第八章 毒を喰らわば
――しずくが一粒、乾いた地面に
小さくなったお気に入りの靴のような、それは淡い記憶。
あのころは、小ぶりに切り揃えられていた、髪。
公園のかたすみに、ペタンとヒザをついて座りこみ、涙で顔を汚している幼い菊花だ。
刈りこんだショートカットの少女が、敢然と立ちはだかって、目の前の少年たちをにらみすえているが、その少年たちも、ある者はコブのできた頭を抱え、あるいは腕の噛みあとをさすりして、号泣しているのだ。
ショートカットの少女が、菊花になにか諭すように話しかけると、彼女は濡れた顔を向けて、安心したように笑った――。
思い出の風景は、母親と訪れた、どこかの玄関先へとんだ。
母親は丁寧にわびると、少女にも頭をさげさせる。
手をつなぎ、帰路につき、不思議そうに見上げたのは、いさめるようでいて、どこかほほえんで見えたから。
『困った子ね、あなたは』
少女は母の顔をのぞきこもうとして――。
烈風が、無遠慮に頬をかすめた。
それは春のツバメのように
一拍遅れて、皮一枚を切り裂かれた頬から、鮮血がしたたる。
反射的にそれをかわさなければ、おそらくカフェにいた人々と同じく深手を受けていたのだろう。
しかし、その飛翔体は何か――。
説得の言葉を探す良子に、余分なことを考えるヒマはない。
「ね、菊花……いっしょに帰ろう。お店の方は、なんか大変なことになってるけど……きっと、菊花が悪いわけじゃないでしょ? だから大丈夫だよ……」
あえて絶望的なほどの楽観を口にして、正面から歩み寄った。
顔を伏せた菊花は、なにごとかブツブツと口中にとなえていたが、やがてゆれが小さくなったブランコを再びこぎ始めた。
隣りは空席だ。
「菊花……あたしも座っていい?」
「私は何も、悪くない」
「……そうよ、いつだって」
「悪いのは、あんたよ」
作り笑顔を言葉の
いや、視覚のみならず、鋭敏な耳も鼻も、おびえた子供が頭から布団をかぶるように、あらゆるセンサーをオフにしていた。
殴りつけられたような衝撃から、とっさに身を守るための防御本能だといっていい。
(これは、違う……菊花は、こんなことは言わない……)
知らない言葉を吐く友人を受け入れられず、世界を拒絶するように。
だが閉ざした知覚を、不快にきしむブランコのチェーンがこじあけ、現実を押しつけてくる。その鳴りが、切迫した音とともに途切れると、良子は思わず顔をあげた。
体を抱えこんでブランコから飛んだ菊花は、二つしばりの髪をスローモーションのようにゆらして、長い四肢を空中いっぱいに広げる。
刹那――。
襲いくる危機を感じた良子の野生は、両腕を頭の後ろに振りかぶらせると、見事なフォームで後方宙返りを決めた。
と、直前まで良子のいた、黒土の表面に。
突き立つ、白い円盤状の物体。
それはまさに円盤――白い陶製の皿、であった。
二人は十歩ほどの距離をあけて、同時に着地した。
「菊花……なに、これは……。どうなってるの? カフェの人たちに何をしたの?」
「あの人たちねえ、私を笑ったのよ」
うつむいた双眸は鈍く夕日を反射して寄るべ無く、両足を肩幅ほどにひらいてダラリと腕をさげると、その体は廃屋に朽ちた柱のように頼りなげだった。
どこからか。
――ゴボゴボ、と。
排水溝から漏れ出る、汚水のような。
「笑った、って。菊花……」
「私はね、いつも笑われてるの、いえ、バカにされてるのよ」
「あのね、なに言って」
「お父さんもお母さんも、お店を手伝わなくていい、なんて……私の勉強が進まないからなんて……でもね、本当は私が邪魔なの。私がお店のお皿を割ったり、落としたり……上手にできないから、邪魔なの」
良子は絶句して立ち尽くした。
菊花の両親が経営しているレストラン〈ドゥ・ファンタム〉は、テーブル六つきりのこぢんまりとした構えだが、アットホームなその店を、良子も家族で訪れたことがあって気に入っていた。
嬉々として配膳にいそしむ友人が、その日も皿を割ったことが、昨日の情景のように、ありありと思いかえされる。
