第五章 あそこで起こった本当のこと
1
さくらは深夜、古びたコンクリート造アパートの階段を駆け上がっていた。
どうしても納得いかなかった。説明してもらわなければ、とても眠ることなんてできそうにない。
家族が寝静まったのを待って、抜けだしてきたのだ。
さくらはあのあと、熊野警部たちに事情を聞かれたあと、家までパトカーで送られた。めちゃくちゃ心配されたが、傷ひとつ追っていなかった姿を見て、家族もようやく安心したようだ。とりあえず、試験をサボってあそこにいたことはばれてない。
正彦は、奈緒子が自分をだましていたことがショックだったらしく、そのことをさくらにつげたあとは、ずっと部屋に閉じこもったままだ。
あす、学校に行くのが憂鬱だった。担任やクラスメイトたちから、根掘り葉掘り聞かれるのは目にみえる。
だけど今問題とすべきは、そんなことじゃない。
事件の真相だ。それだけはどうしても知りたい。いや、知らなくちゃいけない。
さくらは、つばめの部屋の玄関ドアを叩く。行くことはあらかじめ、電話で伝えてあった。
「開いてるわ」
つばめの声にドアを開け、中に入ると、相変わらず、つばめ以外は誰もいなかった。例の雪崩を起こしそうな本の山の隙間にスペースを見つけて、さくらは畳の上に体育館座りする。
「ねえ、つばめ、あんた事件の真相をちゃんと把握してるんでしょう?」
さくらは単刀直入に聞いた。
「うん、もちろん、わかってるわ」
つばめは回転椅子に座ってさくらの方を向くと、おちゃらけずに真面目な顔で答えた。今のつばめは、強がってもムキになってもいない。ハイテンションでもなければ、人を寄せつけない雰囲気を漂わせているわけでもない。そもそも真相にたどり着いたというのに、得意がってすらいなかった。ただ、どこかさびしそうだった。
「教えて!」
さくらはつばめを見据え、強く迫った。
「あんたはどう思うの? さくら。あんただって考えたんでしょう?」
「そりゃ考えたよ、それこそ必死に。だけどわかんないのよ。で、でも……涼子があんなことをするなんて信じられない。なにかとんでもない偶然のせいで、奇跡のようなとんでもないことが起こったはずよ。そうでなきゃ、あんなこと……」
我ながら説得力のない台詞だが、それほど涼子の取った行動は不可解だし、涼子と奈緒子が入れ替わっていたことに関してはまったくのお手上げだ。ゴジラがシンジだったことも理解不能。ましてや涼子が木更津を殺したとはどうしても思えない。やっぱりあれは事故なんだと思う。
「はぁあ」
つばめはさくらの顔を見つめて、ため息をついた。
「さくらはみんなをいい人のままにしておきたいのね。涼子ちゃんも奈緒子ちゃんも自分に悪意を持ってるはずない。仕方なかったんだって思いたいんでしょう?」
ぎくりとした。図星だった。自分でも気づいていなかったが、つばめに指摘されまさにその通りだと思った。
涼子や奈緒子ちゃんが自分に悪意を持って裏切ったとは思いたくなかった。そんなことには耐えられそうになかった。だけど……そうなの?
「どんな偶然が積み重なったって、あんなこと起きるはずがないじゃない。現実はもっとシビアなの。世の中いい人ばかりじゃないのよ。さくら、あんたほんとにこの事件の真相を聞く覚悟があるの? 聞かなかった方がよかったと思うかもよ」
つばめが真剣な目で見つめた。つばめがはじめてみせる表情だ。
「それでも聞きたいの」
たしかに聞くのが怖い気はした。それでもこのままずっと知らないでいるのは、耐え切れそうにない。
さくらの本気が伝わったのか、つばめはすこしの間のあと、ぽつりと語りはじめた。
「この事件、たしかに偶然に左右された要素もあったけど、もともとはきわめて計画的な事件なのよ」
「りょ、涼子が計画的に木更津さんを殺したっていうの? あたしたちを利用して」
「そうじゃないわ。涼子ちゃんも被害者なのよ」
「え?」
わからなかった。つばめがなにをいおうとしているのか、まるでわからなかった。
「まだわからないの? この事件を計画した黒幕、そして木更津を殺した実行犯は奈緒子ちゃんだわ」
「えええええ?」
さくらは完全に意表を突かれた。そんなこと一度たりとも考えなかったからだ。
「だ、だって、事件を計画したのが誰かっていうのはともかく、奈緒子ちゃんが木更津殺しの犯人のわけないじゃない。銀行の中にいなかったのよ」
そうだ。そんな馬鹿げたことがあるわけがない。
「木更津殺しの方はとりあえず置いておいて、まずこの事件の背景を説明してあげるわ。そもそもこの事件はいったいどういう性質のものなのか、わかる?」
事件の背景? いったいつばめはなにがいいたいんだ?
