第十四章 「いつでも、いっしょ」

 話は、おとついの未明にさかのぼる。


 まどろみに飽きて、添い寝のぬいぐるみテディベアに別れを告げた菊花は、半身を起こすと大きく伸びをした。

 パジャマ姿で立ちあがり、ゆるゆるとカーテンを引きあけると、川沿いのもやに柔らかく反射した朝ぼらけが、淡い風合いでそろえられた部屋のすみずみをオレンジに照らす。

 この日も、朝から蒸し暑かった。

 明けきらぬ早暁そうぎょうはまぶしく、窓に手をあてると、久しぶりに浴びた朝陽の向こうに、飾り気のない八重歯の笑みが思い起こされた。

 照峰神社でのおはらいのあと、

『まず……しばらくは安静に。休めば衰弱は回復するでしょう』

 と言う内科医かかりつけのドクターストップで、あれからの菊花は自室で過ごすことが多かった。

 彼女自身も、家から出ようとは思わなかった。

 疲れがひどかったこともあるが、なにより良子と争ったことが、決定的に心を沈ませたのだ。

 見舞いに訪れた良子に、

『今年もお祭り……行ってきていいよお、結城さんいっしょでもいいし』

 精一杯のつぐないを絞り出すと、

『けど……あたし、本音を聞けてよかったよ。なんでも話してね』

 と、うるんだ瞳を笑顔でカバーした友人の表情かおが、すべてを吐露したことを後悔させない、唯一のなぐさめだった。

 このときの菊花の視界もまた、ぼんやりとにじんでいたのだ。

 両親の心配をよそに、暑いさかりをいくにちもベッドで過ごした菊花は、見舞いの日をさかいにして心身が癒えていくのを感じた。

 巫女が祓いきれなかった〈憑き神〉は、いまだ身のうちにのようにうずく。

 けれども、残り火を二度と再び解き放つまい、という誓いは、苦闘の証しとして誇らしげに胸に咲いていた。

 いつもはまぶしさに閉口する東向きの日差しが、この朝は川面をにぎわすエールのように感じられて心地よい。

 真四角の豆腐を連想させるレストラン兼住居の一軒家は、市内を通貫する清流から別れた小川のわき、堤をあがったところに建てられていて、二階ベランダから見渡せる水辺の景色は、お気に入りだった。

「ん……」

 ふと、窓外に違和感を感じて、身をのりだす。

 近所の目に気を配りながら窓をあけてベランダに出ると、さかんに朝もやを立てる幅五メートルほどの小川に水草がただよって、川面のきらめきのなかに、やはりはあった。

 パジャマのうえからジャージを羽織り、眠っている家族を起こさぬように階下へ降りて玄関をあけると、破れフェンスをくぐり抜けて、まだ薄暗い土手を下っていった。

 群生した水草のとろのなかに、違和感の正体がある。

 菊花は半びらきの口をそのままに、水のしたたるをのろのろと拾い上げると、ジャージにくるんで、そっと自室に戻った。

「なに、これ」

 ゴトン、とテーブルをゆらした異物――すなわち黒ずんだ一丁のライフル銃――を、まじまじと見つめる。

「本物、だよね……」

 濡れたジャージをベランダに干した菊花は、犯行を隠蔽するようにカーテンをしめて、沈思した。

(なんで持ってきちゃったんだろう……これはオモチャじゃない……)

 運びこんでしまってから、これが〈依り代〉であることに気がつくにはしばらく時間を要したが、彼女の眼は小銃に宿った妖気を看破して、司直けいさつや両親にこれを届けることをためらわせた。

 とっさに思いついたのは、やはり照峰あかるにゆだねることだったが、登録したあかるのスマホは何度かけても電源が入っておらず、驚いたことに良子の電話も不通だった。

(なにかが、起きている……けれど、)

