第十三章 赤いかんざし

 白いはぎに、肩に、髪に――水滴がはじける。

 浅暗い本殿の裏手で、板敷きのたらいに満たされた冷水が、宵闇の月影を浮かべ、ゆらしていた。

 はちまきを額に、下帯ひとつ、手桶にんだ水を、

さきわいたまえ……」

 聖別しては、たたきつけるように、かぶる。

 みそぎを終えた裸身を、雲間の月光が照らしていた。

 体をふき浄め、白衣しらぎぬと緋袴を身につけると、板敷きを降りたぞうりの足が樹海の傘へ消えていく。

 引きむすんだ唇に、迷いは無かった。



 あいつぐ道路障害のため、規制の敷かれた車道をあきらめると、良子と結城は車を捨てて走った。

 巨大な一の鳥居が、黒々と見おろす。

 ためらうことなく参道に駆けいると、鳥居の列は二人の顔にコマ送りのような影を投げかけた。

「いないわ……! 灯りがついてない」

「奥かも知れない」

「やっぱり、森のなかだと思います?」

 無言でうなずく結城に、

「奥に何がいるのか、結城さんは知ってるの?」

「僕には……あかるがなのか、わからない」

「何を……? そいつが、この街にお化けを呼んでるのかな」

「そう、だけど。それは前触れにすぎないと思う」

「前触れ……?」

「こいつの本懐ほんかいは別にある……!」

 本殿わきの木立をかすめ、濃淡をつぶされた緑の影絵が取りまく、鎮守の森へ分けいる。

 むせかえるような夏の木々を過ぎて、ざわめく笹やぶをあとに。

 どこかに水辺があるのか、カエルの押しつぶされたような声が低く聞こえてくる。

「やっぱり、あいつ……南部にも、協力させたほうが、良かったかも、ムカつくけど!」

「あいつは無理だ……。見つからなかったよ」

 結城は走りながら、己の右手に一瞥をくれた。

「逃げたな、南部!」

 ざくざくと、からみつく雑草を踏みこえて、深奥へ。

 樹林は深まるにつれて、いざなうようにひらけ、カエルに代わって幽玄な琴の音色がこずえを渡っていた。

 結城は耳におぼえた旋律と、どこからともなく聞こえる祝詞のりとに、慄然と身をすくませた。

 突如、解放された視界の先――。

 そこは、斎場であった。

 樹海を巨大な手のひらで押し広げたような空間に、堆積した葉と下生えの草がまだら模様のじゅうたんとなり、中央には菱形ひしがたの巨岩――磐座いわくらが、ステージさながらに鎮座している。 

 壇上に、冥界を守護するがごとく、かんぬきのような白い影。

 磔刑たっけいのイエスのように、見えない糸に腕を吊られた、

「……あかるさん!」

 広場にあらわれた侵入者に、磐座を囲んでいた警護の目が、カっと見ひらかれた。

 三方にひかえた濡れ羽色の影法師、〈カラス天狗〉たちが片ヒザを解き、背面の一羽を残して立ちはだかる。

 巫女の首すじをつたう汗に、ばちばちと爆ぜる熾きの炎が反射して赤い。

 普段の明眸めいぼうがウソのように、献じられたにえの瞳は虚ろにひらき、ただ口もとに薄く笑みを浮かべていた。

 だしぬけの雷光が、厚い雲の渦を割って森のどこかに落ち、身がまえた良子は目をおおった。

 続いて天と地を結ぼうとするかのように、稲妻が幾度も光の帯を引いて、直撃した大樹を根こそぎ弾き飛ばした。

 真昼の光が、胃の腑をゆする激震とともに斎場を満たす。

「手遅れか……。これほどさわりがあるとは、思わなかったよ」

 独り言のような結城のかすれ声に、疑問をさしはさむ余裕は、良子には無かった。

 黒雲が不穏な気配をはらんで、しばし鳴りをひそめると――。

 うねるような焦燥と静寂のなか、宙づりの木偶でくとなった巫女は、さまよう瞳をようやく帰還者に振り向けた。

「兄さん、おかえり、なさいませ」

「あかる……久しぶりと言いたいが……いったいなにをしたんだ」

「やくそくよ」

「なに……?」

 カクンと首をかしげると、どこか誇らしげに流し目をそそぎ、

「天狗さまとの約束、私が果たしました」

「バカを言え……。いいか、その天狗とやらは、僕の時にもあらわれたんだ……! 僕はそいつをはねのけた! 約束なんて、守る必要はない!」

「異なことをおっしゃいます。信頼を裏切ってはいけないと、兄さんも私に教えたではありませんか」

「そいつは邪神ですらない、ただの年りた化け物だ。父さんは神降ろしに失敗して、もののけをおまえに降ろしたんだよ! 母さんを助けたかったのは認める……けど、相手は神じゃないぞ」