「いい? 事件は、涼子ちゃんが誰かの鞄を取り違えて、その中に三千万が入っていたことからはじまったでしょ。そしてその金がシンジと共に消えて、男が押し入ってきて奈緒子ちゃんを誘拐し、一週間以内に返却しろと要求する? これがすべて偶然だっていうの? そんなわけないじゃない。誰かが計画的に演出したに決まってるわ」
「どういうこと?」
「考えられる可能性はふたつしかないわ。ひとつは涼子ちゃんが嘘をついてさくらをだました。ふたつ、涼子ちゃん自身も誰かにはめられた。はっきりした証拠はないけど、……結果を考えば答えは明確だわ。涼子ちゃんと強盗犯のふたり、シンジと後藤田とかいうやつは撃たれた上に捕まった。奈緒子ちゃんだけが大金を手に入れて自由の身。つまり奈緒子ちゃんこそが黒幕で、涼子ちゃんやシンジは使い捨ての駒にされたのよ」
目から鱗が落ちたようだった。私情を捨て、客観的に見ればそう考えるのが普通だ。
「で、でも、あの奈緒子ちゃんがなんでそんなことを?」
「理由はわからないけど、奈緒子ちゃんは涼子ちゃんを憎んでいるとしか思えないわ。そのへんの理由は、あたしよりさくらのほうがわかるんじゃないの?」
奈緒子ちゃんが涼子を憎む理由? そんなものわかるはずがなかった。少なくともさくらの目には、ふたりは仲の良い姉妹にしか見えなかった。
「つまり……どういうことなの?」
「だって奈緒子ちゃんの目的はお金のためっていうより、涼子ちゃんを困らせるために見えるわ」
いわれてみれば、そんな気もする。
理由はわからないけど、たしかに憎しみが感じられる。
「だから警察が包囲してる中、銀行に突っ込ませたっていうの?」
「そう。強盗計画を潰して、さらに木更津殺しの濡れ衣を着せる。涼子ちゃんを破滅に追いやるつもりだったんじゃないかな。まあ、ただの想像だけど」
でも良く考えたらおかしい。涼子は脅されて強盗に協力したにしろ、コングは? コングこそが奈緒子ちゃんと組んだ黒幕じゃないのか?
「だけどどうしてコングもいっしょに突っ込んだの? コングは奈緒子ちゃんの相棒じゃないの?」
「コングもシンジ同様、ただの使い捨ての駒だわ」
「じゃあ、ぜんぶ奈緒子ちゃんひとりの計画なの?」
「奈緒子ちゃんの相棒はべつにいるわ。コングたちは奈緒子ちゃんの相棒に返せない借金があるか、弱みを握られた捨て駒に過ぎないのよ。ニュースで闇金に借金があったっていっていたから、そいつはその闇金と関係があったんだと思うわ。とにかく命令に逆らうことのできないコングは涼子ちゃんといっしょに、捨て打ちされたわけね」
「そ、そうなの?」
「シンジは最初からスパイとして送り込まれたんだと思うわ。強盗計画の細かい内容を奈緒子ちゃんに教えたのは、たぶんシンジね。涼子ちゃんは、あたしたちにはいってなかったけど、おそらくシンジと連絡を取ってたんだわ。そして金を返してほしくて、強盗まで計画してることまで話したんじゃないのかな」
涼子が彼氏と思い込んでいた男はスパイだった? ちなみにコングは捨て駒?
「じゃ、じゃあ、奈緒子ちゃんといっしょにこの計画の絵を描いたのは?」
「もちろん木更津だわ」
「え。……ええええええ? 木更津って、あの殺された?」
あまりに意外だった。そんなこと考えもしなかった。
「なんでそんなに驚くのよ? あいつが悪党だってことは銀行員の証言でわかってたでしょ?」
「じゃあ、涼子のマンションに行って、奈緒子ちゃんを誘拐したっていった男は」
「もちろん木更津よ」
「だけど木更津の目的はなに? たんに奈緒子ちゃんに協力しただけ?」
「木更津の目的は単純に金よ。たぶん木更津は必要に迫られて、どうにかして銀行の金庫から三千万盗み取ったのよ。それをなんとしても、見つかる前にごまかしたかったんだわ。そこに奈緒子ちゃんが狂言誘拐を持ちかけてきた。涼子ちゃんに親の遺産から三千万出させて、こっそり補填させようと思ったんでしょうね。ところがその結果とんでもないことになってきたわけ。よりによって涼子ちゃんは自分のいる銀行から三千万を奪う気らしい。その情報を事前に手に入れた木更津はべつのことを企んだのよ。つまり……」
「つまり?」
「あたしたちが強盗して三千万を奪うと、煙幕が掛かっている間に、さくらにいったん渡した金を取り戻して金庫に戻す。そうすればその三千万は強盗が盗んだことになるでしょ。あたしたちは金を横取りされても煙とともに逃げるしかない。逃げれる時間は限られているんだから」
「じゃ、じゃあ、コングたちを突っ込ませたのは……?」
「あたしたちから金を横取りする隙を作るのに、そうした方がいいって思ったんでしょうね」
いわれてみると、涼子たちが突入しなければ、おそらくあたしたちは、さっさと逃走していただろう。もし、木更津があの煙幕のパニックの間に、あたしたちから金を奪い返そうとすれば、なにかで足止めする必要がある。それが二組目の強盗の突入だったのか?
