第七章 ワレモノ注意報!

 良子と菊花が、照峰神社を訪れた日の、夜にあたるが――。

 やしろからほど近い、牧市のメインストリートの一角。

 駅前通りにひっそりとたたずむ寺院の一隅いちぐうに、かの神祇官じんぎかん蟇目ひきめ幸市郎こういちろうの姿を見ることができる。

 黒うるしのような夜陰に静まり、月明かりを照りかえす瓦屋根の本堂には、彫り跡に〈虎林寺こりんじ〉と染め抜かれた扁額へんがくが見える。

 釈迦牟尼仏しゃかむにぶつを本尊として収めたこの平屋は、禅寺らしく飾り気のないヒノキ造りで、近隣住民の菩提寺として親しまれていた。

 住職である寂尊じゃくそん法師のざっくばらんな人柄は檀家受けもよく、法話の気取らぬ語り口や豪放なキャラクターが、こどもたちから「だるまさん」と通り名をたまわるほど、たっぷりと肥え太った体型とあいまって信望も厚い。

 本堂のわきに、雲水らの住居である庫裏くりがつつましく並び、そのはずれに、茶室のような方丈のいおりが遠慮がちにたたずむ。六畳に満たない和室の縁がわに、闇から溶け出したような、黒々としたダークスーツ――蟇目が仏頂面であぐらをかいている。

 その右腕は、包帯で首から吊られていた。

 静寂を打ち割って回廊がみしみし鳴り、カラリと障子がひらくと、まさに水墨画の〈達磨太子だるまたいし〉を思わせる作務衣さむえ姿が立っていた。

 ただしそのヒゲは雪のように白く、肥えた顔にも満面の笑みが浮かべられている。

 蟇目の姿を見るや、こらえきれぬといった様子で、正方形の部屋をゆすって野太く笑い、

「ずいぶんとやられたようだな。神祇官ともあろうお方が」

「……不覚をとったのは認めます。なれどあの娘、ただの〈神懸かり〉とも思えません」

「ほほう、すると?」

 作務衣の僧――寂尊法師は、茶化すように合いの手をいれつつ、方丈の対角に、やはりあぐらで座った。再び庵がゆれ、とたんに部屋は幕の内弁当のように、ひしと狭く感じられる。

 ふすま障子が開け放たれると、同じくひらいていた縁がわの窓から、しめって暖かな夜気が、命を涸らす鈴虫の音とともに室内を通いはじめた。

 黙考することしばし――蟇目は、鈍く口をひらいた。

「……なんらかの加護をうけているように……感じられるのです。あるいは祈誓きせいをたてているのか。しかし、たかが小娘にそんなことがあるでしょうか。犬神は〈荼枳尼天だきにてん〉でしたね」

「さよう、弘法こうぼうさんトコだなあ。なにか縁がありそうなのか、その娘と。合縁奇縁あいえんきえん、わからぬぞ、御心みこころは」

「さて、それは……。ただ〈生成なまなり〉にしては成熟した〈通力つうりき〉です。あれが成り上がるとしたら、末恐ろしい」

 それは剣呑けんのん、と笑って受けた僧が、かたわらにおいていた風呂敷包みをひらくと、なかから小振りのスイカが顔をのぞかせた。

 蟇目が懐から札を取り出して寂尊に渡すと、それは瞬く間に短刀に変じる。

 ざくざくとスイカを切り分けつつ、

「檀家からのおすそわけでな、さっきいただいたばかり……やあ、熟しておるな、結構結構。それで、おまえさん……英達えいたつさんには会ってきたのかい」

「はい……病院に、ついでもあったものですから……」

「なるほど、ついでは良かったなあ」

「残念ながらお話が聞ける状態ではとても……。それどころか、あと数日が峠、というようにも見受けられます」

「わしが全部もらっていいのかね」

 肥えた僧は、すでに半玉がとこスイカを腹中に収めてしまっていて、豪快な食べっぷりはタネを出すどころではない。一方の蟇目は、舌で器用にタネをより分けて、赤い実をんでいる。

 庵には、月影のほかに明かりは無い。

 虫を嫌って照明を入れないのだが、どうやら果実の芳香にひかれたのか、軒下に甲虫の小さな影が見える。

 蟇目は皮だけを縁がわから外に放ると、先をうながすように向き直った。

「うむ……おやまの南端にな、瑞照ずいしょう山という名峰がある。まあ、峰と言うても断崖絶壁の急峰だがな、そこに山伏やまぶしが住み暮らしていた、という話があるわい。これはマユツバとしても神代かみしろ級の〈もののけ〉といえば、思いあたるのは、そこくらいだなあ。このあたりは土地がら歴史も浅いからな、郷土の昔話なんぞほとんど聞かれないが、これは少ないながら残っておるようだなあ」

