第六章 太陽は萌えている

「……ここって、犬か猫、飼ってると思う?」

「さああ……どうしてえ? 見たの?」

「なんていうのかな、神社の奥のほうにヨタヨタ歩いてくの。犬かどうか、わかんないけど」

「ああ、お賽銭箱とかあるトコ」

 そうそうと、ぎこちなく素足の正座を組み替えると、良子は落ちつき無く室内を見まわした。

 東向きの窓が額縁がくぶちのように開け放たれた、八畳敷きの和室である。

 すみきった朝の夏空は、淡く重ねられた水彩画だった。

 石畳をはさんだ手水屋てみずやにはなごやかな親子連れ、お賽銭を投げて参道を戻る客が、おみくじやお守りを買い求める姿も間近である。本殿に向かって左側に社務所があり、外向きの顔は売り場、奥は神社の事務所らしかった。

 その和室に、良子と菊花はもうかれこれ、人気恋愛ドラマの結末を十通り予想するほど待たされている。

「せっかく染めたばっかなのに、あんだけ雨に打たれてさ……。心配だから電話したら、また時間あるときに直してくれるって」

結城ゆうきさん? いいなあ、仲良くなって」

「そう? もともと菊花の紹介じゃん」

「なんだけどさ……。遅いねえ『かぐや姫』の人」

「それ、オフレコでおねしゃす。ま、予約して来たワケじゃないし」

「けど向こうが来てね、って言ってたのよ。良子はあんまり、覚えてないかも知れないけどさ」

 境内の参拝客はまばらで、さほど忙しそうは見えない。

 社務所の売り場では、白衣しらぎぬ浅葱あさぎ色の袴をつけた老神主が〈健康増進お守り〉の効能を、のんびり説明する姿が見えた。

 正座のままで腕をうんと伸ばし、生あくび。

 良子は白のノースリーブにカプリパンツ、菊花はキャミソールにスカートという涼しげな格好だが、両者とも和室にはいかにも不似合いである。

 たいくつのあまり、またも足を組み直そうと、身じろぎしたとき。

 前触れも無く――す、と襖がひらいた。

 緋袴ひばかまにまで届く黒髪を背中でまとめた、巫女装束の照峰あかるだった。

 あかるは襖の開け閉めに、白足袋のつま先を立てて正座し「お待たせして、申しわけない」とそっけない挨拶をすると、丁寧に畳へひざをついた。

 無言。

 思いだしたように、本殿の裏でセミが鳴き始めた。

 良子は、中途半端にしていた足を組み替えると、その勢いで口をひらき、

「ここ、涼しいですね」

「そうね」

 お見合いのような静寂のなか、セミの輪唱がやんだ。

(なぜに無言だし……)

 来客は堅い顔で座す巫女を眺めた。

 思いつめた表情から外した視線を、気まずく窓の外に振り向けると、参拝客はすでに無く、境内は静まりかえって、本殿の背後にはヤマカエデの木立が陽光に照り輝いている。

 と、また襖がひらいて、先ほどまで売り子をしていた老神主が、盆をかかえて入ってきた。

「こんにちは、腰が悪くてね……この格好で失礼しますよ。あかるのお友だちですか?」

「え……あ、はい」

「はいはい、そうですか、珍しいことだ。あかるのおじいちゃんです。これ、ちょっと食べてて。いま家内がお茶をいれてるから」

 菓子が満載の編みかごを置いた老神主は、岩のような肌つきで、落ちくぼんだ目もとがクリクリと憎めない。頭髪は白いが血色のよい、七十歳ばかりの元気そうな老爺である。

「いま、家内がね、お茶いれてるから。もうちょっと待ってて」

 大事な事でもないのにもう一度言うと、襖を開けたままで退室していった。

 クーラーのない社務所のなかでは、開け放しのほうが都合がよいのだろうが、これから「こみいった相談」をする身には、いささか不都合であった。

「三度も違うのよ」

「え……?」

 来客は、二人同時に疑問声を発していた。

 あかるがなにを言ったのか、わからなかったからだ。

 だが、部屋の主は沈黙を拒むように、せきを切って、

「この境内はほとんどが石づくりだし、後ろには森も広がっているわ。だから測候所と比べると、平均で三度も涼しいんですって。今日は確か三十度の予報だから、最高でも二十七度ということになるかしらね」

