第十章 炎の花咲くこともある



 紺地にまぶしいアヤメの浴衣ゆかた――。

 むらさき鼻緒の塗りゲタもあざやかに、あたまにかぶったキツネのお面、りんごアメに水ヨーヨーのフル装備で、屋台通りを東へ。

 浮き足立つ人並みを縫い、浴衣の良子は結城と連れ立って河川敷を目指していた。

 金魚すくいに、射的、わたあめ、焼きとうもろこし、かき氷――。 

 沿道に軒をつらねた露天は、終幕の呼びこみに精をだし、臨時の歩行者天国に行き交う人々をいざなって、盛夏の街は活況を呈している。

 祭りはメインイベントの盆踊りや山車の練り歩きを終えて、大締めの花火大会を残すのみとなった。

 毎年恒例の花火は、夏の清流をいろどる風物詩だ。

 三万発という、全国でもまれな規模で打ちあげられる炎の祭典には、地元のみならず地方からの愛好家もおとずれ、街の人口は平素の倍ほどにもふくらむ。

 すっかり陽も落ちていたが、冷たいものが恋しい夏の宵である。

「あ、結城さん、あれもいいです?」

「あれ……ってどれ?」

「ヤエモンズのソフトクリームです」

「まだ食べるの? ていうか、りんごアメ、まだ残ってるよ?」

「同時に食べたらおいしいかと思って、実験です」

「いや……いいけどね」

 この日の午後も遅くなって。

 良子は和装のヘアアレンジのため、美容室のイスに座っていた。

 ショートカットの和装という難題にも、手慣れたしぐさでたくみに動きをつけた結城が、仕上げに淡いむらさきの花かんざしを挿すと、本日のお祭り娘の、

「はい、一丁あがり」

 だった。

 浴衣の百花入り乱れるなか、オーラスの客となった良子は、店じまいを終えた結城と忍ぶように落ち合ったのだ。

「ソフトクリーム、ふたつ」

「あたし、ラズベリー&キャラメルがいい」

「ええと……じゃあ、ひとつはそれでお願いします」

 結城は相変わらずのファッションだが、のし袋のような赤いシャツに白ネクタイ。

 愛想のいい店番の娘から、コーンをふたつ受けとると、

「どうぞ」

「ありあとう」

 りんごアメをほおばった良子に、ひとつ手渡した。

 しばし無心で、りんごアメとソフトクリームを交互になめていたが、おもむろに振りかえって、

「お、意外とイケるかも知れんぞ、おまえも喰え……」

 言いかけて、愕然と立ちすくんだ。

 結城があきれて、

「あのね、良子さん、仮にも女の子なんだから」

「ご……めんなさいい……! 意外とおいしくて、ええと、じゃなくて……。そこは菊花のポジションなんです……」

「ああ、そうか……。いつもいっしょに?」

「はい、小学生んときから。いっしょじゃないのは、今年が初めてです」

 二人は無言のままソフトクリームをなめつつ、どちらからともなく人影まばらな道へ歩を進めていた。

 正規の観覧会場へ続く歩道は、祭りのフィナーレをたのしむ人々でごったがえしていたが、一本横道へ入ると屋台は消えて、閑散としたいつもの街なみがある。

 家々をへだてて喧噪をかわした二人は、

「こないだの……」

「お祭りってさ……」

 同時に口をひらいて、またも沈黙。

 割りバシだけになったりんごアメと、コーンのみを残したソフトクリームを、良子はうらめしそうに眺めた。

 連れ合いも、とうに食べ終えている。

 バリバリとコーンを噛みくだいて向きなおると、

「あのあと。昨日ですけど、菊花のところに行ってきました」

「そう……体調は?」

「まだ安静に……ってことでした。けど、顔色よくなってます」

 四日前――。

 衰弱した菊花を送りとどけた良子は、彼女の家族に「ガス爆発事故」のあと「先輩の家に避難していた」ことを報告した。

