第二章 哭いたカラスが、もう笑う

 やっとただいまを言って二階の自室へ駆けあがると、カバンを放り投げ、手早くTシャツと指定ジャージに着替えて駆けおりる。

 二十秒フラットだ。

 その間、キッチンのかごにあったリンゴを引っさらうことも忘れていない。

 シャリシャリとかじりながら、玄関でリードひもを手に子犬と格闘していると、軽自動車のエンジン音が止まり、間もなく鍵束をさぐる音が聞こえて、良子は内側から扉をあけた。

「ああ良子、助かる!」

「どういたしまして」

 大きなエコバッグを赤ん坊のように抱えて、母親――千鶴が帰宅したのだ。

 気の抜けたウェーブを肩にゆらして、ほどよく茶に染めた髪がなびくのを見るにつけ、

(お母さんの髪質が遺伝してたらなあ……)

 つくづく思う良子なのだ。

 とんでもないハネっ毛は、父親ゆずりだ。

「終業式、どうだった?」

 食料品バーゲンの戦利品を運び入れつつの問いに、 

「別に……中学まえと変わんないよ」

 出鼻をくじかれた娘は、荷物運びに手を貸しながらも無愛想に返すと、再び玄関先に向かった手には、抜け目なく買いたてのクリームパンを失敬している。

 食事前の腹ごしらえで、更新を重ねるエンゲル係数、飢えたオオカミの空腹すきっぱらは、リンゴ一個程度では満たされないようだった。

「行儀悪いよ! 手洗ったの?」

「はあい」

 生返事を置き残し、はきこなれたスニーカーへ無造作に足をつっこむと、千代丸を連れて庭に降りる。

 現金なもので、パンを手にした飼い主に対して、千代丸は驚くほど従順に、女王陛下につかえる臣下のごとく、神妙な〈おすわり〉で待機した。

(なめられてるのか、あたし?)

 などと思いつつ、リードを握り、

「ほおら、パン食べるか」

 千代丸はうれしさあまって周りを飛び跳ね、あっという間にからまったリードにもめげず、せわしなく逆回転を始めた。良子も負けじと体を回し、子犬に背面バックをとられぬよう張り合う、幼児こどものケンカさながらの低レベル。

「おお、速いな、負けるか! あ、待て、パンは半分だ、あたしと半分! こら!」

 分けられたパンを引ったくり、ろくに噛まずに呑みこむ様子さまは、どこか共食いを思わせた。

 ほほえみつつ網戸の向こうに、

「いってきまあす!」

「お昼、どうするの」

「帰ってから食べる!」

「そう……そうだ、散歩のコース、ちょっと変えたらいいかも知れない。遊歩道のとこ通ると、森に入りたがることがあって……」

「はあい」

 後半をほとんど聞き流して、良子は飛びだした。

 弾むように家を出た一人と一匹は、通学路とは反対の住宅街を、踊るように駆けていく。

 てこてこと、リズミカル。

 雲ひとつない空は、うだるような熱気を地上にそそいでいた。

 飼い始めてからというもの、に早起きした休日を別にすれば、散歩の役割は母、千鶴が率先してやってくれていた。

 久しぶりでリードを握った良子に、初めこそとまどいを見せたものの、千代丸はすぐに慣れて、むしろ抜群に運動量の多い娘を歓迎し、「どこまで走れる?」と、ライバルを試すアスリートので挑発する。

(任せっぱなしでごめんね、お母さん)

