第二章 アクシデントが多すぎる、銀行強盗も多すぎる
1
担当していた殺人事件が解決し、久しぶりの非番。嬉しくないはずがない。外装のモルタルがひび割れた木造古アパートの前にある駐車スペースで、古いアイドル歌謡曲を歌いながら、愛車の真っ赤なポルシェを洗っている。
ときどき通りすがりの人が変な目で見るが気にしない。やはりこの安アパートにポルシェのオーナーがいるのは納得がいかないらしいし、楽しげ車を洗っているのが、ジャージ姿をしたプロレスラーのようにごつい男というのも奇妙に見えるらしい。顎鬚を生やした熊のような顔に子供のような笑みを浮かべるのが不気味だともいわれる。
だが、そんなことは知ったことかあああああ!
熊野にとって、休みの日に愛車を洗うのはなにより楽しい。殺人だの、強盗だのといった事件ばかり捜査する捜査一課にいると、人間関係にわずらわされるより、汚れのついたポルシェを洗って、ぴかぴかに仕上げることがみょうに嬉しいのだ。
もちろん、熊野はこの車を手に入れるのにそれなりの犠牲を払っている。四十になった今も独身だし、定員オーバーで警察の寮を追い出されても、安アパート暮らしをしているのはそのせいだ。十数年かかって溜めた貯金を頭金にし、四十八回ローンを組んで、ようやく買った愛しいポルシェだ。子供のころのスーパーカーブームのときから憧れていたポルシェ。そう思うと、ますます愛しくなる。
「なに熊野さん、嬉しそうね。きょうは休みなの?」
隣に住んでいる女子大生の
「おお、そうなんだ。いい天気だし、きょうも一日いい日になりそうだ」
熊野はますます気分が良くなった。大学に入ったばかりでまだ子供っぽさが抜けない香は熊野のお気に入りだった。高校生のようなポニーテールが童顔に似合っている。一方でジーンズにタンクトップのその姿は、大人の女の色香も放ちつつある。
「ねえねえ、いつ見てもかっこいいね、そのポルシェ」
香は子供のような目をぱっちりと見開きながらいった。
「そうか、そうか、ぐわっはっは。もしよかったらきょう午後から乗せてあげるよ」
「え~、ほんと、じゃあ、午後には戻る」
香は可愛らしい顔を輝かせた。
「まかせなさい。まかせなさい」
気が大きくなる。若い娘を横に侍らせ、ポルシェでドライブ。まさに熊野の夢がかないつつある。
出かけていく香の後ろ姿を見ながら、熊野は幸せにひたった。
やれるかもしれない。
ついそんな下品な思いが頭をかすめてしまう。
いやいや、だめだ、だめだ。この俺が十代の女の子に手を出したらしゃれにならん。その一線だけは越えるわけにはいかん。
熊野は頭をぶるぶると振るう。
この前のことを思い出してしまう。女子高生の色香に溺れてしまったという一生に一度の大不覚のことを。
一ヶ月ほど前、やはり非番の日に、ポルシェ乗りたいという金髪ミニスカートの女子高生を乗せてドライブしてしまった。もっともそれ以上の下心があったわけじゃない。その程度の自制心はある。
にも関わらず、その女は降りたあとこともあろうにこういった。
「デートしたこと警察署にばらされたくなかったら、お小遣いちょうだい」
完全な脅しだ。よりによって殺人犯と日夜戦っている警部を脅すとはとんでもないアマだ。
だが熊野は情けなくも払ってしまった。さすがに上にばれるとまずすぎる。
だがこの事件は熊野にとって許しがたいことだった。
俺の女子高生のイメージをぶち壊しやがって。
熊野にとって女子高生とはあくまでも可憐で大人になりかけの美少女であって、大人を恐喝する存在ではない。かつてのアイドル歌手のような女子高生のイメージを壊すようなやつ、例えば援交だのクスリだのに走る女子高生は熊野にとってむしろ憎悪の対象になりつつあった。
女子高生はいかなる犯罪にも手を染めてはいけない。そんな女子高生のイメージを壊すやつらは死刑だ。
なにしろ職業柄、最近の女子高生の性の乱れや、犯罪の凶悪化といった情報にはことかかない。
その内、銀行強盗する女子高生が出てくるのも時間の問題だな。
そう思うが、現実になってほしくない。そうなれば頭の中の女子高生像がこなごなに打ち砕かれてしまうかもしれない。
いかん、せっかくの休みになにを考えているんだ?