「では〈天狗てんぐ〉ですか……。いささか常道に過ぎる感もありますが……『神代かみしろの通力もて、天駆けるいぬせるなり、これ凶神まがつかみなり』というのが、卜占ぼくせん部の発表なので、符合しますがね」

「狗、というのが引っかかるのだな?」

「あの娘、どうも気にかかります。それに、この街には〈国津神くにつかみ〉が多過ぎるようです……ああ、住職のことは別としましてもね」

「わしのことはどうでもよいわ。この時期でなければ手伝ってやれるのだが、盆だけはいかん。忙しくてな、こっちが先にホトケになりそうだ……。ここも、日中はさぞにぎやかだったろう。……いいか蟇目さんよ、もしも万一のことあらば」

 黒いスーツが身をかたくする気配が、闇を伝わる。

「わしに遠慮することはない……。〈大祓おおはらえ〉を、使がいいさな。いつ、どこでだろうと、かまわん」

「……お言葉、ありがたく、心得ましてございます」

 生暖かい、おぼろ月夜である。



 ひとけの少ない校舎に、始業のチャイムが鳴り響いた。

 好天が、じりじりと窓辺を焼いている。

 補習授業の開始を告げるベルの余韻が去っても、担当教師があらわれるきざしはなかった。

「……どう思う?」

 良子は、隣り座席の南部なんぶ行平ゆきひらに問いかけた。

 浅黒く精悍な顔にかかって、さわやかな短髪が、窓からの夏風にゆられている。

「はらが減った」

「違う」

「先生が来ないことか?」

「そ」

「さあ、たぶんさ……」

「また、忘れてる?」

 最後は二人がハモったので、思わずくすりと笑い、良子は右手をサムアップしてみせた。

 あかるのもとを訪れて以来、長らく頭を悩ませていた憂鬱ゆううつが氷解して、彼女はすこぶる明るかった。というより、中学校時代の、はつらつとしたメンタリティに戻った、といっていい。