 菊花は心身の衰弱がいちじるしいと診断され、自宅での安静を命じられていたが、昨日の見舞いの頃には相当に回復していた。

 良子はもちろん、祭りの参加を見送るつもりでいたのだが、

「行ってきていいよお、結城さんいっしょでもいいし」

 少し頬のこけた菊花は、寝床からふっきれた様子で笑った。

 さらにあの日の別れ際、あかるが晴れの場へ出るよう勧めたことも、外出そとでを後押ししていた。

 けれども、捨て身で誘った結城が、どんなつもりで同行する気になったのか、良子には見当もつかなかった。

「お祭りって、参加する人が多いほうがいいんだって」

「そうだね、基本的には地域を守護する神さまへのお礼、というカタチだから、全員参加といってもいいね」

「はあ、そうなんですか」

「娯楽にとぼしい時代には欠かせない行事だったろうからね。ただ、祭祀さいしにはいろいろな理由づけがされていて、お礼であったり来期の豊作祈願、さらに荒ぶる神をなぐさめしずめるという意味もある。ようは、なにをまつっているかによって意義が違う」

「荒ぶる神……?」

たたり神とも言うけど、大きな力を持っていて富貴ふうきをもたらすが、同時に災厄を引きよせる神さまだね。お供えを充分にするから、悪さをしないでくださいってお願いする意味。この手続きによって、あがたてまつるのといっしょに、吉凶あわせ持った神を土地に封印する」

「その土地が〈依り代〉ですか? あたしや菊花の場合は、人間が依り代ってことで……?」

「経験者は、わかりが早いね。人間の場合は、ときどき甘酒やアズキ由来の食べ物なんかを摂取すれば済むけど、土地に封印されている場合は、定期的にお祭りをしてあげなくちゃならないんだ。氏神が祟り神である地方では、祭りの大きな動機と言えるね」

「この……牧市も?」

「そうだよ」

「あ、甘酒飲みたい」

 川が近づくにつれ、自宅からも花火がのぞめるのだろう、近隣住民が開幕を待って夕涼みしており、軒下やガレージで焼き肉に興じる姿も見られた。

 ドリンクの自販機がある小売店を最後に、住宅街は環状路でとぎれて、そこから先はもう、つつみになっている。

 二人は草原を横切ると、堤に切れあがる斜めの道をのぼった。

 平らな土手からは、草地をはさんで夜陰に黒々と川面がきらめき、せせらぎのなか、うるさいくらいに虫が鳴きしきっている。

 このあたりは混雑をさけて鑑賞できる、いわば「穴場」であり、ほかに人影はまったく認められない。

 晴れわたる夜空に、星々がまたたいていた。

 連日のスコールのような夕立ちは、花火を楽しみにする人々をやきもきさせたが、今日はそれもなく、月影がほどよくさやかだった。

「このへんでいいかな、ちょっと、橋が邪魔だけどね」

「あたしも人ごみ苦手なんで、ここで大丈夫です」

 護岸を踏みならして、塗りゲタが下っていく。

 敷き詰められた巨大なコンクリートブロックの隙間から、野草がたくましく丈を伸ばしていて、二人は草むらをさけて堤の中ほどまでおりると、一部張りだしたブロックを「観覧席」に定めた。

 結城が腰をおろし、より打ちあげ会場に近い左側に良子がと座る。

 筒袖から虫よけの線香を取りだして点火した良子は、二人の体に虫よけスプレーを吹きかけ、さらに周囲に殺虫スプレーを撒きはじめた。

「そこまでする⁉」

「防御だけでは生ぬるい! 攻撃しましょう!」

「いや、こっちが侵略者だから」

 パシャン! と川魚が跳ねる。

 対岸までの川幅は百メートルばかりと広く、川に向かって左手に大橋がかかっていて、橋をはさんで一キロほど先の本会場からは、開幕を告げるアナウンスが飛んで、鈍く空気を震わせていた。