じんじん痛む耳に、またもどこからか響く、不潔な
ゴボゴボ、と。
うめくような波音は、しだいに近く。
共鳴する、涙声。
「……でも私はお店に出るのが好きなの、手伝いたかったの。だけどね、他のお店でも、私が満足に給仕もできないような子だってわかると、即刻クビ……当然よね。働かせてくれたのは、あのカフェくらいだったのよ。でも、あそこでは、もっと酷いことになったわ……私がよく失敗するからって、見せ物みたいに扱って……なにが愚鈍よ、ツインテールよ。好きでしてる髪じゃないのに。本当に笑わせるわね」
「菊花……気持ちは、よくわかったわ。でもあの人たちも、悪気があったわけじゃ……」
「あんただって、笑ったじゃない」
「あたし……⁉」
「私が転ぶのを見て、バカにしてたわ」
「笑ってないよ! 笑ってなんか……や、笑ったとしても、それは……」
「そりゃ覚えてないでしょうよ、笑われたのはそっちじゃない。私だもの、それにね……それに〈テンプテーション〉のことだって、そうよ」
「なによ、急に……?」
「私が最初に、あの人のこと、気に入ってたのよ! それが……知らないうちに仲良くなって……!」
「なによ、それ! そんなの、こっちの勝手じゃない⁉」
菊花の冷えきった薄い虹彩と、笑みの形に崩れた唇は、悲しく共演する泣きわらいだった。
あふれる汚水の音は、もはや疑いようもなく
(菊花の、なかから聞こえる……?)
さきほどまでとは逆に、センサーを全開にすると、こみあげる音は、彼女の体を透過して響くようだった。
良子はこぶしを握り、キッと友人の背後をにらんだ。
空間には、夕闇にまぎれて黒々とした
それは深い闇を引きうつした、ほの暗い憎しみの塊だった。
表通りのカフェにあつまるパトカーや救急車のサイレンを聞きつけて、近所から物見高い人々があらわれはじめていた。
(見ようとしなければ見えない……だっけ。なら、菊花の後ろにいるモノも、人には見えないはず……)
目をこらして、菊花に巣食う〈もののけ〉を視界に結実させようと試みると、
ドっ、と。
轟音とともに、間欠泉のような水柱が吹きあがった。
それは重油のドス黒さにも似て、赤い夕日から時をうつそうとする
良子は目を見張った。
黒い水柱の頂点は、いびつな顔のように見えたかと思うと、見る間に目鼻立ちを整えて、あどけなくも冷酷な
濡れ濡れと髪は伸びて、猿のように長い腕を〈依り代〉の首もとに巻きつけている。なまめかしい体は炎天下に放置した蝋人形のように崩れ、人に近いぶん、かえって不気味だった。
和服のようなものを身に着け、生地には、いくつもの丸い
「それ……それが、あなたに取り憑いたのね……‼ 〈憑き神〉……って、あかるさんは呼んでた……まさか菊花にまで……!」
「カン違いしないでね。私はこの子を、望んでくっつけたの。乗っとられたわけでも、操られてるのでもないわ、私の意思よ」
わずかな希望を打ち砕くように、菊花は先回りの答えを投げつけた。
同時に、憑き神がゆっくりと両手をかざした――と見るや、和服の柄と見えていた円形がふたつ、ジワジワと生地を這いあがり、筒袖の辺りまで侵食すると、どうしたわけか着物から遊離して、エナメルのような黒い手のひらに収まった。
次の瞬間――。
恐るべき速さで繰りだされた憑き神の両腕が交差し、握られていた直径三十センチほどの円盤――
投射された皿は、空中で一対の弧を描くと、立ち尽くす獲物を直撃した――かに見えた。
しかし良子は一瞬早く地面を蹴ると、とがった獣の耳と牙をあらわにして、菊花の憑き神を圧倒するスピードで、その頭上に達していた。そのころには、良子の残像をかすめた円盤同士が激突し、粉々に割れ散っている。
青黒い憑き神は、滞空する〈犬神憑き〉を見つめて、ニヤと口もとを歪めると、交差していた腕を、その勢いのまま逆に展開した。
その両手にはいつのまにか次弾――すなわち二枚の青磁の皿――が握られている!
