第十二章 ちかごろ世間に流行るもの

 制服でひざまずいた板間に、月光のすじが這いのぼっている。

 忍び手の一拍。

 二拍。

 祭壇にえられた、白木の箱を拝して。

 ひもを引いて、御簾みすを下げ。

 そそけた髪の陰で、音も無く。

 ――笑った。



 夜陰も深いころ――。

「聞いたか、あの高笑いよ、のう」

「おお聞こえた。天狗笑いではないかえ」

「もはやこの森に、彼奴きゃつはおらぬのだ、めでたいではないか」

「めでたいのは、おぬしの方じゃ。連中は、すぐにも舞い戻ってくるぞ」

「いまさら、なに用なのだ」

「あかる姫じゃ、決まっておろう」

 チン、トン。

 かき鳴らされる琴の調べを肴に、鎮守の森の奥深くで、有形無形の影がささやき合っている。

 ヒノキの梢に隠れた、ひそやかな宴。

 とっくり酒をかっくらう、体じゅうに御幣ごへいを貼りつけた赤鬼、あるいは毛むくじゃらの体に鉄釜をかぶったような化け物が、おどろに長い髪を引きずった大頭と、さかずきをかわしている。

 いずれも照峰の社をねぐらとする、奇々怪々の古顔であった。

 鉄釜のお化けが、月明かりに輝く酒杯をかたむけつつ、

「八橋よ、おぬしはなぜ涼しい顔でいられるのじゃ」

「……私はあかる様にお仕えしているのだ。巫女が斎戒につとめ、その身をささげようというなら、私は神降ろしの弦をなし遂げるほかあるまい……」

 甲高く、弓を引きしぼるような声音が答える。

 チン、テンツントン。

「では、なにゆえ忠誠を守るのじゃ。もはやまことの主は亡きものぞ」

「さて……あかる様も私も、こころ覚えの不確かな身。なれど余韻のごとく献身の思い残りて、寄る辺なき世にワラをもすがる」

 少しばかり爪弾きを休めた〈琴古主〉こと八橋は、それきりおし黙ると演奏を再開した。

 ギョウザのような月は、まばゆく光彩を放っていたが、祭りの終わった常夜とこよの街のくらがりを照らすことはできない。

 おだやかな夜風を切り裂いて、つむじ風が木々をゆらした。

 ケタケタとあざわらう声が、風にまぎれて届く。

「これまで閉塞していたものどもが、蠢きだしたぞ」

「瑞祥山を降りた眷属ども……すでに我がもの顔ではないか」

「今宵は、われら最後の杯かも知れぬぞ」

「照峰の山も今宵かぎりか……」

「今月今夜を忘れん。忘れるものか」

「三文芝居なぞ、よせ。せっかくのお神酒みき不味まずくなる」

「やめろやめろ」

 チンチンテンツントン、チン。



 どんよりと曇天がおおうかと思えば、焼けるような日差しが雲を追い落とし、時を選ばず激しい雨が叩きつけると、雷鳴をともなって大気を震わせた。

 祭りを終えたあくる日からというもの、のどかだった街はいたるところでパニックを起こし、日常を送ることすらおぼつかない混沌を呈していた。

 沈まぬ太陽が昼夜をあいまいにする白夜のように、終わらない黄昏時たそがれどきが、果てのない逢魔おうまどきが幕を開けたのだ。

 わずかな晴れ間とみて、ベランダに洗濯物を干し始めたエプロン姿の主婦は、ぱらぱらと頭上をちらつく感覚に空をあおぐと、あわてて屋内に逃げこんだ。

 降ってきたのは雨ではなく、小石まじりの砂である。

 どこからともなく飛来する砂塵さじんは、しだいにツブの大きさを増して、ついには天からグレープフルーツ大の石がいくつも落ちてきて屋根を蜂の巣にした。

 こうした〈天狗つぶて〉は、その一帯にくまなく降りそそいだ。

 また、ある場所では下校中の小学生たちを、魔風まふうがおそった。

 手をつないだ三人の男の子たちは、どうどうと吹きつける風に運ばれて、波のように押しよせた木の葉に、思わず目をとじた。

