第十一章 オフサイド・トラップ

 南部なんぶ行平ゆきひらは、ライフル銃のスリングを肩からはずすと、土手下のしげみに落下していくターゲットの姿を、視野の端にした。

 狙撃の結果を見極めようともしないのは、確実に急所を射止めたことを知っているからだ。

 ひと仕事を終えると、決まって閃光とともに、古傷のような赤い残像がまぶたを染める。

 ――彼に銃器を手ほどきしたのは、かつて猟師をなりわいとしていた曾祖父だった。

 引退をひかえて愛用の二式小銃を手入れしていた曾祖父は、なにを思ったか、それまで触れさせたことのないに銃を持たせたのである。

 幼い南部にとっては、分解携帯が可能な銃器は、純粋におもちゃ同然の興味の対象だったが、それが恐ろしい武器であることだけは、厳に教えこまれて育った。

 子供の自由になるガンロッカーと装弾ロッカー、そのキー――銃刀法や火取かとり法の明らかな違反だったが、曾祖父と彼の胸の小箱にひそやかにしまわれる、それは戯れで終わるはずの秘密だった。

 あの日――。

 別居中の父親らしい怒声が聞こえたことは覚えている。

 続けて倒れた家具や、散乱した居間の断片的な記憶――ヌルヌルとすべる床や、うつ伏せの母、歪んだ曾祖父の顔――だけが残っている。

 そして「カモ撃ちごっこ」に興じていたライフル銃を握りしめて、握力がなくなるまで強く離さなかったことを。

 どのような経緯だったのか、これもさだかではないが――家族を失って引き取られた先が、内務省管轄の神祇院と呼ばれる機関であることを知ったのは、長じてからのことだ。

 当時は教化部の係官だった、早乙女という男が親代わりとなって南部を引き取り、彼のもとで行った訓練は現在の「仕事」を遂行するために必要だったらしいと、いまにして思うのだが、当時はただ言いなりにするほか生きるすべがなかった。

 社会に居場所を、存在を肯定してくれる関係を、そこにしか見いだすことができなかったのだ。


 暗い――というより不安を思い起こさせる記憶を振り払うようにして、南部は六個めの空薬莢を小銃から吐きださせ、トランクに打ちあてる。

 カシャン! と、乾いた音。

 風向きが変わったのか、花火の煙が橋をおおい隠し、主塔にも押し寄せてきた。

 この小銃に秘められた〈憑き神〉がどんなものなのか、いずれ製鉄の神であろうという想像でしか、彼は理解していない。

 わかっていることは、彼自身が自室で鋳造する銀の弾丸、ハンターの世界で隠し弾とも呼ばれる最後の弾――〈切り矢〉が、いかなる標的にも命中し、粉砕するという事実だけだった。

 仕事は終わった。

 あとは死体回収専門の、おぞましい〈回収班〉を呼びつけるだけである。

「……それにしても、だ」

 南部は土手を遠望した。

 見おろす草むらでは、カエルの姿をした〈式神〉が、おっとり刀で自立起動して、土手に結界の五芒星を描きだしている。これほどの荒事をおこしても戦場に入りこむ者はおろか、目撃者もいないのは、神祇官が南部にいくつか持たせた式神符のおかげだった。

 さらに視線の先には、ついさきほどまで任務を妨げていた男――結城が土手下に降りていて、どうやらなにかを探している様子だった。

「妙だ」

 ひとりごちて、トランクから双眼鏡をつかみだすと、数百メートル先に焦点をあわせた。

 妙だ、というのは、本来なら倒れた良子を看るような動き、あるいは逃走しようとする振るまいがあってしかるべきなのだが、赤いシャツの挙動はそのどちらでもなかったからだ。