「ごちそうさまです」

 甘酒でノドをうるおした良子は、川面を見おろしてうつむくと、

 コンっ。

 勢いよく缶を置いた。

「結城さん」

「はい」

 だが、唇が言葉を忘れたように、声は続こうとしない。

 結城も、あえて口をひらこうとはしない。

 二人は川辺に咲いた花のように、じっと動かなかった。

 何ごとか逡巡したあげく、良子の指は缶のフチを無為になぞり、黒目がちな瞳は伏せられて、うつむいたままの襟もとからのぼった血が、うなじを染めていた。

 結城はどこか寂寥せきりょうをのぞかせた顔で、良子を透かすように上流を見るともなく眺めた。

 滔々とうとうと流れる川のほかは、一面の草原である。

 漠然とした視界に、おずおずと良子の上気した顔が入ってくる。

 しばしからんだ視線は、しかし突然吹きだした結城の笑いで断ち切られた。

「え……なんですか、急にい!」

「いや……。ごめんね、だって……」

 親指を良子の鼻におしつけると、こするように離した結城は、その指先をなめ、

「ラズベリー&キャラメルって、こういう味か……」

「ぎゃああ‼ つ、ついてました⁉ 鼻に⁉ 早くおしえてくださいよっ‼」

「口にもついてる」

 不意打ちのように重ねられた唇は、またも跳ねた水音を聞くまで、うたかたの夢を見た。

 カコンっ、と。

 缶を蹴たおして、中身が流れでても――。

 リミットを振りきって紅潮した良子は、まるで気づかなかった。

(大逆転……⁉)

 であった。

 結城は缶を起こすと、ポケットのハンカチで良子の鼻の頭を拭きとって渡し、

「ゲタも濡れてるみたいだから」

「あ、ありがとうございます。や、ゲタなんてどうでも……」

 うわついたしぐさでハンカチを広げた良子は、花柄の模様を眺めた。

「かわいいハンカチですね……」

「そうかしら」

「……結城さんって、センスいいですよね、服とかも」

「僕は女の子のアレンジ考えたり、小物作ったりの方が楽しいんだけどね。これも昨日作ったんだ、良子さんに似合うと思ったの」

 良子は笑顔のまま固まると、あらためて隣りを見つめた。

 疑惑のフィルターを通すと、右耳のピアスも小指のシルバーリングも怪しげに見えて、またもや、

(だ、大逆転……?)

 であった。

 軽くめまいを覚えて頭を押さえていると、

 ――ヒュルル。

 高く抜ける音が大気を裂いて飛び、ついで晴天の夜空を大輪の炎の花が咲きそめた。花々はたちまち夜の庭を埋めつくし、はかない美を競って散らしていく。

 破裂の大音響が、覚めやらぬ胸の高鳴りをいっそう強く打った。

「きれい……」

「うん」

「写真……」

「ん……?」

「子供のころの結城さんの写真、勝手に盗み見、しちゃいました」

「あかるのとこで、か」

「はい」

 盗み見などと言ったわりに、良子は凛として夜空を見つめていた。

 ため息をいて、語りはじめようとする薄い唇を制して、

「ごめんなさい、今しか聞けないような気がして……いやなら話してくれなくても」

「ん……いいよ。君は知っておいてもいいかもね。僕はね……照峰神社の、宮司の息子だ」

「はい。あかるさんのお兄さん、ですか」

「うん。あの日のことが無ければ……今ごろは家を継いでいたろう。けれど僕の父親は……ひどい人でね……」

「神主さんがですか?」

「神職が人格者なんてのは幻想だよ。でも、そうでも思ってないと、世の中、りどころがないからな……。とにかく僕らの母親が倒れて、回復が難しくなったとき、父は禁忌に手をだした」

「あなたとあかるさんの……お父さんですか」

「そうだ。妹にはつらい思いをさせているが、僕はあそこには戻れないんだ。けがれた〈もののけ〉の依り代になった僕はね……。けれどそれも……」

「〈髪切り〉って……蟇目は言ってたけど、なんですか?」

「こいつはね……」

 右手をかざした結城は、なにくわぬ猫の表情で、振られた話題に乗りかえた。

「長くなるから省略するけど、夜道を歩いてて突然、髪を切られる、という怪談を知ってる?」

「なにそれ怖い。初耳です」

「だろうね。を結ってた当時は有名だったらしくて、〈黒髪切くろかみきり〉なんて亜種もいるらしい。で、そうした現象を説明するために生まれたもののけだとか。結局は正体不明だけど、わからないなりに顔を与えて、いわばして解釈することで安心したんだね」

「解釈したからもののけが生まれた……んですか? っていうか、結城さんって、それが憑いたから美容師なんですか?」

「神秘を見いだした人々は、空想ではなく観察から、仮定ではなく体験から、それらを神やもののけと名づけて解釈したんだ。その意味ではニワトリが先と言えるかな。いずれ、二重のジレンマなんて難問すぎるよ。ともかく、こいつがいる以上、僕には神職などできないんだ」

