第十五章 ただ美しいのは星明かり

 こつこつと、ノックがにぶく室内にこもる。

 無言の指示にしたがって、秘書官は扉をひらき、黒ずくめのスーツを入室させた。

 度の強いレンズごしに針のような目をのぞかせた男は、右の肩から腕にかけてを、大きくサポーターでおおっている。

 古びた洋風調度がならぶ執務室を縦断し、マホガニー材のデスク前に立つと、うやうやしく一礼。

 鳳凰、麒麟、白虎――。

 護国の瑞獣ずいじゅうを彫りこんだ華美な窓ワクに囲まれ、絵画のような星影が冴えている。

 その星空が、顔を上げた神経質なおも立ちを重ねた。

「総裁……報告が遅れましたこと、お詫び申し上げます」

「あいさつは抜きだ、蟇目ひきめ。よく戻ってくれた」

「は……」

「無事でなにより、と言いたいところだが……」

「皮肉ですか?」

 アゴに絆創膏まで貼った満身創痍の蟇目の言葉に、部屋のぬしは笑みをのぞかせると、秘書官に目顔で合図した。

 秘書官は、豪奢な部屋の中央に、場違いにすえられている大型モニターのスイッチをひねってオンラインにすると、心得顔で退出していく。

「復命書は読んだよ。鏑木かぶらぎは殉職、南部はロスト……照峰宮司は呪殺されたそうだな。どう考える」

「すべて私のミスです。いかようにも処断されたく……」

「そういうことじゃない」

 デスクの男は、言いさしてイスを立った。

 無骨な外見から予想されるよりも、高い声音だ。

 蟇目より頭ひとつ分は上背があり、がっしりとした恰幅かっぷくにダブルベストがよく嫌味はない。

 五十の坂に手が届こうという男は、内務省外局の神祇院じんぎいんを司る総裁、早乙女連司れんじという。

 つい数年前までは、いち部門である教化部の部長であったが、叩きあげの経歴をかわれての、年齢としては異例の抜擢で首長に就任した傑物である。

 宗教団体のみならず、霊的不穏分子くにつかみとの渉外に明け暮れた苦労人の顔は浅黒く、こわもての頬骨にのった小さな目が油断なく光っている。

 かつて教化部の部長時代に、家族を失ったばかりの南部を見いだし、教育したのが彼であった。

「まあ、かけろ。傷にさわるぞ」

「は……」

 早乙女が真向かいのソファにかけてうながすと、蟇目は素直に応じて、革張りのソファに骨張った腰をおろした。

「おまえのほかに全権代理人エージェントを送りこめないのは、ひとえに予算だ。国防の要などと言いながら、その実は張り子の虎……。この建物もそうだ」

「由緒ただしい庁舎と言えば聞こえはいいですが、内情は雨漏り、すきま風……ですから」

「そんなとこだ」

 冗談めかした遠回しな詫び言葉を、蟇目は会話の潤滑油として受け入れた。

 神祇院は、戦後に解体された内務省を再建するにあたり、国内の霊的安定をめざして復権された国家機関である。

 神社本庁を神道の精神的ないしずえとするならば、神祇院は必要悪とも言うべき、実力行使の集団であった。限られた者しか知らぬとは言え、呪力が効験こうけんあらたかな世界では、悲しいかな暴力としてのを、抑止する要請が生じる。

 脅威への対応が低きに流れ、シンプルな腕力をともなうことは、どんな時世でも変わることはなかった。

 彼らは高天原たかまのはらにいます天神てんしんを〈天津神あまつかみ〉と呼んでたたえる一方、原初には土地の神として人心をべ、天孫降臨てんそんこうりんの後は反乱や祟りによってまつろわぬ地祇ちぎを〈国津神くにつかみ〉と称して、民に仇なす悪鬼魍魎と一括りにし、国家的霊害テロリズムの温床と規定した。

 再び為政に組み入れられた国家神道は、戦前の国教的な思想を上回って先鋭化し、時には他の宗教をも排他的にあつかう紋切り型の敵味方の分類によって、いつしか神祇院は融通のきかない負の執行機関の代名詞となりさがった。

