第四章 叢雲立つ

 照峰あかると再会したのは、翌日の夕暮れどきのことだった。

 この日は朝から蒸し暑く、晴天ながら西の空には、湿り気をはらんだ不穏な雲が群れ集っていた。

 いつもの指定ジャージで朝日を浴びた良子は、激しく尻尾を振る子犬とともに元気よく家を飛びだすと、手探りの散歩を始めた。

 森での出来事がショックだったのか、千代丸は注意深く匂いをかぎながら、新しい散歩コースをおっかなびっくり進んでいる。

 基本的には父親が新たに決めたコースをたどっていたが、良子は千代丸の意思を尊重して歩くことを忘れず、むしろ先日の反省から彼女の歩みのほうが慎重なほどだった。

 クランク状の道路を過ぎて、森に出会わぬよう折れると、川沿いの緑も豊かな、眺めのよい道に入る。

 良子の生まれ育ったまき市は、人口二十万人ほどの、のどかな小都市である。

 内陸に位置し、起伏のない平野ばかりで歩くにはラクだが、これといった風景の変化も少なく、平地を活かした畑作や酪農がさかんなほかは目立った産業や観光資源もない。

 凡庸だが牧歌的な田園風景の広がる、おだやかな街だった。

 彼女の暮らす一帯は新興住宅地で、そこから西へ進路をとると、くだんの森にぶつかる。

 今日の進路は北へ――土手を歩いて、森へは近づかない一人と一匹だった。

 陽炎かげろうのゆらめく朝の河岸かがんには、散歩やジョギングの人々が行きかい、日差しのなかにやさしく吹き抜ける涼風がここちよい。

「ねえ、ちょっと下へ降りよう?」

 きゃんと吠え答えると、良子について堤の下へ駆け降りる。

 この辺りの川幅は広く、流れをはさんで向こう岸まで、ピンク色のコスモスが眩しかった。

 母、千鶴がつくろってくれた傷だらけのジャージを隠すように、土手よりも人が少ない河川敷を選んで歩む。

 赤土の小道を遡上に沿って進むと、やがて小さな林が見えてくる。

 そこは散歩に乗じて探していた、良子の目的地であった。

 林には白樺が余裕をもって立ち並んでいて、傷心の彼らにとっても、圧迫の少ない場所だ。

 木陰で日差しを避けつつ、周りをさぐるように見ると、土手にも人がいないのを確かめ、さらに進むと木漏れ日の少ない陰りの向こうで、小さなほこらのようなものに突きあたる。

 それは、祠というのもはばかられるような、ボロボロの木枠に、朽ちた地蔵にも動物にも見える石像が収まっている前時代的な代物しろもので、学校でのウワサを知らなければ、近所の住民すらも寄りつかない場所だ。

 ウワサ――。

 誰が言いだしたのか、クラスメイトいわく、

『意中の人と一日いちにち過ごして、そのあいだ身につけていたアクセサリーを〈こまいぬさま〉にお供えする』

 というものだ。

 さらに「銀色のアクセサリーなら、なお良し」などと、まことしやかな補足まで流布るふしている。

(ま、気休め……ダメもとよ)

 右手首のブレスレットをはずすと、中型犬ほどのサイズしかない、古びて貧相な石像をながめた。

 造形はあいまいだが、どうやら動物を模しているらしい。

 像の頭から行儀よく並んだ足先まで、所狭しと指輪やネックレスといった、いずれもチープな銀に光るアクセサリーが載せられていて、良子はしばし悩んでから、ひしと〈お供え〉が積まれた頭に、の一端が欠けたバングルを重ねた。