さくらはそう納得するしかなかった。
なんの証拠もない、つばめの想像に過ぎないのだけど、説得力があった。
「そうとでも考えないと、木更津があたしたちの計画をわざわざ邪魔するはずがないわ。それにテレビでいってたでしょ? 銀行では奪われたのとはべつに、三千万が紛失してたって。それがなによりの証拠だわ」
そうだ。たしかにそんなことをいっていた。関係ないと思って忘れていた。
「じゃあ、涼子の鞄と取り違えた三千万は?」
「きっと上の方だけ本物だったんじゃないの? もちろん、涼子ちゃんが外出中に持ち出したのは奈緒子ちゃんよ」
そ、そうだったのか?
「ここまではいい? ここまでが事件の背景だわ。これがわかっていないと、あのときいったいなにが起こったのかまるで理解できないわ」
そうだ。まだあのときいったいなにが起こったのかの説明を聞いていない。かんじんの密室殺人はどうして起こったんだ?
「ではあのときいったいなにが起こったのか?」
そういうと、つばめのめがねがきらーんと光った。
2
「あの日、あたしたちは銀行の近くのマンガ喫茶『サボール』で最終作戦会議を開いていた。そしてまず涼子ちゃんが煙幕発生装置を仕掛けに行くといって、外に出たわ。ところが涼子ちゃんは、まっすぐ銀行に寄らずにある人物に会った」
「ど、どういうことよ?」
「あたしたちの知らないところで、木更津から連絡を受けていたのよ。奈緒子ちゃんが人質になっているから、涼子ちゃんは逆らえなかったし、あたしたちにいうこともできなかったの。悩んだ末に、木更津の指示に黙って従うことにしたんだと思うわ」
「そ、それで、その指示っていうのは? 涼子はいったい誰と会ったのよ?」
「なにかで顔を隠した革ジャン姿の奈緒子ちゃんよ。奈緒子ちゃんとどこで会ったかまではわからないけど、銀行近くの人目につかないところね。木更津の指示は、この女と服を交換して煙幕発生装置を取りつける作業をこの女にやらせること。さらにスマホをこの女に渡すこと。たぶん木更津の指示で、一言も女に質問をするなと要求されたのね。もちろん奈緒子ちゃんは一切しゃべらない。だから涼子ちゃんも相手が奈緒子ちゃんだとはわからなかった。このとき、ガメラのマスクと拳銃を奈緒子ちゃんから渡される。さらに木更津からはこのあと、『十二時二十分ジャストにマスクを被って地下鉄の銀行前入り口に行け』という指示を受けていたのよ。涼子ちゃんはわけがわからなかっただろうけど、従うしかなかった」
「え、え、ちょっと飛ばしすぎ」
さくらは頭がパニックになった頭で必死に整理した。
つまり簡単にいうと、木更津に脅迫されて、涼子は相手が奈緒子ちゃんとはわからずに入れ替わることを強要されたってことだ。そして自分は銀行に行くかわりに、マスクと拳銃持って地下鉄出口に行かされる。
つばめは話を続ける。
「そこにはマスクをしたコングとシンジがすでに待機していた。だからゴジラがシンジだったことにも気づかない。逆にシンジもガメラが涼子ちゃんだとは気づかない。涼子ちゃんはなにもいわずに、コングの命令に従うことだけを木更津に強要されていた。もちろん、この時点で銀行を襲うことは知らされてないわ」
「ええ? それは変じゃないの? つまり、コングは直前に誰ともわからないやつを仲間にしたってこと? いくらなんでもそんな馬鹿な……」
「木更津はたぶん、コングにはこんなことをいっておいたのよ。『俺の仲間を見張り役でチームにつける。だが下手にそいつの正体を探られたりしたら困るから、直前に合流させる』とかなんとかね。コングは不満もあっただろうけど、従うしかなかったんだわ」
なんか変だ。もっともらしいけど、……なんか変だ。
さくらは必死で考える。そして穴を見つけた。シンジの心理だ。
「でも、シンジはあたしたちがあの銀行を襲うことを涼子から聞いていて知ってたんでしょう? そこに自分たちが突っ込むことに対してなんの疑問も抱かなかったわけ?」
