エピローグ

 玄関先で、折りめ正しくおじぎした少女は、小さな犬と連れだって歩きはじめた。

 えんじ色の指定ジャージ上下に制服のスカートという格好は、デコレーション過剰な洋菓子を思わせて厚ぼったいが、秋も近いこの季節、朝晩には冷えを感じるほどなのだ。

 ひいらぎ家を辞した菊花は、借り出した犬のリードをしっかり握ると、腕時計を二度見にどみして目を丸くした。

 犬をせかして一目散に走りだすも、あっという間に追いぬかれ、引きずられるリードを制御するのがやっとだ。

 木漏れ日のイチョウ並木。

 緑ゆたかな森の外周を駆ける、彼のお気に入りのコース。

 そよとも吹かぬ暑気で、たちまち額に汗をのぼせ、境内にたどりつく頃には、正午近くなっている。

 連なった鳥居をくぐり、石畳を踏みはじめると、空調が効いたかのように、おだやかな気温がつつむ。

 限界をむかえてへたりこみ、ぜえぜえと荒い呼吸を整える菊花のかたわら、同じように舌を出していた犬は、すぐさま回復すると拝殿の方向へリードを引いた。

 どちらが主従か、わかったものではない。

 ちらほらと見える参拝客が、「息も絶え絶え」といった様子に、くすくす笑いをもらす。

 力強く引かれる綱に恨みがましい視線を送り、しかたなく立ちあがると、社務所の老人たちに礼を返しつつ、息を吐きながら森の奥へと歩をすすめる。

 涼しい季節も昼にさしかかると、太陽は夏の盛りを思いだしたように照りつけ、若い枝を広げるケヤキと下生えは、まぶしいほどに陽光を反射していた。

 鬱蒼としげる樹海は、やはり無風だったが、木々からこぼれる熱気は優しく、外界よりもはるかに心地いい。

 暖かな日差しに覚えたまどろみを断ち切るような、強引な綱に導かれ、なかば転びつつ樹林のとぎれる中心に踏み入る。

 千代丸は円形の広場に向かって、菊花のあいさつよりも早く、元気な第一声を発した。

 陽をさえぎるものの無い磐座のまわりに、立ち働く二人の姿。

「遅いぞ」

「あ、菊花さん、おつかれさま」

 不平をもらした南部は、ツナギ服を着こんだ作業モードで、角材を運んでいた。

 大きく髪をたばねた照峰あかるも、このところ週末はジャージ姿が多く、この日はべっこう飴のようなフレームのメガネをかけて、真剣な面持ちで脚立にのっている。

 目鼻立ちのおぼつかぬ、稲荷のキツネ像に。

 魔除けの緋色。

 稲荷の正面から、赤いエプロンを几帳面に整える姿が、カタカタと不安定に揺れる小さな脚立に危なっかしく、菊花はリードを解放すると、あわてて駆けよった。

 と、草むらに隠れていた角材に足をとられ、たたらを踏んで脚立に体当たりをかますと、悲鳴をあげてあかるが落下する。

 二人はもろともに草地に倒れこんだ。

「……痛ったあ……」

 仰向けに倒れた菊花に、完全に体をあずけるかたちで、あかるが乗りかかっているのを眺めて、南部が釈然としない口調で、

「蒼井、オレと代われ」

「あのねえ……! 最初に私の心配をしてよね!」

 朦朧から覚めたあかるは、あわてて身を起こした。

 駆けよった千代丸が、「なにか遊びがはじまった……」と言わんばかりに、はね回る。

 周囲には、角材や鉄骨、金具といった資材や、運搬の一輪車などが置かれていて、磐座の上に建てられた真新しい一間社流いちげんしゃりゅう造りの小さな社が、未完成であることを教えていた。

 真っ二つになった平たい岩には基礎が打ちこまれ、岩の片方に小祠しょうし、もう一方には稲荷像を冠した台座が設置されているのだ。

 これらは河川敷に放置されていた、古びたほこらから移設されたもので、社を中心として劣化のいちじるしい木材は、大部分が作り起こされている。

「そろそろ、お昼にしましょうか?」

「……だな」

 照れかくしのような、あかるの提案に、南部は賛同した。

 三人と一匹は、広場の入り口にあたる木陰に陣取ると、菊花の手製おにぎりやタマゴ焼きで昼食をはじめた。

 先日の類焼をまぬがれた古木の陰で、千代丸が鶏そぼろのおにぎりにがっついている。

「おいしいわ、さすが菊花さん。私、おにぎりって苦手です。三角になってくれなくて」

 菊花はノドを鳴らして笑うと、

「こう……手のひらを直角にして、炊きあがったごはんに空気を混ぜて……。うん、今度教えます」

 あらかた食べ終えた南部が、ビニール袋からデザートの串だんごの包みを取り出して、手のなかでたどたどしく広げはじめると、

 ――シャ、キン!

