第八章 毒を喰らわば

 ――しずくが一粒、乾いた地面にみた。


 小さくなったお気に入りの靴のような、それは淡い記憶。

 あのころは、小ぶりに切り揃えられていた、髪。

 公園のかたすみに、ペタンとヒザをついて座りこみ、涙で顔を汚している幼い菊花だ。

 刈りこんだショートカットの少女が、敢然と立ちはだかって、目の前の少年たちをにらみすえているが、その少年たちも、ある者はコブのできた頭を抱え、あるいは腕の噛みあとをさすりして、号泣しているのだ。

 ショートカットの少女が、菊花になにか諭すように話しかけると、彼女は濡れた顔を向けて、安心したように笑った――。

 思い出の風景は、母親と訪れた、どこかの玄関先へとんだ。

 母親は丁寧にわびると、少女にも頭をさげさせる。

 手をつなぎ、帰路につき、不思議そうに見上げたのは、いさめるようでいて、どこかほほえんで見えたから。

『困った子ね、あなたは』

 少女は母の顔をのぞきこもうとして――。



 烈風が、無遠慮に頬をかすめた。

 それは春のツバメのようにくうを裂くと、背後に立つ鋼鉄のすべり台に激突し、甲高く粉々に砕け散った。

 一拍遅れて、皮一枚を切り裂かれた頬から、鮮血がしたたる。

 反射的にそれをかわさなければ、おそらくカフェにいた人々と同じく深手を受けていたのだろう。

 しかし、その飛翔体は何か――。

 説得の言葉を探す良子に、余分なことを考えるヒマはない。

「ね、菊花……いっしょに帰ろう。お店の方は、なんか大変なことになってるけど……きっと、菊花が悪いわけじゃないでしょ? だから大丈夫だよ……」

 あえて絶望的なほどの楽観を口にして、正面から歩み寄った。

 顔を伏せた菊花は、なにごとかブツブツと口中にとなえていたが、やがてゆれが小さくなったブランコを再びこぎ始めた。

 隣りは空席だ。

「菊花……あたしも座っていい?」

「私は何も、悪くない」

「……そうよ、いつだって」

「悪いのは、あんたよ」

 作り笑顔を言葉のついで打たれ、良子はくらんだ瞳を閉じた。

 いや、視覚のみならず、鋭敏な耳も鼻も、おびえた子供が頭から布団をかぶるように、あらゆるセンサーをオフにしていた。

 殴りつけられたような衝撃から、とっさに身を守るための防御本能だといっていい。

(これは、違う……菊花は、こんなことは言わない……)

 知らない言葉を吐く友人を受け入れられず、世界を拒絶するように。

 だが閉ざした知覚を、不快にきしむブランコのチェーンがこじあけ、現実を押しつけてくる。その鳴りが、切迫した音とともに途切れると、良子は思わず顔をあげた。

 体を抱えこんでブランコから飛んだ菊花は、二つしばりの髪をスローモーションのようにゆらして、長い四肢を空中いっぱいに広げる。

 刹那――。

 襲いくる危機を感じた良子の野生は、両腕を頭の後ろに振りかぶらせると、見事なフォームで後方宙返りを決めた。

 と、直前まで良子のいた、黒土の表面に。

 突き立つ、白い円盤状の物体。

 それはまさに円盤――白い陶製の、であった。

 二人は十歩ほどの距離をあけて、同時に着地した。

「菊花……なに、これは……。どうなってるの? カフェの人たちに何をしたの?」

「あの人たちねえ、私を笑ったのよ」

 うつむいた双眸は鈍く夕日を反射して寄るべ無く、両足を肩幅ほどにひらいてダラリと腕をさげると、その体は廃屋に朽ちた柱のように頼りなげだった。

 どこからか。

 ――ゴボゴボ、と。

 排水溝から漏れ出る、汚水のような。

「笑った、って。菊花……」

「私はね、いつも笑われてるの、いえ、バカにされてるのよ」

「あのね、なに言って」

「お父さんもお母さんも、お店を手伝わなくていい、なんて……私の勉強が進まないからなんて……でもね、本当は私が邪魔なの。私がお店のお皿を割ったり、落としたり……上手にできないから、邪魔なの」