そんなことになれば、二組の強盗がバッティングすることは馬鹿でもわかる。涼子は直前まで知らされてなくて、知ったときにはどうしようもない状態だったのかもしれないけど、シンジはあらかじめ知っていたのに、文句もいわずに従ったことになる。そんなことがあるわけない。
「たぶん、木更津はシンジにはこんなふうにいってたんでしょうね。『涼子たちの作戦は中止になった。あいつは逃げた。だからおまえがかわりにやるんだ』ってね」
「そうなの? で、でも、やっぱり信じられないよ、そんなこと」
「銀行でのことを思い出してよ。コングはガメラが殺人犯だっていうあたしのでたらめの推理に乗ったわ。それこそ、彼らが直前まではいっしょでなかったなによりの証拠よ。お互い顔見知りで、銀行に入るしばらく前からいっしょだったら、あんな推理を信じるわけないでしょ?」
いわれてみればそうだった。あのコングの行動こそ、その推理を確実に裏付ける。
「だ、だけど、そもそもコングとシンジの計画はどうだったの? なにも考えずに、ひたすら突っ込んで、拳銃で脅して金を奪って逃げる気だったの?」
「コングたちはきっと木更津からこう聞かされていたのよ。『仲間が銀行内に煙幕を仕掛けておく。金を奪ったら、煙幕が発生するようにしておくから、それに乗じて地下鉄から逃げろ』と。使い捨てにする駒にも希望を与えておかないと動かないからね」
それが突っ込んだときにはすでに煙りまみれだったのだから、さぞかし焦ったことだろう。話が違うと。
「そしてコングは木更津のスマホから合図を受けて銀行に突撃。涼子ちゃんはわけもわからず、あとに続く。入るところが銀行だってわかっても、もうどうしようもない。逃げれば奈緒子ちゃんを殺すって脅されてたんでしょう」
かなり複雑な状況だが、さくらの頭でもなんとか理解できた。
「そこまではいいわね?」
「うん」
「一方、奈緒子ちゃんはどうしたか? あらかじめ、煙幕装置を仕掛けたあと、トイレに行って木更津と合流する計画だったんだわ。たぶん、最終的な確認をするためにね。そしてそれを実行した」
それは監視カメラが証明している。まず奈緒子……あの時点では、さくらは涼子だと信じ切っていたけど……、その次に木更津がトイレに入る映像が残っていた。
「え、え、ちょっと待ってよ。それじゃあ、奈緒子ちゃんは木更津と合流するやいやな、木更津を殺したってこと?」
信じがたかった。あの奈緒子ちゃんが人を殺すなんて。しかしつばめは非情にいう。
「そういうことになるわ」
「でも変だよ。それじゃあ、密室の謎が解けない。っていうか、密室にする意味がない。むしろ……密室にしたらいけないんじゃないの?」
「そう、さくらのいう通り。奈緒子ちゃんは木更津を殺して、その罪をコングや涼子ちゃんに着せたかったんだわ。煙幕で視界が奪われたどさくさに殺したことにしてね。だから密室にするつもりなんかなかった。これっぽっちもね」
「じゃあ、どうして?」
「まあ、悪いことはできないってことなんでしょうね。奈緒子ちゃんは、ただ殺しただけ。たぶん不意をうって喉を潰し、肩を外した。ズボンはたんに暴れた拍子にずり落ちたんだと思うわ。そしてそのまま便器で溺れさす。そのあと、たぶん外に出ようとしたときに、木更津の足がドアにつかえて開かなかったのよ。あのドアは内開きだったから。しょうがないから、その足を引っ張りあげてむりやりドアを開け、外に出た。ドアを閉めたとき、木更津の足が偶然つっかえぼうのような役割を果たしたんだと思うわ。だから開かなかったのよ。シンジは中を開けようとしたとき、勝手に鍵が掛かっていると勘違いして鍵を拳銃で撃った。そのあと、思い切り押したら開いたんで、てっきり鍵を壊したから開くようになったと思いこんだのよ。まあ、思いこみによる勘違いね」
「で、でも、川口さんがノックをしたときの返事は?」
奈緒子がトイレから出たあとに、川口がトイレに入っていることをビデオカメラが証明している。そしてそのときの証言が、「ノックをしたら、ノックが返ってきた」ということだ。つばめの推理どおり、奈緒子が殺したんだとすると、いったい誰がノックをしたっていうんだ?