 おさまった風のなか、おそるおそる薄目をひらくと、真ん中にいた子供は葉っぱのかたまりに変じていて、それも微風に吹かれ、砕けるようにカサコソと舞い散っていく。

「あっ……!」

 残った二人の子らは動転し、まろび、逃げるように家路を駆けた。

天狗〉は、無差別に人々をさらっては高笑いした。

 陽が落ちると、駅前の繁華な通りでは、出火の通報が相次いで治安当局を困惑させた。

 スーツ姿の会社員は、同僚と並んでハシゴ店をさがしていた。

「もう一軒いっとくかい?」

「ぼちぼち帰らんと、カミさんがなあ……」

「まあ、いいだろ、たまにはさ。ほんと、いい感じのがいるんだよ、そこ」

 怪しくなった呂律ろれつでネオンの道をたどる酔客は、めざす雑居ビルを遠目に見て、立ちすくんだ。ビルからは、もうもうと黒い煙がたちのぼっていて、なにやら鼻をつく。

「おい、火が出てるぞ……!」

「どうするよ」

「呼べよ、警察。いや消防だ」

 コールはなかなかつながらず、ようやく消防車が到着したものの、そのころには火もとはおろか、煙すら幻のようにかき消え、通報者をあわてさせた。

「最近、多いんですよ、こういうのが……。ご協力ありがとうございました……」

 疲労の色が濃い、重装備の消防士が去っていくと、酔いはすっかりさめており、

「どうするよ?」

「どうもこうもないよ、飲みなおそうぜ」

 二人は、かの雑居ビルに入ろうとして、またしてもぎょっと身をすくめた。夜空から、きらめく火の粉が時雨しぐれのように打ちつけて、スーツを焦がしたのだ。

 小柄なカラス天狗といったふぜいの〈松明丸たいまつまる〉が、全身を這う舌のような炎をまとって飛翔している。

 燃えさかる松明をお手玉のごとく遊びながら、火炎をまき散らし縦横に飛びまわると、腹を減らした犬のように、みさかいなく建物を狙って飛びさった。

 やがてビルからは火の手があがり、喧噪の街を赤く染めたが、今度こそ電話はつながらず、炎は風にまかせて空をあぶった。

 また翌日には、真っ青な夏空に入道雲がむくむくとふくらみ、それはまさに巨大な人面のような異相で、人々を驚かせた。

 道行く者は徒歩も車も、これまで知った道とは違う通りへ気ままにつながる地理にとまどい、畳二枚ほどもあるムササビの怪物〈野衾のぶすま〉は、いたるところで暗幕のような腕をひろげて、道をふさいでは交通を乱した。

 再び夜がおとずれると、時ならぬ稲妻がとどろいて変電所に落雷し、飛来した〈雷獣らいじゅう〉が思うさま電力をむさぼって、停電を引きおこしては被害を拡散する。

 魔障ましょうは増幅し、三日もたつと街の機能を半身不随に追いこみ、それでも止む気配は無かった。

 しかし、これらはまだ、災いの前兆に過ぎなかった。



 閑静な緑地に流れこんだ小川は、ふり積もった泥のベールで水底みなそこを隠していた。

 野草の生いしげる川岸にへだてられ、さびしげな沼地が冴えない空を反射し、暗緑色にしずんでいる。

 季節にふさわしく、背すじをのばした白樺の樹林が鮮やかな若葉をたたえていたが、それもどこか気落ちしたように、気だるい午後の薄曇りからもれる、ささやかな陽をあびていた。

 昨日の雨に降られた芝生は、ほとんど乾いているようだった。

 木立をぬって、廃線になった線路の枕木を敷きつめたという、黒光りする木造りの小径が敷かれている。

 そこを歩む者――南部行平である。

 夏服のシャツにニットベスト、チェックのパンツ姿の南部は、いくぶん足を引きずるしぐさで、沿道に置かれたベンチへ大儀たいぎそうに腰をおろした。浅黒い頬に、すりキズの跡が生々しい。