 良子は絶句して立ち尽くした。

 菊花の両親が経営しているレストラン〈ドゥ・ファンタム〉は、テーブル六つきりのこぢんまりとした構えだが、アットホームなその店を、良子も家族で訪れたことがあって気に入っていた。

 嬉々として配膳にいそしむ友人が、その日も皿を割ったことが、昨日の情景のように、ありありと思いかえされる。

 じんじん痛む耳に、またもどこからか響く、不潔な水音みずおとが追い打ちをかけた。

 ゴボゴボ、と。

 うめくような波音は、しだいに近く。

 共鳴する、涙声。

「……でも私はお店に出るのが好きなの、手伝いたかったの。だけどね、他のお店でも、私が満足に給仕もできないような子だってわかると、即刻クビ……当然よね。働かせてくれたのは、あのカフェくらいだったのよ。でも、あそこでは、もっと酷いことになったわ……私がよく失敗するからって、見せ物みたいに扱って……なにが愚鈍よ、ツインテールよ。好きでしてる髪じゃないのに。本当に笑わせるわね」

「菊花……気持ちは、よくわかったわ。でもあの人たちも、悪気があったわけじゃ……」

「あんただって、笑ったじゃない」

「あたし……⁉」

「私が転ぶのを見て、バカにしてたわ」

「笑ってないよ! 笑ってなんか……や、笑ったとしても、それは……」

「そりゃ覚えてないでしょうよ、笑われたのはそっちじゃない。私だもの、それにね……それに〈テンプテーション〉のことだって、そうよ」

「なによ、急に……?」

「私が最初に、あの人のこと、気に入ってたのよ! それが……知らないうちに仲良くなって……!」

「なによ、それ! そんなの、こっちの勝手じゃない⁉」

 菊花の冷えきった薄い虹彩と、笑みの形に崩れた唇は、悲しく共演する泣きわらいだった。

 あふれる汚水の音は、もはや疑いようもなく耳朶じだを打っている。

(菊花の、聞こえる……?)

 さきほどまでとは逆に、センサーを全開にすると、こみあげる音は、彼女の体を透過して響くようだった。

 良子はこぶしを握り、キッと友人の背後をにらんだ。

 空間には、夕闇にまぎれて黒々とした瘴気しょうきが立ちのぼっている。

 それは深い闇を引きうつした、ほの暗い憎しみの塊だった。

 表通りのカフェにあつまるパトカーや救急車のサイレンを聞きつけて、近所から物見高い人々があらわれはじめていた。

(見ようとしなければ見えない……だっけ。なら、菊花の後ろにいるモノも、人には見えないはず……)

 目をこらして、菊花に巣食う〈もののけ〉を視界に結実させようと試みると、

 ドっ、と。

 轟音とともに、間欠泉のような水柱が吹きあがった。

 それは重油のドス黒さにも似て、赤い夕日から時をうつそうとする宵闇よいやみよりもなお暗く、公園の一角にほとばしった。

 良子は目を見張った。

 黒い水柱の頂点は、いびつな顔のように見えたかと思うと、見る間に目鼻立ちを整えて、あどけなくも冷酷な面貌めんぼうを形づくった。

 濡れ濡れと髪は伸びて、猿のように長い腕を〈依り代〉の首もとに巻きつけている。なまめかしい体は炎天下に放置した蝋人形のように崩れ、人に近いぶん、かえって不気味だった。

 和服のようなものを身に着け、生地には、いくつもの丸い華紋かもんが描かれている。おぶさるようにからんだ〈もののけ〉の腰から下は、汚泥の濁流となって地面に、いや、ぼんやりとかすんだから湧きあがっていた。