「やっぱりゴジラ、いえシンジが共犯者で、ノック音を録音したボイスレコーダーを……」
「違うと思うわ。そんなことする必要なんかないし」
いわれてみればそうだ。意味がない。むしろそんなことはしちゃいけない。
「じつはそれに関しては、あたしも明確な答えを持ってないの」
「え?」
「あくまで仮説だけど、ひょっとしてそのとき木更津は、まだかすかに息があったんじゃないのかな? 両腕が使えなかったから自力で起き上がることはできなかったけど、生きていた。そんな状況でドアをノックする音が聞こえたから、木更津は助けを求めようと、最後の力を振り絞って足でドアを蹴った。でもそれは川口さんにはノックの返事にしか聞こえなかった。どう?」
どうって、そんなことあり得るんかい?
「あるいはもう意識がなかったけど、足が痙攣してドアを蹴ったのかも」
それがたまたま川口さんがノックしたあとだっていうのか?
「そうでないなら、川口さんが嘘をついたのかもね。あのとき川口さんは疑いを晴らすのに必死でパニックになっていた。だから口から出任せをいったって可能性はあるわ。あの証言が自分をさらに不利にするなんて思いもしなかったんじゃない?」
それも強引だ。
「そうでなきゃ幻聴。なにかの音を勘違いした。あるいはただの思い違いよ」
そんなのありかい?
「どれがお好み?」
どれがってあんた? やっぱり最初のやつかぁ?
「とにかくなんのトリックも使われていないのはたしかよ。そんな余裕はなかったし、それ以上に理由がない」
今まで飛び交ったダミー推理の方がよっぽどほんとらしいと思った。
「じゃあ、そのことはまあいいとして、……根本的な疑問なんだけど、奈緒子ちゃんはどうして木更津を殺したのよ?」
さくらはある意味、もっとも納得できないことを聞いた。
「さあ? 木更津を利用したはいいけど、負担になってきたのかもね。木更津はとんでもない悪党のようだし、なにか仲間割れがあったのかもしれないわ。あるいは、たんなる口封じ?」
さくらには、あの奈緒子がそんな理由であんなむごいことをするとはどうしても信じられない。肩を外したりする技は、子供のころから涼子と技を掛け合っていた奈緒子ならできるだろう。しかしそれを使って人を殺す奈緒子は想像できなかった。
「納得いかないようね。だけど、殺人の動機なんて、第三者がいくらもっともらしい理由をつけようと意味はないわ。けっきょくのところ、本人にしかわからないんだもの」
そうかもしれない。というか、じっさいの事件では、本人にすら動機がわからないということさえめずらしくないのだから。
「とにかく奈緒子ちゃんは木更津を殺したあと、あたしたちに準備完了の合図を涼子ちゃんのスマホで送って、あたしたちが中に入ると同時に外に出る。さくら、そのとき彼女の顔をはっきりと見た?」
「いや、見てないよ。ほんの一瞬、確認しただけ」
あのとき、服装と髪形で勝手に涼子だと思い込んでいた。もともと同じような体つきと髪形で、顔立ちだって似ている。ちらって見ただけでは錯覚するかもしれない。おまけに眼鏡で変装していたからなおさらだ。そしてなにより、疑われないように互いに顔を見ないようにするというのが事前の打ち合わせだったはずだ。
「あたしも見てないわ」
つばめはそういって、さらに続ける。
「奈緒子ちゃんは外に出ると、外から中を覗いて、絶妙のタイミングでコングに指令を出した。たぶん木更津のスマホを奪って、それでメールを送ったのよ」
そしてコングはわけもわからない涼子を引き連れ、銀行に突入したわけか?
