第十章 炎の花咲くこともある
紺地にまぶしいアヤメの
むらさき鼻緒の塗りゲタもあざやかに、あたまにかぶったキツネのお面、りんごアメに水ヨーヨーのフル装備で、屋台通りを東へ。
浮き足立つ人並みを縫い、浴衣の良子は結城と連れ立って河川敷を目指していた。
金魚すくいに、射的、わたあめ、焼きとうもろこし、かき氷――。
沿道に軒をつらねた露天は、終幕の呼びこみに精をだし、臨時の歩行者天国に行き交う人々をいざなって、盛夏の街は活況を呈している。
祭りはメインイベントの盆踊りや山車の練り歩きを終えて、大締めの花火大会を残すのみとなった。
毎年恒例の花火は、夏の清流をいろどる風物詩だ。
三万発という、全国でもまれな規模で打ちあげられる炎の祭典には、地元のみならず地方からの愛好家もおとずれ、街の人口は平素の倍ほどにもふくらむ。
すっかり陽も落ちていたが、冷たいものが恋しい夏の宵である。
「あ、結城さん、あれもいいです?」
「あれ……ってどれ?」
「ヤエモンズのソフトクリームです」
「まだ食べるの? ていうか、りんごアメ、まだ残ってるよ?」
「同時に食べたらおいしいかと思って、実験です」
「いや……いいけどね」
この日の午後も遅くなって。
良子は和装のヘアアレンジのため、美容室のイスに座っていた。
ショートカットの和装という難題にも、手慣れたしぐさでたくみに動きをつけた結城が、仕上げに淡いむらさきの花かんざしを挿すと、本日のお祭り娘の、
「はい、一丁あがり」
だった。
浴衣の百花入り乱れるなか、オーラスの客となった良子は、店じまいを終えた結城と忍ぶように落ち合ったのだ。
「ソフトクリーム、ふたつ」
「あたし、ラズベリー&キャラメルがいい」
「ええと……じゃあ、ひとつはそれでお願いします」
結城は相変わらずのファッションだが、のし袋のような赤いシャツに白ネクタイ。
愛想のいい店番の娘から、コーンをふたつ受けとると、
「どうぞ」
「ありあとう」
りんごアメをほおばった良子に、ひとつ手渡した。
しばし無心で、りんごアメとソフトクリームを交互になめていたが、おもむろに振りかえって、
「お、意外とイケるかも知れんぞ、おまえも喰え……」
言いかけて、愕然と立ちすくんだ。
結城があきれて、
「あのね、良子さん、仮にも女の子なんだから」
「ご……めんなさいい……! 意外とおいしくて、ええと、じゃなくて……。そこは菊花のポジションなんです……」
「ああ、そうか……。いつもいっしょに?」
「はい、小学生んときから。いっしょじゃないのは、今年が初めてです」
二人は無言のままソフトクリームをなめつつ、どちらからともなく人影まばらな道へ歩を進めていた。
正規の観覧会場へ続く歩道は、祭りのフィナーレをたのしむ人々でごったがえしていたが、一本横道へ入ると屋台は消えて、閑散としたいつもの街なみがある。
家々をへだてて喧噪をかわした二人は、
「こないだの……」
「お祭りってさ……」
同時に口をひらいて、またも沈黙。
割りバシだけになったりんごアメと、コーンのみを残したソフトクリームを、良子はうらめしそうに眺めた。
連れ合いも、とうに食べ終えている。
バリバリとコーンを噛みくだいて向きなおると、
「あのあと。昨日ですけど、菊花のところに行ってきました」
「そう……体調は?」
「まだ安静に……ってことでした。けど、顔色よくなってます」
四日前――。
衰弱した菊花を送りとどけた良子は、彼女の家族に「ガス爆発事故」のあと「先輩の家に避難していた」ことを報告した。
菊花は心身の衰弱がいちじるしいと診断され、自宅での安静を命じられていたが、昨日の見舞いの頃には相当に回復していた。
良子はもちろん、祭りの参加を見送るつもりでいたのだが、
「行ってきていいよお、結城さんいっしょでもいいし」
少し頬のこけた菊花は、寝床からふっきれた様子で笑った。
さらにあの日の別れ際、あかるが晴れの場へ出るよう勧めたことも、
けれども、捨て身で誘った結城が、どんなつもりで同行する気になったのか、良子には見当もつかなかった。
「お祭りって、参加する人が多いほうがいいんだって」
「そうだね、基本的には地域を守護する神さまへのお礼、というカタチだから、全員参加といってもいいね」
「はあ、そうなんですか」