「……ああ、それでこんなに過ごしやすいんですね、森の風も入ってきて気持ちいいです」

 ようやく会話がつながった喜びで、良子は大きく息を吸ったが、

「耳が遠いのよ」

「は……」

 また、わからない。

 どうもあかるは、主語を省略して話すクセがあるらしい。

 菊花が小さく手を打ち、会話を引きとって、

「あのお、おじいちゃんのこと? 耳が遠い、って」

「そう。年相応に耳が悪いの。だから心配無用、なんでも話してちょうだい」

「あ、そゆことですか」

 良子は板張りの天井を眺めた。

 ここ数日来、頭上を占めている、疑問の群れを見つめているのだ。

 鎮守の森のこと、変態呪術師のこと、あかるのこと。聞きたいことは山ほどあったが、ともかく一点――最重要なのは。

 横にいる友人と顔を見合わせると、決意をにじませた顔でたずねた。

「どうしても、確かめておきたいことなんですけど……」

「良子、やっぱり私が聞いてあげるよ」

 珍しく言いよどんだ良子に代わって、菊花がひざを乗りだし、

「あのお、あなたは、その……制服のときはメガネなんですか?」

「そこからかい!」

「それが、どうしても聞きたいことなの?」

 総ツッコミを浴びた菊花は、意外そうにポカンと口をあけたが、しかし、あかるは、白い頬をほころばせ、

「ふふ、そうね、でも。やっぱりそこからよね。では改めまして、照峰あかる、です。牧市立第一高校いちこうの三年よ。照峰というのは社号でもあるし、呼びづらいわね。あかる、でいいわ。近視なので学校ではメガネ着用」

「私は一年で、蒼井菊花です。こっちは同じクラスで柊良子、小学校からいっしょです」

「ありがとう、よろしくね。それで、質問というのは?」

 良子は、なかば目をつぶって、意を決した。

「はい、あたしのことなんだから自分で聞きます……。あの、あかるさん、あたし、オオカミ男なんですか⁉」

「男には見えないけど」

「や、違います。みたいって、よく言われますけど」

「それじゃあオオカミ女じゃなくて?」

「やっぱりオオカミ人間なんですか?」

「違うわ。そんな怪しげなものじゃない」

 きっぱりと否定する声音に、質問者たちは胸をなでおろしつつも、

(じゃあなんなの……?)

 疑問に顔を見合わせた。

 ここへやって来る前に――。

 柊宅の玄関先で合流した菊花は、開口一番、

『オオカミ男よ、良子は! かっこいい! 昨日は新月だったもの!』

 高らかに宣言したのだ。

 半徹でしらべた、とも言っていた〈人狼伝説〉だったのだが、あっさりとあかるは否定した。

「オオカミ人間、人狼は古代ヨーロッパにおける、動物を祖霊とする民族の戦闘における祖霊との一体化、という伝承から起きた連想とされているらしいわ。私はどうも、食人の風習から影響を受けているように思えるのだけれど。とにかく、そんな子供だましや迷信じみた胡散うさん臭いものじゃないから。安心して」

「それじゃあ……あたしは、なんなんですか?」

「〈犬神いぬがみき〉よ」

「フォローになってない⁉」

「フォローしてないわ」

 少女たちは、またも顔を見合わせると沈黙し、結局は巫女に向きなおった。

「あの……犬神憑き……って、なんですか……?」

「長くなるから、ものすごくけれど、要するに人間に犬の霊が取り憑いている状態ね」

「うわあ……あたしオオカミ人間のほうがよかった。いろんな意味で」

「同じことよ」

「あのお……どうしたらそれを、良子から追い払えますか……?」

「お祓い、ということね。ムリよ」

「あっさりと⁉」

 あかるは少し眉根を寄せて、困惑の顔になった。

 ようやく表情がほぐれたようである。

「ええ。犬神はね、良子さんのご先祖からの血縁が影響している、いわゆる〈きものすじ〉である可能性が高いの。憑きもの落としは家筋いえすじが原因の場合は効果がないか、かえって逆効果、危険をともなうとされているわ。家筋ではない憑きものは、。これなら祈祷きとうも効きやすいのだけれど」