 清冽な音が響き、奇術のごとく菊花の手中に、三枚の小皿がスタンバイされる。

「……便利だな」

「慣れるとね。あんたって気が利くようで、ヌケてるわねえ」

「とりあえず、だんごの礼ぐらい言ったらどうだ」

「お皿、洗って返してね」

 他愛も無いやりとりを後ろに、あかるは日差しの爽やかな広場に顔を向けた。

 夏草は、あれからいっそう丈高く繁茂している。

 事件からひと月が経過した今、火災や落雷などの被害は回復し、道路や電気といったインフラも復旧して、街は平常を取りもどしていた。

 だが境内に集った三人の心は、復調とは程遠い。 

 親玉だった天狗が、あかるに統率されてから、傍若無人に暴れていた眷属たちは、ウソのように鳴りをひそめた。

 彼らによって勾引かどわかされた人々は、驚いたことに森の奥にそびえる築山の麓から発見されたが、大人から子供まで一様に当時のことを、

「覚えていない」

 と話しており、外傷も一切無く健康だという。

 捜査当局が公表した、最終的な行方不明者は二名――。

 結城ひかるは、沿道に乗り捨てられた車の状況から、事件性は低いとみられたが、依然手がかりはつかめていないそうだ。

 そして――。

 あかるはささやかな口論を放置して、磐座の向こうの草むらにチョコンと座った、綿雪のような背中へ歩んでいった。

 移設されたばかりの社のまわりには、運搬に使った角材の枠組みや、取りはずした足場、ブルーシートなどが整然と置かれている。

 事件のあと、氏子代表の老人が、あかるを訪ね、

「神社に被害があれば、修繕に協力させてほしい」

 と打診してきたのだ。

 宮司が倒れて以来の十年、そうしたことは無かったのだから、変われば変わるものである。

 幸い建物の損傷は見当たらなかったが、あかるは思案の末に、廃棄同然に忘れられていた河川敷の祠を移設することにして、彼らに協力を依頼したのだ。

 資材店や工務店の協力で、たちどころに解体と運搬が始まり、この週明けには石灯籠いしどうろうの固定や、長押なげしの取りつけといった仕上げを経て完成の見通しだった。

 新学期が始まった今、三人は週末に集まっては、作業途中の現場の片付けや草刈りなどを率先して行っている。

 どこかもどかしく、そぞろな心を持てあまして――。

「あなたも、か」

 あかるは話しかけながら、人待ち顔の犬とたたずんだ。

 千代丸は、首まわりについてきた脂肪を「ムニュ」と押しつつ振りむき、小首をかしげて空を見上げる姿勢に戻った。

 あの日を境に生じた、行き場の無い焦燥と諦念ていねんの谷間に迷って。

 ――彼らは、奇跡的に和解した。

 すべてを告白したあかるを、懺悔を口にした南部を――。

 菊花は受け入れたのだ。

 それは、失ったものをおぎなおうとする保身か、あるいは空虚を満たす私欲だったかも知れない。

 しかし菊花は、ただひと言、

「たぶん……から」

 と主語のない応えを言ったきりで、その後、彼らの所行に触れたことは無い。

 しばし、青空に溶けこむ背中に、

「だんご余ったあ」

 気のぬけた声がかけられて、あかるは我にかえった。

 しょうゆの串だんごを高々とかかげた菊花は、たわむれに千代丸をジャンプさせ、からかい始めた。

 その様子を横目に見ながら、南部が耳打ちのように、

「どういうわけか、おとがめなし、だ。そっちはどうだ?」

「いっこうに音沙汰がないわ。まだ祟りが怖いのでしょう。処分したければ、森ごと解体したらいいのに」

「そんな度胸も予算も、無いだろうさ」

 濃くなった日焼けの顔を崩して、南部が笑った。

 神祇院は照峰神社をあずかるという旨の文書を発行したものの、それが実行に移される気配はまるでなく、以後も行われることは無かった。

 増えた参拝客にまじって、あかるは一度だけ蟇目の姿を境内に見つけたことがある。

 拝殿に礼してきびすをかえした神祇官と、おみくじの客をさばく巫女の視線が石畳のうえに交差し、影のような男は意趣いしゅも邪念も無く、静かに目礼を残して去ったのだ。

 それがなにを意図した参詣だったのか――。