「ところがコングにしてみれば、逃げるときに発生するはずの煙幕が、入った直後に発生した。しかもすでに警察に囲まれている。おまけに殺人事件。しかもその被害者がなんと、自分たちに強盗を教唆した闇金の男。コングはようやく自分が嵌められたことに気づいたんだわ。何者か知らないが、木更津を殺した犯人は自分たちに罪を着せようと、計画されつくした罠を張った。このままでは間違いなく、自分が殺人犯にされてしまう。警察に包囲された以上、逃げること半分はあきらめたのかもしれない。だけど嵌められて殺人犯になるのだけはごめんだと思ったのね。だから必死で犯人を捜そうとしたのよ。まあ、半分は自分を嵌めた黒幕に対して意地になっていたのかも」
まさか、自分たちを裏で操っていた男が、襲う銀行の行員をしていたなんて思いも寄らなかっただろう。
それにしても死んでいたのが木更津だったとき、コングは相当驚いたはずだが、それをおくびにすら出さなかったのはそうとうな演技力だ。あの時点でははめられてとわかっていたから、極力怪しまれることは避けたかったんだろうけど、ある意味すごい男だ。
「まあ、そう考えれば、あの煙幕の起きる前に、べつの銀行強盗がいたって知った時点で、コングがそいつこそが犯人だと思ったのも無理はないわ」
そういえば、コングはあのとき、必死にもうひとりの強盗、つまりさくらを犯人呼ばわりしていた。
「涼子ちゃんはさらに悲惨だわ。間違ってもあたしたちに自分の正体を知られたくなかった。だから一言も喋らず、犯人捜しに加わらなかった。きっと死ぬほど動揺していたはずだけど、それを隠そうとして一切の感情表現を無理矢理押し殺したのよ。そう考えると、あたしが涼子ちゃんを犯人扱いしたのはかわいそうだったわね。きっと死ぬほどびっくりしたはずよ」
「つばめ、あんたあのとき、ガメラが涼子だってわかってたの?」
「わかるわけないでしょ、あの段階で。あたしは天才探偵ではあっても超能力者じゃないんだから。あくまでさくらにブラインドを開けさせるため、隙を作りたかっただけ」
たしかにその通りだ。あの段階でわかるわけがない。
「だけど奈緒子ちゃんは、どうして正彦から電話がかかってきたとき、涼子のふりをしたんだろう? さっさと逃げた方がいいと思うんだけど……」
「もう少し現場を見ていたかったんだと思うわ。正彦くんに正体がばれれば逃げなきゃならなくなるから」
「現場を見ていたい? そばに警官がいるってのに、逃げずになにを見たかったわけ?」
「想像だけどやっぱり涼子ちゃんを憎んでたんじゃないの? だから涼子ちゃんが困ったところを見て楽しんでたんじゃない? あたしが掛けたスマホを警部に渡して突入に協力したのもそう。とことん困らせたかったんだと思うわ」
それがわからない。あのふたりは自分の知る限り、とても仲のいい姉妹だった。それがどうして?
「あのふたりには……いったいなにがあったの?」
「それだけはあたしにもさっぱりわからないわ。あたしも興味があるけどね。ただあのふたりの両親って亡くなってて、今は保険金で暮らしてるんでしょう? 両親はなんで死んだの? 事故? そのへんになにかキーがあるんじゃないの?」
「あまり、人にほいほいいうことじゃないけど、一年前に、強盗に押し入られて殺されたらしいよ。涼子もあまりいいたくなかったみたいで、くわしいことはあたしも知らないんだけど」
「ふ~ん? じゃあ、ここで推測しても無意味ね。でもまちがいなく、その事件に絡んでると思うけど」
たぶん、そうなんだろう。さくらの目にはふたりとも立ち直ったように見えていたけど、それは外っつらだけを眺めていたに過ぎないのかも。ふたりの心の奥底まではわからない。たとえどんなに目を懲らそうとも。
そして涼子も、ほんとうに大事なことは、あたしに打ち明けてくれなかったのかもしれない。いや、……きっと、誰にもいえなかったんだ。
「他に聞きたいことは?」
思いつかなかった。涼子と奈緒子の心の中身以外は、すべて納得いった気がする。
物的証拠なんてなにひとつない、つばめの頭の中で組み立てられた推理に過ぎないけど、それが真実なような気がした。
「ま、元気出しなよ、さくら。あたしでよかったら、これからもいろいろ相談に乗ってあげるからさ」
つばめがぱしーんと頭を叩いた。
「う、……うぐっ、えぐっ……。う、ちがう。ちがうよ、泣いてなんか、……えぐっ」
不覚にも泣けてきた。涙があふれて止まらない。
な、なんで。つばめなんかの前で泣きたくなんてないのに……。
「しょうがないわね」
つばめは机の引き出しを開けると、なにやら取りだした。
「もう、泊まっていきなよ、さくら。徹夜でDVDでもいっしょに見よう。元気が出そうなやつをさ」
そういいながら、パソコンにDVDを突っ込んだ。
「なによ、それ? ……映画?」
「まあ、映画っていえば映画だけど、インディーズレーベルのアニメ。タイトルは『名探偵と少年助手 ~怪盗薔薇仮面の陰謀~』よ」
な、なんじゃ、その怪しげなタイトルはぁあああ!
「それってまさか?」
「気にしない、気にしない。ほうら、はじまった。見るのよ。そうすればいやなことなんか忘れちゃうからさ」
ほんとか。ほんとに信じていいの?
画面では、怪しげな音楽とともに、いきなり美青年と美少年が見つめ合った。
かんべんしてくれぇええええ!