 今は動けない、他者に託すことをあきらめた菊花は、残る選択肢のうち、可能な限り積極的な方法カード――すなわち、待ち伏せ――を選んだ。

 落とし主を見つけたとして、どうするのか、そこまでは決めていない。

(持ち主に返すかどうかは……見てから決めても、遅くない……)

 ベランダに寝そべって文庫本を読みながらの怠惰な見張りをしつつ、倦怠になまった心身をほぐし、緊張スリルに高まる鼓動をなだめて、なりゆきにまかせた。

 まる一日、なにごとも起こらなかったが、今朝になって、

「あ……」

 あわてて口もとから漏れそうになる声を押さえて、胸のうちに興奮をしずめると、ベランダに伏せ隠れた。

(来たあ……! ホントに来ちゃった……! けど、あれって……もしかして……?)

 まさに同学年の、ニットベストの南部が、ショルダーバッグからはみ出した釣り竿をこれ見よがしに、川面をのぞきながら土手を歩いている。

 それからの菊花の行動は素早かった。

 河川敷をうろついた南部は、昼すぎには白樺の樹林に囲まれた遊歩道にでていた。

 その後ろから、ダボダボのトレーニングウェアにパークゴルフのクラブケースをかつぎ、キャップのツバを目深に伏せた挙動不審者が、木造りの道をたどっている。

 しかしいつから尾行に勘づいていたものか、菊花が気づいたときにはもう南部に歩調を合わされて、至近距離まで接近されていた。

 振りかえりもせず背を見せたままの――南部が声をかけた。

「遅かったな」

「え……?」

「……ん?」

 両者は互いに目をしばたたかせ、たっぷり五秒は見つめ合っていたが、

「……どういうこと……⁉」

 ハモっていた。

「なんで……結城ひかるじゃないんだ?」

「はああ? あなた、どうして結城さんを知ってるの?」

「そっちこそ……蒼井だって、どうして……」

「……! わかるの? 変装したのに」

「そりゃ……まあ、わかるよ、だって、か、顔そのままじゃん」

 うわずった南部をよそに、菊花はキャップを取ると、をほどき、ドールテイストの長髪を薫風にあずけた。

「パークゴルフが趣味なのか?」

「いいええ、そちらこそ、釣りがご趣味で?」

 尾行者はにこやかに答えたが、その顔は引きつっている。

なかに……。まさか帰ってくるとは思わなかった……それはオレの命より大事なものだ。ありがとう」

「やっぱり、南部くんの」

「もうちょっとだけ、あずかっててくれ」

「はああ?」

 南部は強引に手をとって沼地に通じる細道へいざなうと、ショルダーバッグを垣根の陰に置き、菊花をそこに残してきびすをかえした。

「ちょっと待ってよ! どこへ」

「詳しいことはあとで。見ててくれ、ただし、絶対に気づかれないように……!」

 すごむ小声に気圧けおされて、黙る。

 ――そして。

 ベンチに座る南部を、垣根ごしに困惑の顔つきでのぞいていた菊花は、生ツバを飲みこんだ。

 反対から小径をたどってきたのが、結城だったからだ。

 距離があるので、断片的なやりとりしか耳に届かないが、ただならぬ雰囲気を察して、

(あの二人……)

 結城が、ベンチの南部の肩に触れんばかりに背後へまわる――。

(つきあってるのお⁉)

 菊花の妄想は、とんでもない方向へ飛躍しようとしていた。

 南部が小径のこちら側へ移動したので、胡乱うろんな会話は聞き取りやすくなり、「彼女はね……いわばエサだ」と笑った結城の口もとが、毒々しいほど赤い実をついばむ小鳥たちの向こうに見えていた。