 その挙動に、千代丸は首をかしげる。

「これが〈こまいぬさま〉ねえ……」

 雨天には、破れた屋根の隙間から雨水が落ちるのだろう、石像は原型があやしくなるほど侵食がひどい。

 長年の風雪に耐えて貫禄らしきものがただよっていたが、およそ狛犬こまいぬには見えない。どことなく犬に見えるから――というのが理由の、いいかげんなネーミングである。

 苔が這いあがるままに放置された木造りの内壁には、像に隠れるようにしてふだがはりつけてある。

 陰になって、はっきりとは見えないが、どうやらなんらかの神仏が描かれているらしい。

 素朴な筆致で札のなかに舞い踊る、それは一柱ひとはしらの女神であった。

 全身に宝飾をまとい、日本の神仏には珍しく、完全に裸体と言ってもいい姿で、妖しげに身をくねらせている。

 涼をとる犬を待たせてのぞきこみ、ひとしきり合掌していた良子は、やがてその場を離れて散歩を再開した。

〈おまじない〉に立ち寄った白樺の木立が、住宅街のために切りひらかれているものの、もとは鎮守の森とつながっていたことを、いまや知る者は少ない。

 橋を渡って反対河岸がしを遠回りし、日差しがやわらかいうちに、彼らは帰宅した。

 庭仕事をしていた千鶴が、出迎えに立ちあがり、

「おかえりなさい……。新しいコース、どう?」

「大丈夫みたい。納得してると思う」

「そうね、素直にケージに戻りそうかな」

「ん……。お昼のあと出かけるから」

 心配声の千鶴に、寄り道のことなど、おくびにも出さない。

 千代丸のブラッシングに時間をとられ、遅い昼食のあとで制服に着替えた良子は、午後からの補習授業をこなすため、曇り顔で学校へ向かった。

 憂鬱な顔は補習のためだけではない。

 夏休み中に制服で出歩くなど、

「テイサイわる……」

 だが、これは考え過ぎ、杞憂だった。登校してみると、他の補習登校や文科系の部活で、制服を着ている生徒はあんがい多い。

 良子は安心して教室に入ると、他クラスの〈不振者〉も含めた授業を受け、

「こっちも、休みに出勤してるんですからね。まじめにやってちょうだい」

 などと数学の教科担任が漏らす、愚痴ともボヤキともつかないご指導を聞き流して、本日のおつとめを消化した。

 苦行から解放されて校門を出ると、脱走した犬のように路線バスに駆け乗って、はやる心を抑えて中心街へと急ぐ。

 中心街、目抜き通り、メインストリート――呼び名はなんでもいいが、めざすバス停のある通りが、閑散とした商店街であることには変わりない。

 人通りもさほどない、雑踏とは無縁の小さな街であるから、大通りに面しているとはいえ、メイド喫茶なるものがオープンした際には、皆いぶかしんだものだ。

 商店街には金物店や釣り道具屋といった、昔ながらの寂れた店舗のほかに、シャッターに〈貸し物件〉の張り紙も目立ち、大きなテクスチャの漆喰カベで飾られたファンシーな喫茶店は異彩を放っている。

 地方の街にときおり見られる、混沌とした景観だ。

 ポップな書体で彩られた〈喫茶マカロン〉の看板を眺めてから、肩にしていた濃紺のメッセンジャーバッグを背負いなおすと、期待半分、といった顔つきで、重い木製のドアを押した。


 ところで――。

 今朝からの、このような一部始終を、監視する者たちがあった。

 三ブロック離れた路肩に、リア全面がスモークでおおわれた、ものものしいで立ちの黒塗りワゴン車が停められている。

 運転席の男は〈喫茶マカロン〉の、ドアベルを鳴らす制服姿を双眼鏡ごしに認めると、

「……目標が店に入りました」

 ゆったりと、けだる気につぶやいた。

 双眼鏡を降ろすと、灰色がかった髪がダークスーツの肩にゆれ、まどろむような目の光が、細いフレームのメガネごしに笑っている。

「間違いないようですが……ずいぶん若い。あれで高校生ですか」

「知るかよ、童顔なんだろ。それより本当に、」

 仕掛けるのか、と助手席の男が、ややためらいがちに受けた。

 午後三時をまわっていたが、高い日差しはまだ助手席には届いておらず、黒ずんだ影が話すかのようだ。

「まだ陽が高いので不向きでしょう……。それより、彼らの力は未知数です。私は万一にも遅れをとるようなことはありませんが……暴走した〈しろ〉が傷つくような事態は避けたい」

