第五章 本日のおめざ

 再び、稲妻が曇天を破った。

 遠ざかる残響とすれ違って、山あいから発した雨雲がノロノロと勢力を増し、雷光は垂れ下がった手づなのような半円を黒雲に描いて、地上を照らしていた。

 閃光にあぶられた影のような男が、かたく組んだ腕を解くと、正拳突きのように突きだした白手袋の甲を裏がえす――と、手のひらには愛らしい一羽の小鳥がいた。

 少女たちは言葉もない。

「まあ……そう驚かずに。手品みたいなものです」

 小鳥――頭の真っ白なエナガは、手のひらを蹴ると十歩ほどの距離を飛翔して良子の肩にとまり、気ぜわしく頭を振ると、羽音をたてて空へ飛び去った。

 良子が、反射的に浮かべた嫌悪の表情のまま、

「なんなのよ、あなたは」

「申し遅れました」

 男は手をかえして、自分の胸を指でたたいた。

「胸を見ろ」と言わんばかりのジェスチャーに、良子は自分のブラウスのポケットにある異物感に、はじめて気がつく。

 さっきの鳥が入れたのだろうか、良子がポケットから取り出したものは、一枚の白い名刺だった。

 菊花が顔をよせる。


 内務省神祇院 事務総局教化部

 神祇官 蟇目幸市郎


 と、そっけない書体で刷りこんである。

 残念なことに良子には、あまり読める漢字がなかった。

「ないむしょう……まくめさん?」

「……ひきです、蟇目ひきめ神祇院じんぎいんは、全国の寺社の統括組織。私は事務総局の全権代理人エージェントで、このたび牧市一帯の担当となりました」

「それがなんのご用? こっちは急いでるんですけど」

 いらつきを隠さず応える良子を、なめるように見て、

「申しわけない。ですが……当方も火急の案件なのですよ」

 男――蟇目はあいかわらずの慇懃無礼な態度を崩すことなく、歌うような調子で「どこからご説明しましょうか……」と、ひと呼吸おいた。

「そう……卜占ぼくせん部の報告が発端なのですよ……。現在、卜占部では太占ふとまに式占しきうらをメインとした占いが主流で、なかでも亀卜きぼくといいますか、まあ亀の甲羅占いですね、名前くらいは学校で習うと思いますが。先月の定例会におきまして、この一帯に大きな〈災厄さいやく〉が、迫っていることがわかりましたというのですから、笑わせます」

 さも面白そうに、大仰に腕を広げてみせた蟇目は、ノーリアクションの観客に気がつくと咳払いをし、内容を咀嚼させるかのように一拍おいて、また語り始めた。

「そこで、こちらの寺社に情報提供を求めたのですが、満足な裏づけがとれず……調査のために私が」

「ストップ!」

「……どこか不明な点がありましたか?」

「不明って言うか、わかるように説明するつもりある?」

「ないですね」

「ケンカ売ってんですか? 買いますけど?」

 ムッとした顔の良子を見て、菊花はあわてて、なだめるように友人の手を握った。

 中学校時代の良子を思いだしたからだ。

 いわく「男子生徒を三人相手にステゴロで勝った」だの「校舎の屋上から飛び降りて無キズ」だのといった、流言飛語に聞こえて事実、という荒事を目の当たりにしてきたからだ。

 怒りの沸点が低くて喧嘩っ早い性格は、新入学以来なりをひそめていたが、たまたま彼女の闘争本能に抵触する者がいなかった、というだけに過ぎない。

「ごめん菊花、ちょっとさがってて」

「だ……だから、やめようってば……! け、警察呼ぶ?」

「ムダです。誰も、きませんよ」

 不可解なほど自信に満ちた声音が、神経を逆なでする。

 菊花は怪訝な顔を向けつつ、バッグからスマホを取りだすと、アンテナ表示の〈圏外〉を確認した。

 続いて歩道橋の下を見まわす。

 駅前に位置するこの歩道橋は、ふだんならば駅の利用客はもちろん、買い物目的の通行人などが、混雑とは言わないまでも絶え間なく往来している。

 今も路上は、雨を予期して急ぐ人々が行き交っているのだが、それが誰一人として歩道橋を上ってこようとせず、まるで仕切り板パーテーションで目隠しされているように、目を向ける者すらいないのだ。

 混乱した菊花が反対側の階段に視線を投げると、上り口の路面に見慣れないマークを見つけた。

 それは白ペンキでハケ塗りしたように、くっきりとアスファルトに星形を描いていた。一筆書きの星――すなわち五芒星である。

 こちら側の上り口にもそれはあったが、

(人が来ないことと関係あるの……?)