 結城は、はぐらかすように答える。

 打ちあげは鮮烈な第一部を終え、インターバルから覚めると、こんどはゆったりとしたテンポで夜空に色彩をそえていった。

神祇院じんぎいんは、国民の利益と保護の名目で、私的に神降ろしをすることを禁じている。もちろんこれは表向きの理由で、実際には怖がってるんだ、彼らは」

「怖い……?」

「そう、彼らは高天原たかまがはらにおわす〈天津神くにつかみ〉と交信する、文字通りの全権代理人エージェントなんだ。在野の神職が天上と交感することは、自分たちの地位をおびやかすと考えている。父は禁をやぶって、氏子からの委託ではなく、私情で神降ろしを行った……。そのときに使った依り代が……」

「結城さんですか……」

「これは母方の姓だよ。儀式は一度失敗し、僕はどうやらその場を逃げ出したらしいんだ。神降ろしの依り代に使われると、記憶の惑乱が起こる……。はっきりとした記憶は無くて、ただ父の怒った顔だけが思い出される。どうやら母方の親族が僕を保護した、ということらしいけどね。僕は照峰から籍を抜かれた、そのころが憑いたらしい。それからは……。思えば母や妹と過ごしていたころが、あのころだけが僕にとって幸せだった。十年も前だ」

「お父さんは……なにをしようとしてたの」

「そこがね、不可解なんだ」

「わからない……?」

「いや、母の病気平癒の祈願だと、当時は認識していた」

「違った?」

「僕に宿ろうとしたのは、祭神じゃなかった。〈大国主おおくにぬし〉でも、〈天若日子あめのわかひこ〉でもなかった」

「……どうして……じゃあ、なにが」

「恐ろしい形相の……赤い影だった。あれは、翼をひろげた……」

 奈落に石を投げこむような独白めいた声音に、良子は突然いたたまれなくなり、足元の缶を拾いあげると一気に中身をあおった。

 ――その缶が。

 ベコンっ、と。

 はじけて、宙に舞った。

 同時に良子の左肩を、火のような激痛が襲う。

「くぅ、あっ……‼」

 叫びは声にならない。

 なにが起こったのかわからぬまま、良子は土手の斜面に倒れ伏していた。

 電光石火、後ろ手にかばって立ちはだかった結城の眼前で、

 ドガンっ‼

 鍋底をかなづちで打ちたたいたような激しい金属音が鳴り響き、飛来した小指の先ほどもないしいの実型の金属片が、正面から断ち割られる。

 破片がコンクリートブロックに落下して乾いた音を響かせたとき、二人はすでに巣穴に逃げこむリスのように、先ほどまで語らっていたブロックを盾に、身をひそませていた。

 だが遮蔽物は、一本の傘をゆずり合うように心もと無い。

 憑き神をあらわにした結城は、その右手を自在に人のカタチに戻すと、呆然とする良子のキズ口をハンカチで手ばやくおおった。

「しっかりして、良子さん!」

「なに……なんなの!」

 結城は良子に体を密着させると、おびえる心を吸いとるように抱きすくめた。少しそうしているだけで、鼓動は不思議なほど落ちついてきた。

 荒い呼吸は、これまでの経験で場慣れしてきたこともあって、あっという間に平常をとり戻し、良子は小さく吐息をもらすと、むくむくと立ち耳を伸ばして〈生成り〉に変化した。

「……このほうが、痛みが少なくてラク……。また、蟇目ってヤツ?」

「いや、神祇官は、こんな攻撃はしない」

 つぶやいた手のひらには、弾着のショックでひしゃげた「こんな攻撃」――小指の先ほどの鉄塊が拾いあげられていた。

 醜くゆがんだ黄銅色おうどうしょく

「ライフル弾だ……。単発だから、ボルトアクション……装弾数はせいぜい五発」

「どうするの⁉」

 制止する間もなく、結城はなめらかな動きでブロックに飛びのった。

 と見るや、両手をハサミに変えて身がまえ、打ちあがる花火の音にまぎれて伸びる火線を、迎え撃ってたたき落とした。

「こいつは神祇院の手先だ……隠れてて! 返り討ちにしてやる……初弾をはずすとは運がなかったな」

 言うや疾風のごとく、橋に向かって駆けだした。

 ここにいたって、ようやく良子にも状況が飲みこめてきた。

 どうやら今度は銃で狙われたらしいが、偶然口にしていた甘酒の缶に命中して、弾がそれた――ということらしい。

 血のにじむ花柄のハンカチを押さえ、

(ぜんぜん、それてない!)