 瞠目する瞳に、群鳥が乱舞して――南部の胸が鋼のハサミに斬り割られる。

 狂騒のぬしが立ち去って、入れ替わるように姿をあらわした菊花は、たちこめる凶事の香りに眉をくもらせた。

 悲鳴を抑えこんだ両手を、ようやく解放する。

 一面を赤黒く染める血だまりのなかで、南部はどういうわけか片足の靴とソックスを捨て、素足になっている。

「痴話ゲンカ……じゃないわよねえ」

「くそ……いきなりかよ……」

 切り裂かれたシャツの中からは、防刃ベストと血袋が切り口を見せていたが、傷が臓腑ないぞうにまで達していることは明らかだった。

 菊花は邪魔な衣類をはぎ取ると、一文字の切創せっそうをまじまじと眺め、

「南部くん……死ぬわよ?」

「……弾ごめ、できるか?」

「無料動画で見たわ」

「ネットかよ……」

 菊花はクラブケースから小銃を取り出すと、手渡された銀色の弾丸を苦労して装填し、もはや視界もおぼつかない南部に握らせた。

「これで?」

「上出来……」

 とめるヒマもなく大気を震わせた轟音に、遊歩道の鳥たちはついに残らずちりぢりになった。

 南部はライフルを反転させて、自分の胸に銃口を向けると、足の指でトリガーを引いたのだ。

 ボルトを叩きつけられて尻に着火した〈切り矢〉は、発射と同時に弾頭を針のごとく尖らせて傷口に侵入し、さらに銀糸と化した弾体を極細に伸ばし続け、血まみれの上半身をのように包みこんでいった。

 あっけにとられる菊花を尻目に――。

 薄曇りの陽光をざわめくように照りかえし、銀糸は傷にまとわりつくと、あらゆる血管を縫いあわせて臓器を修復し、仕上げに皮下脂肪から皮膚膜までを、見えない外科医が指先をふるうように縫合ほうごうした。