「思い違い、されているようね」

「……なんだ……?」

「天狗さまとの約束は、私のものよ……! 私が頼んだの、母さんの病気を治してほしいってね。そして、叶ったのよ」

「あかる、おまえは……」

「きっかり一年、母さんは長らえたわ。私には、それで充分。今、この身も心もすべてささげることに、悔いはありません」

「待て、あかる! そいつは、おまえを依り代にするだけでは済まないぞ……!」

 瞬間――閃光が網膜を焼き、大地が裂けたかと思えるような崩落が耳をろうした。

 雷の一端が、毛細血管のように枝を伸ばして磐座を直撃し、紫色の光は巨岩を真っ二つに割り砕いて、破片をまきちらす。

 巫女の背後に――二人羽織のように重なった凶鳥が、羽をすぼめて白く降臨していた。

 憤怒に焦がした顔、白銀の蓬髪ほうはつ

 まがまがしく血走ったまなこが、無言のうちに周囲を圧する。

 赤黒いくちばしを突き出すと、

「ものども……大願成就であるぞ……。我は瑞祥山ずいしょうざん朱嶽しゅがくなる」

 傲然ごうぜんと言い放った。

 眷属のカラス天狗たちが、いっせいにひれ伏す。

「我は齢も知られずして、奉還ほうかんのおり、深山に押しこめられた〈大天狗〉なる。いまこそ我らが怨讐を晴らすときぞ」

 良子はあっけにとられて、結城に向きなおり、

「なんなの、あいつ……! あかるさんの憑き神は、神さまでしょ? 〈天若日子あめのわかひこ〉じゃなかった?」

「さっきからおかしいんだ。この社には……祭神がいない」

「……どういう……ことなの?」

 背後の鬼神にささえられるようにして、ゆれ立つあかるが口をひらいた。

「兄さんは、そんなことも知らずにいたのですか。道理で父さんの神葬祭しんそうさいにも、お見えにならぬはず」

 目を伏せ、歯をくいしばる結城に、良子はかけるべき言葉を見つけられなかった。

「この娘はな……」

 朱嶽が、あざけるような、しゃがれ声を発した。

 岩をこすりあわせるような声音に、ときおり空咳からぜきがまじって、不快きわまりない。

「父親の死後、七日の斎戒を経て、わしを受け入れようと備えたのじゃ。それもこれも兄君あにぎみがわしを拒んだために起こったこと……」

「あ、あかるさんのお父さんが……死んだ……?」

「そう、」

 吊られたあかるが、焦点の定まらない瞳に良子をおさめた。

 深淵をのぞきこむ、冷えた瞳――。

「父は七日前、ちょうどあなたと菊花さんの訪れた晩、私が写真を捨てた晩、亡くなっていました。奇縁と言うべきでしょう。あの晩は、私が〈天若日子〉を使役した夜でもあったのですから」

「やめないか、あかる!」

 良子は、激昂する結城をいぶかしげにながめた。

 あかるも、ちょっと小首をかしげて、

「兄さんが気がつかぬとも、仕方のないこと。伊太郎さんと松枝さんに手伝ってもらって、ふふ、私が斎主さいしゅであり、ただひとりの肉親であり、喪主だったのです。なにしろ氏子総代はもとより、あらゆるお社のかたたちも、だれひとり列席されなかったのです。みな、照峰の祟りを恐れてね」

「祟り……?」

 バチリ、と。

 かがり火が弾ける。

 良子は、またしても結城を見つめた。

「……照峰の家には、呪いがある。宮司が代替わりすると、当代の家族のうち、だれかが神に取られる。妻であり、娘であり……女を殺す神、いやだ。父の代では……」

「私たちの母がいけにえ、だったのです。十年前の父は、天狗に呪われた母の病をいやすため、私たちを依り代として神を降ろし、延命をはかったのでしょう。しかし、あらわれたのは、この、」