「指図はごめんだ」

「そうでしたね……。あなたが彼女の身を案じているからこそ、この事案に参加してもらったのです。心得ていますよ」

「あんたは、ひとこと多いな」

「……これは失礼」

 怒気をはらんだ助手席の声音に、メガネの男はわびた。

 しかし終止あざわらうような口調は変わらず、威嚇する声に、いささかも動じていない。

 と、ワゴン車のすぐ後ろに、巡回中のパトカーが停車した。

 クリップボードをたずさえて降車してきた青い制服が、きまじめな顔で運転席の窓を叩きつつ、

「ここは駐車できませんよ。それと免許証を拝見できますか」

 メガネの男は無言で窓をあけると、いつのまにか双眼鏡は消えていて、代わりに街の地図が広げられていた。

 にこやかな表情をつくると、腰からサイフを探すしぐさで、

「なにかあったんですか?」

「いや特に。もうすぐお祭りなんで、取り締まり強化中なんです。ご旅行ですか?」

「いえ、知り合いが危篤でして……。第一総合病院というのは、このあたりですか」

「ああ、それなら……」

 などと会話をしつつ探っても、サイフが見つからない。

 このとき――男の黒いスーツの袖から、一枚の紙切れがスルスルと滑り出て警官の手元に消えたことに、誰も気がつかなかった。紙切れには、文字とも笑い顔ともつかない、不気味な文様が墨痕あざやかに記されている。

「ありましたよ」

 ジャケットの内ポケットに、ようやく見つけたサイフから、免許証を取り出して提示した――と見るや、警官のクリップボードから、巡回記録や地図を束ねた用紙がバサバサとはずれて止める間もなく風に舞った。

 いや、無風なのだ。

 それがひとりでに、渡り鳥の隊列さながらに、車道を越えていく。

「あ……ちょっと待ってて……!」

 あわてた警官が車内に言いおき、パトカーから飛び出した同僚と紙束を追うのに、

「すみません、急ぐんですが、もういいですかね」

「ああ……はい、もう、はい結構です」

 ご協力ありがとうございました、と、遠くなる紙束を目で追いながら、警官は同僚を追った。

 いいえどういたしまして、とメガネは答え、

「これだから田舎は困ります……」

 隣りへ笑いかけたように見えたが、この男はもともと笑った顔なのかも知れない。

 助手席は無言である。

 ゆっくりとアクセルを踏みこむと、ワゴン車はカフェを通り越していった。


 一方――。

 は、そんな一幕を、知るよしも無かった。

「おかえりなさいませ、ご主人様!」

 カラン、とドアをあけて入店した良子は、歓迎の言葉で出迎えたメイド服――菊花と、めくばせで笑いあった。

 えんじ色の調度と、ベージュの壁紙が落ちついた店内は、外観から想像するよりずっと奥行きがあって、広々としている。

 思いがけず、客は満席に近いほど賑わっていて、良子は厨房に続く一人がけの席へ案内された。クラシックな猫足のイスにかけ、意外なほど統一感があって居心地よく作られた店内を、感心したように見わたす。

 マスターらしきモップ頭の青年が厨房にちらと見え、他にもメイド服を着たスタッフが数人、まったりと立ち働いている。

 開店当初、地元フリーペーパー誌のインタビューに「果たして、需要がどれくらいあるでしょう」と語ったマスターであったが、経営は順調らしい。

 店舗設計デザイナーから飲食業に転身したマスターが、たたんだラーメン屋を居抜きで借りあげ、調度類も廃業したホテルから「買い叩いた」ため、初期費用が安く済んだのだという。

 そうして浮いた費用を特注のメイド服に注いだというのだが、菊花に言わせると、

「ほとんどコスプレ」

 なのだそうだ。

 もっとも菊花にしても、本格のメイド服との違いはよくわかっていない。

 とはいえ店内の彼女は、夏のさかりを迎えたバラのように華やかだった。

「お待たせしましたあ」

「ありがとう」

 おすすめの〈きなこバニラハイパーもーどパフェ〉とドリンクのセット、そして〈シェフのきまぐれパスタ〉とタイムサービスの〈サラダバスケット〉が、そっとテーブルクロスに置かれる。

 相当なボリュームだが、良子はこれでも、しっかり家で昼食を済ませているのだ。

「これ、菊花が作ったの?」

「違うよお。今日はスタッフ多いし……なんか私、おもてに回されちゃって……」

「髪、二つしばりなんだ。かわいいね、衣装それも」

「これね、ちょっと短いよね……」

 菊花が照れた顔でクルリと回ってみせると、大きなリボンに引っかかったパフェスプーンが、

 キン!