「じゃ、あたし……どうすればいいんですか?」

「共存することね。憑きものは不利益ばかりではないし、犬神のご機嫌をとっていればいいのだから、そう難しいことではないわ」

「ご機嫌?」

「そう。あなたのなかで、うまく飼いならせば役にたってくれるでしょう。例えば供物くもつとして小豆あずきや甘酒を好むわ」

「それで甘酒ですかあ」

 菊花が、感心したようにあかるを見つめたが、良子は、

(いやいや、おかしいだろ……この人、炎天下に甘酒マイボトルで持ち歩くって、どんだけ好きなんだ。あえて突っこまないけど)

 疑惑のまなざしを向け、

「その犬神……ってなんですか、犬の霊ってことはわかったんですけど、あたしのご先祖が犬を殺した呪いとかたたりとか?」

「難しい質問ね。ひとことで言うと妖怪、〈もののけ〉なの。だから霊というよりは概念と言うべきなのだけれど。そう、八百万やおよろずの神という言葉をご存知かしら」

 菊花が受けて、

「ああ、それ、知ってます。ええと……日本にはたくさんの神様がいて、八百万というのは数が多いことをあらわしているとか」

「ご名答。ではその神様とはなにか」

「ええと、〈天照大神あまてらすおおみかみ〉とか日本史でやりましたけどお」

 しどろもどろの答えを、今度はあかるが感心して見た。

 良子は、よくわからないという顔つきである。

 そこへドタドタと通路が鳴って、さきほどの神主とおそろい装束の老婦が、あわただしく入室してきた。

 年の頃も同年代だろうか、顔も体つきも丸い、これも愛嬌のよい顔立ちである。

「すみませんねえ、お茶遅くなって。麦茶を切らしてしまってて、いえ麦茶のパックはあったんですよ、パックは。でもこの暑いのにねえ、お湯出しの麦茶なんてねえ、お嬢さんがた、いやよね。それでどうせいれるならハーブティーのほうがいいでしょ、ねえ」

 まくしたてると、畳には不似合いのティーセットを、三人の前に並べた。

「あら、あの人、テーブルも出さないで、もう本当に気がきかないわ、年ばっかりくって!」

「いいんですよ。これから拝殿はいでんに移ろうと思っていました」

「あら! じゃあお友だちじゃなくて、お客さんだったんですか。まあ気がつきませんで、すみません。いやだ私ったら、気がきかないのはこっちのほうよね!」

 老婦人は、かん高く笑った。

松枝まつえさん、あの、こちらはもう結構です、ありがとう。八橋やつはしさんがいたら、拝殿まで連れてきてくれると助かるんですけど」

「はいはい、わかりましたよ、ごゆっくりね」

 去っていく松枝の早口に、来客は会釈をかえすのが精一杯だった。

「ごめんなさいね、にぎやかで」

「それより、あかるさん、拝殿って?」

祭祀さいしに使う建物よ、参道の突きあたり。きっと、そちらのほうがでしょう」

 ハーブティーをロックでいただいた三人は、飽きもせずに照りつける日差しのもと、石畳の参道へ出た。

 ひんやりとした御影石みかげいしの冷気が境内全体からただよってくるようで、なるほど外界よりは過ごしやすい。

 東端に、天を突かんばかりに巨大な明神型みょうじんがた鳥居が、笠木を反りかえらせて姿美しく佇立ちょりつし、参道を踏むにつれて、小振りだが同じく丹塗にぬりの鳥居をいくつもくぐる仕組みだ。