「娯楽にとぼしい時代には欠かせない行事だったろうからね。ただ、
「荒ぶる神……?」
「
「その土地が〈依り代〉ですか? あたしや菊花の場合は、人間が依り代ってことで……?」
「経験者は、わかりが早いね。人間の場合は、ときどき甘酒やアズキ由来の食べ物なんかを摂取すれば済むけど、土地に封印されている場合は、定期的にお祭りをしてあげなくちゃならないんだ。氏神が祟り神である地方では、祭りの大きな動機と言えるね」
「この……牧市も?」
「そうだよ」
「あ、甘酒飲みたい」
川が近づくにつれ、自宅からも花火がのぞめるのだろう、近隣住民が開幕を待って夕涼みしており、軒下やガレージで焼き肉に興じる姿も見られた。
ドリンクの自販機がある小売店を最後に、住宅街は環状路でとぎれて、そこから先はもう、
二人は草原を横切ると、堤に切れあがる斜めの道をのぼった。
平らな土手からは、草地をはさんで夜陰に黒々と川面がきらめき、せせらぎのなか、うるさいくらいに虫が鳴きしきっている。
このあたりは混雑をさけて鑑賞できる、いわば「穴場」であり、ほかに人影はまったく認められない。
晴れわたる夜空に、星々がまたたいていた。
連日のスコールのような夕立ちは、花火を楽しみにする人々をやきもきさせたが、今日はそれもなく、月影がほどよくさやかだった。
「このへんでいいかな、ちょっと、橋が邪魔だけどね」
「あたしも人ごみ苦手なんで、ここで大丈夫です」
護岸を踏みならして、塗りゲタが下っていく。
敷き詰められた巨大なコンクリートブロックの隙間から、野草がたくましく丈を伸ばしていて、二人は草むらをさけて堤の中ほどまでおりると、一部張りだしたブロックを「観覧席」に定めた。
結城が腰をおろし、より打ちあげ会場に近い左側に良子がちょこんと座る。
筒袖から虫よけの線香を取りだして点火した良子は、二人の体に虫よけスプレーを吹きかけ、さらに周囲に殺虫スプレーを撒きはじめた。
「そこまでする⁉」
「防御だけでは生ぬるい! 攻撃しましょう!」
「いや、こっちが侵略者だから」
パシャン! と川魚が跳ねる。
対岸までの川幅は百メートルばかりと広く、川に向かって左手に大橋がかかっていて、橋をはさんで一キロほど先の本会場からは、開幕を告げるアナウンスが飛んで、鈍く空気を震わせていた。
「ごちそうさまです」
甘酒でノドをうるおした良子は、川面を見おろしてうつむくと、
コンっ。
勢いよく缶を置いた。
「結城さん」
「はい」
だが、唇が言葉を忘れたように、声は続こうとしない。
結城も、あえて口をひらこうとはしない。
二人は川辺に咲いた花のように、じっと動かなかった。
何ごとか逡巡したあげく、良子の指は缶のフチを無為になぞり、黒目がちな瞳は伏せられて、うつむいたままの襟もとからのぼった血が、うなじを染めていた。
結城はどこか
漠然とした視界に、おずおずと良子の上気した顔が入ってくる。
しばしからんだ視線は、しかし突然吹きだした結城の笑いで断ち切られた。
「え……なんですか、急にい!」
「いや……。ごめんね、だって……」
親指を良子の鼻におしつけると、こするように離した結城は、その指先をなめ、
「ラズベリー&キャラメルって、こういう味か……」
「ぎゃああ‼ つ、ついてました⁉ 鼻に⁉ 早くおしえてくださいよっ‼」
「口にもついてる」
不意打ちのように重ねられた唇は、またも跳ねた水音を聞くまで、うたかたの夢を見た。
カコンっ、と。
缶を蹴たおして、中身が流れでても――。
リミットを振りきって紅潮した良子は、まるで気づかなかった。
(大逆転……⁉)
であった。
結城は缶を起こすと、ポケットのハンカチで良子の鼻の頭を拭きとって渡し、
「ゲタも濡れてるみたいだから」
「あ、ありがとうございます。や、ゲタなんてどうでも……」
うわついたしぐさでハンカチを広げた良子は、花柄の模様を眺めた。
「かわいいハンカチですね……」
「そうかしら」
「……結城さんって、センスいいですよね、服とかも」
「僕は女の子のアレンジ考えたり、小物作ったりの方が楽しいんだけどね。これも昨日作ったんだ、良子さんに似合うと思ったの」
良子は笑顔のまま固まると、あらためて隣りを見つめた。
疑惑のフィルターを通すと、右耳のピアスも小指のシルバーリングも怪しげに見えて、またもや、
(だ、大逆転……?)