 板張りの床に落下して、耳ざわりにわめきたてる。

「あ、すみません……」

 いいさしてスプーンを拾いあげ、戻る後頭部をテーブルの下に強打するという連続技コンボをくりだすと、置いたばかりの皿が非難がましく踊った。

「あた……!」

「ちょっ……大丈夫……?」

「だ……大丈夫、慣れてるし……」

 頭をかかえてうずくまった菊花へ、良子は反射的に、おしぼりを患部にあてて介抱した。

 ふと周囲に目をやると、さきほどまで卓上のカードやボードゲームに興じていた客が、

「おお……!」

 そこかしこで手をとめ、小さく歓声をあげてこちらを見ている。

「なに……?」

「あ、気にしないで」

「頭、痛くないの?」

「もう大丈夫。ありがとう」

 菊花が厨房に引っこむと、客はおのおの娯楽に戻っていった。

「失礼しました」

 と、別のメイド服が替えのスプーンを置いたので、良子はハプニングを頭のそとに追いやって、パスタをフォークに巻き、眼前に展開するリオのカーニバルのようなパフェを崩すことに熱中した。

 のんびりとパフェをかたづけて、スマホの時計を見たころには、時刻はすでに午後四時を――菊花の退店時間をまわっていた。

 と、菊花が丸いプレートにケーキセットを載せて、衝立の向こうから顔をのぞかせ、

「もう、あがれるから」

 笑みを見せ、通りすぎようとして――彼女は消失した。

 いや、消えたのではない。

 菊花は、なにもない床につまずいて倒れ、良子の反射神経を超越、かき消すように視界からフレームアウトした。

 手にしていたプレートのティーセットやケーキはもちろん、ドリンクをも盛大にぶちまけながら床に転倒し、割れた食器類が無秩序な万華鏡を描く。

(やっちゃった……!)

 助け起こそうとした良子より早く、待ちかまえるように控えていたメイド服が手を貸して、スムーズに店内を清掃すると、

「申しわけありませんでした、ご主人様!」

 一同並んで頭をさげた。

 にわかに拍手喝采が巻きおこり、煮えばなの鍋のようにどよめくと、

「菊花! 菊花!」

「ドンマイ! ドンマイ!」

 打ちあわせたように、コールがおこった。

〈ご主人様たち〉は、はやし立てるように盛りあがり、突然の宴は主演女優が舞台ソデならぬ厨房の奥へ退場するまで続いた。

 良子はこの寸劇のような騒ぎを、呆然として見守っていた。少しも慌てた様子のないメイドたちといい、客の楽しむ態度といい、

(まるでイベント……?)

 なのである。

 雰囲気につりこまれて、苦笑している自分に気づく間もなく、

「いやあ、今日はまたハデだったね、蒼井あおいさん」

 かたわらに、やはりこの顛末てんまつを見物していたらしい、モップ頭のマスターが腕組みして立っていた。

 普通ならば不始末のあと――と思われるのだが、落ち着きはらって、馬のように長い顔をニヤけさせているのが奇妙だった。

「蒼井さんの友だち、だよね? 学校でもあんな感じ?」

「はあ……学校では、もうちょっと」

「おとなしい?」

「いえ、もうちょっとすごいです」

 マスターが腹を押さえて笑った。

「いやあ、いいね。ちょっとムリ言って、出てきてもらったかいがあった。お客さんからも、催促されちゃってね」

「はあ……?」

「蒼井さんのシフトの日、ちょっと売り上げ伸びるんだよね。〈ドジっ娘タイム〉に固定ファン的なお客さんがついてくれて」

「ああ、そういう……って、ありですか、それ……」

「そう、ちょっとの売りあげアップなんだけど、そのちょっとが大事なのよ」

 満足そうなマスターを見送りつつ、良子はしかし、恥じ入ってうつむく友人の顔を思いかえしていた。

 ほどなくして、衝立の陰から、衣装替えした役者があらわれた。

 コルセットキャミソールとデニム、私服の彼女はふだんよりずっと大人びて見える。

「お待たせ」

 ほおを赤らめた菊花は、友人をうながすと「菊花ちゃん、また来るから」と声をかけてくる常連に、

「ありがとうございます」

 はにかみつつ、手を振ってみせた。


 アルバイトがひけて、駅前の繁華街へ向かう二人の頭上には、曇天を割って最後の陽光が降りそそいでいた。

 西空には、熟したトマトのような夕日が沈みかけている。

 午後からの重たい雲に空はよくもちこたえていたが、夕方になって蒸し暑さが増して、降りだすのは時間の問題と思われた。

 遠くに雷鳴が聞こえて、空を見あげた通行人が、やや足を速めたようである。

 繁華街とされている地帯は人通りも少なく、長期休暇の学生たちが目立つほかは、いつもと変わらぬのどかな風景だ。白く反射する歩道橋の向こうに、なじみのカラオケボックスが見えている。