 胸の中であやまり猛然とダッシュすると、つぶらな目は驚きと喜びで丸くなり、せりあうように並走した。

 綿雪の毛並みに、首と胴にしめた赤いリードが映える。

 昼どきの住宅街は静かで、すれ違う者もない。

 それでも――。

 いつしか額に手をあてて、汗を気にするしぐさ。

 わずかに眉を歪めて見おろすと、無垢な瞳に見返されて、疾走は徐々に陰りをみせる。

 ただよう匂いを鼻孔に感じた良子は、いつしか申しわけなさそうな顔つきになって、巻きの減ったゼンマイおもちゃのようにペースダウンした。


『わあ、かわいい!』

 ふさいだ顔で初めて対面したのは、中学校最後の冬休みも終わろうかという、はらはらと舞い積もる粉雪の晩だった。

 千代丸は、良子の父が保健所からゆずり受けた、いわば里犬さといぬである。

 保護した柴犬が、檻のなかで出産したのだというが、母犬は栄養失調で息を引きとり、生まれたばかりの四頭は、ふびんに思った職員からミルクをもらって生きのびたそうだ。

 保健所のサイトに掲載された飼い主募集によると「気にいった子を連れて帰ってよい」ということだったのだが、ふたをあけてみると兄弟たちはすでに引き取られたあとで、魯鈍ろどんな余りものをもらい受けるしか選択肢は無かった、というのが真相らしい。

 オス犬である。

 父はごきげんだった。

「こいつは賢そうだ」などと言い、

「やっぱり日本犬だな。そもそも倭人の遺伝子には、縄文時代から狩猟用として飼われてきた日本犬との共存関係が……」などと、犬好きのうんちくを一席ぶち始めた――ことを思いだして、良子はうんざり顔で回想をシャットアウトした。

 疾走から歩きに変わっても、汗はとまらない。

 嫌悪もあらわに、Tシャツの裾で額をぬぐう。

 景色はカラフルな家並みを抜けて、緑の鮮やかに萌える森を背景にしていた。

「競走はもう終わりか」と言わんばかりに首をかしげた、ソファのボタンを思わせる愛くるしい顔に、こらえきれず吹きだすと、彼もうれしそうに踵を返し、またも弾けるように走りだした。

「あ、ちょ……ちょっと待って!」

 この一瞬のスキをつかれて――というのは言いわけにもならないのだが――放心している間にゆるんでしまった手首のリードを、持ち手ごと振り切って、子犬は糸の切れた凧になった

 散歩慣れした成犬の場合、たとえ自由になっても慣れたリードの長さ以上には離れず、また分別もあるのだが、生後九ヶ月の遊び盛りに、そんなリミッターは無かった。

 縄を引きずりながらも、うれしそうに吠え、車が進入してこない遊歩道であるのを知ってか、力まかせにいたビリヤード玉のように跳ね飛び、転げ、駆けまわる。

 全速力で追っても、とうてい追いつくものではない。

 小さくとも足が四本あるのだ。

 呼び止めつつも、あっと言う間に遠ざかり、点になった柴犬を見ほれたように眺めたが、感心してばかりもいられなかった。

 千代丸は突如として方向を変えると暴走し、遊歩道と緑地をへだてる垣根を突破して、木立に入った。良子はあわててあとに続き、腰まである垣根を勢いのまま飛び越えると、やはり森に侵入した。

 軽やかに着地した先は、幸い乾燥した地面だった。

 イバラでもあったら、などと躊躇しない、あと先考えない行動力は、彼女の美点でもある。

 目標は初めての解放がよほどうれしいのか、さらに奥へと進んでいったようだ。

「こら、ストップ、じゃない……〈待て〉! 待てってば!」 

 負けじと鼻をつきだすと、猟犬さながらに追跡を始めた。

 森へ一歩踏み入ると、青々とした梢が日光をさえぎって、むせるような夏の大気がやわらぐのを感じる。

 小学生のときにクワガタ目当ての昆虫採集で入って以来、この森をおとずれた記憶はない。

 夏のクヌギは変わらず甘い芳香で虫たちを木肌に這わせ、とげのある葉のあいだからは、目玉のようなドングリの実が見下ろしていた。

 枝からは枯れ残りの花房はなぶさが、色あせて垂れさがっている。

 きゃんきゃんと呼ぶ声が、思いのほか遠くから聞こえて、良子は焦りをにじませた。

 首輪につながったリードひもが、木の根にでも引っかかりそうなものだが、いつまでたっても毛皮のお尻は見えてこない。

 どこまで駆けていったものか、コーヒーに落とした角砂糖のように消えた犬、追いかける良子も、その体が緑の呼吸に溶けこむように、深い森の懐が手招きするままに呑まれていく。

 広大な森林は、現在は緑地として自治体に管理されているが、もともとは鎮守の森として親しまれていた聖地であった。良子たちは住宅地の方角から入ったが、百ヘクタールほどの緑地を抜けた反対側には、なじみの薄い神社があるはずだ。

 もちろんそんなところまで、Tシャツにジャージなどという軽装で抜けていけるわけではないが、

(でも、千代丸はどうだろう?)