 机上には物理の教科書とノートが並べられているが、両者とも予習をこなそうという気は、さらさら無いらしい。

 ほかに生徒はいない。

 三階の教室にまで、グランドで汗を流す野球部の声がとどき、ポプラ並木のどこかで、カッコウが能天気に歌っていた。

「あいつ……シグマってさ、どうしてシグマか知ってる?」

「ん……? 知らない。南部は知ってんの?」

「あいつさ、横から見ると、口んじゃん?」

「ああ、あるある! めっさ刺さりそうにとがってるよね! ……それが?」

「だからさ……」

 シグマとは、彼らの学級担任の無駄にカッコいいあだ名であり、絶賛遅刻中の物理教科担任でもあった。

 南部はノートをひらくと、担任の横顔らしきスケッチを、ヘタうまな画力で、すらすらと描きこんでいった。その唇が、ギリシャ文字のΣシグマをかたどって、強調されている。

「ああ、そういう……!」と納得するなり、良子は机に突っ伏して笑いをおさえたが、すぐにふき出してしまった。

「でもさ……」と南部は容赦なく攻撃スケッチを続ける。

 今度は、有名チョコレート菓子のキャラクターで、

「オレらの前の代では、キョロちゃんだったらしいよ」

 良子はヒイヒイ言いながら腹を押さえ、腹筋の崩壊をこらえた。

「ああ苦しい! 南部、あんまり話したことないけど、おもしろいのな」

「つか他の補習組のやつ、ぜんぜん来ないな。今日ってオレらだけなのか?」

「さあ、他のクラスのことは知らないけど。サボりじゃない?」

「さすがに補習サボっちゃヤバいだろ……。けど明日から祭りだからな。浮かれてるやつ多いかも」

「あたしもその一人です。これ終わったら遊びにいくし」

「マジっすか……いいなあ、蒼井と?」

「そ」

「仲いいなあ、君たちは」

 南部は、両手を頭の後ろに組んでイスを倒した。

 じっと良子を見ている。

「なにか?」

「……いや。クラス違うのに、君ら常につるんでるだろ。ひいらぎ、ひとりでいるから珍しくて」

「菊花は、落第教室に来るようなタイプじゃないしね。あたしはともかく」

「それもそうか」

「その言い方、失礼だろ、南部!」

「フッたクセに言いがかりか⁉ あと呼び捨てはやめろ、南部さまと呼べ」

「なぜに最上級⁉」

「いいなあ、お祭り行くのか……」

「へ? 明日からじゃないの?」

「前夜祭? みたいのがあって、もう出店とかあるってさ」

「あんたもいっしょに来る?」

 ガタン! と南部のイスがずれて、必死にバランスをたもった。

 スカルモチーフ、十字架クロス、ハート型、弾丸ブリットなどなど――じゃらじゃらと腰につけたシルバーの装飾品がさわぐ。

 目鼻立ちは硬派な造作ながら、どこか軽薄な印象なのは、このたぐいのアクセサリーのせいだろう。

「冗談だ。本気にすんな、南部さま」

「さま、付けんな」

「そっちがフッたくせに」

「……行きたいのはやまやまだけど、ヤボ用あってさ。また今度誘ってくんない?」

「ああ、彼女いるでしょ」

「いねえよ」

「それもそうか」

「なんかループしてんぞ! つか、もしいても、おまえみたいなセキュリティの甘そうなやつに、個人情報を漏らすか」

「そんなことないよ、ちゃんとアプリ入ってるよ……ウイルスマスターとか?」

「ハッキングの達人なのか、おまえは」

 突如、別棟の吹奏楽部からもれたトランペットの響きが、蒼天をつんざいた。続いて空腹をうったえる腹鳴りが教室を横切る。

 良子は顔を赤くすると、そそくさとカバンからいちごポッキーを取り出してくわえた。

 先日、あかるから「お腹がすいたら、迷わずなにか食べること」というレクチャーを受けたからだ。

 どうやら、異常に腹が減るのは〈犬神〉による霊障で、抑制するには、少量でもなにか口にするしかないのだという。

 良子はポッキーの箱を差しだし、

「いる?」

「サンキュー……。がんばってんな、吹部すいぶ……。つか蒼井って料理部とか入ってなかった? 合宿とかないのか?」

「料理研究会ね、休みだってさ。そっちこそ……それ、絵の具なの? なんか油っぽい匂い」

 南部の机のわきには、日差しを鈍く照りかえす、細長い革トランクが置かれている。

 彼は一瞬、回転ジャンプに失敗したフィギュア選手の表情を浮かべて無言だったが、すぐに気を取りなおして、

「油……ってよくわかるな! 溶剤かな。美術部、オレ」

「えっ、見えない! 意外だ」

「言うと思ったけど。まあウチの学校の部活だから、行ったりサボったり、適当だけどな」

「だよねえ、あたしも……」

「なんかやってたっけ?」

「一応、サッカー部なんだけど……」

 言いかけて、つぐんだ唇をポカンとあけると、ついで、風船を飛ばされた子供のような顔になった。

「あたしさ……あのさ、聞いてくんない?」

「なにをだ」

「なにかな。入学したぐらいから、なんだかずっとモヤモヤしてたのが、晴れたみたいなさ。サッカー部、行きたくても行けなかったんだけど。なんで悩んでたのか、よくわからない」

「わかるように話せ」

 良子はつっかえながらも、回想をまじえて語りはじめた。


 あの日――。

 入部からひと月ばかりたったころ、まき市立第一高校・女子サッカー部は、春の交流戦にのぞんだ。

 他校との練習試合で、それほど意義のある対戦でもないが、部員たちにとってはライバル校との力試しで、気合いが入っていた。

 カウント一対一のまま迎えた終盤、このままドローかと思われたとき、ミッドフィルダーの二年生が負傷し、控えのいない良子たちのチームは、一年生ながらのよい良子をピッチに送りだした。

 彼女はこの千載一遇のチャンスを、必死で駆けた。

 駆けたがしかし、それが裏目に出たのか空回り、ボールをキープしたまま敵陣深く食いこみ、折りかえしのアシストまであと一歩――というタイミングで曲がりきれずに、なかば転ぶように、いやむしろ転がりながら、ボールと相手ディフェンダーを巻きこんで、ピッチの外へ飛びだしていったのだ。