「わしは器を……人間の依り代を求め続けた。それを呪いと呼ぶならば呼べ。かつて陸奥むつの山神であったわしを、異人討伐をかかげた時の政権にそそのかされ、おのれらの身かわいさに放逐し、あまつさえ逆賊よばわりとは」

「そうか……。朱嶽よ、おまえの前身は山神であり、すみかを追われた先住民えみしの亡霊なのだな……!」

「それもまた、我が巣穴よ……。これより朋輩を呼び寄せ、放埒ほうらつのかぎりを尽くす者どもに、目にもの見せてくれるわ……!」

 下生えを踏んで、一歩進みでる結城に反応して、カラス天狗がにらみを効かせた。

 らせんの雲に、雷鳴が轟く。

 閃光が、行く末に輝く剣のような小山を照らし、し方には樹木の梢を抜いて、一の鳥居が頭を見せていた。

 市中から数分の境内だというのに――森は魔境だった。

 まつろわぬ神の異形の末裔まつえいは、渦まく暗雲にひらいた天窓にきらめく星々を眺め、くちばしを醜くゆがめた。

「わが同胞も猛っておるわ……。三羽ガラスよ、木っ端妖怪どもは、まかせる」

「御意に」

「わしは、この娘が依り代としてふさわしいのか、試さねばならぬ」

 ふくむような声色を、あかるに向けた。

 と、ふしくれだった鉤爪が、クモのように巫女装束の上を這いまわり、もて遊びはじめる。

 宙づりのあかるが、小さくうめいた。

 すかさず、良子がこぶしを振りあげる。

「こらあ! やめなさい、エロ天狗! けがわらしい!」

「ぬかせ! 毛皮はそっちじゃ、小娘! それを言うならけがらわしい、じゃ」

「あ、そか」

下賎げせんな犬神の分際で、口出しなど百年早い!」

「ゲーセンだかカラオケだか知らないけど! あかるさんはお父さんも亡くなって、どんなに辛いか、あんたみたいなトリ頭にはわかんないでしょ! 跡取りもいなくなって、それでも自分が生まれた家と、神社を守ってさ……。学校でも辛い目にあってんだよ、あかるさんは!」

「……良子さん……?」

「ごめん、あかるさん! あたし、気づかなかったね……あかるさんの気持ち……!」

「引っこんでいろ、犬め。朱嶽さまはお忙しいのだ。どうあがいても、ノラ犬ごときが太刀打ちできるお方では、ない」

「できるかできないか……!」

 あっさりとカラス天狗の挑発にのった良子が、〈生成り〉に変化へんげする。

「……やってみないと、わからないでしょ!」

 するや否や、制服のスカートをひるがえして、猛然と手近な三ノ岳さんのたけに体当たりをかけた。三ノ岳は短躯をかがめて衝撃を吸収すると、背の黒羽を展開してバランスをたもち、手にしていた得物――身の丈ほどもある戦斧を横なぎに払った。

 そのときにはもう、良子の体は軽々とバク転、着地を決めている。

「スローだな、カラス!」

「きさまっ……!」

 一方、槍を突きだす二ノ岳にのたけを相手に、結城はやはり片腕のみを変化させる〈生成り〉をもってさばいていた。

 腰に両刀をたばさんだ一ノ岳は、磐座をはさんで彼らの対決を注視していたが、やがて背を向けて地面にあぐら、伏兵を警戒して耳をそばだて、 

「さあて……なにやらキナ臭いぞ……」

 瞑目してつぶやくと、ニヤリとくちばしをひねった。

 キィン――。

 金属の触れ合う音が、しめった空気をゆらす。

 結城は遠間とおまから一気に距離をつめて、槍を振り払ったが、二ノ岳はだまって斬られるほど凡庸な相手ではない。

 すばやく組みつくと、互いに刃を振るう空間を殺す。

 両者は肩を突き合わせて凝固したが、これは結城の意図した運びだった。

「あかる、おまえは……! おまえの法力は子供のころとは違う! 若日子を制したおまえなら、山天狗ごとき統率できるはずだ!」

 されるがままに蹂躙されている、虜囚に向かって言い放った。

 夢から覚めたように、あかるが顔をあげる。

 うつろだった瞳に、生気が宿ったかに見えた。

 が――。

 これが悪夢のはじまりだった。

 大気は粘性を強めてこわばり、渦まく雲すらも凍りついたように伸縮をにぶくした。

 巫女は――とがめるように結城を見すえている。

 結城は視線を泳がせて、二ノ岳と拮抗していた力をゆるめたが、それは立ち合うカラスたちも同じだった。

 彼らは一様に自分が、

(なにか、とんでもなく錯誤している……)