 あかるには、今もってわからない。

 嬌声をあげて、こんどは千代丸に押し倒された菊花が、

「あ、こらあ! 串あるから危ないってえ!」

 串だんごをうばって逃げる獣を追うが、追いつくものではない。

 そうそうに追跡をあきらめて戻ると、片足を上げて、スニーカーに入った小石を取り出しつつ、

「そういえば……あかるさん。結局は……どうしたんですか……?」

 ひかえめに尋ねた。

 捜査当局は、残る一名の不明者捜索のために森へ分け入ったが、めぼしい痕跡は見つからなかった。それが先日、あかるが祠の移設を企図して広場を訪れたとき、草のなかに揃った一足の赤いスニーカーを拾い上げたのである。

 娘の行方を案じる、両親の胸のうちは誰にも計れるものではない。

 しかし「履いていた靴だけが見つかりました」という報告は、はたして安心を提供できるものだろうか。

 あかるたちは、煩悶と葛藤の末に、スニーカーを隠匿した。

 菊花の問いに答えて、あかるはちょっときまり悪そうに、真新しい社を目顔で示した。

「え……。ま、マジですかあ?」

「大マジよ」

 あかるは晴れやかに笑った。

 神社の境内に設置される小さな社、本殿の祭祀とは別に、神社ゆかりの祭神をおさめる小祠しょうしを、末社まっしゃという。

 数百年前、この地に落着したと言われる隕石――〈天若日子〉の宿ったとされる鉱物が、照峰神社の本殿に祭られているのと同様に、新設された末社にもご神体が必要だった。

 それは縁起にも記されず、深く心に刻まれた、もの言わぬ勇気の異聞ヴァリアント――。

 ジャージの下ポケットに手を入れ、

「もう、お社のカギをあずかってしまいましたから。本当は遷宮祭せんぐうさいの日でないと、いけないのですけど、ね」

「はああ……」

 菊花と南部は、あぜんとして顔を見合わせた。

 前足を器用に使って、だんごを串だけにした千代丸は、再び定位置について、空を見上げる待機の姿勢をとっている。

「待ってて、と言ったわね。確かに彼女」

 あかるは、けなげな立ち耳を見やってつぶやいた。

 全国ニュースは、地表に最大接近して通過した彗星について、しばらくは詳細を報じていたが、神社にまで訪れていた報道関係者も、インタビューのマイクを、口をひらけば持論の「小豆あずきの地産地消」について語る巫女に飽きたらしい。

 報道によると、ニアミスした彗星は地球の引力の反発によるスイングバイの作用で――ともかくもそう、専門家は解説している――軌道を大きく変えて、再び太陽系を周回する彗星となって宇宙へ帰ったらしい。

 もとの公転周期をはるかに超えて、長周期彗星に変わったのだと。

 再訪は二百年後なのだという。

 彼女は、どこまで星を追っていったのか――。

 あかるたちの想像を、はるかに越える範疇のできごとである。

「これが終わったら、どうするんですか?」

 菊花は完成を控えた社を眺めつつ、尋ねた。

「そうね」

 湿った鼻先につられて、みな空を見上げている。

 蒼天には、気の早いウロコ雲が、去りゆく夏を見送るように棚引いていた。

「遷宮祭を終えたら、進学の準備をするわ。正式に階位をいただけたら、ここを継ぐつもりです。ただ、」

「なんですか……?」

「神主になったら、旅に出たいのよ」

「旅……?」

「待つのは、もういや。だから全国のお稲荷さんをめぐって、どんな小さな手がかりでも、さがしたいの」

 決意を胸に、あかるは凛とした表情で流れる雲を追い、かたわらに目を移す。

 見かえす、黒々とした瞳。

 いつか彼女の荒ぶるままの魂――荒魂あらたまを、おだやかに、にぎしくしたい。

 ――そのときには。

「そのときには、あなたも。いっしょに、ね」

 彼は、巻き尻尾をパタパタ振った。



〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あらたまのヴァリアント 滝口レオ @leo_takiguchi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