 その庁舎は、荘厳ではあるが老朽化の著しいネオ・バロック様式の石造りで、ドーム状の屋根からも堅牢なベルリン大聖堂を模していることが知れる。

 だが、国家鎮護ちんごにこだわるあまり、体制に凝り固まった組織は、入れ物と同じように旧態依然であった。

 蟇目は、執務室の調度としてはバランスの悪い、圧迫感のあるモニターから視線をはずした。

 しばし黒檀のような闇を映すばかりだった大型モニターが、明度を自動調整し、メインに望遠映像らしい夜の雲海を、子画面には星空を描きだしている。

 サポーターを厚く巻いた右手をささえながら、

「……築山つきやまの存在に気がつくのが遅かったのです……。いつの時代ころからか……森の築山を、天狗の移り住んだ瑞祥山になぞらえることで封印していた……。それが、あのやしろの正体です」

「照峰宮司の逸脱、もう十年にもなるか。処分ものだが、彼が昏睡から覚めないため、先送りされていたのだ。まさかそのまま亡くなるとはな……。彼には功績もあることだ。この件は不問だ。いずれ死者にムチ打っても、はじまらん」

「総裁、牧市のことですが」

「なんだ」

を出されないのですか」

 早乙女は太いアゴでモニターを示すと、苦々しげに、

「例によって防衛省にはリークしたよ。機能を分割するから、わずらわしいことになる……」

「かえってパニックになると?」

「天文台とスペースガード監視網によって確認されたのが、二十四時間前だぞ。文科省が正式に事実確認したのが半日前ときてる……。だが幸い、おまえの報告にはが特定されていたからな」

 蟇目は、さきほどから同じ映像を繰り返している子画面を、あらためて見つめた。

 そこには、長く青白い尾を引く彗星が、引力にひかれて落下し、大気に没入していく様子が捉えられている。

「学者連中は半日かかって軌道計算を試行したらしい。結果、プラスマイナス十秒の誤差で、落下のタイミングを……」

「流星の速度は、最低でも秒速五キロと聞きますが……五十キロもの距離誤差があっても、目標に命中できるので……?」

「だから、座標だよ。おまえの考案した神祇官の強制帰還ブーメランシステム、あれは正式採用だな」

「効果は被験者わたしが保証しますよ……。それで、落着の規模は……どの程度なのですか」

「あそこに情でも移ったのか? 質量と密度にもよるが、予測される落下物の最大直径は三十メートル、だそうだ。落着地点から半径五キロ以内の建造物は消滅し、生物は全滅。さらに衝撃波によって半径二十キロ圏内は不毛の土地となる。が、そこまでだ」

「……地方都市ひとつで済めば、安いものですか」

「族議員どもの予算獲得合戦の代償としては、高くついたかも知れんがな」

 小さなモニターの流星は、大気にその身を焼く岩塊となって、青白い地表へ、浅く侵入していった。

 醜く、ノイズ。

 黒く塗りつぶされ、飽きもせず再生を始める。

 メインに目を転じると、いつの間にか画面は雲間にはしる二つの白い光点を映じている。

「接敵まで三十分以上あるだろう。連中には自信があるようだ、お手並み拝見といこう。オレとしては、市内外の情報封鎖でもやりたいのが本心だ。そうでなくても市中は混乱しているというからな」

「部隊を動かして、斎主さいしゅを消去したほうが確実では?」

はすでに重力に捕らえられているんだぞ。それに、おまえはこれ以上、我々の損害を大きくしたいのか?」

「……これを使えば、私の墓穴だけで済みますが……」

 蟇目はダークスーツの懐から、あかるの写真を貼りつけたワラ人形を取り出した。

「ぶっそうな物はしまいたまえ」

「は……」

 モニターは、あいかわらず望遠の不鮮明な映像だったが、それが新たに登場した航空機であることだけは判じられた。



 ――〇二二七まるふたふたなな現在、太平洋、日本領空。

 半月の光を浴びて、滑空する二つの機影が、眼下に広がる雲をなめらかに渡っていた。

 航空自衛隊、千歳基地所属の戦闘機、F-15Jイーグルの編隊である。

 緊急発進指令スクランブルが号されてから、ものの三十分で防空識別圏の東端に達したイーグルは、二基のターボファンエンジンを吹かすと機首をあげて、巨体を予定の迎撃地点――高度二万メートルまで上昇させた。