 浅い呼吸は、徐々に落ちつきを取り戻していく。

「この銃……どういう〈通力〉なの?」

「あとだ……肩、貸してくれ」

「ど、どこに行くの」

「決まってんだろ」

 南部は、苦痛に顔を歪めながらも、不敵に笑った。



 祭礼の夜空に、鼓膜をつんざく銃声が響く。

 二発目を放った衝撃が、肩に銃床を食いこませ、菊花はかすかに呻いた。

 南部が快哉をあげる。

「やったぞ!」

「次はっ……⁉」

「結城……いや、結城が相手してるやつ!」

 巨大な鳥居から眺める斎場は、三階席からの観劇のようだ。

 射撃を指示する観測者スポッターとして、双眼鏡をのぞいていた南部がターゲットを言いよどむと、すかさず菊花は疑問をはさむ。

「本当にそれでいいの?」

「なにが⁉」

「あなたを殺そうとしたのよ、味方だって保証あるのお?」

「じゃ、どうして……おまえこそ、オレを信用する理由がないだろ」

「さああ、私は良子あのこを助けたいだけよ。それには、コレが必要ですから」

 ぎこちなくボルトを引くと、三発目を装填する。

 九死に一生を得た南部だったが、負傷と痛みはライフルの反動に耐えられないほど深く、ロープと滑車を使って鳥居にのぼってきただけでも、彼の体力は限界と言ってよかった。

「オレは読話どくわできるんだ。向こうの様子はだいたいわかる……。こみいったことになってるぞ……」

「あとで、ちゃんと教えてよね」

「あとがあればな! ヤバいぞ……!」

「んん⁉ ……むこうから来ちゃったのね!」

 早くも狙撃手に対抗して、カラス天狗、一ノ岳が鳥居に向かって急速にその翼を羽ばたかせていた。


 初弾によって片腕と得物をもぎとられた三ノ岳は、ひるんだのも束の間、空中で反転すると再び良子へ迫った。

 しかしそれも、第二撃が頭部を貫通し、夏草に鮮血を散らすと絶命して、宿主である大ガラスのむくろをさらした。

「南部と……」

 あとは声にならなかった。

 良子は百万の軍勢を得たように勇躍、猛進すると、大きく踏み切って磐座を飛び越え、一気に五メートルばかりを跳躍した。

 その先には、あかるがいる。

 だが――時はすでに逸していた。

 あかるは良子を認めると、六尺棒を斜めにかまえて、肩をねらった蹴りを受け流した。

 と、昇竜のような鳥影とりかげが、空中でまじわる二人に近づき、

「あかる殿!」

「かまうな、この子は私が! 聖域を侵す不遜なやから……成敗せよ!」

「御意に」

 一ノ岳は腰をひねって抜刀すると、抜き持った長刀が青白い椀のような半月を刃に光らせ、鳥居へと向かう背はみるみる小さくなっていった。

 はねかえされるように着地した良子は、白い翼を前面に押しだして、ゆったりとどまる巫女の余裕に愕然とした。

(儀式が終わっている……⁉)

「その通りよ」

 あかるは真っ二つの巨岩に降り立つと、六尺棒を横倒しにして、跪座きざ――すなわちつま先を立てた正座で半眼のかまえになり、瞑目した。

 とたんに街の上空をとりまいていた天蓋のような雲が、フィルムの逆回転のごとく逆まいて急速に拡散し、円形闘技場コロシアムの不浄を一掃させる旋風が舞いあがって星空へ消えた。

 風にまかれて、前髪がひたいを打つ。

 思わず顔をガードし、立ち耳をさげた良子が目をひらくと、洗ったような晴天が星をまたたかせていた。

「きれいね」

 乱れ髪が顔を隠したことにも気づかず、放心したあかるがつぶやくと、あまりに清々しい様子に、良子はうっかり引きこまれた。

「ええと……」

「あ、いけないわね」

 はちまきを解き、おもむろにたもとから取り出した手鏡と櫛で髪を整えると、化粧ポーチをひらいて簡素にメイクする。

 頬を染め、いそいそとめかしこむと、しばし鏡にみとれて、

「おかしくないかしら?」

「はあ……きれいだと思います」

「ありがとう。初めてのかたをお迎えするのですから、失礼のないようにしなければ、ね」

「初めてのかた?」

「ええ、彼の訪れによって街は消滅します。しかし天狗となった私が天駆けるキツネと交合することで、廃墟は新たな幽界かくりょへの門をひらき、だれもが祖霊かみとなるでしょう。それが、最期の望みです」

「こ、交合ですか」

「女の天狗は珍しいそうよ。彼は受けいれるでしょう」

「けど、それって、自殺願望じゃありません?」

「この世はいびつすぎる。矯正できないなら、創り替えるまでよ」

「かっ……!」

 良子は肩をわななかせて吠えた。

「勝手なこと言わないでください! あたしには、まだやりたいこともあるんです!」

「生きること、そのものは無価値よ。私はこの街に思い出など無いし、未練も希望も持っていない」

「あかるさんの辛い気持ちが、わかるとは言わないです。けど……だからって人を巻きこむのはやめてください! 死にたければ勝手に! 一人で決着してよ……! それって……」