「それ……それが、あなたに取り憑いたのね……‼ 〈憑き神〉……って、あかるさんは呼んでた……まさか菊花にまで……!」

「カン違いしないでね。私はこの子を、望んでくっつけたの。乗っとられたわけでも、操られてるのでもないわ、よ」

 わずかな希望を打ち砕くように、菊花は先回りの答えを投げつけた。

 同時に、憑き神がゆっくりと両手をかざした――と見るや、和服の柄と見えていた円形がふたつ、ジワジワと生地を這いあがり、筒袖の辺りまで侵食すると、どうしたわけか着物から遊離して、エナメルのような黒い手のひらに収まった。

 次の瞬間――。

 恐るべき速さで繰りだされた憑き神の両腕が交差し、握られていた直径三十センチほどの円盤――青磁せいじの皿――が、高速で宙に舞っていた。

 投射された皿は、空中で一対の弧を描くと、立ち尽くす獲物を直撃した――かに見えた。

 しかし良子は一瞬早く地面を蹴ると、とがった獣の耳と牙をあらわにして、菊花の憑き神を圧倒するスピードで、その頭上に達していた。そのころには、良子の残像をかすめた円盤同士が激突し、粉々に割れ散っている。

 青黒い憑き神は、滞空する〈犬神憑き〉を見つめて、ニヤと口もとを歪めると、交差していた腕を、その勢いのまま逆に展開した。

 その両手にはいつのまにか次弾――すなわち二枚の青磁の皿――が握られている!

 はすいに閉じられた皿に、蹴りさげた右足を捕られた良子は、瞬時に足首をひねってスニーカーを脱いだ。ひと息遅れて、スニーカーがはね飛ばされる。

 空中で反転した良子は、さっきまで菊花が座っていたブランコの、支柱の上辺へあざやかに着地した。

 ――ウォォン‼

 無意識に口中を割って出た咆哮が、低く一帯にこだまする。

 菊花は、その憑き神とともに、眉をゆがめて振りかえった。

 彼我ひがの位置は逆転し、ついに良子は激発していた。

「どうして……どうしてなの菊花‼ あたしは……そんな気持ち、知らなかった! どうして話してくれなかったの……いつもこっちばっかり相談してさ……。勉強ができない、背が低い、スタイルが悪い、料理もできない、髪型も決まんない……コンプレックス持ってんのは、あたしよ! あなたじゃない!」

「うらやましい脳の構造をしてるわ」

 とび色の瞳が、あふれる黒い涙の淵に溶けて、濁る。

「そんなところも恨めしい……。トロい、愚図、ドジと言われ続けた私の気持ちがわかるの⁉ あんたにはわからないでしょ! 神懸かりになった私より、やっぱりあんたの方が素早いなんて。バカにしてるわ、許さない」

いだいてもいいよ……」

「……?」

「コンプレックスや無力感を……抱くのはいいよ、それは次にがんばる力になるから……。けど、だからって他人にあたってどうなるの? 他人をキズつけて解消して、それで満足なの……?」

「カフェの人たちね、私を笑いものにしたわ。だから願ったのよ……。誰にも負けない、バカにされない力が欲しい、見かえす力が欲しいって! そして、叶ったのよ」

「ああそうなの……もうたいがいにしてよ、あたしの知ってる菊花は、そんなんじゃない! 自分のいいところも悪いところも……全部を活かして生きてるのが菊花だよ!」

「あんたこそ黙ってよ! いえ、黙らせるわ……。他人をキズつけて満足か、ですって⁉ ええ、おかげさまで大満足よ! 溜まったモノを晴らしてやりたいのよ! あんたも、その一人よ!」