 彼女には、これが結界を示す印であることはわからなかった。

 その間に――。

 良子は完全に前にでると、突き刺さったコンパスのような蟇目と対峙していた。

 もはや、挑む目つき。

「……あたしがツイてるって、なによ」

「さ、そこです柊良子さん……。最近おかしなことが、身のまわりにありませんか?」

「現在進行形で、変質者につきまとわれてますけど」

「私は変質者ではありません」

「じゃあ、なによ」

「そうですね……強いて言えば変態です」

「自己申告⁉」

「変態と変質者の違いがわかりますか?」

「知るか!」

「変態は単なるマニアですから、公序良俗に反しない、善良な趣味の人です。一方、変質者はコミュニティをおびやかす存在、です。つまり、変態イコール無害、変質者イコール通報、です」

「で、その変態さんが何のご用?」

「……本題に戻りましょう。最近……いくら食べても満腹にならないとか、臭いが気になるとか……そういったことは?」

「……あんた、なんなの……?」

「あるんですね……。というより……すでに自分の発する臭いが……気になっているのですか」

 良子のほおは怒りと羞恥で紅潮し、頭髪が逆立つほどにこぶしを握りしめている。

 と、蟇目はすべるように前進して彼我ひがの距離を縮め、三歩ばかり手前で止まると、見くだすようにあごを向けて、

「質問を変えます……。先日、鎮守の森に入ったときに、なにか変事に遭遇しませんでしたか?」

「ねえ、良子、この人は……?」

「菊花、もう少しさがって」

 良子は手をとろうとする菊花を制して、うしろへ追いやった。

「お願いなのですが……。だまって同行していただけませんか? 事情を聞くだけです。車を待たせてありますので、いかがですか」

「いやよ……こっちに義務でもあんの?」

「あくまで任意ですが……協力いただけないとなると、困りました」

 蟇目は口もとだけ困惑したように歪めると、まるで困っていない目を良子のうしろに差し向けて、白い手袋の腕を伸ばした。

「まあ……それでしたらご友人でもかまいません。蒼井菊花さん、あなたもまんざら、無関係ではなさ」

 最後まで言い終わらないうちに、蟇目は背後に飛びしさっていた。

 さっきまで彼の頭のあった位置には、横ざまに蹴りだした、良子の右足があった。 良子は残身の姿勢から、くるぶしまでカバーする厚底スニーカーをゆっくり引き戻すと、犬歯をむきだしにして吠えた。

「菊花に手をだしたら……こっからたたき落とすぞ……!」

 歩道橋の下は、いつもと変わらぬ、車列の並ぶ幹線道だ。

 ぶつけられた怒りを受け流すように、身をひねった蟇目は、

「怖いな……このメス犬め。それにしても耐えがたい臭気だ、ここまで臭うぞ」

 あざわらった。

 ドクン――と、いつか聞こえた鼓動が、良子の胸を叩いた。

 続けて早鐘のように、打つ、打つ。

 弓弦ゆんづるを引きしぼるような、にらみ合い。

 雷が空を騒がせ、たれこめる雲が大気の重みに屈して、嘲笑のメガネに、最初の雨水を落とした。

 ――刹那。

 良子の短躯が矢のようにはしり、宙で体をひらくと、右足を振り放っていた。

 側頭部を狙った、呵責かしゃくない蹴りである。

 これをのけぞることで難なくかわした蟇目は、ニヤと口もとを歪めて宙に舞う良子を見た。

 と、驚くべきことに、良子は崩した体勢から竹トンボのように一回転し、さらに左足のかかとを叩きこんできた。蟇目は左腕を盾にかざすと、振り抜かれたスニーカーを受けとめる。