はす
空中で反転した良子は、さっきまで菊花が座っていたブランコの、支柱の上辺へあざやかに着地した。
――ウォォン‼
無意識に口中を割って出た咆哮が、低く一帯にこだまする。
菊花は、その憑き神とともに、眉をゆがめて振りかえった。
「どうして……どうしてなの菊花‼ あたしは……そんな気持ち、知らなかった! どうして話してくれなかったの……いつもこっちばっかり相談してさ……。勉強ができない、背が低い、スタイルが悪い、料理もできない、髪型も決まんない……コンプレックス持ってんのは、あたしよ! あなたじゃない!」
「うらやましい脳の構造をしてるわ」
とび色の瞳が、あふれる黒い涙の淵に溶けて、濁る。
「そんなところも恨めしい……。トロい、愚図、ドジと言われ続けた私の気持ちがわかるの⁉ あんたにはわからないでしょ! 神懸かりになった私より、やっぱりあんたの方が素早いなんて。バカにしてるわ、許さない」
「
「……?」
「コンプレックスや無力感を……抱くのはいいよ、それは次にがんばる力になるから……。けど、だからって他人にあたってどうなるの? 他人をキズつけて解消して、それで満足なの……?」
「カフェの人たちね、私を笑いものにしたわ。だから願ったのよ……。誰にも負けない、バカにされない力が欲しい、見かえす力が欲しいって! そして、叶ったのよ」
「ああそうなの……もうたいがいにしてよ、あたしの知ってる菊花は、そんなんじゃない! 自分のいいところも悪いところも……全部を活かして生きてるのが菊花だよ!」
「あんたこそ黙ってよ! いえ、黙らせるわ……。他人をキズつけて満足か、ですって⁉ ええ、おかげさまで大満足よ! 溜まったモノを晴らしてやりたいのよ! あんたも、その一人よ!」
「カン違いしてんのはそっちよ、菊花」
「私……?」
良子は残った左足のスニーカーを脱ぎ、濃紺のソックスも脱ぎ捨てると、素足の指で支柱につかまりバランスをとった。
黒々とした両眼には、それまでとは違う、明らかな闘志の色が浮かんでいる。
「他人をキズつけるのはよくないって言ったよ。でもあたしは他人じゃない、殺したいなら存分に来てよ。あたしは、菊花といっしょに生きてるつもり」
わずかにゆらいだ依り代など素知らぬ顔で、その憑き神は、あざわらうように両手の皿を投げつけてきた。
と、どこからかその軌道に向かって、飛来するもの。
くちばしの長い二羽の白い影は、青磁の皿に体当たりすると、双方とも破裂する空中衝突を演じる。
「……ずいぶんとハデにやらかしたものです。もはや捨て置けませんよ、ご両人」
濃くなった夜のベールに隠れて、闇の化身のようなダークスーツの男が、菊花の後方に見えるジャングルジムに立っていた。
あいかわらずの白手袋、しかし今度は腕組みではなく、両手は横にさげられている。
腕の負傷は、二人の知るところではない。
まじないを秘めた
「またお会いしましたね。そちらのお嬢さんも〈依り代〉の才能があることは、わかっていましたよ。こうなる前に手を打ちたかったのですが……残念です」
「蟇目……っ‼」
「まあ、そう嫌わないでください……。私が結界を作らなければ、それこそさらし者だったのですよ」
公園の出入口や通路には、歩道橋のときと同様に、地面に白く染め抜かれた、いくつかの五芒星、すなわち結界が描かれていた。