 すでに神懸かりを解いている結城は、淡紅色たんこうしょくに茂るアザレアのしげみから、なにかを拾いあげた。

 それはピンク色のお守りである。

 お守りの中心に、深々と銀色の弾丸が刺さっているのを、双眼鏡の向こうに認めたとき――南部は背後の気配に背筋を凍らせた。


 また、風向きが変わった。


 晴れゆく煙のただなかに。

 打ちあがるパレードの逆光と、航空灯の赤に染まって――。

 真うしろに、眩しげな目を細める良子が立っていた。

 からげたすそが、爆風にひらめく。

 南部は背を見せたまま。

 したたる脂汗、絶望的な無言のうち、すべてを理解した。

 音を殺すために選んだ、打ちあげの夜。

 花火の轟音は、主塔内部をのぼってくる階段の音と振動をも打ち消す、諸刃のつるぎだった。

 いや、そもそも弾丸はお守りの板ごときで防がれるほどヤワではない。

 と、なると、

(そういうことか……)

 望遠レンズの向こうでは、結城がお守りの中身を手のひらに見つめていた。

 黒光りする小さな石ころは、その実、とてつもない力を秘めた神聖なる鉱物――神社の中核であるご神体を物質的に切り分けた分霊わけみたま――だった。

 それがいまや、弾丸によって完膚なきまでに破壊されている。

「あかるのやつめ……」

 とつぶやいた結城の声までは、聞こえない距離だ。

 南部は、さりげないしぐさで双眼鏡をトランクにもどすと、かわりにナイフを取りだして、なめらかにライフル銃の先端に着剣し。

 ――振り向きざまに、切り払った!

 ガツっ――!

 銃剣は鈍い音を響かせ、遠く眼下の橋ゲタに回転しつつ吸いこまれていった。

 落着の音も聞こえぬ高所。

 彼らのいる主塔の頂点から真下の橋梁までは、およそ七十メートル、橋から川面まではさらに二十メートルはあろうか。

 目もくらむ高さである。

 呼吸いきひとつ乱さず、銃剣を蹴り払った獣の脚を、良子はゆっくりとコンクリートの上にもどした。

 極度に狭い空間に、濃密な時が流れる。

 一触即発。

 わずか三メートル四方しかない天面には、接近をさまたげる物はなにもない。

「正気か、柊良子……命綱いのちづなもつけずに、のぼってくるとはな……」

「命綱って、コレか?」

 良子は落ちていたロープの先端を、黒い足の指でつまみあげた。

 床面には鉄板の出入扉ふたがひらいたままで、内部に人ひとりやっと通れるほどの空洞が見える。円筒型の内壁には段梯子が備えてあり、ロープは金具に固定されていたはずだった。