 ように感じて、立ちつくした。

 良子も、はりつめた空気に身をすくませると、その顔にこれまでの戦いでも浮かべたことのない恐怖を浮かべた。

「あかる殿よ……。人は愚かなものよ……いや、だからこそ、わしは魔道に堕ちたのじゃ、なあ」

「朱嶽殿、茶番はこれまでにいたしましょう」

「わしは負けぬぞ」

「無理、ですね」

 ほほえみを浮かべて目を閉じた巫女と天狗には、明らかにある種の了解が見てとれた。

 結城は、黙した。

「え……なに……。あかるさん……?」

 決意に見ひらかれた巫女の双眸と、観念したようにうなだれる朱嶽、優劣形勢がまるで逆転している。

 あかるは、白衣のたもとから、小さな棒状の物体を閃かせた。

 それは黒うるしの一本足に紅色べにいろの玉をあしらった、可憐な玉かんざしだった。

 トっ――割れた磐座に白足袋を降ろし、かんざしを指揮者コンダクターのように振りかざすと、いつの間にか歩みよっていた〈琴古主〉に演奏を命じる。万事こころえた八橋が十三弦をかき鳴らすと、あかるはすばやく尻をついて安座あんざを組み、天津祝詞あまつのりとの奏上をはじめた。

 一同はこの異様かつ不可解なやりとりに、完全に呑まれた、と言っていい。呆然と見守るほかなかった。

 祝詞はしかし、最後まで詠唱するのを待たなかった。

 朱嶽は宙に貼りついたまま、赤い顔に苦痛をのぼらせていたが、やがて悶絶し、氷が気化するようにその姿を蒸発させていく。

「あっ……!」

「なんと、朱嶽さま……?」

 配下たちは狼狽したものの、祝詞をとなえるあかるを、依り代であるがゆえに傷つけるわけにもいかず、良子たちも固唾をのんで、ただ成りゆきを見ていた。

 朱嶽の限界が極まったのを感じた巫女は、頃あい良しと見て、胸もとに入れていた玉かんざしをかかげ、自分の黒髪をひと房取ると、手早くトップの後方へにまとめて――ぐさりとした。

 とたんに、ギャア、というサビついたブレーキのような断末魔が尾を引いて、霧散――止まっていた時が流れだした。

 思いだしたように、雷がドロドロと、くぐもった音を響かせ、鎮守の森は巫女をたたえるように波立ち、おののいた。

「朱嶽よ、あなたの怨念も恨みも、私があずかります。すべてをゆだねて、心やすらかになさい」

「なぜそいつを取り込んだ……あかる……。はらってしまえたはずだ……」

 なかば自分に言い聞かせるように、結城がつぶやくと。

 あかるは――。

 静かに、おだやかに――。

 激情を秘めて、兄を見つめていた。

 ちらりと流れる瞳で、カラス天狗たちを見やると、

「おまえたちは、なんとする。朱嶽の御霊みたまは、もはや私のものだ。これからは私をあるじとするか」

 巫女の横顔が、紫紺しこんの雷光に冴える。

 三羽ガラスは、三方からかしこまって、

「望むところ……」

「お姿は変われど、われらは僧正そうじょうにお仕えする身……」

「むしろ、これはこれで……」

 一様にかしずいた。

 結城は引きずられるように踏みだし、うめいた。

「その……かんざし……」

「おぼえておいででしたか。これは母さんのお気に入りでしたね。兄さんがいなくなったあと、病床から手渡してくれたものです」

「おまえは……よくそれを挿しては、しかられていたな……」

、恨みはありません。氏子の信頼を失い、失意に倒れ、なお生き長らえた父さんのことも。そのような恨み、心細さ、すべてを星が呑みこんでくださるから」

「星……?」

「……いったい、なんなの……あかるさん……」

 問いかけを無視したあかるが、えりもとを両手で大きくくつろげると、透けるように白い背中があらわになった。

 その背を割って――。

 めりめりと隆起した肩甲骨から、一対の巨大な翼。

 孵化ふかしたての生温かく糸引く翼を羽ばたかせ、岩を蹴って、木々の頭にとどくほど飛翔して宙にとどまり、ついで、どこからともなく六尺棒を現出させると、一閃、空を裂いて――。