 まだ高い陽の下を、夢中で追う。

 逃亡者は、本能にしたがって、痕跡を隠しながら駆けている。

 追跡者は、無自覚にをたどっている。

 木の根を跳び、下生えのシダに気を配りつつ、突出する枝をかわし――良子は知らず、徐々に驚異的な身体能力を発揮して、非常な速度で突き進んでいた。

 普通ならば深度を増していくはずの森は、奇妙なことに、分け入るほどに木立をまばらに減らしていった。濃密だった酸素が薄れ、吹き抜ける涼風からも、それがはっきりとわかる。

 かまわず走り続けると、ついには枝を払いのけずとも、まっすぐ進めるほど見通しの良い地点に出てしまい、当惑して足をとめると、

(こんなひらけた場所……)

 呆然と、切り株の点在する広場を見わたした。

 ゆうに野球場ほどのスペースはある。

 荒れ放題に夏草の生い茂る、陽光をさえぎるものの無い明るい野原なのだが、どうしたわけか空気は重く、鈍色にびいろによどんでいた。

 木々にとぼしい空間は気温が低く、盛夏だというのに、むしろ肌寒さを感じる。

 だだっぴろく空疎なスペースの真ん中に、違和感の視線をとめた良子は、目を見張った。

 そこには、大雑把に言って菱形の大きな岩が埋まっていた。

 油粘土をならしたように平らな岩、その周囲には岩の四つ角を囲むように竹竿が立てられ、竿には縄――神社で見るような注連縄――が渡してある。

 ひっくりかえったような声で無邪気に吠えた千代丸は、大岩の中央に、ちんまり座りこんでいた。

 とっさに走りよった良子の目には、忌避感があった。

 未知なるもの、神聖への畏敬だ。

 抱きかかえて再び注連縄をくぐると、平らな岩をそそくさと降りる。

 くりっとした瞳と瞳が合って、ようやく人心地ついたが、きょとんと見つめ返すばかりで、どうしてこんなところへ駆けてきたのか「自分でもわからない」といった様子なのだ。

「あんたねえ……」

 説教のひとつもたれようとした矢先――。

 ふと暗くなった視界に空をあおぐと、今しも水をふくんだ真綿のように厚い雲が、陽光をさえぎって広がりつつあった。

 気温はさらに冷えこんだようで、クヌギの木がゾワゾワと寒風にゆられている。

「ねえ、なにこれ……。寒くない? 急に」

 子犬は、飼い主の不安を敏感に感じとったのか、巻き尻尾を足の間にいれて、嬰児のように身をちぢめていた。

 その大きな耳がなにごとかを感じてそば立つと、すぐに良子の耳も、異変をとらえた。

 森全体がきしむ、メリメリという不快な音。

 腐った木がへし折れる散発的な破壊音、バキバキと鳴る、こだまする不協和音。

(うしろだ……!)