 黒々とした瞳に涙をたたえると、なりふりかまわず激昂し、

「それって、結局はさびしいんじゃないですか⁉ あなたにはまだ、人が恋しいって気持ちがある! あなたの絶望なんて、嘘だっ‼」

 噛みつくように言い放つと、ほとばしる落涙の一粒一粒が月影を浮かべ、瞳は交錯した。

「ありがとう、あなたを好きだと言ったの、本当よ。ご神体を削ってお守りを作ったのも、あなたを守りたかったから。けれどもう、」

 震えた声は、やがて嘲笑に変わった。

「もう遅いのよ、残念だわ」

 だしぬけに、〈犬神〉の少女は疾風のごとく跳ねあがると、巫女のノドもとをねらって牙をむいた。

 ぎしり、と――六尺棒はきしんで悲鳴をあげたが、喰らいつこうとしたアゴをかろうじて防いだ。

「どういうつもり?」

 問われた良子は、はずみで口中を切ったのか、棒からアゴをはずして小さく血を吐くと、

「若日子、あのナンパ神、あかるさん目当てで来るんですよね」

「思い出したのね」

「はい、彼とは前に会ってます。たぶん夢のなかで……。彼、ひょっとして、あなたがいなければ、帰っちゃうんじゃないかな……」

 あかるは虚をつかれたように黙すると、口もとを袖に隠し、声をあげて笑った。

「なるほど、考えもしなかったわ。けれど無意味な設問ね」

「どうして?」

「あなたは、私を殺せない」

 両者は、磐座の上で再び激突した。

 と――神降ろしのステージを、あわてて降りたものがいる。

 神事を終えて役目をまっとうした琴のお化け、八橋である。

 立ち回りに弱い彼は、狩人におびえるウサギのように逃げまどうと、いったんは安堵した顔を目まぐるしく驚愕に変えた。

 羽音をたてて頭上を通過した二ノ岳に続き、それを追ってきた結城と鉢あわせしたのだ。両腕に巨大なハサミ、黒く光る脚をスラックスから伸ばした異形――。

 双眸に狂気をたたえた結城は、八橋に向けて、峻烈しゅんれつな凶刃を浴びせた。


 菊花の連射は、いずれも長刀によって弾かれていた。

 三羽ガラスのうち、もっとも均整のとれた体格を有する一ノ岳は、剣術の達人である。

「弾切れか……? もっとも、飛び道具ごときで、オレをしとめることはできん」

 歪んだくちばしでつぶやくと、尾羽おばねをすぼませて距離をつめる。

「どっ、どうするのお⁉」

「いいから撃てって! 接近されたら終わりだ!」

「これで、打ち止めよ!」

 菊花は、しゃべりながらもトリガーを引きしぼった。

 二式にしき小銃しょうじゅう――戦中、大日本帝国陸軍が開発したライフル銃――に取り憑いた〈憑き神〉は、銃身のなかで金属を〈通力〉を持っていた。

 銃身長五十余センチを駆けぬけた弾丸は、射手の意図を読みとって最適な形状へとられ、筒先から吐き出される。

 したがって、おおよその軌道にさえ乗っていれば、弾丸は風や重力に対して理想的に成形し直されて、目標に到達する。

 ズブの素人である菊花が扱って、狙いをはずさないのも、これが理由だった。

 そして、最後の弾丸――。

 薬室をカラにする五発目が放たれ、一ノ岳の胸部に向かった鉛弾なまりだまは、閃光のような斬撃によって打ち割られた。待ちかまえていた南部が、銀の弾丸を装填するより早く、異相の剣客は列をなす鳥居を越えて最外部――彼らの足場へ肉薄していた。

 打ちおろす刃風が、菊花の首もとへ一筋の光となってすべる。

 弾丸を薬室に押しこみつつ、南部は覚悟を決めていた。

 ガ、シャン――!。

 六発目の弾丸、定数外がセットされたのと同時に、必殺の一刀は、宙にいくつも浮かぶ障害物によって阻まれていた。

 せせらぎがさわやぐように――菊花の頭上に、それは顕現していた。

 清らかな水面の体に、夜陰を透かしたその〈憑き神〉は、和装の袖を広げると、少女の顔で、ころころと笑った。

 衣にあしらわれた絵皿が、袖を伝っていくつも空中に展開し、密集陣形ファランクス、あるいは機動隊の盾のように、剣先の侵入を防いでいる。

「なんじゃ……これは……!」

「蒼井……おまえ……!」

「バイバイ、カラスさん」

 増殖する色とりどりの皿に、たじろいだ一ノ岳が間合いをとろうと身を引いたのが明暗を分けた。

 すかさずボルトを押しこまれた小銃が、皿の幕をぬって火を噴いたが、振り下ろされた熟練の刃は近間ちかまでありながら弾道をとらえようとしていた。

〈切り矢〉――手持ちの弾丸のほかに、猟師がお守りとして携帯する一発をこう呼ぶ。

 終わりを意味するの名の通り、いわば奥の手ともいうべき〈切り矢〉は、先の通常弾とは異なり自ら状況に即応する、必殺の弾丸である。と同時に、その鋳造の通力をもって、射手の生命を守る命弾いのちだまであった。