 両者は電光もかくや、と思わせる動きで後退すると、五メートルばかりの距離で、再び対峙たいじした。

 驟雨しゅううがたたきつけ、ドウドウとざわめいて歩道橋を濡らした。

 街は瞬時に、霧のような雨の幕に包みこまれている。

 菊花は、息をとめて良子を見ていた。

 見慣れているはずの親友を、信じられない面持ちで。

 当の本人は、目を皿のようにした菊花に、気づく余裕はまったくなかった。

「やはり〈神懸かみがかり〉か……! ごときが、私に一手あびせるとは……」

 蟇目の貼りつけたような笑みは、しかし青ざめて、盾にした腕を押さえ、やはり良子を見つめている。

 良子は――彼女だけは興奮と逆上のなかにあって、己の変化に気がつかなかった。

 ただズキズキとうずく耳やこめかみ、四肢にみなぎる、もて余すほどのエネルギーが怒りを突きあげ、激情を誘発した。

 菊花の色素の薄い瞳は、そこに親友の姿を見つけ、言葉をなくしていた。

 良子の耳があったところに――。

 黒々と大きな、毛深い獣のそれがあった。

 ショートカットの髪から立ちあがった獣の耳は、頭頂近くまで張りだすと、緊張から低く伏せられた。

 アクセサリーなどではない、明らかに血が通っているのだ。

 蟇目も瞠目どうもくした。

「ほう〈生成なまなり〉だ……やはりな。ここまで進んでいた……!」

 良子には、言葉が聞こえていない。

 ただ内奥から押し寄せる怒濤の血潮と、猛り狂った本能にあらがう術もなく、こぶしを握りしめている。


 オオォン――。


 突如、身の毛もよだつ、うなり声が響いた。

 恐怖が菊花のヒザをわななかせ、このような立ち回りに慣れている神祇官も眉をひそめた。

 押し殺したは、人獣じんじゅうの混血のような少女のノドをすりつぶさんばかりに漏れだして、鉄橋を震撼させて尾を引き、やがてとまった。

 スコールは、したたかに良子を濡らしていたが、その重みを感じさせぬ素早さで、異形は再び歩道を蹴った。

 蹴って見あげるほど高く、一気に間隔をつめる跳躍は、常人のものではなかった。情動が支配する、きのように赤い瞳から、

「がうっ‼」

 裂帛れっぱく咆哮ほうこう

 振りおろす腕の先に、にやけた顔があった。呪術師は軽やかに腰をひねると、背中から右腕にかけて、手刀を受け流す。

 着地から間髪入れず、指を束ねたつるべ撃ちの貫手ぬきてが、雨つぶを砕く連撃となって男に迫り、余裕しゃくしゃくで受け流していたのも束の間、徐々に勢いに押されたダークスーツは後退するかのように見えた。

「さすが四つ足……速いな、スピードだけは一人前……だが……!」

 良子の早業に、

(処理しかねる……!)

 といった表情をつくった蟇目は、身を低めると足払いをかけた。

 現在の動体視力から計ると、静止に等しいほどノロい蹴りを飛びあがってかわし、空中でひねりを加えて、右足のかかと落としを叩きこむ。

 首筋に命中した、と見えた瞬間――。

 彼の体は消えていた。

 いや、どういうわけか標的は一枚の小さな紙切れに変じていた。

 ヒラリと歩道に落ちた紙片は、人間を模していた。

 二者の戦いに、まるで目が追いつかない菊花も、蟇目が消えたことだけはわかった。菊花は紙切れの形に、幼い頃につくった折り紙のを思いだしていた。

「ここですよ、四つ足さん」

 良子のうしろ――歩道橋の欄干に、ダークスーツの男が直立していた。傍観している菊花はもちろん、良子でさえも、いったいどのような経路で移動したのかわからない。

「私に〈ヒトガタ〉を使わせるとは……。あなたのような〈国津神くにつかみ〉は危険なのです。あくまで調査のつもりでしたが……始末させていただいた方が、よさそうですね……」