この幸せなひとときに考えることではない。熊野は洗車に没頭した。洗い終わると、乾いたセーム布で水気を拭き取る。そして乾けば、洗車より楽しいワックスがけだ。
ワックスを掛けると真っ赤な車体がぴっかぴか。
さらに指で触るとつるっつる。
じつに気持ちがいい。思わず歌だって口ずさむというものだ。
口から出るのは二十年以上前のアイドル歌謡。最近の若い女性歌手は変にアーティストぶってて気に入らないし、演歌は肌に合わない。かとって洋楽は昔から嫌いだ。
あの可愛い子ぶって間抜けな衣装を着、くだらない歌詞を甘いだけのメロディーで歌うのがいいのだ。四十になったからといって、こんな歌を歌っていると馬鹿にされる風潮だけはなくなってほしい。
ワックスの二度がけも終わると、ポルシェ独特の丸みを帯びた車体に、デフォルメされた自分の姿が鏡のように映る。
完璧だ。
そして午後からは香とドライブだ。香だってこの完璧なポルシェの輝きを見れば、それだけで心奪われてしまうに違いない。
香はあの腐った女子高生のように金をたかったりはしないはずだ。それはここ数ヶ月間の観察によって確信している。
熊野は待ち遠しくて堪らなかった。後数時間で若い娘とデートできるのだから。
いっしょにドライブして、楽しく話をするだけでいい。それで充分だ。なんともわくわくするではないか。
あとは緊急の呼び出しが来ないことを祈るばかりだな。
そんなことを考えると、ほんとうに呼び出されそうな気がした。
冗談じゃない。もしそんなことになったら犯人を殺してやる。
2
そのころ、さくらたちは銀行のすぐ裏にあるマンガ喫茶『サボール』にいた。
もともと友愛一番高校の生徒でもっているこの店は、放課後こそにぎわうが昼間は空いていることが多い。それでも普段の日は授業をサボってくる生徒がいないでもないらしいが、さすがに試験期間中にそんなやついるわけもない。他に客といえば、オープン席でやはり仕事をサボっているらしい営業マン風の男が、コーヒーを飲みながらマンガを読んでいるくらいだ。個室のボックスは全部あいているらしい。
マスターは白髪頭の初老の男で、生徒がサボってここに来ても、学校にチクることはない。大事な収入源だからとうぜんだ。
ここは時間料金制で、さくらたちは数人用のボックス席を陣取っている。そこは座敷のようになっていて、クッションを背にくつろぐような恰好だ。ボックスの中には、パソコンとテレビ、それにDVDプレーヤーが設置されている。
飲み物はセルフサービスで無料だが、コーヒーやお茶、ジュースなど簡単なものしかなく、ちょっと凝ったものが欲しければ、近くにあるふつうの喫茶店から出前することも可能になっている。つい先ほど、そこのウエイトレスが注文の品を置いていったばかりだ。
「みんなわかってる? あと数時間後には勝負がかかってるんだからね。気を抜いちゃだめよ」
つばめがチョコパフェを頬張りながらリーダー風を吹かす。
ええ~い、かっこつけるか、パフェ食うかどっちかにしろ。台詞と行動がぜんぜんあってな~い。
さくらはそういいたいのを我慢してアイスティーを啜る。
「わかってるよ」
涼子はクールにそういって、ブラックコーヒーを口に流し込んだ。
「うん」
正彦はプリンアラモードフルーツスペシャルをうまそうに食いながら肯いた。
だあああ。おまえも男の癖に一番軟弱なものを食うなぁ。男ならキリマンジャロをストレートでとかいって、ブラックで飲まんかい?