 鮮烈な稲妻が、白い翼の巫女をシルエットにした。

「なんぴとも磐座に近づけてはならぬ! 星呼ほしよばいの儀を終えるまでは、な!」

「……正気か……あかる、まさかこの街ごと……!」


 ころりんてん てんしゃん

 ころりんてん てんしゃん


 八橋が狂乱のテンポで弦をかき鳴らすと、空は舞台に変わった。

 宙を一歩一歩、足拍子を踏むかと思えば、六尺棒を車輪のように回して、自身もまた旋回する、変幻自在の舞いであった。

 琴の拍子が早まるにつれて、からげた緋袴から、すそ風がまき起こる。微風はしだいに旋風となってうねり、雲の空隙くうげきへと吹きつけ、星々のきらめく晴れ間を押し広げていく。

天鈿女命あまのうずめの舞いか。あいつ……ここへ星を落とすつもりか……!」

「ど……どういう意味ですか……?」

「そのままの意味さ……。待てよ、そうか三十年目……なのか」

「兄さんは、」

 舞いを小康させたあかるは、哀れむ視線を落とし、

「そのようなことも忘れてしまったのですか。今宵は〈天若日子〉がもっとも此方こなたへ寄りかかる時」

やしろの分霊は、親もとに還ったのか……! だが、おまえ一人の力で凶星きょうせい招来しょうらいなど! 法力も供物も、た、足りな……」

 いいかけて結城は、あかるが大天狗の通力を内包したことに思いいたり、今度こそ失語した。

 呆然自失した結城をあきらめて、良子は天をあおいだ。

「なにを……降ろすというの……」

「良子さん。私はあの日、社もろとも父の罪業を引き継いだのです。私情で神降ろしを行ってはならぬ……。氏子の信頼を無くし、宮司を失い、私の背負った絶望が、あなたにはわからないでしょう。今にして思えば、照峰神社というのは牢獄なのです」

「ろうごく……檻?」

「そう、まつろわぬ〈国津神くにつかみ〉を、〈大国主おおくにぬし〉の合祀ごうしによって封じた結界。その番人、いいえ、いけにえが、」

「照峰の家の人たちだったというの……? そんな……」

「あるいは、いえ、きっと私の祭神と天狗とは同じものなのでしょう。あるべき所からはじき出されてしまった流浪の。〈天若日子〉は反逆の星なのです。私は……すべてを無に還します。私の絶望を生んだこの街を、殺します」

 あかるは、憑依された心を隠れ蓑にして、罪のけがれを押しつけようとした、己のやましさを恥じた。

 落ち着きはらった決意の声音に、良子はごくりと喉を鳴らす。

「星はすべてを包んでくれるでしょう。それは死ではありません。私という女天狗めてんぐと、星とのちぎりによって、街を苗床とした新たなもののけたちが生まれるでしょう、それが私の望みです」

「あ、あたしの……!」

 良子は顔を真っ赤にしてこぶしを握りしめると、声を限りに叫んでいた。

「あたしの聞きたいのはそんなことじゃない! じゃあ、あかるさんを思うあたしの気持ちを! 結城さんやお父さんの気持ちをわかるって言うの⁉ 他人ひとの心なんて……全部は通じないのよ‼」

「良子さん、あなた、」

「あかるさん……あかるさんは、ただ、さびしいだけじゃないの⁉ あたしは……!」

 巫女は目を細めて地上を眺めた。

 そこには、必死の面持ちでうったえかける一匹のけものが、空へ力づよく手をさし伸ばしている。

 けいれんするように動いた両手は、重く棍棒にふさがれていた。

「もう……遅いのよ、良子さん! あなたのこと好きだった、けど、お別れよ!」

「あかるさん……」

 良子は、かざした手をむなしく握った。

 その高さ以上に、彼女との距離が遠いことがわかったからだ。

 あかるは再び全身をしならせ、棒を旋回させると、両肩を脱いだ妖艶にして優美な舞いで、儀式を練り、重ねていく。

 振り向きざま、良子は結城のネクタイをつかんで吠えかかった。

「彼女をとめる! どうすればいいの⁉」

「そうか……あいつ……最初からこのつもりで……。〈天狗憑き〉の通力なら、分霊ごしんたいの若日子どころじゃない……を降ろすことができる……。供物はこの街そのもの、というわけか……」