 ベンチのひざかけに下ろした腕で、疲れきったように顔をおおっていたが、

「遅かったな」

 目をむけようともせず、小径にむかって声を発すると。

 行く手にぼんやりと影――黒シャツに黒ネクタイをしめた、服喪のような結城が、両手をポケットに入れて立っていた。

「どうして僕が来るとわかった?」

「どうして、だと」

 南部は自分のシャツのえりもとに手をまわすと、なにかをつまむようにして目の前に差し出す。

 キズだらけの指にはさまれて蠢く、瑠璃るり色の甲虫。

 それは、一匹のカミキリ虫だった。

「あんたの神使つかわしめ、だろ? 昨日から周りを飛びまわって……ストーキングは、うっとうしいぜ」

「気づいていたのか……。さがしたよ、南部くん」

「お礼参りとやらか」

「僕はそれほどヒマじゃない」

 結城は、じらすように歩むと、黒土に残る泥濘ぬかるみを踏んで、ベンチの背後にまわった。

 長い手指が、白いニットの肩に触れるか触れないか、といった境界をさまよって揺れた。

 差しこんできた晴れ間が、白樺の葉をぬって、網の目のような木漏れ日を二人に落としている。

 南部は片手をあげて、結城の手を払うようにすると、たなごころの虫を中指で弾き飛ばした。虫はあわてて羽を広げると、小径をたどって消えていく。

 黒い歩道は、木々をさけるように曲がりくねって、景観と調和している。目の前には沼地へ通じる枝道が細くわかれて、その先に赤い実をつけた灌木のしげみが、深い垣根となって密生していた。

 いつもは近隣の子供たちが公園へ駆ける河川敷の経路だったが、ここ数日の悪天候と世上の乱れのため、人影もない。

「南部くん、あのスカした男はどうした」

「連絡がとれなくなっている……。まあ、オレが見限られたのかも知れんがな」

 ベンチからのっそりと立ちあがった南部は、小径を横ぎって、そびえ立つ白い巨木によりかかると、息を吐いた。

 結城はベンチの背に、腕ぐみするように両ヒジをつき、

「落とし物が見つからない?」

「だれかに拾われて、当局に押収されていれば、むしろラッキーだが……最悪のケースも考えられるからな。こうして探してんのさ」

「良子さんも探している。きみを、だ……。きみを仲間にできないかと言うんだけどね」

「あいつ……どうしてる」

「気になるのかい?」

「……仲間、って言ったな。それはがいる、ってことか」

「とぼけるね、きみも。僕らはもちろん神祇院を敵視しているが、そっちは問題じゃない。連中が何をさがしているのか、いや、誰が混乱を引き起こしているのか……きみは知っているのかい?」

 ベンチの陰を出た結城は、さくさくと芝生を踏み渡り、小径のなかほどまで近づいた。

 南部は少し肩をすくめると、シルバーのアクセサリーがぶらさげられた革ベルトに、無意識に触れた。

「……オレも詳しいことは知らない……が、このままじゃ各個かっこ撃破されそうな状況だしな。いいだろう……」

 腰の飾り物をもてあそぶのをやめて、まっすぐにベンチの方を見すえると、重い口をひらいた。

「あの学校にオレを編入させたのは、前任の神祇官だ。そいつには会っていない、すれ違いでそいつは……鏑木といったかな……消えた。どこまでつかんでいたかは、わからんってことだ。メガネ野郎は鏑木の後追いみたいに調査をすすめていて、あの夜、山を調べに行くと言ってた」

「山?」

「瑞祥山というらしい……。天狗岳とか、修験者がどうのと言ってたかな。で、やつも消えた。オレが知ってるのはこのくらいだ。その……天狗とやらがボスなのか? ……おい、どうした」

 南部は、なかば青ざめた結城の顔色を、不思議そうに眺めた。

 どこか思いつめた表情に向かって、さばけた口ぶりで、

「その顔はなにか知ってる、って感じだな。話せよ、こっちもハラを割ってんだ」

 だが結城は、とぼけるでもごまかすでもなく、ただ放心の態だった。

「おい……」という呼びかけに、ようやく我にかえって、

「ん……ああ、どうした……? いや、すまない。何を聞きたいんだ?」

 南部はあっけにとられて毒気を抜かれ、年相応の少年の笑顔になると、思い直したように沈思して、背を向けた。

 かくれんぼの鬼のように、真うしろの白い幹に腕をあてると、

「蒼井菊花の件な……」

 と、ぼんやりした調子で口をひらいた。

「……菊花さん……? が、どうした」

「あんたは蒼井の髪を切ったと聞いた。いや、〈依り代〉としての髪をだ。なぜ中途ハンパに切ったんだ? あんたの〈中成り〉を見た……。あれなら一度に切って、憑き神を落としてしまえた……んじゃないのか……?」

 ようやく質問を返し、木肌から離れて振りむくと。

 ――ドシっ!