「カン違いしてんのはそっちよ、菊花」

「私……?」

 良子は残った左足のスニーカーを脱ぎ、濃紺のソックスも脱ぎ捨てると、素足の指で支柱につかまりバランスをとった。

 黒々とした両眼には、それまでとは違う、明らかな闘志の色が浮かんでいる。

「他人をキズつけるのはよくないって言ったよ。でもあたしは他人じゃない、殺したいなら存分に来てよ。あたしは、菊花といっしょに生きてるつもり」

 わずかにゆらいだ依り代など素知らぬ顔で、その憑き神は、あざわらうように両手の皿を投げつけてきた。

 と、どこからかその軌道に向かって、飛来するもの。

 くちばしの長い二羽の白い影は、青磁の皿に体当たりすると、双方とも破裂する空中衝突を演じる。

「……ずいぶんとハデにやらかしたものです。もはや捨て置けませんよ、ご両人」

 濃くなった夜のベールに隠れて、闇の化身のようなダークスーツの男が、菊花の後方に見えるジャングルジムに立っていた。

 あいかわらずの白手袋、しかし今度は腕組みではなく、両手は横にさげられている。

 腕の負傷は、二人の知るところではない。

 まじないを秘めたふだ――さきほども白サギを現出させた式神符しきがみふ――を握りしめ、

「またお会いしましたね。そちらのお嬢さんも〈依り代〉の才能があることは、わかっていましたよ。こうなる前に手を打ちたかったのですが……残念です」

「蟇目……っ‼」

「まあ、そう嫌わないでください……。私が結界を作らなければ、それこそさらし者だったのですよ」

 公園の出入口や通路には、歩道橋のときと同様に、地面に白く染め抜かれた、いくつかの五芒星、すなわち結界が描かれていた。

 カフェの裏口近くに群れた野次馬は、ケガ人の搬出作業を遠巻きにしていたが、これほどの騒動を起こしても公園に目に向ける者は皆無だった。まるで公園の敷地に〈立入禁止キープアウト〉のテープが巡らしてあるかのように、けがれから目をそむけるように――。

 良子は再び身がまえようとして、ふとプリーツスカートの違和感に手を伸ばすと、ポケットの中を握りしめてみた。

 それは先日の別れ際、あかるにもらった、桜模様のお守りだった。

 あかるは、

「なにか危険が及んだとき、きっと役に立つわ。離さずに持っていて」

 ささやくように、これを手渡したのだ。

 冷たくなった心を癒すかのように、手の中は不思議と温かく、鼓舞されるのを感じる。

「およびじゃないわ蟇目、これはあたしたちの問題よ」

「そうは参りません、柊良子さん。あなたは幸いにも、依り代となっても自我アイデンティティを失わない、強い意志をお持ちだ。しかしそちらのお嬢さんはどうか……。すでに被害も甚大、その〈皿数さらかぞえ〉を放置することはできません」

「今度は、萌えなのよ?」

 蟇目はちょっと首をかしげると、合点がいったように、

「ああ……あかる様は人格化の文脈で説明したのですね……。そう、〈番町皿屋敷〉をご存知かと思いますが」

「なにそれ?」

「……ええと、江戸時代の女中が皿を割ったとがで、あるじに殺され、井戸から化けて出るという……」

「はいはい、なんかわかった。『いちまーい、にまーい』ってやつ」

「それです」

 メガネの奥の三白眼が、心底の安堵をあらわして胸をなでおろした。

「幽霊じゃん。それが取り憑いたの?」

「長くなるので理想化しますが……皿屋敷の類話は、江戸のほかに東北や関西など舞台は定まらず、発生時期や登場人物もまちまちです。特定の人物の霊ではなく、当時の被差別階級であった女性の悲劇が仮託かたくされたのが〈皿数え〉です。ですから強いて属性をあげるなら、割った皿を数えるもののけと、」