 西の突きあたりには拝殿が見え、さらに奥には本殿、裏手には鬱蒼うっそうとした森林が、昼なお暗い荘厳な雰囲気を醸しだしている。

 と、良子の目が、木立からノソノソと這い出た、おぼつかない足どりの影をとらえた。大型犬らしき影は本殿と拝殿にめぐらせた木づくりの瑞垣みずがきに隠れて、すぐに見えなくなった。

 思わず、あかるに視線を向けたが、ゆったりと参道を歩む巫女は意にかいさず、聖域の冷涼な空気のなかで輝くかのように見えた。

「あかるさん、ここって犬飼ってますか?」

「いえ、いないわ」

「あ、猫ですか」

「なにも、飼ってないわ」

 どこか突き放すような声音に、思わず口をつぐむ。

 石畳を歩ききって、冷え冷えとした石段をのぼると、左右に広い切妻造きりづまづくりの拝殿にいたる。

 正面には、本をひらいて伏せた形の板屋根と、紫の三つ巴が染め抜かれた白幕がかけられていて、さらに石段を上ると、くす玉のように鈴が下げられ、賽銭箱も置かれている。

 来客の少女たちは、大きな木戸を押しあける巫女の手引きで、オドオドしながらも平入ひらいりの拝殿をくぐった。

 陽の眩しさに慣れた瞳孔が、ひととき視界を暗転させる。

 室内には底冷えするような冷気がただよっており、とても真夏とは思えない。四十畳ほどのだだっぴろい空間は、天井も彼女らの背丈の倍はあるだろうか。

 全面がヒノキの板張りで、入ってきた扉から縞模様の日差しがこぼれる他には、採光もない。正面には御簾みすが巻きあげられ、質素ながらも金箔で飾られた祭壇の奥には、さらに小さな扉が見える。

 滝の落水をとどめたような、壁一面の紙垂しで

 家具と言えば、木づくりの台にかけられたさかきと払い串、その脇に置かれた十三弦の琴、四隅にかけられた〈御神橙〉と筆書きされた提灯のみであった。

「こういう所に入るの、初めてです……」

 良子が声が響くのを恐れるように、小声で言うと、

「そうかしら。いぬの日や安産祈願のときは? あ、まだ生まれてないわよね。お宮参りとか七五三は、まき神社さんの方かな。あちらはずっと大きいし、お祭りも主催が移ってからは……」

 そこではじめて、あかるが口ごもった。と。

 みしり。

 拝殿が、きしんだ。

「……父が宮司なのだけれど、長く体調を崩しててね。私や、ほかから神主さんにきてもらって代理をしているのだけれど。あれからは、氏子の方々の足も遠のいて、」

 またも、みしり、と。

 拝殿は、微震のような余韻をのこして静止した。

「今日はよく鳴るわ。話題が気に入らないようね、いいわ」

 祭壇の前に敷かれたイグサの座布団に落ちついたのも束の間、ふと見回したあかるが、つぶやくように、

「あら八橋、こっちにいたの」

「……あかるさん、さっきから。誰のことなんですか?」

「良子さん、あなたも〈神懸かみがかり〉なのだから。見えるものに目をつぶっても、はじまらないのよ」

 たしなめるような言葉に、二人はまたしても顔を見合わせた。

 菊花がおずおずと、

「あのお、この拝殿? 誰もいませんよね? 私たち以外には」

「そうかしら、さっき犬のを見たと言ったじゃない」

「それは、言いましたけど……?」

 良子は不審を深めて答えた。

「あの人たち、私のおじいちゃんとおばあちゃんではないのだけれど、親戚なのよ。両親ともいないようなものだから、幼少からここに暮らしている私を世話してくれて、優しい人たちです。神職の衣装を着ているけれど、無資格なのよ。それはいいのだけれど」

「いいんですか⁉」

「人手が足りないのは、神祇院が神主を周旋しゅうせんしてこないせいよ。ともかく伊太郎さんも松枝さんも、神様のかの字も信じてはいないわ。だから見えなくても仕方がないけれど。お二人とも、そこの琴がわかるわよね? 八橋、いらっしゃい」