 という、重い音が空気を震わせ、遠く垣根のなかで若芽わかめや赤い実をついばんでいた鳥たちが、追い立てられるように、いっせいに飛び立った。

 棒立ちの南部に、冷ややかな結城の瞳。

「彼女はね……いわばエサだ。あかるから憑き神を引っぱり出すためのエサ……。だから僕にとっての戦いは、もう終わったと言ってもいいのさ」

 ぐらりと揺れた長身が背後の木に寄りかかると、それを合図にして、

 ざあっ――。

 米びつをひっくり返すような音をたてて、少年の体から真っ赤な血しぶきが扇状に広がって、黒い枕木の小径を汚した。

 右のわきばらから、左の肩口まで、袈裟がけに深く斬り割られている。

 ごぼり。

 喀血かっけつする。

 背を幹にもたせかけて、ずるずると下降する南部に、平静を取り戻してほほえむと、結城は鋼の右腕を、人の形に戻した。

 わずかばかり返り血を浴びたようだが、それを見越しての黒服だった。

 にぶい金属音が鳴って。

「惜しいな……さかしいのは好みじゃないのさ」



 どす黒い夕日は、厚く渦をまいた雲を、血の色に染めていた。

 昨日までの荒天がつくった水たまりが、濁り水に不吉な雲を映しだしている。

 雨に閉じこめられていた子供たちは、親の心配など知らず外遊びを満喫していたが、夕方になって帰宅をはじめた。

 陽がしずむにつれ、徐々に空気は湿り気をおび、川沿いでは家々の軒まで、が広がりはじめていた。たちこめる霧に、沈みゆく夕日が薄紅色を投射して、どこか猥雑な幻灯をつくりだしている。

 その夕霧のなかを、八つばかりの少女が自転車にまたがっていた。

 上気した顔で、友人たちに大きく手をふると、

「バイバイ!」

「バイ! 明日ね!」

 声を返されて笑い、地面に足のつかないママチャリを、懸命にこいで曲がり道を急ぎはじめた。

 ばしゃばしゃと水たまりを弾きながら、少女はふと、足を止めて振り返った。

 なにごともない。

 向きなおって、またしても見かえる。なにも見えない。

 しかし、あどけない顔は、恐怖にこわばっていた。

 自転車のタイヤが水を踏むのとは別に――うしろに音があるのだ。

 ばしゃばしゃばしゃばしゃ。

 必死にペダルを踏みこむが、音はしだいに近づいてくる。

 やがて追い越しざま、風のように通過したそれがタイヤに引っかかると、少女は自転車ごと横転した。

「痛っ……!」

 すりむいたヒジを確かめようとして、息をのむ。

 目の前に、ヘビがいる。

 尋常の生き物ではない。

 ひとかかえほどもあるトグロをまいて、鎌首をもたげたそいつは全身とげのような毛に包まれていた。いや、うろこの代わりに、とげが生えているのだ。

 赤金あかがねに光る邪眼のぬしを、〈槌転つちころび〉という。

 本来なら、相手が転んだのに気をよくして立ち去る程度の小者であったが、山から降りたばかりの彼は気がたっていて、じけて声も出せない少女に凶相をさし向けると、おどかすように粘液のからんだ牙を閃かせた。

 突然――きゃんきゃんと激しく吠えたてる声に、槌転びは外見に似合わぬ小心ですくんだ。

 近所を散歩に歩いていた主婦と飼い犬が、側面に立ち、必死の面持ちでにらみつけている。

 散歩の主婦、すなわちひいらぎ千鶴ちづるは、厚手のパーカーにホットパンツという、暑いのか寒いのかはっきりしない格好で――実際、不安定な天気だったのだが――千代丸のリードを短く握っていた。

 千鶴や少女の目に、もののけは前述のような異様な姿には見えていない。巨大なヘビとして認識されているのだ。

 ただ、さかんに鳴きたてる柴犬だけが、その本性を見きわめたようである。

「さ、立てるかな?」

 にっこり笑って、逃げるようにうながした千鶴は、大蛇を牽制する千代丸を頼みに自転車を起こすと、少女は必死に車道へ自転車を入れて、あとも見ずに逃げ去った。

 闖入者に目を白黒させた妖蛇ようだは、吠え声にいらついて牙をむいたが、千代丸のフットワークにかわされ、するどい牙は伸びきっていたリードを断ち切った。

 自由になった余勢で転げた千代丸が立ちあがる間に、ぎょろぎょろとした目が血走って、斬りつけるように千鶴をやぶにらみにする。

 この一瞬――千鶴はまさに魅入られて目を細め、瞬間催眠におちいったように、その場にくずおれた。

 千代丸はノミのごとく跳ね回って吠え、時にはかみついたが、体格差と剛毛に阻まれて、どうにも歯が立たない。口もとを嗜虐的に歪めたヘビは、無抵抗に倒れた白い脚へ舌を伸ばして――。