3
いったいどうしてこんなことになったんだろう?
奈緒子は考えていた。
しばらくは姿を隠すつもりだ。警察は目をつけてないだろうけど、正彦やさくらにもう顔を合わすわけにはいかない。自分が涼子のふりをしていたことの説明のしようがないからだ。
とにかくどこか遠いところに行きたかった。先のことはよくわからないけど、ここから逃げ出すことしか考えられなかった。だから成田に来た。
それだけのお金は充分にある。後藤田たちが突入したとき、つばめがとっさに窓から捨てた三千万が今手元にある。
奈緒子はチェックインカウンターで飛行機の搭乗手続きをすると、カートを引き摺り、出発ゲートに向かう。
どこにでもある幸せな家庭だった。一年前のあの事件が起こるまでは。
奈緒子は回想する。
一年前の夏休み、家族旅行に出かけ、湖畔のロッジに泊まった。
真夜中に覆面をした二人組の男が侵入してきた。狙いはお金の他、あたしとお姉ちゃんの体。ひとりの男がみんなに銃を突きつけて脅し、残りのひとりがあたしを襲った。
みんなの前であたしを襲う男。それを見守る家族たち。
男に襲われたときどうするか? 対抗する技は知っていた。子供のころからお姉ちゃんと古柔術を習っていたから。だけどなにもできなかった。……怖くて。体が石のように動かなかった。
だけどお姉ちゃんは違った。隙を見て、あたしを助けようとした。拳銃を向けられているのに。
でもその結果は最悪だった。凶弾がお父さんとお母さんに当たった。そしてふたりは死んだ。結局ふたりの強盗は逃げ失せ、あたしは体と魂を汚された。
そう、あたしの魂は、そのときからどうしようもないほど、汚れてしまった。それは体を汚されることなんかよりも数倍深刻なことだった。
自暴自棄になった。だから木更津のような男に引っかかった。
外見上は極力変わってないふりをした。学校でも、家でも。ちょっと内気だけど、それなりに明るくて優しい中学生。だけどそれは仮面にすぎない。じっさいの心はすさむ一方だった。
誰を憎めばいいんだろう? なにを憎めばいいの?
誰か知らない犯人を憎む? 顔すらわからない男を?
無理だ。目標のない憎悪は長続きしない。的がなければ狙いを定められない。
あたしはお姉ちゃんを憎んだ。
そうするしかなかった?
出しゃばったために、両親が殺されたことに対して?
違う、そんなことじゃない。あのとき、自分が相手を倒していれば結果は違ったかもしれない。それができなかったから、お姉ちゃんがああするしかなかったんだ。
なにもできなかった自分に対し、命を賭けて行動できたお姉ちゃん。
あたしが境遇に甘え、見た目だけごまかしつつも、どんどん自堕落になっていくのに対して、水商売に手を染めながらも保険金に頼らず懸命に生きようとするお姉ちゃん。
なんなのよ、この差は?
自分が惨めだった。
誰もがお姉ちゃんのように強くなれるのだろうか? あたしだけが弱いのだろうか?
そんなことは認めたくない。これ以上、自分をおとしめたくない。
お姉ちゃんだって、ほんとうは弱いはずだ。もっともっと窮地に陥れば、弱さをさらけ出して、自己嫌悪して、堕落して行くに違いない。
試してみたかった。お姉ちゃんを汚したかった。困らせたかった。
無理矢理犯罪に荷担させられて、逮捕されたらどうなるんだろう?
それでも、今のように毅然としていられるの?
その答えを知りたかった。お姉ちゃんもしょせんあたしと同じだと、安心したかった。
だから木更津を利用してこんなことを企んだ。
だけどいったん木更津がからむと、計画はどんどんエスカレートしていった。木更津は狂言誘拐の前に、スパイ役のシンジがお姉ちゃんとくっつくようにセッティングした。そしてお姉ちゃんたちが自分の銀行を襲う計画を立てていることを知ると、狂喜してそれを利用する計画を立てた。あたしはそれを知ると、自分がますます堕落し、悪党の片割れになっていくのを自覚した。
惨めだった。許せなかった。だからこそ、なおさら、お姉ちゃんも自分のレベルまで堕とそうと思った。
そしてお姉ちゃんを憎む一方で、木更津に対しても激しい憎悪を覚えた。
こいつはなに? 悪党、それも筋金入りの。
こいつと、あたしを襲ったやつらにいったいなんの違いがあるの?