 ぶつぶつとつぶやく結城に、業を煮やした良子は、

「しっかりしてよ! 妹さんをとめるの‼」

 おもむろに結城の首もとへ、かじりついた。

「痛っ……たい……!」

「ご、ごめんなさい……つい……。あ、歯形ついちゃった。けど、正気?」

「ん……! ああ……すまない……」

 結城は、軽やかに大気を踏む、あかるを見つめた。

「とめる……か、そうだな。方法はある……。僕が髪を切り落とせば……。あるいは」

「菊花のときみたいに?」

「……そうだ、が!」

 すでに得物をひっさげて、にじりよっていた二ノ岳と三ノ岳が、夜陰を裂いて風のように飛んでいた。

 彼らは、人間の心の動きにさとい。

 結城は槍の一撃をハサミで受け、良子は戦斧の斬激を紙一重でかわしつつ片脚を蹴り出していた。

「どいてよ!」

「あかる殿は、我らの宿願を果たされるのだ……」

 三ノ岳は、良子の繰りだす蹴りをまともに受けたにもかかわらず、少しもひるむことはなかった。

「たとえ死しても通さじ」

 結城と二ノ岳の戦は、刃のいらぬ冷たい戦場だった。

「久しいな、照峰ひかる……」

「捨てた名だ……」

「いつまでも見苦しいやつよ」

「なに……?」

「こたびの一件、おぬしが逃げたために起こった、とは考えぬのか」

「詭弁だな、そもそも朱嶽がたくらんだこと……首魁しゅかいはおまえの主だろう」

「では聞くがな……照峰英達えいたつはなぜ死んだ? いや、なぜオレに殺されなければ、ならなかったのだ」

 黒衣の翼を羽ばたかせて、二ノ岳はゆっくりと頭上へ位置したが、結城はただ鋭利な槍の穂先を見つめるばかりだった。

 良子は、すぐに異変を察知した。

「結城さん……?」

「おぬしも聞いておけ、犬。こやつはな、〈皿数え〉の憑いた娘を助けることもできたのだ。なぜ完全に落とさなかったのか……。知れたこと、〈天若日子〉を最大級の力で召還させるため、よ」

「戯れ言だ」

「ほう、そうか? ならば聞き捨てにするがよかろうて。若日子は照峰の祭神、私情で呼びだすことは禁忌に触れるが、氏子の求めならば応じねばならぬ」

 二羽のカラス天狗は、青ざめた結城をもてあそぶように、宙に踊りあがると、ゆったりと旋回した。

「……『祭神がいない』だと? まさに、そのとおりよ。宮司もなく、未熟な巫女とモグリ神官では〈大国主〉の祭りあげなど、とても務まらぬ。国津神の元締めはの昔に、その分霊わけみたまを呼び戻してしまった。おまえはこれを知っておったのだろう……?」

 二ノ岳はしゃがれ声を切ると、森の奥深くそびえる築山が、雷光を白く照り返すのを、忌々しげに見つめた。

「あのような小細工で我らを閉じこめるとは笑止。かろうじて我らの頭を押さえていた若日子が結界を弱めればどうなるか、明白じゃ。永らく封じられていた我ら一党は、これ幸いと結界の山を抜けだした。ところで……」

 二ノ岳は黒い羽を小きざみにゆらすと、蒼白となった結城の正面に大胆にも降り立ち、ねめつけた。

「我らの封印をやぶったのは、だれじゃ……ええ? 給仕の娘を助けるために、祭神を呼びだした巫女か? そうではあるまい。あかる殿は若日子を神代かみしろ級で呼んではならぬ、といういましめを知らぬ。知っていたのは……」