 しかしその一端はいま良子の手に握られており、命綱としての役割を果たせそうになかった。むろん、逆端は南部の腰に結わえられたカラビナに伸びているのだ。

 南部は二人をつなげるロープに小さく舌打ちすると、背後の柵につかまろうと手を伸ばしたが、良子の腕がロープをたぐり寄せる動きのほうが早かった。

〈犬神憑き〉の膂力りょりょくは長身を宙に浮かせるのに十分で、立つ瀬のなくなった体はそのまま空中にとどまる。

 踏みだした良子が、胸ぐらをつかんで吊りあげたのだ。

 すさまじい背筋と腕力に、ジャケットの襟首を締めつけられ、毛むくじゃらの腕をつかみかえしたが、びくともしない。

 神懸かりではない彼に、これを払いのける力は無かった。

 自転車が、ブルドーザーに押し相撲を挑むようなものだ。

 血がにじむほど下唇を噛んだ良子と、南部の冷めた双眸が交わる。

「どうしてだ……どうしてあたしが、あんたに殺されなきゃならないの⁉」

「……そっちも〈お守りタリスマン〉装備とはな……オレの負けか……」

「答えろ‼」

 吊りあげられた体は、塔の鉄柵を越えていた。

 グっとつまったような声が喉もとからもれ、ゆるやかにのぼる微風にあおられて、ジャケットがはためく。

 眼下には白亜の巨塔が、果てしなくを伸ばしていた。

 橋梁を往来する車列がかすみ、ときおり行き過ぎる大型トラックの排気音が、小さくこだましている。

 もはや恐怖が麻痺する高度である。

「蟇目に頼まれたの⁉」

「……いいや」

「じゃっ……」

 南部は、うるんだ瞳から目をそらし、

「おまえが……」

「……⁉」

「おまえが蒼井を……神懸かりにしたんだろ……! おまえがいなければ……」

「……菊花……?」

 良子は呆然としながらも、目を泳がせた南部の胸のうちを感じたのか、ハッとした表情になった。にもかかわらず、

「あんた……菊花のこと……?」

 と言葉にしてしまった。

 それが隙を呼ぶ。

 わずかなヒビ割れから水がもれるように、ゆるんだ握力を見逃さなかった南部は、大きく脚を振り上げて身をよじると、首に食いこんでいた爪を反動にまかせて引きはがした。

 とっさに左腕を伸ばしてバランスを崩した良子と、コンクリートの突端を足がかりにして鉄柵にかじりついた南部が交錯して、次の瞬間には両者とも柵を越えて転落していた。

「あっ‼」

「くっ、う……‼」

 いや、かろうじて。

 シューズの甲が片方、きしむ鉄柵に残った。

 逆さ宙づりにぶらさがった彼の両腕には、立場が逆転した良子の腕がつかみしめられている。

 驚愕の四つの目がぶつかり、刹那の沈黙。

 手を離せば、良子の体は、はるか下の橋梁に落下するだろう。しかし南部は、浴衣の袖から伸びる獣の腕を離そうとはしなかった。

 この時なぜ、彼が自分を支えていたのか――良子は永遠に確かめることができなかった。

 ヒルルル――。

 束の間、安堵した二人の耳へ、間近に打ちあげられた花火が、死神の高笑いのように響く。

 いつもプログラムの最後を飾るのは、広範囲のスターマインだ。

 咲きほこる化学薬品の極彩色がドっと広がり、炸裂する火球の衝撃が主塔を震わせたとき、紙一重で引っかかっていた南部の足は、振動する鉄柵から無情にも突き放された。

 もはや、ささえるものは無く、両者は手を握ったまま、あっというまに数十メートルを落下した。

 風鳴りがゴウゴウと耳朶を打ち、急激な気圧差に押しひしげられて、内臓がきしむ。

「うっ……あ!」

 いざ生死の境に身をおくと、カン高い悲鳴などあがらない。

 良子は南部の手をつかんだまま、固い面に触れたヒザを感じて、思ったよりもずっと早くおとずれた終局に当惑した。

 しかしそれは、終わりではなかった。

 しばらく垂直に落下したあと、唐突に二人は傾斜角七十度の絶叫すべり台に強制エントリーしたのだ。

 橋の主塔は、頂上から垂直にさがったあと、途中で橋をまたいで枝分かれした、逆Y字構造である。

 彼らは、この片脚の表面に軟着陸したのだ。

 とはいえ落下は止まっていなかった。ゆるやかなカーブを描く主塔の設計によって、二人は橋ゲタへの直撃をまぬがれたものの、依然危機的な状況にかわりはない。

 眼下に川面。

 垂直落下ではないとはいえ、七十度という斜度は「斜面」というより「壁面」である。

 防腐コーティングされた塗装の膜は、どこまでもなめらかに二人を冥府の坂へといざなった。

 逆風を浴びながら、良子はコンクリートの継ぎ目に爪を立てようと試み、南部もシューズの裏や服地を使って――両者はあらゆる方法で摩擦を引き起こそうとしたが、これらの努力はほんの数秒、彼らの命を長らえさせる効果しか持たなかった。

 しぼり出した、この数秒が生死を分かつ。

 足もとに見える川が、

(クッションになるか……⁉)

 一縷いちるの望みを、そこに託すしかなかった。

 むろん、現実的にはかなわぬ願いである。いかに夏の川が連日の豪雨によって水かさを増しているとはいえ、このまま落下しては全身を強く打ち、即死はさけられないだろう。

 だが――もはや、そのわずかな希望ですらも怪しいものとなった。

 すべり落ちる視界に、コンクリートの巨塊。

 主塔を支える基礎、橋脚である。

 ブレーキングをあきらめた良子は、覚悟を決めたように目を細め、フっと息を吐くと、南部の腕を離し、その肩を抱くように身を寄せた。

「……おまえっ!」

「るっさい‼」

 背後に柱をはさんで、車が行き交う橋梁が過ぎる。

 落差七十メートルのエネルギーをためこんだ二人が橋脚に激突すれば、うまくいって全身骨折がオチだろう。

 それよりは一か八か、

(賭けるしかない……!)