 ドクロのような面相の〈切り矢〉は、超音速で飛翔しつつ、命中コースをさがして前方を眺めた。

 このまま弾道をたどれば、振りかざした刃に命中して弾かれてしまうらしいが、とはいえ、いったん回避してコースを変更するのも彼の流儀ではなかった。

 光速の熟慮の末、最適解をはじき出した〈切り矢〉は、達成のよろこびに身を振るわせると白刃に向かって突進、弾頭から突き出した銀色の小さな腕で刃を殴りつける。

 自ら軌道を変え、射手きっかが望んだ目標へ向けて、第二エンジンを点火したロケットのように跳ねると、その目標――カラス天狗の頭部――を、木っ端みじんに粉砕していた。

 至近距離、発射からわずか〇・〇〇六九秒のできごとである。

 死体となって化けの皮をあらわした大ガラスは、きりもみになって石畳に落下した。

「もお、いやになる!」

 さらさらと涼しげに笑う〈皿数え〉に、菊花はまゆをひそめて不満げに口をとがらせた。

「せっかく良子とあかるさんが封印してくれたのに。台無しじゃない!」

 言葉とは裏腹に、どこかさばけた様子の菊花を、あぜんとして見つめる南部がいた。


 古びた琴の天面から、どくどくと泥のような血液。

 夏草に染みていく赤い液体をかえりみようともせずに、血走った目をまよわせた結城は、最後のカラスを空にさがしていた。

 そのとき――。

 すれ違いざま唐竹からたけ割りに両断されて、呻くばかりだった〈琴古主〉の口から、

「お、おお……な、つ……」

 人の声がもれた。

「なに……?」

 結城は顔色を変えて足もとを見た。

(これは……ただの器物霊つくもかと思っていたが、中身は人間か……?)

 疑問に答えるように、もはや虫の息の八橋は、先端から長い舌をたらして語りはじめた。

「これは、お懐かしや、……」

「……だれだ……おまえは」

「無理もありませぬ、このような、あさましい姿になっては……」

「だれかと聞いてるんだよ!」

 調子はずれの弦のように、声はトーンを変え、

「八橋でございますよ。禰宜ねぎの八橋……お忘れか」

 結城は口をひらいたまま、時がとまったかのように凍りついた。

 いや、時は逆行していた。

 記憶は少年のころに引き戻り、メガネが顔に食いこむほど肥えた柔和な神官が、父の神事を補佐して立ち働く姿が呼び起こされる。

「あの、琴奏者の八橋さん……さん、か……。本当にあなたか。てっきり退官したものと……」

「そのあだ名こそ懐かしい……。私は最後の神降ろしのとき、あの天狗めの手にかかったのです。思えば英達さまの、身を捨てた賭けでございました……」

 怪訝な表情で、聞きとがめるように、

「待って、賭けだって……? どういうことです」

 たずねてしまった。

「……いいえ、まだ十日祭とおかさいも迎えておりませぬ。故人を語るには、いささか……」

「亡霊が常識をさとすとは……父が、どうしたとおっしゃるのです」

 八橋の体は、長く風雨にさらされた木材のように、ぼろぼろと朽ちはじめていたが、その長舌ちょうぜつは、頭を割られて解かれた封印の記憶を語ってやまない。

 まるで道連れを求めるように――。

「思えば子煩悩な方でした。あなたがお生まれになったときは、それこそ目にいれても痛くないほどにかわいがっておられた。きびしく教育されたことは、お恨みなさいますな」

「禁を侵してまで、母を救おうとしたこともか」

「……宮司は〈大国主〉ではなく、はじめから瑞祥山天狗を降ろすおつもりでした」

「なに……僕に、か……?」

「さよう、しかるべく玉串たまぐしり移し、焼却なさるおつもりだったのです。さすれば奥さまはともかく、あなたや、あかる様の代には霊障に苦しむことは無い……やしろの命運を賭けたのです、しかし、きゃつの力は思ったよりも、」

 ――バキン!