 引きつったように凝固した。

 首ねっこを押さえる、力づよい腕。

 あらがうヒマもなく宙へ投げ上げられた槌転びは、それでも身をひるがえらせ、邪魔者の背に向かってアゴをひらき、反撃に転じた。

 が、それが最期だった。

 制服の背を向けたまま、〈生成り〉の良子が固く握りしめた裏拳を叩きこむと、大蛇のアゴは頭部ごと粉砕され、血煙は霧に溶けこむように消え失せた。

 だが、窮地を脱したというのに、柴犬はいっそう縮みあがってしっぽを丸め、

「……待ちなさい! こら、千代ちよ!」

 鬼気迫る〈犬神〉に震え、制止にも耳を貸さず、ついには恐慌におちいって、脱兎のごとく駆けだしてしまった。

 追いかける一歩が踏み出せず、逃走を見送って途方に暮れたが、倒れた母を路上に捨て置くわけにもいかない。

「また脱走かあ……」と嘆息したものの、いったん子犬を放置し、千鶴をかかえて帰宅するしかなかった。

 ぐったりとした千鶴をリビングのソファに寝かせて、そっとブランケットをかけると、子供のようにすこやかな寝息が聞こえ、良子はようやく安堵の息をはく。

 南向きに大きく切られた窓から、浅くなった霧を透かして茜の陽が漏れてきたが、定まらぬ心はかすみがかったようにふさいでいた。怯えた子犬の顔が胸をたたき、窓外をさがすこともためらわれる。

 暗鬱を照らすような夕焼けを浴びて、まぶたのうらへ去来する情景があった。

 長く伸びた、寄り添う二本の影。

『でもね、良子、』

 幼いころ、菊花を守った日の帰り道――。

 夕日が呼び覚ましたおぼろげな記憶は、手をつないで家路をたどる母子の姿だった。

『ケンカっぱやいのも、あなたの優しさから出てるってこと、お母さんはわかってるの。だから……』

 見あげた先に、柔和な顔。

『あなたの信じるように、しなさい』

 てっきり叱られると思っていたから、判断をゆだねられたことが、かえって内省ないせいをうながしたのだろう。それからの良子は、あいかわらず短気で向こう見ずではあったが、軽々しく暴力を振るうことは無くなった。