 有無を言わさぬ怪力で南部を押さえこんだまま、獣の両足をふんばって急ブレーキをかけた。

 止まるものではない。

 しかし、つま先のブレを制しつつも、渾身の力を振りしぼって足を伸ばし、跳んだ――というより、反発で弾かれた、と言うべきだろうか。

 人外の脚力は、からくも主塔から離れるだけの初速を生み、宙に投げだされた二人は、四階ほどの高さから川面を見た。

 そこに。

(いる……⁉)

 アメンボのように流れにさからって、水面に男が立っていた。

 その手足は長く異様に伸びて黒々と光り、両腕のハサミとあいまって、どこか虫を連想させる異形だった。

 結城の〈中成り〉――すなわち〈髪切り〉の第二形態である。

 真上から自由落下する二人との距離をはかって、水上をすべった結城は、ハサミを構えると、

「……真空破断〈波切なみきり〉……」

 つぶやいて、眼前を流れる水に刃を走らせた。

 瞬間、白く波頭が狂って。

 大瀑布だいばくふが逆巻いて叫び。


 川は、分断された。


 上から下へ、ななめに走った刃は、差し渡し百メートルの川幅を切り裂いて、その流れを途中で断ち切ったのだ。

 しっぽを切られたことに気づかないトカゲのように、先行する流れは結城をのせたまま遠ざかり、切り口は徐々に水位をさげて地面に吸いこまれ、干上がった川底をさらした。

 切られたしっぽの方――後続の川は急激に切断されたキズ口をせきにして、さおだちの馬のように逆巻き、埠頭に押しよせる波のごとく水かさを増した。

 ――かつて、難破の危機にひんした船が、祈りに応えて出現した不動明王の剣に、大波を切りはらわれて難を逃れたという伝承がある。全国各地に伝わる〈波切不動尊なみきりふどうそん〉の由来であるが、結城はこれをやったのだ。

 平素の数倍も水量を増した川面に、頭を下にした良子と、抱えられた南部が小さな水柱をあげて没入していった。

 一拍をおいて――ようやく切断に気がついたように、水面はもとの流れをとりもどして、鉄砲水さながら先行する川を追っていく。

 ゆれる水鏡に、クジャクの羽のような花火が色とりどりに乱舞して、祭りのフィナーレを告げていた。


 川筋が正常な流れを取りもどしたころ――。

 浮きあがってくる、二つの人影。

 結城は、背に負った浴衣の少女とともに、岸辺に這いあがった。

 両者、精根を使い果たした様子で、ずぶぬれのほかは普通の姿に変わっている。

 良子は左の肩口以外に目立った外傷こそないものの、疲労で息も絶え絶えに身をあずけていた。

「……ありがと……南部は……?」

「ん……ああ、彼? さあね……運が良ければ、あがってくるんじゃない」

 この日、川から頭をだす南部を見たものはいない。

 ところで――。

 彼のライフル銃は水没していた。

 這うように流れをくだり、やがてとろを巻いたせせらぎの、緑の水草にからめとられて、短い旅を終えた。

 未明になって、これを拾い上げた白い手がある。



 ザクザクと、暗夜の山道を分けいっていく。

 深山幽谷などと言えば聞こえはいいが、ようするに手つかず、荒れ放題の峡谷なのだ。

 革靴から登山靴に履きかえ、フード付きパーカーをはおっているものの、その下は普段着――つまりツーピースのスーツなのだから、およそ山歩きに向いたファッションとは言えない。