 良子も菊花も、その呼びかけに目を点にして、次の瞬間にはあんぐりと口もあけていた。

 二人の正面にはあかるが座り、あかるの背後には祭壇に続く短い階段がある。段の脇には黒々とした木目も美しい十三弦の琴が横たわって、片端のみ、木製の猫足がついている。

 その足が。

「……動いたあ⁉」

 異口同音に叫んでいた。叫んで固まる。

 サーフボードのように長い胴が、二本の猫足を立てて、長い体を引きずり、ひとりでに這いずりだしたのだ。

 十三本の弦は一歩のたびに、弦の支えの発端である竜角りゅうかくの後ろからは、うず巻くように白い獣毛が生えていた。

 ズルズルと、あかるに近づくと、犬がなつくようにすり寄って鎮座する。

 よく見ると琴の頭――竜頭部分には冗談のように丸い目がひらいており、竜舌りゅうぜつの部分を口ととらえるならば、そこからダランとたらした太い舌も見える。

「わ……わかりやすい説明を求むます……」

「求めます、よ」

 つっこむ菊花も忘我の態である。

「説明? ああそうね、ごめんなさい。琴、と呼んだけれど正確にはそうというの。ただ古来、このような弦のある楽器をすべて琴といい習わしてきたために、とうからの伝来後も、琴と箏の混用が、」

「そういうことじゃなくて!」

「箏、だけに?」

「あかるさん、聞いてます?」

「箏、だけに」

「リピートしなくていいから!」

 あかるは満足げに、琴のお化けの頭をなでた。

 なでられたほうはトカゲのような舌を出し、目を閉じてうっとりと喜んでいるように見える。

「これは〈琴古主ことふるぬし〉という妖怪なの。ああ、これじゃあ、この子は〈猫〉です、というようなものね。名前は八橋というの。私がつけたわけじゃないわ、名乗ったの。機嫌がいいと夜中に歌うのよ。弦をかき鳴らしてね。かわいいでしょ」

「かわいいというか不気味というか……」

「しいて言えばあ……キモかわいいみたいな?」

「そうかしら」

 琴のお化け――八橋は、頭髪にあたる獣毛をくねらせながら、猫足を折ってウトウトし始めた。

「いつから飼ってるんですかあ?」

「犬じゃないのよ、妖怪よ」

「見ればわかりますよお」

「良かったわ。あの人たちは常識人なのよ、これが犬に見えるくらいにね」

「どういうこと……ですか?」

 良子が先ほどからの疑問を口にすると、あかるは細めた目で見かえした。

「この八橋といい、良子さんの変身といい、見えない人には見えないのよ。いえ、見たくない人には、と言うべきかしら。それはほかの違和感のないものに、例えば動物や装飾品のように見えるの」

「つまり……もし変身してしまっても、周りは気がつかないってことですか?」

「そうとも言えるわ。けれど、わたしが言いたいのは『目をらしても、闇の領域は存在する』ということなの」

 やや怒気をふくんだ口調に、二人の少女はその意味するものがわからない顔で、ただ見つめかえした。

 と、おもむろに――ピクリと八橋が四角い顔を起こすと、のっそり二本の足を立て、扉に向かって這いだした。

「なにかが彼の琴線きんせんに触れたようね。のんびりしてるけど、意外と役に立つのよ」

 八橋は大きな体を引きずりながら、扉を頭突きで押し開けると、賽銭箱の裏にそろえられた三足の履物はきもの――スニーカーとパンプス、朱塗りの草履ぞうり――を前にして、風に耳を傾けるように静聴した。

 やがて赤いスニーカーを片方くわえてUターンして戻り、あかるに差しだすと。

 もぞもぞとスニーカーがうごめき、パチン!