 やにわに闘志をむきだしにして、立ちあがった。

 一方の結城は花火のあがる方向、大きな橋へと向かっていた。

 差し渡し五百メートルの橋ゲタに、等間隔に二本の巨大な逆Y字の主塔がそびえ、主塔から伸びる幾本ものケーブルが橋ゲタを支える構造、斜張橋しゃちょうきょうである。

 彼らが座っていた場所からは、この柱やケーブルが死角となって花火見物を邪魔していたのだ。

 高さ七十メートルの巨大な柱は、根元である橋脚きょうきゃくでは幅十メートル、先端に向かうにつれて細くなり、雲突く主塔の最上部は三メートル四方の面積になる。

 申しわけ程度の鉄柵で囲まれたこの頂上に――今日はちょっとした異常が見られる。

 橋の頂上部には赤色の航空灯があり、それ以外は鉄筋コンクリートの構造物にすぎない。

 しかしいま、主塔の天面に眼をこらすと、猫のひたいほどのコンクリート表面に白い布が打ちつけられていて、布はどうやら人の形にふくらんでいた――男がひとり、伏せているのだ。

「残弾、二……」

 ハンティングジャケットからシャツにいたるまで、黒ずくめの男は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、体の下に抱くようにしていたライフル――骨董品である大日本帝国陸軍の制式銃、二式にしき小銃に次弾を装填した。

 右手で遊底ボルトを引き、スライドさせて戻す、と直径七・七ミリの鋼鉄のライフル実砲が、薬室チャンバーに準備される。

 ゆるやかな向かい風に安堵した狙撃手は、べったりと伏せた姿勢から望遠鏡のような単眼スコープをのぞきこんだ。照準の十字線には、稲妻のような軌道をえがいて疾走する、赤いシャツの男が見えている。

 ランダムなコースをたどる目標をとらえることは、針穴を通すより不可能に近い。

 にもかかわらず、引き金はまたもしぼられた。

 弾丸は真鍮しんちゅうのジャケットを脱し、銃身の内壁にうがたれた施条ライフリングに練られて、秒速八百メートルの超音速で銃口を飛び出していく。

 着弾まで、一秒。

 ドガっンっ!

 三たび、結城のハサミが弾丸を切りとばした。

 狙撃手はしかし、落ちついた態度で、まとっていた布をブチブチとクサビごとはずすと、風にまかれて落下するのも構わずに放り捨てた。カモフラージュと避熱のためにまとっていた布がバサバサと舞い、流麗に散華する柳の花火を隠す。