であった。
軽くめまいを覚えて頭を押さえていると、
――ヒュルル。
高く抜ける音が大気を裂いて飛び、ついで晴天の夜空を大輪の炎の花が咲きそめた。花々はたちまち夜の庭を埋めつくし、はかない美を競って散らしていく。
破裂の大音響が、覚めやらぬ胸の高鳴りをいっそう強く打った。
「きれい……」
「うん」
「写真……」
「ん……?」
「子供のころの結城さんの写真、勝手に盗み見、しちゃいました」
「あかるのとこで、か」
「はい」
盗み見などと言ったわりに、良子は凛として夜空を見つめていた。
ため息を
「ごめんなさい、今しか聞けないような気がして……いやなら話してくれなくても」
「ん……いいよ。君は知っておいてもいいかもね。僕はね……照峰神社の、宮司の息子だ」
「はい。あかるさんのお兄さん、ですか」
「うん。あの日のことが無ければ……今ごろは家を継いでいたろう。けれど僕の父親は……ひどい人でね……」
「神主さんがですか?」
「神職が人格者なんてのは幻想だよ。でも、そうでも思ってないと、世の中、
「あなたとあかるさんの……お父さんですか」
「そうだ。妹にはつらい思いをさせているが、僕はあそこには戻れないんだ。けがれた〈もののけ〉の依り代になった僕はね……。けれどそれも……」
「〈髪切り〉って……蟇目は言ってたけど、なんですか?」
「こいつはね……」
右手をかざした結城は、なにくわぬ猫の表情で、振られた話題に乗りかえた。
「長くなるから省略するけど、夜道を歩いてて突然、髪を切られる、という怪談を知ってる?」
「なにそれ怖い。初耳です」
「だろうね。まげを結ってた当時は有名だったらしくて、〈
「解釈したからもののけが生まれた……んですか? っていうか、結城さんって、それが憑いたから美容師なんですか?」
「神秘を見いだした人々は、空想ではなく観察から、仮定ではなく体験から、それらを神やもののけと名づけて解釈したんだ。その意味ではニワトリが先と言えるかな。いずれ、二重のジレンマなんて難問すぎるよ。ともかく、こいつがいる以上、僕には神職などできないんだ」
結城は、はぐらかすように答える。
打ちあげは鮮烈な第一部を終え、インターバルから覚めると、こんどはゆったりとしたテンポで夜空に色彩をそえていった。
「
「怖い……?」
「そう、彼らは
「結城さんですか……」
「これは母方の姓だよ。儀式は一度失敗し、僕はどうやらその場を逃げ出したらしいんだ。神降ろしの依り代に使われると、記憶の惑乱が起こる……。はっきりとした記憶は無くて、ただ父の怒った顔だけが思い出される。どうやら母方の親族が僕を保護した、ということらしいけどね。僕は照峰から籍を抜かれた、そのころこいつが憑いたらしい。それからは……。思えば母や妹と過ごしていたころが、あのころだけが僕にとって幸せだった。十年も前だ」
「お父さんは……なにをしようとしてたの」
「そこがね、不可解なんだ」
「わからない……?」
「いや、母の病気平癒の祈願だと、当時は認識していた」
「違った?」
「僕に宿ろうとしたのは、祭神じゃなかった。〈
「……どうして……じゃあ、なにが」
「恐ろしい形相の……赤い影だった。あれは、翼をひろげた……」
奈落に石を投げこむような独白めいた声音に、良子は突然いたたまれなくなり、足元の缶を拾いあげると一気に中身をあおった。
――その缶が。
ベコンっ、と。
はじけて、宙に舞った。
同時に良子の左肩を、火のような激痛が襲う。
「くぅ、あっ……‼」
叫びは声にならない。