 サッカー競技は、しばしば「ピッチ上の格闘技」と称されるが、文字通りの体当たりである。

「で、ホイッスル。試合終了」

 短い話を終えると――。

 良子の顔つきは、さらに困惑を深めていた。

「それで?」

「それで、って?」

「いや、柊がコーナリングできなくて、コケたんだろ? で、引き分け。しょうがないじゃん?」

「そう、なんだよね……。なぜかそれが気まずくて、あれから足ケガしたって、理由つけてバックれてんだ、あたし」

「引き分けなのは全然おまえのせいじゃないし、つか一年で、練習試合とはいえ出場ってすごくないか? まあ、ウチの学校の部活なんて」

「ゆるいからね」

 年少のころから、すでに良子の足は速かった。

 顧問に認められた俊足を、彼女はどこかで後ろめたく感じていたのだが、それが体臭のうとましさとつながっていることを、彼女自身はいまだに気がついていなかった。

 ともに〈犬神憑き〉の片鱗であることの二律背反アンヴィバレンツを、無意識に察知していた――それゆえの抵抗感なのだ。

 今も明確に言葉にはできないのだが、


「それ、匂っているのは、あなた本人だけよ」


 というあかるの言葉が、自ら深層心理にかけた呪縛を解いてくれたのだ。

「部活……行けば? 先輩たちに、ワビ入れてさ」

「そうだね……そうする。これでコイツにも顔向けできるな」

 机の下から、スニーカーを突きだして見せ、

「入部したころ、記念にスパイクとおそろいで買ってもらったんだ。けどスパイクだけキレイなまんまでさ。申しわけないって言うか」

「……そうか。いい靴だよな、それ。悪かったよ」

「なにが?」

「なんでもない。けど、とっくにサッカー部、夏休みの練習はじまってんだろ」

「いいよ、どっかで行ってみる。なんかすっきりしたし、ありがとね、南部……。ずっとあった、わかだまりが消えたみたい」

「わだかまり、な」

「……せっかくいい話だったのに」

「シグマのやつ、おせえな……」

 補習授業を忘れていた担当教師があらわれたのは、あきれたことに、それからさらに二十分ばかり過ぎてからのことだった。



 校門で南部とわかれた良子は、その足でバスに飛び乗った。

 メイドカフェ〈マカロン〉のある大通りへ降り立ったころには、陽が傾きかけている。

 良子は着替えの入ったバッグをかつぎ直すと、バス停から二ブロック先の店へと歩き始め、すぐに立ちどまった。

(なんかヘンなニオイ……)

 であった。

 常人には感知できない異臭を、彼女の鼻は知覚したのだ。

 それは、かすかに漂う酸鼻さんびの香り――。

 身を震わせつつも、念のため周囲を見まわして、どうしてもその場所――すなわち、漆喰カベのカフェから、臭いが流れてくるのを認めた。

 スニーカーの足が早まる。

 アンティークな立て看板のメニュー表。

 その周囲には、ちらほらと人が集まり始めていた。

「あ、ちょっと、君……入んない方がいいよ、いま警察と救急車呼んでるから……!」

「えっ……?」

 カフェを訪れた客だろうか、ラフな身なりの男たちと、近所の金物屋の主人といった風体ふうていのエプロン姿が、あわてた様子で注意をうながす。

 良子は男たちを押しのけるようにして、木製扉のガラスにもどかしく頬を押し当てて、店内をのぞきこみ、絶句した。


 暮れかけた陽の光が、薄暗い店内をかろうじて照らしている。

 照明が落ちているのだ。

 数人の客が席についているが、彼らは微動だにしない。

 店内には、動くものは何ひとつなかった。

 ベージュの壁には赤黒いしぶきが跳ね飛んでいて、板張りの床には食器類が大量に散乱している。

 間違いなく、血の臭いはこの中から、ただよってくる。

 良子は、いささかもためらうことなく扉を引き開けると、警告を無視して足を踏み入れた。

「あんた、中は危ないから、警察待ったらいいよ!」

「友達がいるんです……!」

 返事は裏がえっていた。

(なんなの突然……なにが起こってるの……!)

 スニーカーが、ざり、と砂を噛むような音を立てて、床を踏む。

 パキンという破裂音。

 ゴム底が砕いたのは、金モールの模様が入った皿だった。

 良子は食器や皿を踏まないルートを探して、すぐに断念した。

 それほどの惨状だった。酔っぱらいの巨人が寝返りをうったように、店内のあらゆるものがなぎ倒されている。

 ゴム底の厚みを信じて数歩進むと、彼らが引きとめた理由がわかった。仮にちょっとよろけて転んだだけでも、全身を血まみれにするのは避けられないだろう。

 散乱する凶器を踏みつけて、奥へ。

 客は、のけぞるように席についているが、相変わらず身動きをしていない。

 しかし鋭敏な嗅覚は、彼らの生命を感じとっていた。

(気絶、なんて初めて見た……)