 り豆のような音が弾け、き口から何かが飛び出してくる。

「おおっ⁉」

「きゃっ!」

 板張りの床に着地したそれは、白い名刺サイズのカエルだった。

 目のないカエルは、空気を読みとるかのように鼻をもたげると、ピョンピョンと素早くはねて、半開きの扉に向かって逃走する。

 だが、八橋が一瞬早かった。

 カメレオンのような舌が、カエルを捕らえて歯並びの良い口に運ぶと、どうされたものか、カエルはシュレッダーに通されたコピー用紙のようにズタズタに引き裂かれ、排出された。

 あかるがカエルの死骸を手にして目をこらしたときには、それはすでに、なにごとか書きこまれた紙片と化していた。

神祇官じんぎかん蟇目ひきめ、か。あのとき仕掛けられたようね。なにを企んでいたかはわからないけど、神祇官の仕事にしては、おそまつだわ」

 あかるは紙くずをたもとにしまうと、かわりに落雁らくがんのようなものを取り出して、ごほうびとばかりに八橋に与えた。

 バリバリと噛みくだく音を背に、あかるは姿勢を改め、本題に戻った。

「さて、こうして〈琴古主〉に会わせたのは、他でもない。万物に精神が宿る、という概念を知ってもらうためなの。琴に限らず、あらゆる無生物、人や動植物、いかなるモノにも心、すなわち霊は宿っている。霊という言葉に抵抗があるなら、魂、精神、精霊、神、ラマッ、マブイ、なんでもいいわ」

「霊が、神……?」

「同じものよ。神と言う言葉は、明治期にゴッドの誤訳として用いられたから、わかりにくくなっただけで、それ以前の日本人の認識に照らして精霊や魂と考えれば、しっくりくるでしょう」

 だからね、と、あかるは背すじを伸ばしつつも、柔和な表情を良子に向け、

「良子さん、あなたに取り憑いているモノも神なのよ、犬神。動物に人間のようなメンタリティを設定した、いわば犬の擬人化ね。同じように琴古主は琴の、天照大神は太陽の、風神ふうじん雷神らいじんはカミナリや風の」

「ハバネロたんは唐辛子の、ビスケたんはビスケットの、びんちょうたんは備長炭びんちょうたんの……ですかあ?」

「そう、日本刀や戦艦、戦闘機にパソコンにシャンプー、なんでもありね。幼児が話すときに、特にキャラクター化されていなくてもイチゴちゃん、クレヨンくん、お星さまと呼ぶことがあるけれど、あらゆる対象にを求めることは、人類に普遍的な行為といってさしつかえないと思うわ。さしずめ天照大神は太陽萌え、かな」

「ああ、それが八百万の神ってことですかあ」

「そう、話が早くて助かるわ、菊花さん。日本神話は、それこそ汗やら血、ワニや貝に至るまで、なんでも神格化、というか人格化しているのよ。八百万の神というのは、森羅万象あらゆるものに魂が宿っている、という考え方のことなの」

 さてそこで、と、あかるは言葉を切った。

 さっきまで晴れわたっていた空が、木陰に入ったかのように、スウと陰ったからだ。

「悲しいかな、魂は不滅でも肉体は有限にして、うつろうもの。神の宿る体が滅び、あるいは壊れ、焼け、破損して、肉体を失うと、どうなるか」

「ええと、生まれ変わるんじゃないですか? あたしのおばあちゃんがそんなふうに言ってたような。もう亡くなりましたけど……」

「仏道では、魂は輪廻転生りんねてんせいすると教えるわね。神道しんとうでは祖霊それい、つまり祖先の霊といわれるものになるの。これはすなわち神よ。ただし輪廻もせず、祖霊にもならずといったケースで、この世に存在する精神もまた神、あるいは幽霊や精霊と呼ばれるのだけれど」

「はああ、神様も幽霊もいっしょですかあ?」

「実体を持たない、という意味ではね。ところが神やもののけも、実体なくしてはその潜在能力ポテンシャルを十分に行使できず、いかに高邁こうまい神威しんいや未練や心残りがあっても、現世うつしよに介入する力は限られてしまう」