カフェの裏口近くに群れた野次馬は、ケガ人の搬出作業を遠巻きにしていたが、これほどの騒動を起こしても公園に目に向ける者は皆無だった。まるで公園の敷地に〈
良子は再び身がまえようとして、ふとプリーツスカートの違和感に手を伸ばすと、ポケットの中を握りしめてみた。
それは先日の別れ際、あかるにもらった、桜模様のお守りだった。
あかるは、
「なにか危険が及んだとき、きっと役に立つわ。離さずに持っていて」
ささやくように、これを手渡したのだ。
冷たくなった心を癒すかのように、手の中は不思議と温かく、鼓舞されるのを感じる。
「およびじゃないわ蟇目、これはあたしたちの問題よ」
「そうは参りません、柊良子さん。あなたは幸いにも、依り代となっても
「今度は、なに萌えなのよ?」
蟇目はちょっと首をかしげると、合点がいったように、
「ああ……あかる様は人格化の文脈で説明したのですね……。そう、〈番町皿屋敷〉をご存知かと思いますが」
「なにそれ?」
「……ええと、江戸時代の女中が皿を割った
「はいはい、なんかわかった。『いちまーい、にまーい』ってやつ」
「それです」
メガネの奥の三白眼が、心底の安堵をあらわして胸をなでおろした。
「幽霊じゃん。それが取り憑いたの?」
「長くなるので理想化しますが……皿屋敷の類話は、江戸のほかに東北や関西など舞台は定まらず、発生時期や登場人物もまちまちです。特定の人物の霊ではなく、当時の被差別階級であった女性の悲劇が
「じゅうぶん長いわ。簡潔に」
「ドジっ娘萌え、です」
「……そいつのせいで、菊花は割っちゃうの⁉」
「だとしたら、問題ありです」
「え……?」
「ふううん……皿数えという名前なの、この子……」
しばし沈黙していた菊花が、頭越しの会話に割って入ると、ジャングルジムを振りかえった。
蟇目と良子に、挟まれたかたちだ。
「黙って聞いていれば、ひとのキズ口にポン酢をたらすようなことをズケズケと……。あかるさんに聞いたわ……あなたは〈
「いかにもおっしゃる通りですよ、蒼井菊花さん。ですから、私はあなたを排除しなければならない」
「できるものなら……」
やってみなさいっ! という菊花の叫びと、背中に宿る〈もののけ〉が、数十枚の円盤をその着物から引きだしてまき散らすのが、同時だった。
群れなす蜂の羽鳴りのように、鈍く空を震わせて殺到する皿は、今度は青磁ばかりではなく白磁、
「ほお……! 速いぞ!」
蟇目は、虎の子の高位呪符を使って身代わりを作ると、
さきほどまでと比べて皿の到達速度が速いことを、やはり標的となった良子も見抜いていた。
だが、彼女は飛来する群れを、顔色一つ変えずに引きつけると、衝突寸前で余裕たっぷりの跳躍を見せてかわしていた。
とりどりの陶器が、互いに激突して割れ飛ぶ。
跳躍した良子は――その上をゆったりと滞空していた。
にらむ菊花と、振り向けたメガネを街灯に反射させた蟇目が、
「んっ……⁉」
「ふむ……」
同時に声をあげていた。
ほのかに群青が残る夕映えの空に、しなやかな肢体が舞っている。
獣の耳を生やした頭部は、先日までと同じである。
しかしその腕――ぜい肉の無い腕は、ヒジから先が一回り大きく、黒く毛皮にふくれている。
その脚――ヒザ下もまた肥大して、力強い獣毛でおおわれていた。
獣の手足そのものとなった四肢からは、象牙色の爪が先端をのぞかせている。
オオン!
