり、透明な保存容器が敷き詰められている。

 ラップしたボウルや調味料、扉がわには赤いラベルの甘酒の缶がぎっしり並び、手製と思われるこうじの入ったビンも見える。

「甘酒好きなんだなあ……。知ってたけど、こんなに……」

 一人ごちてしまうほどの圧巻を前に、沈思。

(それにしても、ひやし……ってなんだ……? 冷やし、だよな。中華? けどラーメンはないよな。じゃあソバ? うどん? 冷やしまくら……? なら冷凍室かな)

「ええっ、なに⁉ わからん!」

 最後は声に出し、あきらめたように目をとじると、スンスンと鼻をつきだして、庫内の匂いをかぎわける作戦にでた。

 カフェのときのように、直感に判断をゆだねる。

 しばしの探索のあと、手にしたものを引き出して扉を閉めると、ラップをはずし、ボウルの赤黒い流動体に指を差し入れて――なめてみた。

「これだ!」

 ボウルの中身を小鉢にとると、丸盆にレンゲと手ふきタオルなどなどを用意してキッチンから飛びだした良子は、しかしギシギシと後ずさって屑篭くずかごをのぞきこんだ。

 あまり行儀のいいことではないが、奇異なものを見たような顔が、思案のあげく好奇心に負けた。

 それは台所のスミに置かれた、いわばサブのゴミ箱のようなものなのだろう、まるめたキッチンペーパーやチラシ紙のほかに、雑に折りたたんだ印画紙が捨ててある。

 白い裏面のところどころに、経年のシミをつけた印画紙は、大判写真を折ったものらしい。半端な折りめの隙間からのぞく顔に、良子はついに、荷物を食卓へあずけると、写真を手にとった。

 色あせた被写体の幾人かに、覚えがある。

 中央の幼い顔に、

「あ、やっぱりこれ、あかるさん、かわいい!」

 状況を忘れ、つい歓喜をもらした。

 七、八歳ばかりの、しかしありありと面影のある、日本人形のような、あかる。

 周りの人々は家族だろうか。

 左から、見知らぬ太鼓腹の神主、両親だろうか、和服に玉かんざしの女性といかめしい顔つきの神主が並び、中央にあどけない和装のあかる、あかるを男の子にしたような羽織の子、先日茶菓をふるまってくれた老人たちが、過去の姿を焼きつけている。

 そして良子は、さっきの去り際の結城の口もとが「頼む」ではなく、「あかる」と動いたのだということに思いあたっていた。

 台所の明かりを消したとき、良子の手には丸い盆しかにぎられていない。

 参道を上って拝殿に戻ると、抱き起こした菊花の口に、レンゲで流動体――手づくりの冷やししるこ――を流しこんだ。

 おもむろに目をさますと、口をの字に曲げて、

「甘いい、なに入れたのお?」

 不満をもらした菊花に、良子は抱きついていた。

 この夜――月光が照らす拝殿に、疲れ果て、川の字になって眠る三人の姿がある。

 


 ――夜もふけたころ。

 人々が住み暮らす牧市と、照峰の社にとって、とりかえしのつかない災禍がおこった。

 それはちょうど、拝殿の輝きが最高潮に達したころ。

 鎮守の森がざわめき、熱帯夜をゆらめかせる。

 おびえた鈴虫もかわずも、示し合わせたように沈黙し、風間からもれる前夜祭の歓声が、かえって静寂を際立たせた。

 だしぬけに――。

「森そのものが飛んだ……」と思わせるほどの鳥の群れが、月の夜空を満たし、ついで黒染めのカラスたちに比べて驚くほど大きな、白い巨鳥が舞いあがった。

 地鳴りのような無数の羽音とともに、低く忌まわしげな歓喜の哄笑がとどろく。

 巨大な猛禽類は、軽飛行機ほどもある翼を羽ばたかせると、眷属たちとともに南へ進路を向けて、飛び去った。

 しんがりに三羽の大ガラスが飛び立つと、彼らだけは反対方向に黒いくちばしを向けて、社を忌々しげに睥睨へいげいすると、住宅街を抜けて高架線を越え、あっというまに目指す市街へ到達した。

 そびえる象牙色の建物からは、夜間ではあるが所々に灯りがもれていて、鳥目とりめの彼らをいざなった。

 建物はいくつかの棟に分かれており、大ガラスたちは漆黒の翼に上昇気流をうけて、めざす窓――七階の入院病棟――に接近する。

 濡羽ぬれば色の影は、いまや人のかたちに変じて、黒衣のようなつややかな羽をそなえ、やはり黒い面貌にはカラスのくちばしが突きでている。

 音も無く――ひとりでに窓がひらいた。

 はためく厚いカーテンの向こう、殺風景な病室には一床のベッドがあり、ドア上の非常灯と心電図モニターから投射されるグリーンの光が、室内をおぼろに照らしていた。

 やせ細ったいわおのような男が、朽ちていく身を横たえて。

 高層階の風を受けても、まぶたは閉じられたまま。

 宙に浮いた三つののうち、一羽がくちばしを器用にまげて笑ったと見るや、振りおろした腕から長槍のような雷光が投げこまれて、切っ先をベッドに突き立てていった。

 夜風がカーテンをもてあそぶ、そのかたわらで、耳ざわりなモニターのアラームが、波形のフラットを知らせる。

 雲がかる半月が、去りゆく男を看取るように瞬いていた。

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