 窮屈な操縦席に固定された一尉いちいは、出撃前におこなわれた異例の打ち合わせブリーフィングの席で、となりを飛ぶパイロットと顔を見合わせたことを思いかえし、ヘルメットの下でひとり苦笑した。

 要撃対象は通常の国籍不明機ではなく、成層圏を貫いて、本土に接近する流星だという。

 一度ならず我が耳をうたがったが、飛行隊長のプランを聞き終えて、同僚とともに胸を撫でおろしたことを思いだしたのだ。

 流星を迎撃することはできない――というのは定説であると同時に、防空システムの穴を認めることだった。その軌道を精密に割りだすことができず、落着時刻も確定できないというのが理由だ。

 真理である。

 ならば、このミッションそのものが不可解なのだが、こうした疑問を腹に呑みこんで命令に服することも、彼らの職務だった。

 中天のやや西に月、きらめく満天の宇宙と、果てしない濃紺の空が作るグラデーションの境界を、大河のように流れるジェット気流が雲のかたちで渡っていく。

 大気の層がもっとも薄い高空から眺める星々は、いだ静寂をたたえて、こぼれるような悠久のまたたきを投げかけていた。

 たび重なる整備でまだらの制空迷彩をほどこされたイーグルは、両翼の航空灯を点滅させ、夏の星座が華やぐ夜空と、水底みなそこを思わせる雲海をたどって二すじの雲を引いた。

 一尉はずらりとならぶパネルに確認の目を走らせたが、どの計器にも、いっこうに目標が探知される気配はない。

 天幕に下げられたランプのような灯火ともしびが、苛烈な迎撃任務を忘れさせたのも束の間、巨大な熱源を感知したレーダーが耳障りな警報アラートを発する。

 同時に――。

 東の空を、あかつきが白々と染めた。

 アラートにかぶせるように、後方の空に待機していたE-2C早期警戒機からの声が、ヘルメットのなかへ無機的に響く。

「〈ホークアイ〉より〈ロングアロー〉」

「〈ロングアロー・ワン〉どうぞ」

「目標を確認した、迎撃態勢にはいれ」

「了解、こちらからはなにも、いや、前方に太陽の、」

 パイロットたちは認識のあやまりに絶句し、返答を呑みこんだ。

 夜明けには早すぎる――!

 はるか五百キロの水平線に。

 星を圧して、ひときわまぶしい光点、次の瞬間――。

 光源は爆発的に膨張し、閃光は視界を焼いて、夜空を日の出のような輝きで満たし、急激に接近した。

 正面からとらえた流星は、しだいにサイズを増すほかに、その距離をまるで感じさせない。だがレーダー警戒装置が表示する物体は、秒速十五キロという文字通りの天文学的速度で、空を西へと突っ切ろうとしていた。

 地球の自転方向に逆らって突入した彗星は、大気の摩擦にはばまれて、当初もっていた速度を大きく落として成層圏せいそうけんを脱した。

 およそ一時間かけて、地球を二まわり遊覧した彗星は――大気に触れた時点で彗星ではなく流星と呼ばれるが――日本から見ると太平洋側から、次第に高度を落としつつ接近している。

 垂直状況表示装置VSDに映じた、識別不明機アンノウンの赤い航跡を確認して、パイロットたちは総毛立った。

 水平線のむこうに出現したばかりの光点は、対光遮蔽バイザーごしには地平に浮かぶ明星ほどにしか知覚できないにもかかわらず、たった二十秒ほどで、こちらへ接触すると表示されているのだ。