ひと声吠えて、ダンっ、と着地。
衝撃を吸収した、かかとが。
本来あるべき「人間のかかと」が無い、つまさき立ちのようなシルエットなのだ。ハイヒールをはいた中身のようなものだ。
奇怪な体型だが、多くの四足歩行の哺乳類がそうであるように、これが爆発的な速度を生みだす。
「こんなに早く〈
「蟇目……! これからヤツを引き
「ふむ、いいでしょう……!」
身がまえた良子が地面に伏せるほど腰を沈めると、スカートのすそから、ご丁寧に黒い尾までが、ちらと顔をのぞかせる。
菊花も漫然と接近を許したわけではない、だが投げ打った皿は、またしても蟇目の放った〈式神〉に阻まれていた。
この時、なぜか良子は割れ散った破片に目を引かれて突撃を遅らせたが、すぐに雑念を追い出すように頭を振ると、最後のスパートをかける。
「……‼」
数秒のタイムラグに、菊花は付けいるスキを見いだした。
攻撃を兼ねた防御幕を蟇目に弾かれ、皿数えは肉薄する良子を見すえると、両手にあざやかな菊の色絵――飾り皿を現出させた。
飾り皿のフチには、ギザギザの突起がかたどられている。
菊花は無意識に顔を両腕でガードしつつ、ステップを踏んで跳ねあがる飛影を、かろうじて目で追った。
憑き神が一体化して
だがそれは、背後の皿数えとて、大差はなかった。
もとより接近しての戦いに向かないからこそ、距離をおいて皿を投げ打っているのだ。
両腕を上段に振りかぶると、飾り皿は墨のように黒い手の平で猛烈に回転する
振りおろした皿は、しかし良子の獣の腕に、黒い手首をつかみ捕られて虚しく空回りした。
ガツっ――!
良子はその勢いのまま、首すじに牙を突き立てた――。
だが、その細い首は皿数えのものでも、まして菊花のでもなかった。
菊花の足先から、スルスルと大蛇が這いのぼっていて、銀のウロコをひらめかせながら喉笛に噛みつかんとしていたのだ。良子は考えるより早く、のけぞるような体さばきで、蛇の首もとに牙を立てて、力まかせに引き裂いていた。
からみついた蛇の尾が離れた反動で、足をとられた菊花はその場に座りこむ。
「蟇目ぇ! ……どういうつもりだ‼」
〈式神〉を始末すると、公園のパイプ冊まで飛びしさり、殺気をこめて叫んだ。
蟇目は逆なでするような涼しい顔を、隠そうともしない。
「裏目に出ましたか、ふふ、私もまだ未熟だ……。さてと、犬神の娘さん……。あなたは蒼井菊花さんを、助けたいのではありませんか……?」
「なに言ってる! おまえが横から、けしかけたんだろ!」
「その通りですよ……しかしね、考えてもみてください。いえ……あかる様は、あなたたちに説明しませんでしたか……? 憑き神を切り離すのは難しいと……」
「そう……言ってたけど、私のは家筋だからとも言ってたわ! 菊花は……」
半びらきの口が、空間に張りついたように固まった。
ぞっとするような考えが、良子をとらえていた。
「まさか……菊花もなの……?」
「断言はできませんが……。
「そんなこと……どうしてわかる!」
「……あなたは彼女と、付きあいが長いのでしょう? このなかに見覚えのある皿など、ありませんか……?」
良子はしばらく質問の意味を解しかねていたが、さきほど脳裏をよぎった
くれなずむ夕日のなか、街灯の明かりが無くては、ものが見えない暗さになっている。
そこに金縁に彩られた、繊細な、かけら。
(こないだ……カフェで菊花が割ったティーセットのお皿だ……。じゃあ……じゃあ、このお皿、まさか全部……?)