 良子は、真うしろから巨木が朽ち、倒れて迫るのを感じて、反射的に千代丸をかばって身をかがめると、うずくまった。

 とたんに、ドオン! という地響きが、総身をゆすって通りすぎ、森林一帯に広がっていく。

 残響が、余韻となって遠ざかる。

 ゾワゾワと、風。

 いつも小きざみに震えている子犬だったが、今はそれが恐怖のためであることは明白だった。

 良子もまた、身震いを押さえられないのだ。

「ああ、びっくりした。なんなの一体……」

 つとめて明るく強がるも、胸にわき出た得体の知れない暗雲は、晴れるどころか膨らむばかりだった。

 体のどこにもケガの無いことを確かめると、犬を胸に、ゆっくりと体を起こして。

 二度三度と、見回す。

 何度キョロキョロと見回しても――。

 倒れてきたはずの大木は見あたらない。

 いや、そもそも倒れるような木は、この広場には

 わずかな灌木が点在する程度で、たとえ折れたからといって、脅威になるような樹木も立っていない。

 わからない。

 いっそう――陽が陰った。

「帰ろう……」

 ドクン、と内奥ないおうでなにかが跳ね、かたに身をひねると、

「あ……」

 棒を飲んだように立ちつくす。

 陽光に陰りを感じたのは、雲が出てきたから――そればかりではなかったのだ。

 森にはゴツゴツしたクヌギやコナラといったブナの木、あるいは姿勢良く伸びたエゾマツや白樺が、所狭しと繁茂している。

 そのどれもが、濃緑こみどりの衣でふくらんでいた。

 鬱蒼とした緑の中に――つやめく漆黒の者たち。

 雲間の明かりに照らされて、濡れたような羽がきらめく。

 百や二百ではない。

 数えきれないほどのカラスが、枝々を埋めつくしている。

 彼らの底の見えない黒真珠の瞳は、一様に広場の中央に、招かれざる闖入者たちに注がれていた。

 いったい、いつの間に集まったものか、視界は黒々とざわめく不吉な葬送の光景におおわれていた。

 カラスは、群れで行動する習性を持った動物である。

 犬や馬もそうだが、多くの場合、群れにはリーダー格が存在して集団意思を決定するのだが、動物学においてカラスの生態は、まだそれほど明らかになっていなかった。

 だが、この現状で、彼らの意図だけは、不幸にしてしっかりと感じられる。

 すなわち、異物の排除――。

 白樺の枝から一羽が飛び立つと、あざわらうように旋回し、またたく間に背後からバサバサと羽音が近づいた。

 たくましい鶴嘴つるはしをもった〈ハシブトガラス〉が、フワリと羽をうしろに引き、両足を突きだす着陸の態勢になって。

 想像を絶する激痛が、肩口を貫いた。

 かぎ爪が左肩に突き立ったのだ。

 フラッシュバック。

 良子は幼い頃にかよった保育園の園庭に、ニワトリ小屋があったことを思いだしていた。

 小屋に入ってエサを与える当番が、子供ごころに恐ろしかったこと、舞いあがったオンドリが幼い腕にとまった時の、注射器を束ねて打ちこまれたような痛みを、体が想起していた。

「ん……!」

 うかつに声を発して、苦痛をうったえることはためらわれた。

(こいつは、あたしを試してる……)

 この直感だった。

 だが今度は、カラスはその照準を、胸に抱えた子犬に合わせた。

 値踏みするように首をめぐらせ、黒光りするくちばしの先端を、小刻みに震える毛皮に突き立てんとして反動をつけ――。

 果たせなかった。

 次の瞬間、カラスは下生えのやわらかい地面に這いつくばって、無様ぶざまいた。電光石火、良子の右腕がカラスの太い首をつかむと、力まかせに放り投げたのだ。

 

 動体視力が野生に追いつき、反射神経が打ち勝ったのである。

 良子は素早い。

 速すぎるほどに――。

 安堵したのも束の間、漆黒の群れが羽ばたく、なだれのような絶望が聞こえた。

 斥候の一羽が傷つけられたのを合図に、鋭いくちばしとかぎ爪で武装した軍勢が、八方から殺到してきたのだ。群れなす黒衣の集団が、渦を巻いて襲ってくる、それは恐怖というより美しい幻想の演舞だった。

 およそ現実の光景ではない。

 すぐそこには散歩をしてきた遊歩道があり、その先には車道が、住宅街がある、いくらも森の奥に入っていないはずだ。

 一時間ばかり前に、友だちと別れたばかり――。

 それがどうだろう、今や良子をとりまく世界は、太陽ですら彼女を見放していた。黒い旋風のすき間から、西の空に落ちかかる陽光が茜色にのぞいている。

 そんなはずはない!