 考えるより先に、訓練された腕が操縦桿を握りしめる。

「火球現象に遭遇、攻撃を開始する」

 となりを飛行する同僚に、風防ごしの視線を送ると、阿吽あうんの呼吸でうなずくヘルメットが見えて、イレギュラーな発進にこわばった頬はゆるんだ。

 迎撃のプランは、ごくシンプルなものだった。

 すなわち、発見した標的まとを正面にすえて飛行し、ミサイルの航続限界距離まで接近、赤外線レーダーで確実に補足させて、破壊するというものだ。

 流星は最大直径三十メートルの氷岩と推定され、搭載されたミサイルの威力では心もとないが、全弾を命中させれば破砕させ、最悪でも軌道を大きく減衰させられるだろう、という算段であった。

 だが、本来はわかるはずのない軌道が非常に高い精度で提示されたことから、彼らパイロットはそれらデータのソースを詮索する気をなくしていた。

 軌道計算の異常な正確さは、そもそも隕石として段階の座標がなくては算出できない数値だったからだ。

(流れ星が地球に寄っていこうってのか。船乗りマドロス現地妻おんなでもあるまいに……)

 一尉は含み笑った。

 いずれ、尋常な手段で割りだされたものではない。

「警告手順は省略する、攻撃開始」

「〈ロビン〉了解」

 は、この二言ふたことやりとりする間にも六十キロ進行している――。

 革のグローブが、淡々と火器管制コントロールパネルを操作し、マスターアームスイッチの武装位置を確認すると、よどみない動作で、操縦桿に設けられた発射ボタンを押しこむ。

 とたんに翼下のパイロンが、吊りさげていた空対空ミサイル、サイドワインダーを切り離し、投下されたミサイルは一瞬の間をおいて尾部のロケットを点火した。

 またたく間に四発が射出され、飛行編隊が吐きだした計八発のミサイルは、弾頭の赤外線レーダーが命ずるままに直進し、高速で飛来する岩塊を迎え撃つ。

 成層圏に到達して摩擦にさらされた流星は、急速に冷却されているとはいえ、その表面温度は摂氏せっし五百度を超える。

 赤外線レーダーが見失う心配はまったくない。

 相対速度ではマッハ五十以上になる両者は、たちまち距離を縮めると衝突し、夜空に莫大な熱を放射して美しい炎の花を咲かせた。

 一尉はようやくひと息つくと、余波をさけるため操縦桿を倒し、若干のタイムラグをおいた僚機ウイングメイトとともに機体を右にロールさせると、戦果を確認しようと前方を注視して、声を失くした。

 いくつもの爆光を抜いて――流星は夜空を凶暴な朱に染めて、飛翔を続けている。

 この任務には第二射のタイミングはなく、そもそも持てるミサイルは撃ちつくしている。

 状況がわからぬまま、機体を右回りに反転させようとしたパイロットたちは、後方警戒レーダーのアラートに、ぎょっと身をすくませた。

 天駆あまかける焦熱しょうねつ列車、重低音とともに巨大な流星が通過したのに遅れて、ひとかかえほどもある岩くれが、大気を蹴って跳ね、うなるような歓喜の咆哮をあげる。

 あたかも遊びに夢中になった子犬がはしゃぎ回るように、彼らは来臨らいりん後衛こうえいとして、尊大不遜そんだいふそん、礼をわきまえぬ出迎えを誅戮ちゅうりくせんと向かっていく。

 落下する灼熱の流星本体から、大気摩擦のせいで剥離し、分裂した欠片かけら――それが護衛である彼らの正体である。

 さきほどミサイルの直撃を防いだのも、本体に先行して露払いを果たした小さな流星たちだった。八発のミサイルを体当たりによってことごとく粉砕した先触さきぶれたち――その爆圧が広がるよりも速く、猛烈なスピードで中枢は通り過ぎたのだった。

「流星の、小さいのが、」

 のちに何度も再生されるフライトレコーダーに、最期の音声を吹きこんだ一尉は、後方から接近する二つの飛翔体に獣のような顔が浮かぶのを見た。

 その獣面が楽しげに笑う。

 二匹は、アフターバーナーを点火して猛加速するイーグルの背後へ軽々と追いすがると、チタン製の翼を喰いやぶって、燃料槽へ突進した。



 ドシャっ――!