「じゅうぶん長いわ。簡潔に」

「ドジっ娘萌え、です」

「……そいつのせいで、菊花は割っちゃうの⁉」

「だとしたら、問題ありです」

「え……?」

「ふううん……皿数えという名前なの、この子……」

 しばし沈黙していた菊花が、頭越しの会話に割って入ると、ジャングルジムを振りかえった。

 蟇目と良子に、挟まれたかたちだ。

「黙って聞いていれば、ひとのキズ口にポン酢をたらすようなことをズケズケと……。あかるさんに聞いたわ……あなたは〈国津神くにつかみ〉が引き起こす災害を防ぐために、派遣されているのだとか……」

「いかにもおっしゃる通りですよ、蒼井菊花さん。ですから、私はあなたを排除しなければならない」

「できるものなら……」

 やってみなさいっ! という菊花の叫びと、背中に宿る〈もののけ〉が、数十枚の円盤をその着物から引きだしてまき散らすのが、同時だった。

 群れなす蜂の羽鳴りのように、鈍く空を震わせて殺到する皿は、今度は青磁ばかりではなく白磁、天目てんもく、色絵、染め付け、染錦そめにしきなど色とりどりの凶器だ。

「ほお……! 速いぞ!」

 蟇目は、虎の子の高位呪符を使って身代わりを作ると、空蝉うつせみよろしくヒラリと短冊に変じて、公園の奥に見えていた東屋の屋根に降り立った。一瞬だけ呪術師の姿を模した身代わりの札は、高速で飛来する皿に引き裂かれ、ズタズタに破れ散る。

 さきほどまでと比べて皿の到達速度が速いことを、やはり標的となった良子も見抜いていた。

 だが、彼女は飛来する群れを、顔色一つ変えずに引きつけると、衝突寸前で余裕たっぷりの跳躍を見せてかわしていた。

 とりどりの陶器が、互いに激突して割れ飛ぶ。

 跳躍した良子は――その上をゆったりと滞空していた。

 にらむ菊花と、振り向けたメガネを街灯に反射させた蟇目が、

「んっ……⁉」

「ふむ……」

 同時に声をあげていた。

 ほのかに群青が残る夕映えの空に、しなやかな肢体が舞っている。

 獣の耳を生やした頭部は、先日までと同じである。

 しかしその腕――ぜい肉の無い腕は、ヒジから先が一回り大きく、黒く毛皮にふくれている。

 その脚――ヒザ下もまた肥大して、力強い獣毛でおおわれていた。

 獣の手足そのものとなった四肢からは、象牙色の爪が先端をのぞかせている。

 オオン!