 むしろ、いちじるしく不向きである。

「……寒いですね、さすがに……」

 まれにやってくる登山者のために、かたちばかりに整備された山道を、けだるそうに一人登る者。

 神祇官、蟇目である。

 牧市を見おろして扇状に連なった山々の、南端に位置する瑞照山ずいしょうざんは、り合わせたカミソリのような尾根と、つるぎの険しさをもつ峰で近づく者をこばむ、人跡まばらな異境であった。

 かつて山岳仏教の修行者たちが住み暮らしたという伝承があるそうだが、峨々ががたる急峰の山肌に生活跡のおもかげも無かった。

 ほの白い裸の岩棚を一歩一歩踏みしめつつ、蟇目は時おり足場の確かなところで立ちどまり、かなたの夜景へ顔をめぐらしては小首をかしげていた。

 北に広がる街なみを俯瞰ふかんして、なにかを探すしぐさ。

 宵の口には炎の花床はなどことなっていた夜空も、いまは星のまたたきを映す静謐せいひつの銀幕だった。

「……そろそろ見えてくるはず……ですがね……」

 白手袋に、等高線の地図。

 夏の深山はどこまでも清らかな大気を風にのせて、高度千メートル級の冷涼な高地に、ひとすじのぬくもりを運んでいた。岩山のところどころに、高山植物がけなげに顔をのぞかせているほかは、禿げ山といっていい殺風景な眺望だ。

 呪術師のこめかみの辺りには、青白い燐光を放つ鬼火が燃えて、ヘッドランプよろしく周囲を照らしている。

 満足な装具もない軽装で、高山の、それもすでに中腹にまで足を進めているのだから、どのような方法で山を登っているのかおよそ見当がつこうというものだ。

 神行しんこう法か縮地しゅくち術か――いずれ、まじないのたぐいであろう。

 蟇目は、携帯端末に何度めかの確認をすると、小さく舌打ちした。

 南部にあずけた式神符ふだが起動したのはわかっていたが、肝心の終了報告が届かないのだ。むろん、こうした仕事は、成否にかかわらず結果が通告される手筈になっているから、彼の身に、

(なにか問題が起こった……ということですか……)

 日ごろから不機嫌そうな顔に、さらにいらだちを募らせる。

 かのハンターが、指令を失敗したことはなかった。

 神祇院総裁の子飼いである彼の腕は信頼に足るものだったし、なにより、

(あの「最後の弾丸」が、しくじるとは思えませんが……)

 胸をよぎった、勝ち気な〈犬神〉の太い眉が、ため息に変わってうんざりと吐きだされた。菊花への想いに付けいり、南部をけしかけ、焚きつけたことなど、ほども気にかけていない。

 登る足をとめて、もどかしさを岩棚にぶつけると、そこが強固な岩場であることを確かめて立ち、小さな街の灯りを眺めた。

 どだい、人員が不足しているのだ。

 人口二十万に及ぶ都市でおこっている事件を、二人やそこらの調査で把握しようという楽観的な算段そのものが、おざなりと言わざるを得ないが、しょせん宮仕えの身には過ぎた考えである。

 さらに大きく愚痴をふくんだ息をつくと、まばゆいばかりに光を投げかける星々を見あげた。

 と、おぼろに隠れていた月光がもれだして、

「む……あれか……」

 燃える陰火を握りしめて灯りを調節すると、月影を白く照りかえす、はるかな森を注視した。

 遠目にも鬱蒼としげる深緑は、まぎれもなく照峰神社が擁する鎮守の森である。

 かすみがかった一角に――小高い丘。

 小山と言ってもいいような急峻は、平野にぽつんと浮かぶ小島のような取って付けで、いかにも不自然だった。おそらく木々に囲まれていて市街からは目隠しになり、高地から眺めたときにだけ全貌をあらわすのではないか――。

瑞祥山ここと、あの小山、そして照峰の社までは一直線……。と、なれば……あれは築山つきやまか。富士講ふじこうでもあるまいに……)

 ふくみ笑うと、入山前に観察した山の姿を脳裏に呼びだし、あらためて鎮守の森の小山と比較した。

 両者のつくりだす険しいシルエットは、精巧なミニチュアのように似かよっていて、偶然の一致とは思えなかった。

(なれば、あそこには注連縄しめなわがめぐらしてあるはず……入らずの縄ではなく、もののけを封じていた出さずの逆縄さかなわが……)