 家をでたのは、昼すぎなのだ。

 跳ね上がる鼓動に反して、あっという間にパニックを振りきった心は静かで、不気味なまでの覚悟が胸に沈んでいた。

(帰ってからお昼ごはんを食べるって、お母さんに言ったのに。あたし、帰れるのかな……)

 だしぬけに――。

 森を揺るがして、地鳴りのような笑いが響きわたった。

 太い哄笑は、打ち叩かれた銅鑼どらのようにして、カラスたちを煽動し、あざわらい、鋼のくちばしが、鋭利なかぎ爪が、無数に伸びて、なぶるように襲った。

(この子だけは……!)

 あらがうすべも無く、千代丸を守って地面にうずくまったが、ガードが破られるのは時間の問題だった。

 ヒステリックな女たちが千人で争う修羅場のように、どよめき、わめき立てる鳴き声と高笑いの合唱のなか、鼓動は絶頂を迎えつつあった。

 それは倒木の錯覚や、異常なカラスの群れや、とどろく笑い声などの外的要因ではなく、おのれの内側から突き上げる情動によって引き起こされていることが、かえって彼女のいらだちを誘った。

 血管がドクドクと怒りをあらわし、心臓は大きく脈打つ。

「なんなの! あたしには……!」

 ドクン!

(爆発させるものなんて、ない!)

 どこからか鼻をつく、荒々しい臭い。


 ――起爆寸前。


 木々のはざまに、フワリと。

 林立する縞の影に白く。

 それは立ちあらわれた。

 黒山の大群が、急速に動きを鈍らせている。

 圧倒的な力が、カラスたちを押しかえしていく。

 広場の北側から、風圧のような、

「なに……? 光……!」

 時ならぬ夕闇を裂いて迫る、それは量感を持った輝きだった。

 暴圧する波動、埋め尽くす障壁。

 良子は、押し付けるような光に物質的なプレッシャーを感じて驚嘆したが、どんなに髪をゆらされても、眩しさでほとんどまともに目を開けていられなかった。

 わらわらと黒衣の渦は逆巻き、拡散した。

 慌てふためき、あるいは羽をまき散らして、あるいは互いに衝突し、金色こんじきの光をさけて我先に逃げまどう。

 脅威であったカラスも、こうなるとまさに烏合の衆でしかない。

 輝きはゆっくりと、広場の中心に進入してくる。

 良子は、に開かない目を奪われていた。

 まるでそこが自分の庭であるかのように、住み慣れた家であるかのように。

 落日を反射して、ビロードに乱舞する羽根のなか。

 急ぐでもなく、自然な歩幅。

 白衣しらぎぬに赤い袴の、

(巫女……!)

 それは、ほとばしる神威しんいを総身にたたえた泉だった。

 子犬を抱えたまま、ぬかづくように両ひざを地面につけて、視線は巫女の端正な顔に、神々しい光に引きつけられていた。

 魅入られたと言ってもいい。

 カラスたちが引き潮のように夕空へ舞い、飛び、逃げ去ったあとは、黒い雪のごとき羽毛と、満身に浴びた浅手だけが、悪夢のひとときが現実だと教えるあかしだった。

 恐怖のために浅い、手の中の呼吸。

 呼応する二つの心音が、互いの動揺をやわらげていく。

 良子は顔の傷を気にかけぬほど、悪夢がさめても消えない巫女を、不思議な面持ちで見つめた。

 それほど彼女は凛として、神秘を体現するたたずまいは浮き世ばなれしていた。

 光の巫女は腰まで届く黒髪を、なかほどで結わえている。

 分けた垂れ髪の一条が迷って、照り返すひたいに影を落とし――切れ長にひらかれた深い海のような黒檀こくたんの瞳に、寄り添う主従の姿を映した。

 能面のような細面ほそおもては憂いをふくんで、良子の角度からは、ほほえんで見える。

 オレンジに暮れ染める雲間に、流星が一つ、またたいて消えた。

 ひいらぎ良子と、照峰てるみねあかるの、それが最初の出会いだった。


 のちに死闘を演じる二人であることを、まだ誰も知らない。

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