 ひと声吠えて、ダンっ、と着地。

 衝撃を吸収した、が。

 本来あるべき「人間のかかと」が無い、つまさき立ちのようなシルエットなのだ。ハイヒールをはいた中身のようなものだ。

 奇怪な体型だが、多くの四足歩行の哺乳類がそうであるように、これが爆発的な速度を生みだす。

「こんなに早く〈中成ちゅうなり〉の相をあらわすとは驚きです。しかも自我を保っているとは……」

「蟇目……! これからヤツを引きがすぞ! 協力しろ!」

「ふむ、いいでしょう……!」

 身がまえた良子が地面に伏せるほど腰を沈めると、スカートのすそから、ご丁寧に黒い尾までが、ちらと顔をのぞかせる。

 痕跡器官びていこつから伸びた巻き尾が低く垂れさがった瞬間、犬神は雷光のように公園を突っ切って、瞬く間に菊花との距離を詰めていた。

 菊花も漫然と接近を許したわけではない、だが投げ打った皿は、またしても蟇目の放った〈式神〉に阻まれていた。

 この時、なぜか良子は割れ散った破片に目を引かれて突撃を遅らせたが、すぐに雑念を追い出すように頭を振ると、最後のスパートをかける。

「……‼」

 数秒のタイムラグに、菊花は付けいるスキを見いだした。

 攻撃を兼ねた防御幕を蟇目に弾かれ、皿数えは肉薄する良子を見すえると、両手にあざやかな菊の色絵――飾り皿を現出させた。

 飾り皿のフチには、ギザギザの突起がかたどられている。

 菊花は無意識に顔を両腕でガードしつつ、ステップを踏んで跳ねあがる飛影を、かろうじて目で追った。

 憑き神が一体化して顕現けんげんした良子とは違い、分離して出現した菊花は、その動体視力はもとの人間のままであるため、動きを追うのがやっとなのだ。

 だがそれは、背後の皿数えとて、大差はなかった。

 もとより接近しての戦いに向かないからこそ、距離をおいて皿を投げ打っているのだ。

 両腕を上段に振りかぶると、飾り皿は墨のように黒い手の平で猛烈に回転する電気鋸パズソーとなってうなった。高速回転の残像で、花の絵は同心円の模様となってかき消える。

 振りおろした皿は、しかし良子の獣の腕に、黒い手首をつかみ捕られて虚しく空回りした。

 ガツっ――!

 良子はその勢いのまま、首すじに牙を突き立てた――。

 だが、その細い首は皿数えのものでも、まして菊花のでもなかった。

 菊花の足先から、スルスルと大蛇が這いのぼっていて、銀のウロコをひらめかせながら喉笛に噛みつかんとしていたのだ。良子は考えるより早く、のけぞるような体さばきで、蛇の首もとに牙を立てて、力まかせに引き裂いていた。

 からみついた蛇の尾が離れた反動で、足をとられた菊花はその場に座りこむ。

「蟇目ぇ! ……どういうつもりだ‼」

〈式神〉を始末すると、公園のパイプ冊まで飛びしさり、殺気をこめて叫んだ。

 蟇目は逆なでするような涼しい顔を、隠そうともしない。

「裏目に出ましたか、ふふ、私もまだ未熟だ……。さてと、犬神の娘さん……。あなたは蒼井菊花さんを、助けたいのではありませんか……?」

「なに言ってる! おまえが横から、けしかけたんだろ!」

「その通りですよ……しかしね、考えてもみてください。いえ……あかる様は、あなたたちに説明しませんでしたか……? 憑き神を切り離すのは難しいと……」

「そう……言ってたけど、私のは家筋だからとも言ってたわ! 菊花は……」

 半びらきの口が、空間に張りついたように固まった。

 ぞっとするような考えが、良子をとらえていた。

「まさか……菊花もなの……?」

「断言はできませんが……。家筋いえすじになる皿数えというのは聞いたことがありません。しかし、昨日や今日、取り憑いたのではない。蒼井さんという依り代のなかに、こいつは相当長いあいだ、潜んでいたと考えられます」

「そんなこと……どうしてわかる!」

「……あなたは彼女と、付きあいが長いのでしょう? このなかに見覚えのある皿など、ありませんか……?」

 良子はしばらく質問の意味を解しかねていたが、さきほど脳裏をよぎった既視感デジャヴのようなつまづきを思いだし、ついで砕けた破片を地面に見いだした。

 くれなずむ夕日のなか、街灯の明かりが無くては、ものが見えない暗さになっている。

 そこに金縁に彩られた、繊細な、かけら。

(こないだ……カフェで菊花が割ったティーセットのお皿だ……。じゃあ……じゃあ、このお皿、まさか全部……?)

 狂気の友人をはさんで、うす闇の幕の向こうに、手袋と細面ほそおもてだけが、ブラックマジックのように浮きでて見える。

 その白い手袋が、芝居がかって広げられ、

「おそらく、そうでしょう。これらはすべて。この陶器の群れは、割られた瀬戸せとの恨みであると同時に、積み重ねてきた劣等感や猜疑さいぎの歴史でもある。この量ですから、もう取り憑いて数年……ひょっとすると十年近くは経過し……」