 言葉が終わらぬうちに、良子は躊躇なく、三たび跳躍していた。

 消えた蟇目の未知の能力に対して、警戒するのが普通だ。まして相手は欄干に立っているのだ。かわされた後を、まるで考えずに跳ねるなど、自殺行為に等しい。

「バカめ……」

 蟇目は両眼を閉じて、迫る靴底に対処するそぶりも見せない。

 蹴りが決まった瞬間に、またしても標的は欄干から消え、蹴りあげた足は空を切った、と見えて――〈ヒトガタ〉と彼が呼んだ、紙切れに命中していた。

 良子の体は当然のごとく勢いを殺せないまま、落日を背景にして紙切れと共に歩道橋から転落していった。

 菊花はあまりにも急激なできごとにあぜんとしつつも、不思議そうな顔つきで落下していく姿を見送るしかなかった。

「りょ……‼」

「お友だちの心配をしているヒマは、ありませんよ」

 飛びつくように欄干へ駆け寄った、菊花の手が雨つぶに濡れる。

 背後の蟇目は落ち着きをとりもどし、えり首を整えつつ、

「あなたはすでに、ある程度の事情をご存知のようだ、ご同行願いたい」

 せせら笑うような声音に、しかし菊花は歩道橋の下に流れる幹線道を、見下ろす体勢で無反応だった。

(いない……?)

 菊花はキョロキョロと見まわしたあと、ぎょっとした顔を蟇目に向けた。いや、その視線は注がれている。

 蟇目がゆっくりと振り向くと、落ちかかる夕日を浴びて、良子が向かいの欄干にしゃがむように四肢をついていた。

「なるほど……」

 蟇目は納得した声でうなった。さきほど車道へ、

(落ちた……)

 と見えたが事実は違っていた。

 落ちて助かったとしても、階段を上るような間は無く、高さ六メートルはあろう歩道橋に飛びついたとは、なおさら考えにくい。

 そうなると残るは「落下しなかった」という結果しかない。

 落ちたと見えて、はりにつかまって難を逃れ、さらに鉄骨を公園ののように伝って、ましらの木渡りのごとく帰還した――と考えるほかない。いずれにしても、

(尋常ならざる身体能力だ……)

 蟇目は、良子との至近距離をさけるためにジリジリと菊花から離れて、最初に少女たちが上ってきた橋のたもとへさがった。

 その間、口を半開きにした良子は呆然と、はじめて雨に気がついたように、小降りになってきた空を見あげた。

 ぼんやりと思考を失ったように、人間の耳に比べてはるかに巨大な、黒い立ち耳を前足――いや、腕で掻いている。

 衝動的で、動物じみたしぐさだ。

 一段落すると、ずぶぬれになった獣がやるように、頭からおしりまでを、とてつもない速度でブルブルと震わせて全身についた水を撥ねとばした。そのとたんバランスを失って、良子は歩道側に転落すると、妙なものでも見るようにかがみこんだ。

 歩道の端にたまった雨水、その水たまりを眺めているのだ。

 気の抜けたように、しゃがみこんだ良子を、

(チャンス……)

 と見たのか、蟇目はふところから、ジャバラに折り畳まれた短冊を引きだして、矢のように投げつけた。

 ――次の瞬間、短冊の先端は、大蛇の頭と化して牙をむいた。

 奇術のように出現した蛇はグリーンの両眼を輝かせ、獲物に喰らいつかんと大きくアゴをひらいたが、獣の少女はこの攻撃をこともなげに避けると、逆に大蛇の腹に噛みついていた。

 普段から八重歯の目立つ良子だったが、それが一回りほど大きく鋭さを増しており、大人の腕ほども太い腹を、ちくわでも噛み切るようにやすやすと喰い破る。

「なに……私の〈式神しきがみ〉を裂くとは……!」

 地鳴りのようなうなりを発して飛びかかった良子に対して、蟇目は再び懐中に手を入れたが、獣の牙が届くのが一瞬早かった。

 スーツの腕に犬歯がかかる瞬間――この時、東の空に遠ざかる稲妻がきらめき、遅れて雷鳴がとどろいた。それを合図にしたように――良子の体は見えない手で突き飛ばされるがごとく、欄干に吹き飛び、激突していた。

 むろん、なすすべなく見守る菊花のほかには、両者の間に入る者などいない。

 蟇目はニヤと口もとを歪め、寸秒、かなたに視線を投じつつ、引きだした紙束を一気に空中へバラまいた。

 それは、大量のヒトガタだった。

 乱舞するヒトガタは、地上六メートルの微風にあおられて、紙吹雪のようにハラハラと踊った。

 良子は叩きつけられた欄干から身をおこすと、再度突進を試みようとして歩道の中央で立ちすくんだ。

 いつの間にか――呪術師の姿が消えているのだ。ヒトガタをバラまいた直後から見えなくなっていたものか――。

 良子は大きな耳と、よく効く鼻と、五体五感をとぎすまして敵をとらえんとしたが、それは無駄であった。真後ろの死角に舞っていた紙切れが一筋の光をもらすと、パチパチとまばたきして両眼をあける。