 かがり火がなぎ倒され、鉄カゴのきが、火の粉とともにまき散らされた。

 月明かりに青々と濡れた夏草をのみこんで、たちまち紅蓮の炎が舌を伸ばす。

 変わり果てた結城――〈黒髪切り〉が、あかるを追って斎場を蹂躙じゅうりんしているのだ。

 ぞわぞわと暗黒を蠢かせて、ずんぐりした巨躯が炎のなかを歩み、白煙が渦をまいて円形の広場をいぶす光景は、底の抜けた地獄の釜だった。

 火中で呻く亡者のような絶望的なたぎりが、奈落の口腔から発せられる。

 体全体が毛髪からなる彼の足もとを、炎がとらえて這いのぼり始めたのだ。

 広がった野火は、自滅するをあざ笑い、しだいに木々をまきこむ業火へと姿を変えていった。

 赤い火が、瞬く間に全身をつつむ。

 その姿はさながら、神と巫女の婚礼を祝うキャンドルサービスのように夜空をこうこうと照らし、〈黒髪切り〉は炎を吹き上げて、あっけなく崩れ伏した。

 翼を羽ばたかせて浮揚ふようした巫女は、面影をなくした兄に憐憫れんびんを送ると、火葬の煙をさけ、東の空へ高潮した顔を振りむけた。

 見つめる先に。

 ベガ、デネブ、アルタイル――夏の大三角形と天の川がいろどる、またたく海原を蹴散らすように――美しい破滅を宿した星が、暁闇ぎょうあんを淡く染めていた。

 はるかな旅の終着を、星呼ばいの巫女の懐へと定めた禍星まがつぼし――ある時代には天狗とも呼ばれた〈天若日子〉の輝きだった。

「来て……夜這よばい星よ……」

 巫女は恍惚と両腕を広げて、降臨を迎えた。

 猛火が、横顔に深く影を落とす。

 そのとき――。

 鎮守の森を飲みつくそうと口をひらいた火勢は、後ろ髪をひかれるように進撃を弱めた。

 潮が引くように、じりじりと。侵攻した領土をあきらめた軍勢のように、火炎は版図はんとを逆さにたどりはじめたのだ。

 引き退しりぞく、その中心に――。

 業火に照らされた影も、妖しく。

 退却した炎が寄り集まって、馬蹄ばてい型に浮きあがると。


 ――燃えさかる光背こうはいに逆光となった、制服の少女が立っていた。


 その腕に、愛くるしく舌をつきだす白犬を抱いて、少女は砂漠の尖塔オベリスクのように屹立きつりつしている。

 髪も、立ち耳も、獣毛の四肢も、スカートからのぞく尾も――。

 すべてが青白くまばゆい。

 手足はなまめかしく伸び、扇情的と言えるほどに成り変わった体型が、制服の布を押し上げている。にもかかわらず顔立ちは幼い、あやういバランスの少女――良子の異形だった。