なにが起こったのかわからぬまま、良子は土手の斜面に倒れ伏していた。
電光石火、後ろ手にかばって立ちはだかった結城の眼前で、
ドガンっ‼
鍋底をかなづちで打ちたたいたような激しい金属音が鳴り響き、飛来した小指の先ほどもない
破片がコンクリートブロックに落下して乾いた音を響かせたとき、二人はすでに巣穴に逃げこむリスのように、先ほどまで語らっていたブロックを盾に、身をひそませていた。
だが遮蔽物は、一本の傘をゆずり合うように心もと無い。
憑き神をあらわにした結城は、その右手を自在に人のカタチに戻すと、呆然とする良子のキズ口をハンカチで手ばやくおおった。
「しっかりして、良子さん!」
「なに……なんなの!」
結城は良子に体を密着させると、おびえる心を吸いとるように抱きすくめた。少しそうしているだけで、鼓動は不思議なほど落ちついてきた。
荒い呼吸は、これまでの経験で場慣れしてきたこともあって、あっという間に平常をとり戻し、良子は小さく吐息をもらすと、むくむくと立ち耳を伸ばして〈生成り〉に変化した。
「……このほうが、痛みが少なくてラク……。また、蟇目ってヤツ?」
「いや、神祇官は、こんな攻撃はしない」
つぶやいた手のひらには、弾着のショックでひしゃげた「こんな攻撃」――小指の先ほどの鉄塊が拾いあげられていた。
醜くゆがんだ
「ライフル弾だ……。単発だから、ボルトアクション……装弾数はせいぜい五発」
「どうするの⁉」
制止する間もなく、結城はなめらかな動きでブロックに飛びのった。
と見るや、両手をハサミに変えて身がまえ、打ちあがる花火の音にまぎれて伸びる火線を、迎え撃ってたたき落とした。
「こいつは神祇院の手先だ……隠れてて! 返り討ちにしてやる……初弾をはずすとは運がなかったな」
言うや疾風のごとく、橋に向かって駆けだした。
ここにいたって、ようやく良子にも状況が飲みこめてきた。
どうやら今度は銃で狙われたらしいが、偶然口にしていた甘酒の缶に命中して、弾がそれた――ということらしい。
血のにじむ花柄のハンカチを押さえ、
(ぜんぜん、それてない!)
やにわに闘志をむきだしにして、立ちあがった。
一方の結城は花火のあがる方向、大きな橋へと向かっていた。
差し渡し五百メートルの橋ゲタに、等間隔に二本の巨大な逆Y字の主塔がそびえ、主塔から伸びる幾本ものケーブルが橋ゲタを支える構造、
彼らが座っていた場所からは、この柱やケーブルが死角となって花火見物を邪魔していたのだ。
高さ七十メートルの巨大な柱は、根元である
申しわけ程度の鉄柵で囲まれたこの頂上に――今日はちょっとした異常が見られる。
橋の頂上部には赤色の航空灯があり、それ以外は鉄筋コンクリートの構造物にすぎない。
しかしいま、主塔の天面に眼をこらすと、猫のひたいほどのコンクリート表面に白い布が打ちつけられていて、布はどうやら人の形にふくらんでいた――男がひとり、伏せているのだ。
「残弾、二……」
ハンティングジャケットからシャツにいたるまで、黒ずくめの男は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、体の下に抱くようにしていたライフル――骨董品である大日本帝国陸軍の制式銃、
右手で
ゆるやかな向かい風に安堵した狙撃手は、べったりと伏せた姿勢から望遠鏡のような
ランダムなコースをたどる目標をとらえることは、針穴を通すより不可能に近い。
にもかかわらず、引き金はまたもしぼられた。
弾丸は
着弾まで、一秒。
ドガっンっ!