「さくら、あんたひとりだけが落ち着いてないわよ、まったく」
つばめはさくらの心を見透かしたかのようにいう。
あったりまえだあ。あたしの役割が一番危険なんだぁ。
まわりに誰もいなければそう叫んでいたかもしれない。
「まあいいわ。最終確認するわよ。みんなスマホは持ってるわね」
つばめの問いかけに、全員がうなずく。
「ちゃんと充電してる?」
「もちろん」
ぬかりはない。ついでにこのへんが圏外でないのも確認済み。
「さくらは変装用の衣装持ってきてるわね」
「あたりまえじゃない」
それを忘れるほど馬鹿じゃない。
「正彦くん、煙幕装置は?」
「この鞄の中に入ってる」
「警察デジタル無線を盗聴するのに必要なものは?」
「それもあるよ。ノートパソコンに受信機、専用の回路、全部そろってる」
「OKね。それじゃあ、最後に手順を確認しておくわ」
つばめはチョコパフェを食べる手を休め、真面目な顔になった。
「もう少ししたら、涼子ちゃんが銀行に行って、煙幕装置を仕掛けてくる。仕掛け終わったら、涼子ちゃんはあたしたちが行くまで中に残って、誰かが発煙装置に気づかないかどうか見張ってる。あたしたちが行ったら入れ違いに外に出てそのまま外を見張る。すれ違うさいにはお互いの顔を見たりしないで他人のふりをする」
「わかってる」
結局、正彦は極力事件に巻き込まみたくないと涼子がいい張ったので、発煙装置を仕掛けるのは涼子の仕事になった。さくらにしてもそのほうがありがたい。
発煙装置は小さな箱に収められ、ぜんぶでみっつだ。もちろん中も外も、指紋はたんねんに拭き取ってあるから、そこから足がつく心配はない。
「十二時十五分になったら、あたしとさくらが中に入る。それ以後、情報はスマホでやり取りするわ。正彦くんは警察の無線、涼子ちゃんは外の様子を逐一報告すること。ただしあたしとさくらは銀行員に声を聞かれるわけにいかないから返事はしない。一方的に情報を聞くだけよ。正彦くんはパソコンを設置する関係上、外に出ないでここで情報収集すること。いい?」
「わかってるよ」
「逃げ切ったら、連絡を入れるから持ち場を離れていいわ」
「OK」
「それじゃあ、そろそろ涼子ちゃんには現場に行ってもらうけど、少しは変装した方がいいわね」
そういって、つばめは鞄から金縁の細長い眼鏡を取り出した。
「これかけて」
それを涼子に渡す。涼子はきょうは、はじめから黒のワンピースに白のジャケットと大人の服装を身にまとい、さらに髪は後ろでアップにまとめている。女子高生と悟られないためだ。普段から大人びている涼子はそういう格好をすればまさに大人の女に見える。ただでさえ色っぽい唇に真っ赤なルージュを塗っているせいかもしれない。
「わおっ、社長秘書ってとこかしら?」
つばめがいうように、それだけで色気に知性が加わる。
「じゃあ行って。発煙装置の設置場所はこの三個所ね?」
最後に図面上で設置個所の確認をすると、涼子は銀行に向かう。
さくらはそれを見届けると、急に緊張してきた。
もうすぐ、もうすぐはじまる。一世一代の賭けが。
「緊張してきたよ」
さくらは思わず本音を漏らした。
失敗したらどうしよう?