 全身にまとった真珠飾りと、犬の耳からさげられた腕輪ほどもある金環ピアスが、後光ごこうを照りかえしている。

 母のようないとおしみをそそぎ、そっと千代丸を降ろして、伏せていた双眸を見ひらくと。

 瞳は、血の色をたたえていた。

「まさか、また〈本成り〉なの⁉」

 異変を感じて、下界に視線を投げたあかるは驚愕した。

 だが、良子の意思を強く感じさせる視線に、あかるはとまどい、ついでその表情は恐れを通りこして畏怖にかわった。

 千代丸は勢いよく跳ね回ると、主の足もとをグルリ一周して正面に戻り、待機するように座って尻尾を振った。

 痛々しくよじれていた傷は消え、ただ凝固した血液が、かき氷のシロップのように惨事の跡を残している。

「いい子だから、ちょっと待っててね」

 まるで平常に――おだやかな声をかけると、あらたな形態を顕現させた良子は、余熱に煙る焼け野原を姿よく歩んだ。

 視線の先には、消し炭と化した〈黒髪切り〉の残骸が、かすかにその影を揺らめかせている。

 無数の切り髪と灰が凝りかたまったは、近づく気配に断末魔の体をねじると、残ったハサミを打ち振るった。

 とたんに、むせ返るような、髪を焼いた硫黄いおうの臭気があふれる。

 立ちどまった良子の首を、両断すると見えた瞬間――。

 羽虫を追うように、はねあげた獣の腕が、腐食した鋼のハサミを粉砕した。良子に触れただけで、ハサミは炭化した布のようにバラバラに分解する。

「良子さん、〈本成り〉なんかじゃない……! あれは、」

 あかるは、その名を口にすることをはばかって沈黙すると、せまる流星を束の間忘れたように放心した。

 醜悪な燃えかすのなかに、黒ずんで横たわる者、あやまちに我を忘れ、妄執と悔恨に身をまかせた男の、変わり果てた姿だった。

 閉じた目尻が、苦痛をうったえて、わずかにシワを寄せる。

 良子は軽く大気を吸うと唇をすぼめ、灰まみれの結城に向かって深く息を吹きかけた。

 小山のような灰が舞い上がって一面に散ると、それはまるで春のエネルギーにあふれた草花の種子であるかのように芽吹き、野原をあざやかな新緑に再生していった。

 焼け残った夏草もみるみる蘇生し、カミツレの花は黄色い顔でいっせいに夜空を見上げる。

 あかるも、鳥居のうえで身を寄せた菊花と南部も、あっけにとられて時ならぬ創成を眺めた。

 だが、これは始まりだった。

 体じゅうの息を吐きだした良子は、両腕を天にも届けと伸ばし、大きく胸をそらせると、澄みわたった空気を吸いこむ。

 吸いこんだ大気と比例して――良子の体が大きくなっていく。

 身にまとった装飾も、ボロボロに傷ついた制服のダメージも並行して、見上げるほどに高く、燐光を放つ犬の耳がケヤキの梢を越えるころ――ようやく、その成長はとまった。

 日輪のように燃えさかっていた炎が、それとともに消え去る。

「おお……!」

 巨体となった良子は眼下の森を一望して感嘆の声をあげたが、この奇瑞きずいを目にした者たちは、それどころではない。

 あかるは羽ばたくのを忘れて宙をただよい、ただ横合いから呆然と彼女を仰ぎ見ていた。

 鳥居の二人も、想像を絶する事態に目を疑い、理性が思考を放棄してぼんやりと口をあけた。

 かつての想い人を見下ろした良子は頬をゆるめ、微風を巻きおこしながら腰を落とすと、丸太のように太い指を夏草の繁茂する地上に差しのべる。

 緑に囲まれて横たわった末期まつごの結城は、手のひらにおさまるほどのサイズだった。

 良子は、もはやあらがわぬ結城を宝物のように、木々の頭を越えてささげもった。

 灰色の死相をあらわした目と、ほほえむ視線が溶けあう。

 次に良子がとった行動を、論理的に説明することは難しい。

 ともかくも、彼女の行為に迷いはなかった。

 手のひらの結城をつまみあげると、シロウオの踊り食いのように口中に流しこむ。

 水のように、なめらかな挙動で。

 ごくりとノドが鳴り。

 ――結城は、消滅した。

 良子は満足したように、

「ふう……」

 と息を吐いた。

(よかった、結城さん……。これで……)

 安堵した良子の瞳が、突如として差しこんだフラッシュに細められる。

 ――キンっ!