「きさまっ‼」

 いかずちを圧して叫ぶ結城の一撃は、あっさりと鋼の槍に阻まれた。

「親殺しめ。けがれた刃で、このオレは斬れぬぞ……」

 呆然と、良子。

 高く祝詞を奏上しながら、あかるは舞っていた。

 閉ざされた、その両眼は濡れている。

 巫女は、塗りこまれた空虚を満たすように、ただ祈った。

 華麗な舞いは、あらゆる災厄を呼びよせる狂気だった。



 忘我の祈りに呼応して――。

 無限の星の海に、ひっそり浮かんだ銀河のかたすみで、小さな異変が起こった。

 その小天体は三十年に一度、同位置を通過して、同軌道を周回していた。

 太古に氷塊オールトの雲を脱してからというもの、炎熱がこれを溶かし、あるいは天体どうしの小競り合いを経て、細かく砕けた氷片である。

 彼は長い尾を太陽に吹かれながら、なつかしい匂いのする場所へと航路をたどっていた。

 過去にいく度か、現身うつしみから剥離はくりした同胞が、彼の神使つかわしめとしてそこを訪れていた。

 神使たちは、本体が近づくといっせいに交信をはじめ、その声に応えることは、生命の躍動を感じさせる快楽である。

 束の間の逢瀬のように、仲間たちとの語りを楽しむと、彼はいつも決まってその場所をかすめて、別れを惜しむのだ。

 再訪までの長い旅路――。

 しかし、この日はどこかが違っていた。

 だれよりも強い、呼び声――。

 求める艶やかな声が、耳朶を打ったのだ。

 声は祈りであり希望であり――それでいて、どこか淫靡を含んでいる。

 これは彼にふさわしく、もっとも好むところであった。

 小さな星はわずかに身じろぎすると、ほんの少しだけ。



 軌道をそらした。



 まがまがしくも伸びた脚、両腕のハサミ――〈中成り〉の相をあらわした〈髪切り〉の異様である。

 結城から理性の色が消え、かわって激情と混乱がいたずらに円形の斎場を乱したが、冷静を失った猛攻は、必殺を狙って静かな二ノ岳の余裕をもって封殺されていた。

 良子はそれに気がついていながらも、目の前の相手を始末できない状況に、牙を噛みしめていた。

 彼女もまた、四肢を獣のそれに変化させて、鉄塊のような戦斧を、やっとの思いでさばき続けているのだ。

「ええい、すばやい奴!」

 三ノ岳の重い刃風をひらひらとかわしつつ、良子も決定的な打撃を加えることができずにいた。

 反射神経だけで切り抜けてきた未熟が、訓練された手練てだれとの差になってあらわれたと見ていい。

 その攻防のさなか――。

 良子の研ぎすまされたセンサーは、向かいのクヌギの幹の合間にちらりと行きすぎただけの、白い毛皮の小動物をとらえてしまっていた。

「……千代丸……?」

 致命的なスキが生まれたのを、見逃す相手ではなかった。

 舞いあがった三ノ岳は、良子の後ろ頭を鉤爪の足でしたたかに蹴りつけると、不格好に倒れたうつぶせの背中にとどめを振りおろす。

 肉が裂ける音を、獣の耳がとらえた。

 良子は己の油断を悔い、最期の目を閉じたつもりだった。

 だが、怪訝にひらいた瞳に映ったのは、キリキリと回転して草むらに飛びこんでいく戦斧だった。

 戦斧の太い柄には、無惨にも肩から引きちぎられて、それでも柄を握り続ける黒々とした片腕が

 銃声は、あとからやってきた。

 そのときはじめて、良子は懐かしくも心地よいバニラを嗅いで、スカートの下に丸めていた尾をゆったりと振った。

 遠く鎮守の森を眺めおろす、おそれおおくも巨大な鳥居の笠木かさぎに。

 ライフルの硝煙しょうえんが、たなびいている。

 その銃手じゅうしゅ――えんじ色のジャージを上だけ、くるくるとウェーブのかかった髪は片方しばり――蒼井菊花である。

 立ちヒザをのぞかせるスカートが、火薬の煙をともなって微風にゆれていた。

「ナイスショット……!」

 紺色の指定ジャージを着こんだ南部行平が、幅一メートルほどの黒い笠木の上に座り、窮屈そうに双眼鏡をのぞいている。

「つぎ、またレバーを引いて……」

「あちゃあ……」

「どうした?」

「威嚇のつもりだったのよ……」

 南部は苦笑した。

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