三たび、結城のハサミが弾丸を切りとばした。
狙撃手はしかし、落ちついた態度で、まとっていた布をブチブチとクサビごとはずすと、風にまかれて落下するのも構わずに放り捨てた。カモフラージュと避熱のためにまとっていた布がバサバサと舞い、流麗に散華する柳の花火を隠す。
「残弾、一……」
もっとも安定する伏射の姿勢を捨てた狙撃手は、近づく結城に対する撃ち降ろしにそなえて片ヒザをついたが、スコープをのぞいて目標を変えた。
走る結城は〈神懸かり〉である。
常人にはおよびもつかぬ高速だったが、追いすがる影。
第二形態――〈中成り〉になって獣の脚部をあらわした良子だ。
浴衣のすそを大きくはしょって、腰帯にたばさんでいる。走りだした直後、すそに足をとられてハデに転倒したあとの措置だった。
目にもとまらぬ俊足で、ジグザグに草地を駆ける。
「あれほど止せと言ったのに……! それに速過ぎる、僕のうしろに……!」
「待ってるなんて、できないですっ! あたしはっ!」
あっというまに走り去る背を追って、結城は〈犬神〉のスピードを呪った。
神懸かりであっても、しょせんは生身の肉体である犬神では、鋼鉄の弾丸をはじくことはできない。超音速で飛来する弾丸がふれれば、肉をうがち、骨を砕くだろう。
だが彼の不安顔は、それだけが理由ではなかった。
さきほどから何度も弾丸にふれていてわかるが、どうやら何らかの〈憑き神〉から撃ちだされているらしく、ハサミの刃先が敏感に反応する。
退魔の弾丸――ということなのだろうが、それ以上の〈
「持っていないなら、それでいい」
のである。このまま接近して叩きのめす。
だがもしも、目に見える以上の〈通力〉の持ち主であり――それがまだ発揮されていないとしたら――。
予測不可能なジグザグのコースを疾駆する立ち耳と脚、めぐらした想像に、結城は青ざめ、
「あ……そうか、良子さん、まずい……! こいつは!」
むろん、耳を貸す彼女ではない。
ときおり倒れこむような四本足も交えつつ、圧倒的な速度を保ったまま、大輪の炎が咲きほこる夜空に向かってコンクリートブロックを駆けあがると、土手に差しかかった。
犬の耳が、こんどは花火とは違う「ドンっ」という破裂音をとらえたが、彼女を狙ったであろう弾道は、いかに予測しても俊足を撃ちきれずにうしろへ流れて消えた。
走りながらも前を見すえ、巨大なハープの弦のようなケーブルと、それをささえる主塔を視界に入れて、
(左だ……)
向かって左側の主塔に、射手を見さだめた。
これだけ撃ちこまれてようやく、良子はこの敵のてごわさを知った。
甘い夜の
どうやら周到な待ち伏せにあった、というべきだろう。
胸をゆるがす花火の大音響と
しかし、さきほどの弾丸をやりすごした成功から、
「いける、な!」
確信をもった口もとがほころぶ。どんなやつかは知らないが、
(とっつかまえたら、ただじゃ済まないぞ!)
突っ走る!
夜空のスクリーンは、次々と打ちあがる乱玉や、V字の仕掛け花火を映していた。
クライマックスの大玉、二尺玉の打ちあげが近いのだ。
「残弾、ゼロ……」
狙撃手はレバーを引くと、吐き出された薬莢をかたわらのトランクに打ちあてて確保した。
さきほどまではグレーの迷彩布が受け止めていた、空薬莢の回収のためだ。
遊底が引かれ、寒々しくカラになった薬室があらわになると、腰にじゃらじゃらと留めていたアクセサリーのうち、唯一の本物――銀色に輝く七・七ミリ実砲――をこめた。
ただ一発。
らせんに切られた施条の奥にセットされた、最後の弾丸。
「……からの……」
ものの数秒。
慣れきった動作を終えると、スコープにターゲットをとらえることに没頭する。
ターゲット――良子は走りだしてから、およそ八百メートルの距離を、すでに半分ほどに減らして接近しつつあった。
それも直線で走ってくるならともかく、稲妻のようにランダムな軌道を描いているのだ。
いくら
「……必殺の矢……」
それでも男は、全長一メートル余りのライフルを優しく抱えると、「寒夜に霜がおりるように」なめらかな指先で引き金をしぼった。
撃針に尻を叩かれた弾丸は、ここぞとばかりに火薬を爆発させると、轟音とともにジャケットを脱ぎ捨て、銃身内に刻まれたらせんに押しつけられて回転し、安定した弾道を描いて飛翔する。
ドウっ、と筒先をゆらした瞬間から、着弾までの〇・五秒――。
発動から、刹那の〈憑き神〉である。
弾丸を依り代とした憑き神は、
流動するらせん状のキズから、筋肉のようにいびつなディティールが盛りあがり、弾頭部にひとつ目のドクロが出現する。
ドクロは前方を注視して、ターゲットを「自身の眼で」確かめると、むき身の骨格のような腕を表面から伸ばして、己の回転速度を遅らせ、弾道を大きく崩した。
音速をはるかに越える神懸かりの弾丸にとっては、地を這う疾走など児戯にひとしい。
あるべき弾道を逸脱し、超音速の頭突きを喰らわせる――唯一の〈通力〉にして最後の発動は、狙いあやまたず。
ほうけたように口をあけた良子の胸に、深々と突き立てられた。
「残弾ゼロからの、必中の
橋の向こうに、特大の花火が夜空を焦がした。
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