 彼女には学校の授業以外で、格闘技の経験は無い。

 貫手ぬきてにしろ裏拳にしろ、きかん気な良子が、常に体格で劣るハンディを埋めるための一撃必殺、戦意喪失をねらった急所への攻撃のため、実戦でつちかったセンスだった。

 まじまじと寝顔を見つめていたが、キッチンからくすねておいた大福モチをほおばると、

「いってきまふ……!」

 決然とした瞳に笑みを浮かべ、赤いスニーカーのひもをしっかり結んで家を出た。

 後ろ手に扉を閉めたときには、夕日は完全に山際へ没している。

 日没の残滓ざんしに向かって、駆ける、駆ける。

 霧のかわりに、らせんを描いた緋色の雲が、街全体を覆いつつあった。

 らせんの中央には、めざす聖域――照峰の社があるはずだ。


 この日の昼すぎのこと――。

 数日をうつうつと過ごした良子は、ようやく重い腰をあげると、ひさびさの補習授業を受けるため登校した。

 授業をうわの空ですごすと、ここ一週間あかるに会っていないことを思いだして、三階のクラスを訪れてみたが、進学補習クラスに姿を見つけることはできなかった。

「あの……照峰さん……。照峰あかるさん、いますか?」

「は……照峰……? ああ、あの子ね……」

 そらとぼけるように応じたセミロングの三年生は、友人の輪に戻ると、値踏みするように下級生を眺めて、くすくすと笑いあう。

 気まずくなった良子の耳は、

「ナニヨ、アレ……」

「テルミネ、ダッテ」

「ヤダ……オバケガ、ウツル」

 卑俗なトーンのを、確かに聞いた。

 再びドアの前にやってきた三年生が、

「休んでんじゃない? あの子、成績関係ないから」

「関係ない……?」

「どうせ神社継ぐんだから。お父さん、ご病気だそうだし」

「あ……そうなんですか……。すみませんでした」

 なかば呆然と去りかけた背中に、

「まあ、出席しても、あの成績じゃね……やる気あるんだか。跡継ぎくらいしか進路ないでしょ」

 あざける少女に、おもむろに振りかえった良子は、すばやく手首を繰りだすと、彼女の頭上に浮いていた物体を引きずり降ろした。

 それは、手のひらサイズのヤジロベーのような形で顕現した、赤ら顔の〈しょう天狗〉だった。

 三年生は我にかえったように恥じいって、頬を染めると「じゃ、じゃあ」と教室に逃げ戻った。

「あんたみたいのがしゃべらせてんでしょ、聞きたくない本音ことまで聞こえちゃう」

 廊下を歩きながら、つかんだままの〈小天狗〉をとがめると、

「アノ娘は生来せいらい、鼻っぱしらの強い、増長ぞうちょうのタチよ。わしのせいではないぞ」

 奇妙にくぐもった反論を、いらだちをこめてメキメキと握りつぶすと、「キュウ」と言って、もののけは四散した。

 下校途中の生徒のなかにも、ある者は背中に、ある者は腕にぶらさがって――本人の気づかぬ間に取り憑いた、小さな憑き神をいくつも見つけた。

 神懸かりは、特別なものではない。

 怒りの〈鬼〉、嫉妬の〈橋姫はしひめ〉、うらみの〈般若はんにゃ〉、貪食どんしょくの〈餓鬼〉に肉欲の〈青女房あおにょうぼう〉、校舎を出た通りをうろつく、金の〈亡者〉や詐言さげんの〈むじな〉――キリが無かった。

 良子は彼らを嫌悪しつつも、ひるがえって自分をかえりみた。

(あたしも、自分の欲求を満たすために憑き神を付けたんだ。けど……みんな多かれ少なかれ、こういう気持ちを持ってる。あたしたちは……みんな、心のうちにお化けを飼ってるのかな)

 すっかり陽も落ちて、妖気ただよう街並を、良子は駆けた。

 学校でのできごとや、襲われた家族のこと、友人たちのねたみや裏切り――ない交ぜになった行き場の無い感情は、やがてその元凶たる一点を収束させて、彼女の胸に答えを突きかえした。

「あかるさん……」

 爆発寸前の焦燥がエンジンになって、彼女の脚を動かしていた。

 耳をくすぐるようなが、陰にこもって浮かれ騒ぐ。

 薄暮はくぼに乗じて、地を這う蟲に、飛びゆく鳥に、風にまぎれて。


 うれし うれしや おがみもの

 うれい わずらい おやしろに

 いっさいがっさい たいらげて

 きれい さっぱり ころもがえ


 宿主を持たぬもののけの群れが、暗夜を待ちきれず夜行やぎょうの列をなして歌い、みだれ踊る。遅速ちそくはあれど、練り歩く有象無象は、一様に照峰の社を目指していた。

 あの雲の渦の下に――。

(あかるさんに会えば、この混乱はおさまるんだ……)

 思いはすなわち、凶事の原因はあかるなのではないか――という直感をおおい隠す詭弁きべんだった。

 彼女は良子に優しかったから――。

 暗く沈んだ森を突っ切って行きたい衝動を抑えて、深い木々を背景に、走る。

 と、鬱蒼とした緑に、ひとひらの淡雪のような姿が跳ねた。

「……千代丸……?」

 嵐の種をはらみ、樹海は凪いでいた。

(錯覚……? けど、きっと……)

 わずかな逡巡のあと、広大な森を迂回しきった先に現れるはずの鳥居をめざした。

 もしも、千代丸に再会できるなら、それはきっと、

(あのときの、森のなかの広場だ……)

 疲労ではなく、胸さわぎに息が乱れ始める。

 そのとき、横合いの車道から急ブレーキの音が聞こえ、レトロタイプの軽自動車が、目の前で停車した。

 見覚えのある車の、窓がひらいて。

「乗って! いっしょに行こう……!」

 災厄をいたむような、黒いシャツの結城だった。

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