 わずかな西日を頼りに、彼らの容態を確かめようと近づくと、顔といい衣服といい、いたる所にきざまれた擦過傷さっかしょうが痛々しい。

 ひどい者は肩口を切られて、血が飛び散っている。

 良子はここで、ようやく壁の染みの正体が、血液が凝固したものだと気がついた。

 悪夢じみた舞台をくぐり抜けて、ようやく目的の厨房をのぞきこめる位置まで。

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 ビニールクロスの床に倒れたメイド服のスカートから、あられもなく白い足がのぞいている。

 もう、なりふり構っていられなかった。

 無我夢中で厨房に駆けこむと、食器の残骸が手足を傷つけるのもかまわずに、メイド服を抱き起こした。

 むろん、手をかける直前に、嗅覚が「違う……」と教えてはいるのだ。しかし〈神懸かり〉として覚醒してから、日の浅い彼女の脳は、過剰な知覚情報を効率的にさばけずにいる。

(菊花じゃない……)

 厨房には他に二人、ウエイトレスとモップ頭のマスターが、散乱する鍋やフライパン、食器類にうもれるように横たわっていた。

 心臓は早鐘だった。

 だが、バクバクと打つ鼓動を頭から追いやって、妙に落ち着いた動きで瞑目めいもくすると、本能が最も有効な探索方法を見いだしたのだろうか、犬がやるように鼻を突きだす。

 鼻先に導かれて、彼女は制服のスカートが残骸を引っかけないよう、慎重に立ちあがって身をひねった。

 いわゆる勝手口にあたる扉が、厨房の奥に設けられている。

 ザリザリと不快な音を踏みしだいて鉄扉に近づき、思い切って力をこめると、押し入った外界の風が、よどんだ空気をふき流そうと飛びこみ、結局は店内に滞留した。

 外に並ぶ古い民家の通りは無人だったが、それでも風の匂いを感じた鼻は、手荒に彼女をせき立て、引きずるように前進をうながす。

 裏口から外へ抜けると、夕闇に染まりつつある住宅街に、三角屋根の連なりが見えた。店舗が建ち並ぶ大通りも、中通りへ入ると街に生きる人々の暮らしの場が広がっている。

 いつの間にか、バッグを店内に落としていた良子は、空になった手のひらをギュッと握りしめて、決然と進んだ。

 昼には雄大な表情を見せていた夏の雲は、いまは不気味な黒雲となって夕闇を押し広げている。

 ようやく救急車が駆けつけたようだが、不吉な暗雲もサイレンも、感覚には届いていない。彼女を支配するのは、数百メートル先に見えている児童公園――正確にはそこから発散される、慣れ親しんだ香り――だった。

 嗅覚がとらえたのは、バニラのように甘やかな体臭と、血の香りのミックスだ。

 家々から通りを眺める不安げな顔がのぞくが、誰も少女に注意を払うものはいない。

 暮れなずむ夕日が、進路に長い影ぼうしを投射していた。

 水鳥が鳴くように、ブランコがきしんでいる。

 夕暮れの公園に遊ぶ子供はいなかった。

 黒土で整地された公園は、こんもりと生い茂った草木に囲まれていて、砂場やすべり台、鉄棒にシーソーといったおなじみの遊具がひと揃い、いずれもサビ付いて古いのは、この一帯が街の初期に拓けた地域だからだ。

 広場の中央には木の棒で引いたのだろう、いびつなラインが三角ベースをかたどっていて、日中のにぎやかさを想像させた。

 いま公園にいるのは、ブランコに座ってうつむくメイド服、ただ一人だ。

 良子は不安を捨てて、安堵に胸をなでおろした。

 無事だ、生きている、と。

 公園の境界に、悪い冗談ブラックジョークのように掲げられた〈犬を入れないでください〉の立て看板を無視して、車止めのパイプ柵をまたぎ、

「菊花、どうしたの? 大丈夫?」

 つとめて明るく、ブランコのぬしに声をかける。

 彼女は、うつむいたままだった。

 くるくると巻いたウエーブの髪に隠れて、その表情を推し量ることはできない。

 小さくゆれるブランコ。

 菊花だけが座っているはずのブランコから、二人分の影が伸びているのを見て、良子は息をのんだ。

 それはあたかも菊花の肩に、見えない、なに者かが座しているかのようだった。

 もう一つの影――。

 うっかりすると見逃すほど淡い陰影は、にじみでた菊花の暗い情念そのものだった。

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