「制服でくるとは思わなかったあ。補習?」

「あー、バスがギリでさ。ついたら着替える」

 担いだバッグを、ポンとたたく。

「ねえ、顔、どうしたのお?」

「あ、見えるかな……傷」

「薄いけどねえ、千代丸にひっかかれたとか」

「近いけどハズレ、それがさあ、聞いてよ……」

 歩道橋の階段をゆるりと上りつつ、良子は鎮守の森での事件を、身振りをまじえて話しはじめた。

 差しこんだ夕日を浴びて、手すりをささえる支柱が、グリーンの階段に長くストライプを落としている。

「はああ……」

 聞き終えた菊花は、しばし絶句して、

「……恐怖体験だねえ。良子、生きててよかったあ!」

「カラスなんかに、殺されてたまるか!」

「けど、いっぱいいたんでしょ」

「ざっと千羽はいたかな」

「ああ、病気の人にお供えする?」

「それは千羽ヅル! いろいろ違うよ、怒られるぞ!」

「怖いよねカラス。私小さい頃、お菓子盗られたことあるんだよ!」

「ああ、前に聞いた、それ。いや、カラスが怖いっていうかね……」

 言葉をにごす良子を、不思議そうに見返して、

「とりあえず、その巫女さん? みたいな人が助けてくれた、ってこと?」

「古文のさ、あれ……『野山にまじりて竹を取りつつ』……なんだっけ」

「〈竹取物語〉ね」

「そう、それ。それの、さし絵みたいな」

「かぐや姫の?」

「そうそう、おでこ。十二ひとえじゃないけどね」

 二人は、古文の授業で丸暗記したページの、赤い着物姿を思い浮かべて笑いあった。

 階段を上りきったところで、視界は高く広がる。

 夕空はいよいよ湿度を帯びていた。

 ゆるやかに描かれた山の稜線がほのかに白く、止まったようにスローな落日が、群れた暗雲を不気味なオレンジに照らしている。

 雄大な景色をバックに、雲は我がもの顔で空をおおいつつあった。

 口をひらいた良子は何ごとか言いよどむと、結局は思いなおしたように話題を変えた。

「それはそうと……お店でさ」

「うん」

「なんていうか……大丈夫?」

「うん?」

「なんかムリして出てもらってる、みたいなことを店長さん? が言ってたよ。ウエイトレス系の仕事は……どうなの?」

「あ……バレたかあ……。マスターは、私がわざと転んでるって、思ってるみたいで……」

「そんなニュアンス、けど。あたしの目はごまかせないのだよ、菊花くん」

「やっぱりムリかなあ……。私、ここはクビになりたくないんだよね、だって……」

 いいさして菊花は立ちどまった。

 通路の真ん中にさしかかった辺りで、良子がすくんだように歩みをとめたことに気がついたからだ。

 歩道橋の通路幅は、六メートルほどと広い。

 その通路――反対側の階段を上りきった辺りに、立ちふさがるように、男がいた。

 この暑いのに、びっしりとダークスーツを着こんでいるが、汗ひとつかかず、細いフレームのメガネの向こうには、酷薄そうな光を宿す三白眼があった。

「なにか……用ですか?」

 距離を詰めてくる男の圧迫をつっぱねるように、良子が声を投げた。

 キャベツを千切りにするような夕暮れの風がそよぎ、肩まで届くグレーの髪をなぶった。貼りつけたような笑い顔は三十代なかばといったところだろうか。

 余裕たっぷりに、長身だが華奢な体を仁王立ちに、腕を組んでいる。

「柊良子さんと、蒼井菊花さん、ですね」

 棒立ちでリアクションも取れない菊花の前に、良子は敢然と盾になって、にらみすえ、

「なんですか……! こっちはあなたを知らない!」

「柊良子さん、あなたは……」

 そのとき、男を照らしていた夕日が完全に雲に隠れ、一条の稲光が、西の空を割った。

「あなたは、ツイています」

 さっきよりずっと近くで、雷鳴がとどろいた。

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