 金属のような響きが弾け、色彩はせた。

 陽がのぼるように、あかあかと――。

 東の空に、光球が出現したのだ。

 大地を震わせ、刻一刻と明るさを増す威光が、音速をはるかに越えて駆け下りる。

 突き上げる地鳴りのような異音が街の空を支配し、激震が家々の窓を鳴らす。

 深夜を眠らず過ごしていた人々は、一様に不安な視線を夜空に向け、流れ星の頭が灼熱を発して大気を焦がし、長々と黒煙の尾を引くのを見た。

 大気との軋轢あつれきで破片飛沫をまき散らしながら空を駆ける化身は、もろびとを黄泉よみへといざなう、星空とやしろとを結ぶ、死出の架け橋だった。

 ――太古。

 高天原から豊葦原ちじょうを平定するために遣わされた神は、土地の娘と恋に堕ちて、その任を忘れた。

 謀反の疑いをかけられ、ついには処刑された反逆の神の名を、〈天若日子〉と言う――。

 みずから招いた滅びの輝きを眺め、あかるは、ひとり口もとをほころばせた。

 と、巨大な〈犬神憑き〉の少女は、なにを思ったか右手を手遊びのキツネのように構えると、あぜんとした巫女に向かって、おもむろに、

「あ……」

 すきだらけの額を、中指の爪で。

 ピシリ。

 打った。

 柱ほども太い指に打たれ、強風にあおられた木の葉のように弾き飛ばされた巫女は、群生するシロツメクサのなかに、もんどりうって倒れた。あかるはあわてて体を引き起こすと、怒りや羞恥よりも、神威しんいにあてられて唇を引き結ぶ。

 片眉をさげて困ったような表情をのぞかせた良子は、再び向きなおって社と鳥居を正面に見すえると、

「あかるさん、ごめんね……」

「え……?」

 どこか、はにかむ調子の背中が、なにを詫びたのかわからず、あかるは戸惑った。

「くそ……! こんなことなら〈切り矢〉を使っちまうんじゃなかったぜ……!」

 最初に正気を取りもどした南部が、高空から迫る危機に、己の軽卒をののしった。

 その小さく震える息づかいに、菊花も波状に押し寄せたパニックから回復する。

 だが菊花は流星の出現など、はじめから眼中に無かった。

「……良子お‼」

 いまや見上げる位置にある、彼女の瞳に。

 両手をメガホンにして、ありったけの声でふりしぼった叫びは、大気を焼く轟音にかき消されつつも、かろうじて届いたようだった。

 二人の姿を認めた良子が、かすかにほほえむ。

 その唇が、菊花の名を呼ぶかたちに動き――。

 良子は、ウインクをして見せた。

 かなたを見つめ、まなじりを決した瞳が何を意味するのか――菊花だけが知っていた。

 良子は、いつもこのタイミングで飛んで来る友人からの制止の声に先んじて、腰をひねって利き足の右を踏みこむと、大地を揺らして空へ躍りあがる。

 上空の風は巨体をさいなむように取り巻いたが、それは制服のひだを揺らすにすぎなかった。

 宙に立ちふさがるように、腕組みの姿勢で微動だにしない。

 スカートをひるがえして社の真上に浮かんだ良子を眺めて、菊花は反射的に南部の頭を自分の胸に抱えこんで、彼の視線をふさいだ。

「痛ってぇ! つうか、見えねぇ!」

「見えなくて、いいから!」

 猛り狂った野獣のような、凶暴な光。

 炎の四つ足で空を駆ける流星と、良子は空中で対峙した。

 彼女を人間大とするならば、熊のような火炎の塊が迫って。

 雄叫びをあげる真っ赤なあぎとへ向かって、良子は腕組みを解くと、

「がっつき過ぎよ、色男イケメンさん……! あかるさんより……」

 間合いをはかって上体をそらし、

「……あたしでどうよ⁉」

 のけぞって後ろへ倒れざま、すくいあげるように流星のを。

 蹴り上げた。

 落着寸前で軌道を変えられた岩塊は、空中であお向けに回転する良子の眼前を通り過ぎていく。

 完璧なフォームのバイシクルキック。

 湿った夏空を、除夜の鐘のような衝撃が満たした。

〈天若日子〉は痛みに悶えながら、身をよじって成層圏へと駆け上がると――第二宇宙速度を突破して、逃げるように地球の引力圏を脱していく。

 この夜――照峰神社からはしりでた光芒が、落ちかかる流れ星をはね飛ばす光景を、多くの人が目撃した。

 姿勢をととのえた良子は、しばらく小手をかざして、光が去った方角を見つめていたが、

「ふうん……しつこいやつ! 戻ってくる気か……!」

 つぶやいて破顔一笑、腰を回して宙を蹴ると、その速度で大気をプラズマ化させながら、一条の矢となって空へ消えていった。


 それが――良子を見た最後だった。

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