同じだ。自分の欲望のために、他人を踏みにじることになんの躊躇もないクズ。
計画が煮詰まっていくにつれて、その思いがふくらんでいく。
どんどんどんどん、まるで風船に悪意を詰め込んでいくように。
はち切れそうになった憎悪は、計画実行の当日、爆発した。
こいつはあいつらと同じだ。金のために平気で人の心を傷つける。
あいつらと同じ。木更津とあいつらは同じ。同じ。同じ……。
当日、トイレで会うと、あたしを抱こうとしてズボンを下ろした。欲情してたまらないといって。
まさにケダモノだった。あのときのあいつらと同じ。その思いは頂点に達した。
あいつらと同じ? いや、……そうじゃない。そうだけど、そうじゃない。つまり、そのものだ。
あいつは姿を変えてあたしにつきまとう。こいつはあいつだ。
一見馬鹿げた考えだけど、あたしは確信した。あいつは形を変えて一生つきまとう。葬り去らない限り。
もう二度と同じ過ちは犯さない。
喉を思い切り突いてやった。あのときもこうすれば良かった。
声が出ないのをいいことに、肩を外してやった。あのときもそうすれば良かった。
もう片っ方の肩を外すときは、ぞくぞくと喜びすら感じた。
もう止まらなかった。そのまま顔を便器に突っ込んで足で押さえつけた。
一年前も、……一年前もこうしてやれば良かったんだ。
おまえのせいで家族は崩壊した。おまえのせいであたしの魂は汚れた。おまえのせいで、おまえのせいで……。
気がつくと、木更津はぴくりとも動かなくなっていた。
出ようとしたら、あいつの足が当たってドアが開かなかった。
邪魔よ。
あたしはあいつの足を引っ張りあげると、ドアを無理矢理開いて、外に出た。
どうしてそれが密室殺人になったのか自分でもわからない。
銀行から出るときに、さくらさんたちとすれ違ったけど、顔を見られないようにそらした。あたしはもともとお姉ちゃんに似てるし、変装もしてる。たぶん気づかれなかったはずだ。
予定外のことをしたけど、後悔は微塵もしなかった。むしろ木更津を殺したことで魂が解放された気分だった。こんないい気持ちはまさに一年ぶりだった。
そしてそのときは、自分のやったことがなにを意味するのかよくわかっていなかった。
つまり、木更津殺しをお姉ちゃんたちに押しつける格好になることを。
姉を落とし入れ、自分の男を殺し、三千万を奪い取る。
そういう結果になったことがさらに自分を卑しめる。
あたしは金の亡者だ。
金のために、人を操り、裏切り、……殺す女。
一年前には想像すらつかなかった汚れた自分がここにいる。
そう思いながらも死ぬことすらできず、汚れた金を持って生き延びることを考えている最低の女。あまりにもひどすぎて、自虐的に笑いたくすらなる。
そんなことを思っているうちに、奈緒子は出発ゲートに辿り着いた。
見覚えのある顔があった。
「警部?」
きょうはジーンズにポロシャツ姿ではなく、くたびれたグレイのスーツ姿だった。しかしその大柄な体、短い髪に熊のような髭面。それはまちがいなく銀行の外で指揮をとっていた警部だった。
「やあ、涼子ちゃん……じゃなくて奈緒子ちゃん」
警部は笑っている。
「どうして?」
「どうして? 正規のパスポートを使って、本名でチケットを予約しただろう?」
でもどうして、あたしが犯人だって?
「不思議そうだな。不思議でもなんでもない。飛原涼子の身内を調べたら、妹の君が一週間前から学校を休んでいる。すぐにぴんと来たよ。あのとき、銀行の前で俺がしゃべっていた少女は君だって。そこまでわかれば十分だろう」
「でも、それだけじゃあ、あたしが犯人だって……」
「じゃあ、一から俺の推理を話して聞かせようか」
奈緒子は無言で首をふった。
「警部さんって、見た目より優秀だったんですね」
「見損なうなよ、それくらい素人だってわかるぞ」
警部はプライドを傷つけられたのか、少しむっとしていた。
その態度がおかしかった。少し笑った。何ヶ月も笑ってなかったような気がする。
それにしても、事件のあと、頭がまともに働いていなかったらしい。そんなかんたんなことにさえ気づかないとは。いや、ひょっとしたら無意識のうちに捕まることを望んでさえいたのかもしれない。だから警察がどう動くかを考えることをやめてしまったんじゃないだろうか?
「ひょっとしてあたし、包囲されてるんですか?」
「いいや、俺ひとりだ。まさか、逃げるつもりか?」
警部の口調がきつくなる。
「いいえ、汚れるのにももう疲れました」
本音を吐いた。誰でもいいから助けて欲しかった。
これ以上汚れるのも、誰かを憎むのももうたくさんだ。
「お姉ちゃんにごめんなさいって伝えてください」
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