「残弾、一……」

 もっとも安定する伏射の姿勢を捨てた狙撃手は、近づく結城に対する撃ち降ろしにそなえて片ヒザをついたが、スコープをのぞいて目標を変えた。

 走る結城は〈神懸かり〉である。

 常人にはおよびもつかぬ高速だったが、追いすがる影。

 第二形態――〈中成り〉になって獣の脚部をあらわした良子だ。

 浴衣のすそを大きく、腰帯にたばさんでいる。走りだした直後、すそに足をとられてハデに転倒したあとの措置だった。

 目にもとまらぬ俊足で、ジグザグに草地を駆ける。

「あれほど止せと言ったのに……! それに速過ぎる、僕のうしろに……!」

「待ってるなんて、できないですっ! あたしはっ!」

 あっというまに走り去る背を追って、結城は〈犬神〉のスピードを呪った。

 神懸かりであっても、しょせんは生身の肉体である犬神では、鋼鉄の弾丸をはじくことはできない。超音速で飛来する弾丸がふれれば、肉をうがち、骨を砕くだろう。

 だが彼の不安顔は、それだけが理由ではなかった。

 さきほどから何度も弾丸にふれていてわかるが、どうやら何らかの〈憑き神〉から撃ちだされているらしく、ハサミの刃先が敏感に反応する。

 退魔の弾丸――ということなのだろうが、それ以上の〈通力つうりき〉を、

「持っていないなら、それでいい」

 のである。このまま接近して叩きのめす。

 だがもしも、目に見える以上の〈通力〉の持ち主であり――それがまだ発揮されていないとしたら――。

 予測不可能なジグザグのコースを疾駆する立ち耳と脚、めぐらした想像に、結城は青ざめ、

「あ……そうか、良子さん、まずい……! こいつは!」

 むろん、耳を貸す彼女ではない。

 ときおり倒れこむようなも交えつつ、圧倒的な速度を保ったまま、大輪の炎が咲きほこる夜空に向かってコンクリートブロックを駆けあがると、土手に差しかかった。

 犬の耳が、こんどは花火とは違う「ドンっ」という破裂音をとらえたが、彼女を狙ったであろう弾道は、いかに予測しても俊足を撃ちきれずにうしろへ流れて消えた。

 走りながらも前を見すえ、巨大なハープの弦のようなケーブルと、それをささえる主塔を視界に入れて、

(左だ……)

 向かって左側の主塔に、射手を見さだめた。

 これだけ撃ちこまれてようやく、良子はこの敵のてごわさを知った。

 甘い夜の薫風くんぷうをかぎとる鼻も、こちらが風上では役に立たず、加えて花火の火薬が完全に銃の臭いを隠蔽していた。

 どうやら周到な待ち伏せにあった、というべきだろう。

 胸をゆるがす花火の大音響と硝煙しょうえんのなかでは、犬神の武器であるセンサーが半減してしまうのだ。もちろんこれは敵の計算とみるべきだ。

 しかし、さきほどの弾丸をやりすごした成功から、

「いける、な!」

 確信をもった口もとがほころぶ。どんなやつかは知らないが、

(とっつかまえたら、ただじゃ済まないぞ!)

 突っ走る!

 夜空のスクリーンは、次々と打ちあがる乱玉や、V字の仕掛け花火を映していた。

 クライマックスの大玉、二尺玉の打ちあげが近いのだ。

「残弾、ゼロ……」

 狙撃手はレバーを引くと、吐き出された薬莢をかたわらのトランクに打ちあてて確保した。

 さきほどまではグレーの迷彩布が受け止めていた、空薬莢の回収のためだ。

 遊底が引かれ、寒々しくカラになった薬室があらわになると、腰にじゃらじゃらと留めていたアクセサリーのうち、唯一の本物――銀色に輝く七・七ミリ実砲――をこめた。

 ただ一発。

 らせんに切られた施条の奥にセットされた、最後の弾丸。

「……からの……」

 ものの数秒。

 慣れきった動作を終えると、スコープにターゲットをとらえることに没頭する。

 ターゲット――良子は走りだしてから、およそ八百メートルの距離を、すでに半分ほどに減らして接近しつつあった。

 それも直線で走ってくるならともかく、稲妻のようにランダムな軌道を描いているのだ。

 いくら照準ターゲティングしても「当たりっこ無い」のである。

「……必殺の矢……」

 それでも男は、全長一メートル余りのライフルを優しく抱えると、「寒夜に霜がおりるように」なめらかな指先で引き金をしぼった。

 撃針に尻を叩かれた弾丸は、ここぞとばかりに火薬を爆発させると、轟音とともにジャケットを脱ぎ捨て、銃身内に刻まれたらせんに押しつけられて回転し、安定した弾道を描いて飛翔する。

 ドウっ、と筒先をゆらした瞬間から、着弾までの〇・五秒――。

 発動から、刹那の〈憑き神〉である。

 とした憑き神は、銀純度九十五%ブリタニアの表面を、融点に達したかのように沸騰させた。

 流動する状のキズから、筋肉のようにいびつなディティールが盛りあがり、弾頭部にひとつ目のドクロが出現する。

 ドクロは前方を注視して、ターゲットを「自身の眼で」確かめると、むき身の骨格のような腕を表面から伸ばして、己の回転速度を遅らせ、弾道を大きく崩した。

 音速をはるかに越える神懸かりの弾丸にとっては、地を這う疾走など児戯にひとしい。

 あるべき弾道を逸脱し、超音速の頭突きを喰らわせる――唯一の〈通力〉にして最後の発動は、狙いあやまたず。

 ほうけたように口をあけた良子の胸に、深々と突き立てられた。

「残弾ゼロからの、必中の弾丸たま〉……任務完了だ」

 橋の向こうに、特大の花火が夜空を焦がした。

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