「だから人に取り憑く……?」

「そうね。さっき憑きものと説明したけれど、今の話をふまえれば〈がみ〉と呼ぶのが正しいの。これらが〈しろ〉に取り憑くことを〈神懸かり〉と統一して呼ぶことも多いわ。ただし、」

「ちょ……ちょっと待ってください」

 立て板に水の説明を断ち切った菊花が、

「この……八橋? この子はどうなんですか? これにも何か取り憑いてるってことですかあ」

 名前を呼ばれ、閉じていた目を薄くひらいた八橋は、迷惑顔でまぶたをケイレンさせると、再びまどろみに落ちていった。

「いいえ、神懸かりとは一種の後天性、だからこれは違うわ。ただ古くなって、もともと内在していた魂が、モノの精として変化へんげしただけよ。だって、もしも神懸かりだったら、わかったものじゃないわよ」

 良子は、二人の会話を不思議な面持ちで眺めていた。

 社務所で顔を合わせたときの、話の糸口をさぐるような、ぎくしゃくしたやりとりが一変して、弁舌なめらかな巫女に違和感を感じたのだ。

 参拝客に応対し、宮司の代役までするという彼女が、いまさら人見知りもあるまいと、にわかに考えを巡らしたが、不幸にして、このときの良子には答えを見つけることはできなかった。

「もっとも、この琴は依り代の条件は満たしていると思うわ。憑依ひょういの対象は、憑き神にふさわしい依り代でなくてはならない。年を経た琴や、神祇官の使う紙、あるいは、」

「あたしのように……ですか……」

「どうして……良子なんですかあ?」

「正確に言うと〈犬神〉は、良子さん個人ではなく、あなたの血筋に取り憑いているの。だから祈祷が難しい。犬神は古くは平安時代から呪詛じゅそに用いられ、呪術師に伝承されたというから、かつてはそうしたご先祖がいたとも考えられるわ。ただ……」

 流暢りゅうちょうな巫女が珍しく口ごもったので、講義生よろしく拝聴していた二人は顔をあげた。

「どうしていま、憑き神が発現したのかはわからないのだけれど。なにか、きっかけがあったのかも知れないわね」

「きっかけですか……ううん、思いあたらな……」

 良子は最後まで言葉を続けられなかった。おのれの腹が空腹をうったえて鳴いた、遠吠えのような声に、はばまれたからだ。がらんとした拝殿に音は響き、さすがに良子は赤面した。

「う……すいません……。今朝ちゃんと食べてきてるんですけど。最近とくにお腹すくのが早くて……」

「犬神の特性よ」

「そうなんですか⁉ あ……そういえばあの蟇目って人も、そんなこと言ってたような……」

「ときに良子さん」

「はい?」

「あなた、つぶあんとこしあん、どちらが好きかしら?」

「は……?」

「重要な確認よ、答えて」

「ど、どっちも好きですけど、どっちかといえば、つぶあんかな」

 あかるは、良子の両手を、がっきと握ると、

「そうよね! やっぱりつぶあんよね! 気が合いそうね」

「あんこで性格占いですか?」

「単なる好みの話よ。大福、たい焼き、大判焼きにはつぶあんが多いし、おはぎ、おたべ、アンパンマンだって」

「ええ? 私は、こしあんジャスティスなんですけどお」

 あかるは菊花を軽蔑したように見つめ、

「あなたとは、わかりあえないかも知れないわね」

「あんこのことで⁉」

「主義主張は個人の自由。こしあんの、あのメリハリの無い食感を楽しめるあなたには、強い忍耐力があるのかも知れない。けれど、これだけは覚えておいて。『つぶあんは、ごまかしが効かない』素材だということを」

 あかるは熱く語ると、ふと我にかえったように居ずまいを正した。

「ええと。うん、いい時間だし、とりあえずお昼にしましょうか? 今日は、伊太郎さん趣味の手打ちで、冷やしうどんをいただけるはずだわ。それとデザートに冷やししるこはいかが? こっちは私の手作りになるけれど」

 少女たちは、一も二もなく同意した。

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