 結城の、くろがねのような脚が琴の背を踏みくだいて、八橋は絶命した。

 次の瞬間――。

 シャツの背後から胸にかけて、心臓を貫く毛槍がふかぶかと突き通され、結城は血ヘドを吐いていた。

「昔話は終わりか? オレは気が立っておるのでな!」

 兄弟を退治されたカラス天狗の、怒りをこめた一撃が、背後から貫通し、結城の胸を破ったのだ。

 あまりに深く通った槍は、力まかせに引き抜こうとした二ノ岳の手をぬるり、すり抜ける。

 ややあって、唇から赤い滝がおびただしく流れ出たが、それ以上にノドを塞いだのは、耐えきれぬほどの悔恨であった。

 結城の体は胞子を撒くキノコのように黒い瘴気を噴き出し、その断末魔とは相反して、あたかも活性化しているかのようだった。

「父さんが……僕らのために……? 違う……母さんを助けようと禁を破って……、あの傲慢な男のせいで……」

 磐座でツバ迫り合いをしていた少女たちは、拮抗きっこうをやぶって、弾けた。

「兄さ……!」

「結城さん!」

 叫びが、むなしく夜空を渡る。

 誰の目にも致命傷は明らかだったが――。

 異変が起こる。

 串刺しの体から立ちのぼる瘴気は、黒雲のように結城をつつみこんで膨張し、しだいにズングリした手足を形成しはじめた。

 ひずんだ暗黒の塊は、水に投じた墨滴のようにふくらみ、伸ばした両腕の先には、やはりハサミが突き出していた。頭はこんもりと丸い半球で、かんばせの中央から漆黒のハサミが突きだしている。

 忍びがたい慚愧ざんきと憤りを経た最終形態――〈黒髪くろかみり〉である。

 成ってはならぬ〈本成り〉――。

 手近に飛んでいた二ノ岳を認めた結城……いや黒髪切りは、ひるがえって逃れたカラス天狗の背中に、凄惨な結末をあたえた。

 体じゅうからでたらめに生やしたハサミで、四つに分断された破片が、末期の声も許されず、鶏ガラのような屍を地面にさらす。

 良子は恐怖のあまり棒立ちになっていた。

「な……なんなのよ……!」

「兄さん……」

 あかるは、兄に似た薄い唇をかんで舞いあがり、

「良子さん、隕石の落着より前に死にたくなければ、ここを離れた方がいいわ。これは憎しみから生まれた〈本成り〉。こうなっては取りかえしがつかない」

「結城さん、あんなにあたしをとめたのに、自分が……。でも!」

 忠告を聞く良子ではない。

 獣の脚のバネを全開にして跳躍すると、もとは結城だったものの後頭部に、全体重を乗せた渾身の蹴りをぶつけた。

 ――ザンっ!