 ヒトガタはみるみる手足を生やし、ダークスーツの姿をあらわすと、

「良子! うしろ!」

 さけぶ菊花の助勢も虚しく、無防備な首すじに、手袋の手のひらを静かにあてていた。

 力のこもらぬ、触れただけの一撃だったが、良子の瞳はたちまち焦点を失って深く閉じ、昏倒していた。

 ヒザをついて、うつぶせにドッと倒れた良子の耳は、黒い綿のような抜け毛を散らして引っこみ、もはや異常は見られなかった。

 そこにはただ、どしゃぶりに濡れ伏した少女がいた。

 舞い落ちる紙片のなか、蟇目は少女のえりくびをつかむと無造作に引きおこす。

 菊花は息をのんでその光景を見つめた。

「手を焼かせますね……それにしても〈生成り〉にこれほど手間どったのは初めてです。やはりあなたは〈災厄〉かも知れない……」

「ちょっと……離しなさいよ! どうするつもりなの⁉」

「知れたことです。神祇院はを危険分子とみなし、〈がみ〉ともども、厳重な検分をおこないます。しばらく身柄はあずかりましょう」

「……誘拐! この変質者!」

「私は変質者ではないというのに……。それとも我々に歯向かうおつもりですか? そうなれば、あなたもただでは済まない」

「じゃあ、私を連れてけばいいでしょ! 良子を離してよ!」

「む……!」

 突如、蟇目が身をおこして、あらぬ方を振り向いた。

 この挙動にビクリと反応した菊花も、おそるおそる視線を移す。

 カツン、カツン、と。

 なんの変哲もない、陸橋を上る音である。

 しかしながら、この歩道橋は蟇目が五芒星で封印した、いわば閉じた空間なのだ。その結界に、なに者かが侵入してくる。蟇目のするどい両眼は、彼が最初に立っていた南側の階段に注がれていた。

 カツン、カツン、と。

 階段に沿った、斜めの柵のむこう。

 菊花の目には、はじめ赤い色だけがにじむように見えた。

 それは、小降りになった雨を受けている、赤いビニール傘だった。

 鋼鉄の階段を慎重に踏む足は、ローファーに黒タイツ。

 菊花には見慣れた、

学校うちの制服……?)

 であった。

 カツン。

「やんだようね」

 傘をたたんで、天にかざした白い腕が、雨のしずくがあたらないのを確かめている。

 腰まで届くスラリとした黒髪、流麗な頬からあごの線も、見透かすような黒い瞳も、菊花には美しく思えた。

 それは散りゆく花を愛でる心と、同じであったかも知れない。

 ただひとつのアンバランスは、その黒い瞳が、べっこう飴のようなフレームにおおわれたメガネの奥に見えていることだった。

 胸もとのブラウスを飾るリボンがグレーであることから、

(三年生……)

 であることも察せられた。

 茶色のローファーが、ためらうことなく橋の中心に近づく。

 黒ユリのような少女には、しかし表情が無かった。

 対する蟇目には微笑が戻り、ぶら下げていた良子を捨てると、ぐるりと体ごと向きなおった。

 あわてた菊花は、受けとめようと歩道との間に滑りこんだが、間一髪遅かったばかりか、コンクリートに顔面激突した良子の頭をさらに蹴りとばす追い打ちをかけ、ひとりオロオロしつつ自分の鈍さを呪った。

「良子、逃げよう! 良子ってば!」

 いくらゆすっても、目覚める気配はない。

 そのようすを、呪術師は歯牙にもかけず、

「初めまして……でしょうか? 照峰あかる様……ですね」

「いかにも。ですが初めてではありません。昨年の新嘗祭にいなめさいで、お顔を拝見した覚えがあります」

「おお、あの時ご列席でしたか……。ご挨拶が遅れました。先任者は……」

鏑木かぶらぎさんとおっしゃいましたか。どうされたのです?」

「さあて……どういうわけか、音信不通でしてね……。私は新任の蟇目と申します」

「ご尊名、存じあげております。それはそうと、」

 あかる、と呼ばれた少女は傘を欄干に立てかけると、学生カバンからタオルハンカチを取りだして、さりげなく菊花に手渡した。

「この方たちは、私どものやしろでおあずかりしますが、いかが」

「あかる様、我々はこの地の〈災厄〉を調査しております。いずれ貴社にもご協力を仰がねばならぬとは思っておりました。柊良子という、この依り代……聞けば先日、貴社の管轄である鎮守の森にて災禍にあったとか」