 ふと地面に目を移すと、苔むした岩の上になにかを見いだして、そっと拾いあげた。

 細い目をさらに糸のように、拾いあげた物体を穴があくほど見つめている。

 それはタバコの吸い殻だった。

 人も通わぬ深山なのだから、異常である。吸い口のあたりに刻印してある金色のロゴマークを観察した蟇目は、

「……これで間違いないですね……鏑木かぶらぎさん、ここまで来ていましたか」

 前任者の名をうめくと、おもむろに背をそらして、

「あなたたち、いいかげんでをやめたらどうです!」

 周囲の闇にむけて、あざわらうように呼ばわると、手の中の鬼火を振りむきざまに投げつけた。

 とたんに炎は青白く燃え広がって、爆発的にはじける。

 闇が動揺し、クモの子をちらすように拡散していく――岩棚にへばりついていた暗黒、雲霞うんかのごときのカラスたちのであった。山をつつみ隠すほどのおびただしい群れが、遠方から見ると、まるで立ちのぼる煙のように舞い踊っている。

 黒衣の凶鳥たちは、うずを巻いて列をなすと呪術師の頭上へ殺到し、太いくちばしと爪をもって、なだれのように襲いかかった。

「なめられたものです……!」

 蟇目は同僚の遺品をポケットに入れると、かわりに短冊を取りだして二本の指でなでる。

 たちどころに青銅の剣に変じた呪符を振るって、瞬く間に数十のカラスを打ちたおしたが、いかんせん数が多過ぎる。

 ギャアギャアと耳ざわりにわめきたてる鳥をさけて、小さな木立に隠れた蟇目は、ふところから最後の――そして最大の呪符を引きだして、呪法をとなえた。

 これまでにも見られた、ヒトガタに加工された札なのだが、厚みがある。

 低く流れる祝詞のりとのような呪法とともに、蛇腹に折りたたまれた末端が、パタパタと展開して伸びていく。ハサミ細工のようなヒトガタは長大かつ無限に伸び、岩山を飛び越えて山の背にまわり峡谷を過ぎると、そのころには術者の蟇目自身をも、押し花のように蛇腹の中にいった。

 中腹から舞いおりて、もやの煙る裾野を、山全体をぐるりと取りかこんだヒトガタの群れは、いっせいに身震いすると、むくむくとその姿を変容させていった。

 ――それは無数の神祇官、蟇目の姿であった。

 ザンっ。

 彼らは手に手に青銅の輝きをかまえると、一糸乱れぬ動きで地面を蹴って、頂上へと滑空した。

 恐慌をきたしたカラスの大群は蟇目に向かっていったが、飛びちがう呪術師の刃にかかって、ことごとく墜落していく。

 特命を帯びた神祇官にのみ発効が許可される、退魔呪殺の戦術級封滅符、

「奥義、〈大払おおはらえ〉……」

 呪術師たちは「一人一殺」でカラスを血祭りにあげると、徐々に姿を減らしていき、山頂に達するころには、その数は三人にまでしぼられ、斜面に鳥たちの累々たるしかばねの山を築いていった。

 残った三人の蟇目が、やいばを合わせた敵――。

 彼らは尋常のカラスではなかった。

 山岳の修験者の衣に、屈強な人間の肉体、黒マントのような羽、頭は忌まわしくもカラスのそれ――〈カラス天狗〉たちである。

「ようやくあらわれましたね……逃がしませんよ!」

「青二才め……! 前のヤツと同じ、大口を叩きよるわ!」

 隠にこもったしわがれ声で、くちばしを不気味にゆがめて笑ったのは、反り身の刀を交えている。

 名を一ノ岳いちのたけという。

 さらに、ひときわ長身の槍使いを二ノ岳、戦斧を振り回す短躯を三ノ岳といった。

 いずれも蟇目との腕は「互角……!」であるのか、それぞれ一歩も引かない鍔迫つばぜりあい、丁々発止の打ち合いにさそわれるように、山が身震いし、胴鳴りは剣戟けんげきの響きをかき消した。