「九年よ」

 ゆらりと立ちあがった顔は、苦痛に耐えるように歪んでいた。

「……私が初めてお店の手伝いをしたのは、小学校にあがる前の年……あの時の悲しかったこと、覚えてる」

「あなたから憑き神を分離することは、不可能です。もののけとの付きあいが長過ぎたのですよ」

「切り離せない……?」

 良子は、手当てするように手首を押さえている菊花の姿に、愕然としてヒザを折った。

 抜けるように白い両の手首には、赤黒く醜い爪痕がついている。

 痛々しい傷痕は、ついさっき良子が皿数えの腕をつかんだのと、まったく同じ位置にきざまれているのだ。

 つまりは、

(そういうことか……)

 良子はここにいたって、ようやくすべてを理解し、それゆえに地面に屈した。

「おわかりいただけましたか……憑き神を傷つければ、運命共同体の依り代もただでは済まない……。さきほど私が後悔したのも……それが答えです」

 蟇目が任務を遂行するつもりならば、良子の牙が皿数えのノドを破ろうとした流れを、乱すべきではなかった。

 あのまま牙を突き立てていれば、

(菊花は死んでたのか……。いや私が殺してたんだ……)

 唇をきつく噛みしめた良子は、もはや立ちあがる気力を失ったように、うつろだった。

 ――菊花の憑き神を切り離すことはできない。

 ――憑き神を殺せば、菊花も同じ運命をたどる。

「……あなたはね、柊さん。本人が変形するほどに犬神との距離が近いために、錯覚を起こしたのですよ。実際のところ、蒼井さんのように距離をおいて顕現しても、やはり一心同体、死なばもろとも……それこそが取り憑いている、というです」

「……助けることはできない、と言うの?」

「ムリに引き剥がそうとするなら、最悪の場合、彼女は精神的な死を迎えるでしょう。除霊とは、それほどまでに難しい……これ以上、罪を重ねないよう引導を渡してやるほうが、よほど彼女のためになると……私は思いますがね」

「……もういいよ、良子……」

 菊花の声は、沈んだ空のように物憂げだった。

「私はどうせ、こんないじけた考えなのよ、幻滅したでしょ。これが本当の私よ……だからもうあきらめて、逃げてよ。こいつはもう、あなたを攻撃することをやめない! 私の命令なんて……聞きそうにない……!」

 黒い思念の権化は、カマキリのように両腕をかかげ、その手には新たな凶器がのせられている。

 あのアイスの日、葬ったはずの。

 レリーフ付きの。

 赤くにじむほど唇を噛んだままの良子は、もはやヒザをついた姿勢から、微動だにしなかった。

 倦怠けんたいと虚無が取り巻き、観念したように目を閉じる。

 菊花の頬は、黒い涙のすじで汚れ、声無き絶叫は、どちらに向けられたのか定かではない。ともかくも、二枚の円盤は非情にも放たれて、無防備な顔に吸いこまれるように突進した。

 一枚は血しぶきを飛ばしながら、日に焼けた上腕をかすめ、皮膚をうすく切り割った。

 もう一枚は狙いをはずすことなく、つぶった目の中心――眉間に飛んだ。

 ――パァンっ。

 つんざくような炸裂が、夕闇を貫いた。

 おそるおそる、絶望から捨て鉢になった目をひらくと、良子は五体の無事を疑った。

 出血した腕も、眼前の光景に比べれば、意に介することもない。

 街灯に照らされた白いシャツの背中が、まぶしく照り輝いている。

 黒のネクタイをひっかけて。

 見覚えのある染め髪が、夕闇に燃えている。

 知らず、犬の黒い尾が左右に振れる。

「あなたは……」

 ただ蟇目だけが、沈黙を破った。

 その手袋の指が、かすかに震えている。

 彼の目には、落下した青磁が映りこみ、それはどうしたわけか、まっぷたつに切断された残骸をさらしていた。

「……結城さん……⁉」

 少女たちは、異口同音に叫んでいた。

 パイプ柵をのりこえた結城は、首だけを良子に振り向けて、

「世話がやけるね、君たちは……」

 と言った。

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