「むろん、事態は把握しておりますわ。内務省通達もきております。ですが、当て推量で氏子に手出しされては迷惑です。国津神の争いは当事者が決着をつけるもの。神祇院のお指図は受けません」

 あかるは、湿気で重くなった髪をかきあげつつ、毅然として言い放ったが、蟇目は眉ひとつ動かさなかった。

「これはこれは……失礼があったならばお詫びいたします。おっしゃる通り、当局は地祇ちぎのもめごとに介入できません。しかしながら……コトが神代かみしろ級に及ぶとなれば話は別……。我々は『神のとして世をつくり固め成すこと』を目的として……」

「お互いさまです。『太平を開くのもとい』、言わずもがな。ですが、大事の前の小事というにはあまりの所行ではございませんか。しかるべくあかしがあったならば神祇院に、いえ、蟇目どのに解決をゆだねましょう。いかが」

「のぞむところです……。また改めてご挨拶にうかがいましょう。では……」

 蟇目はあざやかな引き際で欄干に立つと、背泳ぎのスタートでもするように飛翔した。

 驚愕する菊花が柵のあいだから思わずのぞきこんだが、眼下の路上にフワリと紙切れが落下していくほかには、なにも見えなかった。

「災難だったわね、あなたも」

 口調をやわらかく変えて、あかるが呼びかける。ひざに良子の頭をのせて髪をふくほかに、菊花には手のほどこしようもない。

「良子が目を覚まさないんです……」

「彼が去った以上、間もなく結界が切れるわ。急がないと」

 さきほどの、蟇目を追い払った問答といい、事情を知っていると見えるあかるに、

(ともかく任せるしかない……)

 菊花は見極めて、ハラをくくった。

 あかるは横たわった少女の全身をざっと見わたすと、右足首をとって靴底を凝視し、かかと部分に指をかけてようにすると、

 コツン。

 小さな音がはじけて、歩道になにかが落ちた。

 あかるはその、ひしゃげた黄色いパチンコ玉のような物体を拾いあげると、背面のビル群を一瞥し、無頓着に歩道へと放った。

 次に良子の頭に手をかけて、うなじが見えるように回すと、目を細める。

「わ!」

 菊花は首にあるものを見て仰天した。知らぬ間に、首すじに十円玉サイズのカエルが貼りついているのだ。

 身動きひとつしないカエルの茶色い背中に、ごく小さな五芒星が染めたように描かれている。

 あかるが、しなやかな指先でつまみあげ、歩道のスミに放ると、たちまちそれは一片の紙切れと化して水たまりに溶けた。

「う……ん」

「良子? 目、覚まして! もう大丈夫だから……!」

 ずぶぬれの良子を支えて座らせると、なんとか意識をたもつように声をかける。

 その間に、あかるはカバンから水筒を取りだし、円筒のそそぎ口を良子の小さな唇に押しあてた。

 息をのんで見守る菊花は、たれこめる甘い香りをかいだ。

 あかるが、ぐったりとした首を支え、ほのかに湯気のたつ液体をゆっくりと流しこむと、良子は友人の気配をよりどころにして、その白い液体を飲み下した。

(甘酒……?)

 のように感じられる。

「よし! ひと段落ね」

 あかるは、これまでになく喜色をあらわすと「もう用はない」とばかりに立ちあがった。菊花が制するようにわずかに手をあげ、

「……あの、あなたは?」

 制服のスカートをひるがえして、

「明日、落ち着いたら、照峰の社に来てちょうだい。きっとよ」

 すっかり雨のあがった空の下、あかるはもと来た階段を去っていった。

 夏の夕焼けは、まだ沈みきるつもりがないらしく、黒ずんだ雲にオレンジのまだら模様を描いている。

 茜さす空をまぶしく眺め、良子はようやく、あの夕空に出会った巫女を思いだしていた。

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