 すりぬける手応えが、悪寒をともなって脚を伝わる。

 暗黒の皮膚は、触れればザワリと蠢く毛髪の集合だった。長短ちょうたんいり混じった人毛じんもうが、粒子のように醜悪な体をかたち作っている。

 ふりむいた視線にからめとられた良子は、くうを泳ぎつつも目を見ひらき、必死で彼の瞳をさがしたが――無益な行為だった。

 そこに眼球はなく、ただ自責と後悔が穿うがった果てのない深淵が、瞳を模して虚ろにひらけていた。

 戦慄が良子をしばる。

 ハサミの峰が柔らかい腹を打つと、あらがうすべもなく地面にたたきつけられ、金縛りの目を離すこともできずに、生命の終わりが振りあげられて――。

 ふと、やいばがとまった。

 足もとにまとわりつく、小さな生き物に気をとられたのだ。

 それは、ひそんでいた笹やぶを飛びだして、飼い主の危機を救おうと、巨大な怪物へ果敢に牙を立てようとしている。

 漆黒の体に牙をむく、綿毛のような子犬――千代丸だった。

 しばし気をとめた魔人は、こともなげにハサミを振るって、ひと息にを撥ねのけ、良子にせまったが、今度はその泥饅頭のような頭を電光の棍棒が貫いた。

 猛禽類の翼を羽ばたかせた巫女が、六尺棒をかまえ、

「見苦しい、見るに耐えません、この期におよんで醜態をさらすとは。これが親族などと彼に紹介できないわ、ご降臨のまえに、兄さんには消えていただく!」

 息巻くあかるの顔が、たちまち嫌悪にこわばる。

 むくつけき暗黒が蠢き、突きこんだ棒ごと彼女を呑みこもうと、イソギンチャクのように蠕動ぜんどうをはじめたのだ。

 あかるは即座に得物をあきらめて宙へ逃れたが、母の憧憬を追い求める幼子のように、おぞましい影は空へ肥大していった。

 我にかえった良子は、夢中で足もとをさがすと、草の上にころがった白い物体を見つけて、そっと抱きかかえた。

 小さな体は切断こそされていなかったが、はねのけられた衝撃で、ぐにゃりと折れ曲がっている。

 ツウ、と良子の黒い毛皮の指をすり抜けて、コップいっぱいほどの赤いものが流れ、おそるおそる白い毛のなかに顔をさがすと、千代丸はほほえむように目を閉じ、呼吸を忘れて静かだった。

 足早あしばやに失われていく温もりに、良子は張り裂けんばかりに吠えた。

 それは、はか無い遠吠えだった。

 無力をなげく涙がこぼれると、遅れて圧倒的な喪失感が全身をとらえた。

(あたしのせいだ……)

 去りし日の恋心を、不安な獣の香りを、真剣に手を合わせた願かけと、そしてやましさが結晶した白くてふわふわの子犬――心をゆらした思いが、めぐっては消えていった。

(お父さんにあんなことを頼まなければ、この子は……!)

 ついさっきまで他人を形容していたはずの死という言葉が、抜きさしがたいものとして良子の心を押しつぶした。

 たわむれに触れては噛みつかれていた、やわらかい腹部を、手当てするように押さえていたが、あたたかい液体はとめどなくこぼれ落ち、涙とまじわった。

(わがままなんだ、あたしは……なにもかも欲しがる、あたしはバカ……! もう、なにもいらない……)

 しゃくりあげると、

「どこの神さまでもいい、私はどうなってもいいから、この子を助けて……」

 嗚咽おえつは星空に吸いこまれていった。


 鳥居を降りようとする菊花を、南部が必死の面持ちでとめていた。

「足手まといになるだけだ!」

「ここで見てたって……!」

 腕をたぐろうとする南部の胸を指ではじくと、激痛が貫き、声も出せずに笠木にうずくまる。

「行かないでくれ……」

 地上に降りようとロープをつかんだ菊花は、懇願に震えた声音に、ゆれる瞳を見つめかえした。


 一寸先も見えぬくらがりで――。

 少女は目をひらいた。

 手のなかの温もりは、みるみる小さくなって。

 また、泣いた。

「……なにを泣く」

 闇が、問いかける。

「悲しいの」

「……そなたを流れるのは、破魔はまの血ではないか。禍根かこんから牙を宿した身で、同じ牙の死をいたむのか」

 闇を眺めて、また黒目がちな瞳を閉じた。

 見通せぬ暗闇など、開けていようが、閉じていようが変わらないではないか。

「……私の眷属でもある」

 包みこむ優しさで、なぐさめる声に、

「だれなの……?」

 虚空こくうにあたたかく、の欠けた銀のが照らしたとき、涙と鼻水にまみれた少女は、思い至った。

 ただ一度、はじめて心から祈った神がいる。

 だから見知らぬ邂逅ぐうぜんではなく。

 望んだ再会ひつぜんであることに。


「そなたの願いは、わかっている」

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