思わず中学最後の舞台のことを思い出す。それまでさくらはたいしたつまづきもせずに全国中学演劇大会の舞台に立った。都大会では観客の拍手に酔った。あの快感が忘れられず、プロの女優になりたいと思った。
あの舞台のときも緊張した。今と同じ感じだ。
そして大失敗した。さくらの失敗が舞台の失敗に繋がった。
それがいまだに尾をひいている。高校に入って、役を外された現実に、憤りつつも内心ほっとしていたんじゃないだろうか? こんな犯罪に首を突っ込んだのも、犯人を演じきりたかったからかもしれない。きっと自信を取り戻したかったのだ。
さらにさくらは今まで極力考えないようにしてきたことを考えてしまう。
リスクのことだ。
失敗すれば、捕まってしまう。そればかりか、そうなれば奈緒子ちゃんが殺されてしまうかもしれない。
気がつくと震えていた。
「だいじょうぶだよ、さくら」
つばめはさくらの心を読んだかのようにいう。
「きっと成功する。銀行強盗の役を演じきれるわよ」
出来ない生徒をはげます優しい女教師のような顔で笑った。
不思議だった。さんざんさくらを振り回し、おちゃらけ、マイペースを貫いてきたつばめの一言がさくらを落ち着かせる。
「そんな気がしてきた」
震えも止まった。
「そうでなくっちゃ。いい? さくらは女優。台詞はないけど、名女優ならそんなものなくったってお客さんを感動させられるでしょ? 観客は銀行員とお客さん。みんな煙の中を消えた怪盗に心から拍手を送るのよ。そして駆けつけた警察は消えた怪盗の天才に悔し涙するの。さくらにしかできないって、そんなこと」
そういって、さくらの肩をポーンと叩く。
そうだ、あたしは女優。あたしは強盗の役を演じる。あたしは奇跡のように消える怪盗。
さくらが『ガラスの仮面』モードに突入したとき、つばめのスマホにメールが送られた。涼子からだ。
『設置完了 涼子』
問題なく完了したらしい。
時計を見ると十二時五分。あと十分で出番だ。
「さくら、出よう。正彦くん、無線は任せたわよ。ランチでも食べてるといいわ」
「OK」
さくらと正彦は同時に返事をした。そしてさくらたちは外に出る。
「さ、早く上に着て」
さくらたちは「サボール」がある建物の共用トイレの個室に入ると、バッグから取り出したトレーナーを制服の上から羽織り、その上からだぼだぼのオーバーオールのジーンズを履いた。「サボール」で着替えなかったのは、もちろん着替えた姿をマスターに見られないようにするためだ。
最後に帽子を被り、変装用の眼鏡を掛けると、鏡で姿をチェックする。
うん、完璧。どう見ても男の子。
十二時十二分。
「よし行くわよ」
つばめの掛け声で銀行に向かう。すぐそこだ。
緊張が心地よい快感に変わる。自分と違うものに変わる快感。
取り戻した。この感覚と自信を。
あの中学最後の舞台以来失っていた感覚と自信を。
3
十二時十分。
大学生、
少し興奮している。なにしろ入学してたった三ヶ月で
勝にとって、美由紀はたんに知的で、ゴージャスかつ高貴な美女というだけでなく、少し変わったところも魅力だった。お嬢様に似合わず格闘技が大好きで、子供のころから柔術などをやっている。そのかわりテニスや乗馬にはまったく興味がないらしい。読む小説や見る映画にしても、恋愛とかロマンスとかいったものではなく、スプラッタームービーとか本格ミステリーとかそんなものばかりだ。それを内心恥ずかしいと思っているのか、必死で隠そうとするところもみょうに可愛いと思う。
だから美由紀とはなんとしてもつき合いたかった。
勝は顔には自信があったし、喧嘩だってそこらの不良どもなど問題にしないほど強い。しかしその一方で明るさに欠けるところがあるし、面白い会話もできない。それどころか筋金入りの無口だ。おまけにいつも金に不自由しているし、なんとなく粗野な感じがするらしい。意外に女には人気がなかった。
だから思い切って告白し、美由紀が自分を受け入れたときは、嬉しいと同時に不思議だった。
美由紀は見るからにわがままに育ったお嬢様で、優しいだけの男や、ひょうきんな男、ご機嫌取りをするような男には飽きていたのかもしれない。あるいは強そうな男に惹かれる、女の本能に従ったのか?