 真実、山は鳴動していた。

 戦いの庭となったいただきに閃光が走ったかと思うと、山肌からにじみ出た白い影がしだいに巨大な翼を広げ、常人の背丈より倍はあろうかという白い衣をまとった巨体を出現させた。

 その面貌は、


 人にして――やぶにらみの両眼に。 

 人にあらず――朱色しゅいろむ猛禽の頭。


 ぎょろり、と。

 フクロウのような琥珀の瞳、黒いアゴひげを震わせ、ビリビリとしびれるようにせきこみ、

「踏みこみ過ぎたのう……おのれら木っぱ役人が、わしを退治するなど……身のほどを知れ」

「……さすがは僧正そうじょう殿……ご丁寧な口上、いたみいります。犬神つるめそう天狗ぐひんときて流星よばいぼしですか……よくも一役そろったものです。犬どもめ……」

 三人の蟇目は自嘲ぎみに笑うと、いったん刃を引いて体勢をととのえ、

瑞照山ずいしょうざん殿……! この北国には、あなたほどの〈大天狗おおてんぐ〉のはありません。いずこから移り住まれたのでしょうか……? あるいは、ここが故郷なのではありますまいか……⁉」

「くちばしの黄色いヒヨっ子が。知ったふうな口をきく……!」

 カラス天狗どもも舞いあがって、

朱嶽しゅがくさま、いかが始末いたしましょう」

「おまえたちは見物しておれ……! わしはもう自由が効くのだ」

「はっ!」

 宙にあぐらを組むと、文字通りに高みの見物を決めこむ。

 三方から襲う蟇目たちに向かって、巨大な手のひらをかざしたのも束の間、朱嶽と呼ばれた大天狗の手にいつの間にか握られた長尺の棍棒――節々に鉄環てっかんをはめこんだ六尺棒が、旋風のごとき大車輪を見せた。

 たかが棒切れ――と侮ることはできない。

「突けば槍 払えば薙刀なぎなた 持たば太刀たち 杖はかくにも外れざりけり」

 などと伝書に記されるように、棒術にはあらゆる武器の基礎が集約されている。

 神風しんぷう一閃――。

 蟇目は、己の肩を貫いたはがねを、最後まで認識できなかった。

 ヒトガタは無惨にちぎれた残骸を岩山に散らし、残った本体である呪術師も、右肩を砕かれて昏倒した。

 と、そのえりくびから一羽の白サギが顔をのぞかせた。

 つづけて呪術師の痩躯そうくがみるみる縮んで、一枚のヒトガタに変ずる。

 神祇官の最後の砦とも言うべき脱出用の呪符が、非常事態エマージェンシーを感知したのだ。

 かぎ爪にヒトガタをつかみしめた白サギは、弦をはなれた矢のように星空に飛びあがると、南の空へ向けて飛び立っていく。

 翼を広げるカラス天狗たちに、

「捨ておけ……! やつばらには何もできん……。おまえたちには苦労をかけたが、だいぶんに力が戻ったようだのう」

「はい……朱嶽さまがおられぬ時分には、あのような小役人の始末にも苦労するありさまでしたが……」

「われらは生得しょうとくの力を取り戻してございます。しかし……」

 言葉を引きとった二ノ岳が、口ごもった。

「うむ……。わしはなまじ〈通力〉が大きいために、万斛ばんこくの充実にはほど遠い……。やはりこの禿げ山では依り代として弱いのじゃ。人間ひとでなくてはならぬ」

「あの娘……約定やくじょうを守りましょうか?」

「果たそうとしておるわ……。すべては、わしの腹の内よ……」

 キツツキが幹をたたくような音が、山野に響く。

 笑っているのだ。

「いま少しの忍従であるぞ……」

 ヒビ割れて落ちていた神祇官のメガネが、峰を渡る嵐にさらわれて、音も無く谷底へ消えていった。

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