狂気の友人をはさんで、うす闇の幕の向こうに、手袋と
その白い手袋が、芝居がかって広げられ、
「おそらく、そうでしょう。これらはすべて。この陶器の群れは、割られた
「九年よ」
ゆらりと立ちあがった顔は、苦痛に耐えるように歪んでいた。
「……私が初めてお店の手伝いをしたのは、小学校にあがる前の年……あの時の悲しかったこと、覚えてる」
「あなたから憑き神を分離することは、不可能です。もののけとの付きあいが長過ぎたのですよ」
「切り離せない……?」
良子は、手当てするように手首を押さえている菊花の姿に、愕然としてヒザを折った。
抜けるように白い両の手首には、赤黒く醜い爪痕がついている。
痛々しい傷痕は、ついさっき良子が皿数えの腕をつかんだのと、まったく同じ位置にきざまれているのだ。
つまりは、
(そういうことか……)
良子はここにいたって、ようやくすべてを理解し、それゆえに地面に屈した。
「おわかりいただけましたか……憑き神を傷つければ、運命共同体の依り代もただでは済まない……。さきほど私が後悔したのも……それが答えです」
蟇目が任務を遂行するつもりならば、良子の牙が皿数えのノドを破ろうとした流れを、乱すべきではなかった。
あのまま牙を突き立てていれば、
(菊花は死んでたのか……。いや私が殺してたんだ……)
唇をきつく噛みしめた良子は、もはや立ちあがる気力を失ったように、うつろだった。
――菊花の憑き神を切り離すことはできない。
――憑き神を殺せば、菊花も同じ運命をたどる。
「……あなたはね、柊さん。本人が変形するほどに犬神との距離が近いために、錯覚を起こしたのですよ。実際のところ、蒼井さんのように距離をおいて顕現しても、やはり一心同体、死なばもろとも……それこそが取り憑いている、というゆえんです」
「……助けることはできない、と言うの?」
「ムリに引き剥がそうとするなら、最悪の場合、彼女は精神的な死を迎えるでしょう。除霊とは、それほどまでに難しい……これ以上、罪を重ねないよう引導を渡してやるほうが、よほど彼女のためになると……私は思いますがね」
「……もういいよ、良子……」
菊花の声は、沈んだ空のように物憂げだった。
「私はどうせ、こんないじけた考えなのよ、幻滅したでしょ。これが本当の私よ……だからもうあきらめて、逃げてよ。こいつはもう、あなたを攻撃することをやめない! 私の命令なんて……聞きそうにない……!」
黒い思念の権化は、カマキリのように両腕をかかげ、その手には新たな凶器がのせられている。
あのアイスの日、葬ったはずの。
レリーフ付きの。
赤くにじむほど唇を噛んだままの良子は、もはやヒザをついた姿勢から、微動だにしなかった。
菊花の頬は、黒い涙のすじで汚れ、声無き絶叫は、どちらに向けられたのか定かではない。ともかくも、二枚の円盤は非情にも放たれて、無防備な顔に吸いこまれるように突進した。
一枚は血しぶきを飛ばしながら、日に焼けた上腕をかすめ、皮膚をうすく切り割った。
もう一枚は狙いをはずすことなく、つぶった目の中心――眉間に飛んだ。
――パァンっ。
つんざくような炸裂が、夕闇を貫いた。
おそるおそる、絶望から捨て鉢になった目をひらくと、良子は五体の無事を疑った。
出血した腕も、眼前の光景に比べれば、意に介することもない。
街灯に照らされた白いシャツの背中が、まぶしく照り輝いている。
黒のネクタイをひっかけて。
見覚えのある染め髪が、夕闇に燃えている。
知らず、犬の黒い尾が左右に振れる。
「あなたは……」
ただ蟇目だけが、沈黙を破った。
その手袋の指が、かすかに震えている。
彼の目には、落下した青磁が映りこみ、それはどうしたわけか、まっぷたつに切断された残骸をさらしていた。
「……結城さん……⁉」
少女たちは、異口同音に叫んでいた。
パイプ柵をのりこえた結城は、首だけを良子に振り向けて、
「世話がやけるね、君たちは……」
と言った。
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