いずれにしろ美由紀は自分を選んだ。そのことは勝に大きな自信を与えた。
そして夏休みにはいっしょに海外リゾートへの旅。それを決めたのも美由紀だった。おそらく南の島で野生的な男に抱かれたいのだろう。
勝はそういった意味ではお預けを食らっている。しかし勝とて、できるだけ刺激的な状況で美由紀を抱きたかった。だから海外の離島でふたりきりというのはおいしすぎる。しかも費用は美由紀持ち。そんなことを同じ学科のやつらに打ち明ければ、嫉妬で殺されそうだ。
きょうは美由紀が円をドルに換えるためにここに来ている。
「お待たせ」
美由紀がそういいながらカウンターから戻ってきた。ふわっとカールの掛かった長い髪をたなびかせ、女王を思わせる高貴な顔に笑顔を浮かべながら。
「行きましょうか?」
このあと、イタリアンレストランで昼食をとる予定だ。
「あ、悪い、ちょっとトイレに行ってくるよ」
「あらそう。どうぞごゆっくり。わたくしは雑誌でも読んでいますわ」
旅行のことを考えながら、美由紀の上品なスーツに包まれた魅力的な体を連想して、勝は緊張したのかもしれない。美由紀に断ったあと、トイレにたった。
トイレは入り口から見て、一番奥にあった。ドアを開けると、正面に洗面台。左右両方が個室になっていた。男子用の小便器はないらしい。
勝は向かって右側にある個室のドアを開けようとする。
開かなかった。
ドアをノックすると、中に誰かいるらしく、乱暴なノックが返ってきた。
勝は左側のもうひとつの個室に入り、用を足す。
落ち着け。きょうはべつになにも起こらない。なにかあるのは旅行のときだ。
そういい聞かせ、手を洗いながら鏡を見る。
陰のある色男が鏡の中で緊張している。勝はなにかおかしくなった。
いったいどうしたっていうんだ。緊張するのが早すぎるぜ。
きょうはただレストランで飯を食って、映画を見に行くだけだ。美由紀が見たがっていた『八つ墓館の殺人』とかいうミステリー映画を。
そう思いながら、腕時計を見た。十二時十五分になろうとしている。
勝が美由紀の元へ行くと、彼女は雑誌を元に戻した。
4
さくらは銀行の扉を開け、中に入った。ATMコーナーを通りすぎ、ソファの置いてある待合いコーナーに向かう。つばめはすぐ後ろにいる。
涼子がいるのを一瞬だけ確認した。涼子もさくらに気づいたらしく、立ち上がると、入れ違いに外へ出ていく。そのさい、お互い相手の顔を見ないのは打ち合わせ通りだ。
さくらは受付カウンターに目をやった。
下見したときのふたりがいる。おっとりした三宅と、理知的で気の強そうな大島だ。
三宅の前にいる客がどくのを待った。建設現場の作業着を着た、いかにも大工の親方のような男がなにやら三宅と話している。やがてその男が「がはは」と豪快に笑いながら立ち去ると、さくらはすかさず三宅の前についた。
「あ、申しわけありません、お客様。番号カードを引いて、呼ばれるまで待っていただけますか?」
彼女は小首をかしげながら笑みを浮かべ、愛想良くいった。しかしさくらはそれを無視し、スポーツバッグを床に置くと、スケッチブックを彼女の目の前で開く。
もちろん、そこにはこう書かれてある。
『このバッグには爆弾が入ってます。リモコンで遠隔操作されます。この紙袋に三千万入れてください。そうしないと爆発します』
さくらはスケッチブックをぱたっと閉じると、紙袋をカウンターの上に置いた。
「はひっ」
よほど驚いたらしい。三宅の上品な顔は引きつり、口を大きく開け、小刻みにぱくぱく震わせているが、かんじんの体は凍ったように動かない。
予想外のリアクションだった。それ以上の反応が返ってこない。
ほんとに爆弾持ってたらどうすんだぁ?
思わずそう抗議したくなるほどだ。
しかしそれでも三宅は動かない。パニックで思考停止しているのだ。
「どうしたの、
異常を感じたらしい大島が隣から声を掛けてきた。三宅の名前は広海というらしい。
さくらは一瞬迷った。このまま三宅を相手にするべきか、それとも大島に交渉相手をかえるべきか。
だが大島に声を掛けられ我に返ったのか、三宅はこわばった顔のままでいう。
「お客様、しょ、しょ、少々お待ちください」
そのまま紙袋を手にし、ロボットのようにぎくしゃくした動きで奥に下がった。
大島はその様子を眺めるながら、明らかにただごとならぬことが起きていることを悟ったらしい。さくらの方を振り向き、じろりとにらんだ。
うわぁ、やっぱ気が強いよ、この人。
異常な緊張感が走る。まわりの客たちだけがなにも知らずのほほんとしている。
腕時計を盗み見た。十二時二十分。
長い。長すぎる。
たったの数分だが、さくらにとってこの待っている時間は異様に長く感じられた。
もう警察に知らせたんだろうか?
そんな中、スマホが鳴った。正彦からだ。
『警察に連絡入った。パトカー向かってる最中』
胸が高鳴った。計算の内とはいえ、ついに警察が動いた。
まだ金を持ってこない。なんだかんだで長引かせ、警察が到着するまで待つ気だろう。後ろではなにも知らない客たちの歓談する声が。
うわあああ、気絶しそう。早く持って来てぇえ。
そう叫びたかった。だけどここじゃあ、声は出せない。いっさいの証拠を残さないためだ。
正彦からの電話を切ったとたん、べつの電話が入る。涼子のスマホだ。
『覆面パトカーらしいのが一台、到着。道路を挟んで向こう側に止まった』
ついに来た。
そしてようやく三宅が真っ青な顔で紙袋に札束を入れて持ってきた。
まさにタイミングを計ったようだった。明らかに警察と通じている。
『やはり、今の車、警察だ。外に出た警備員が道路を渡って警察と接触。おそらく中の様子を知らせている。うわっ、覆面パトカーらしき車、続々到着。少し距離を置いて銀行を包囲しだしたぞ』
さくらは報告を聞きながら紙袋の中身を確認し、手に取るとリモコンのスイッチを入れる。すぐに反応はなかった。
遅い!
タイムラグがあることはわかっていた。それもほんの数秒。それがものすごく長く感じられる。
数十秒もたったような気がしたが、たぶん、じっさいにはほんの二、三秒だろう。スポーツバッグ、そしてソファや植木の陰の計三個所からいろんな色が混じり合った煙が吹き上がった。
「きゃあああああ。爆弾、爆弾よぉぉ」
三宅が叫ぶ。瞬く間に視界は奪われ、同時にパニックが起きた。
「ぎゃあああ。いやだ。爆弾はいやだ」
「ひいいいいいい。これって毒ガス?」
「死ぬのはいやだ。リストラもいやだ」
「お母ちゃあああああん。ママぁああ」
みなわけもわからず右往左往している。今こそ特訓の成果を生かすとき。さくらはその中で早々と着替えた。さいわいにして緊張のあまり、大ポカをすることもなく、すべてスムーズにいった。
予定どおり、つばめは変装用具をしまい終わり、さくらも金を詰め替えた。
『警察に動きなし、とりあえず距離を置いて様子を見ている。いや、何人かが、地下鉄のもうひとつの出入り口に向かって走った。地下を回って下から地下鉄を封鎖する気だ。いま逃げれば、まだ十分間に合う』
パニックになっている他の客と違い、さくらたちはスマホからの報告を聞きながら、冷静に出口に向かって走る。何度もシミュレーションしたから、見えなくたって方向はわかる。あとはそのまま外に逃げるだけのはずだった。あの中学の舞台のときのように転ぶこともなかった。
だがそのとき、意外なことに銃声が聞こえた。
「なんだこりゃあ? 誰も動くな。動くと撃つぞ」
銃声とその声はまさにさくらたちが逃げようとした方向から聞こえる。つまり銃を持った何者かが外から乱入したのだ。
警察?
だけど、警察がそんな無謀なことをするだろうか?
なにしろ爆弾背負ってるっていう設定なのに。しかもこの煙でまわりがろくに見えない。そんな中に銃をぶっ放しながら突入してくるだろうか?
そもそも涼子の報告にそんなことはなかった。
さくらは耳元でスマホから涼子の叫び声が聞こえていることにようやく気づいた。
『なんだ、いったいなにが起こった? 覆面した三人組が突入したぞ』
なんだ? どういうこと?
「静かにしろぉおおお! 動くな。動くと撃つぞ」
「きゃああああああぁぁ! 強盗よ。テロよぉ!」
「お、お客様ぁぁああ。落ち着いてくださいぃぃ!」
銃声のせいでますますパニックは大きくなっていく。煙幕はまだ晴れない。
「さくら、緊急事態よ。バッグを外に捨てるわ」
つばめが耳元で囁く。そして入口のすぐ横にあった窓からバッグを変装道具の入った投げ捨てた。防犯用の格子が一本折れているのは下見のときにチェック済みだ。だから人間は通れなくても鞄くらいは通る。
「その鞄も捨てるの。あいつらが誰か知らないけど、チェックされるわ」
これを捨てる? でもこれは……。
これがないと、奈緒子ちゃんは殺されるんじゃないのか?
しかし現実問題として、外に逃げられない。出口付近には、拳銃を持った正体不明のやつらがいるのだ。その脇をすり抜けて逃げるのは危険すぎる。
煙幕も晴れつつある。さくらはやむを得ず、金の詰まった学生鞄を窓から投げ捨て、窓を閉めた。
「だいじょうぶ、涼子ちゃんに拾わせるわ」
つばめはスマホを操作しながら小声でいった。このさなか、冷静に涼子にメールを送っていたらしい。
「ん? なんだ、おめえら、こんなところにいるな。中に行け。逃げようなんて思うんじゃねえぞ!」
自分たちのすぐ近くに、さくらとつばめがいることに気づいた乱入者が、怒鳴りながらふたりを銀行の奥に追いやる。さくらたちは従うしかなかった。
「なんなのつばめ。なにが起こったの?」
もう煙幕が薄れ、近くのつばめの姿は見えた。
肘を体につけたまま左右に広げ、手の平は上に向け、小首をかしげている。
なんてこった。外人さんの、わたしわかりませ~ん、のポーズ。
つばめにもわからない。愕然としているうちにみるみる煙幕は薄れていった。
出入り口のところに三人の人物。全員覆面をして拳銃を持っている。
キングコングのマスクをした、見るからごつい男。
ゴジラのマスクをした、すこし華奢な体型の男。
ガメラのマスクをした、かなりグラマラスな女。
全員、ジーンズに上は皮ジャン。おそろいのユニフォームだ。
リーダー格らしいキングコングが野太い声で叫ぶ。
「俺たちは強盗だ。動くな。勝手に喋るな。抵抗すれば殺す」
おお、まい、があああぁ~っ!
ひとつの銀行に強盗が二組? ダブルブッキングだぁあ。
5
熊野はご機嫌だ。愛しいポルシェを完璧なまでに磨き上げたあとは、部屋に戻り、きょうの楽しいドライブの計画を立てることに余念がない。
どこか、……どこかロマンティックなところへ香を連れていかねば。
しかし熊野にはそんな場所が頭に浮かばない。無骨な刑事生活が長いと、まともにデートする機会が少ない。だからこそ美人局のような女子高生にたかられる。
そもそもこの新聞やゴミが散乱し足の踏み場もない部屋で、そんなロマンティックな考えが浮かぶとは思えない。
ちくしょう、どうすりゃいい。ポチにでも聞くか?
ポチとは二十代前半の後輩刑事で、本名は
この男は熊野とは対照的で、仕事はたいしてできないが、お洒落でカッコよく非常にもてる。甘いマスクにさらさらのヘア。ブランドもののスーツを愛用している男で、熊野とは一見馬が合いそうにないがなぜか仲が良かった。まあ、憎めない性格をしているということもあるが、まわりには手柄を横取りしようとかする同僚が多い中、無欲なことと、裏表がまったくないことが気に入っているのかもしれない。
しかしなあ、あいつはきょう仕事だし、まさか、電話でデートスポットを聞くのもまずいだろ?
その程度の分別はあった。
パソコンだのインターネットだのは苦手だが、仕事上まったく使えないわけでもない。しかしネットで調べるにしても、熊野の部屋にはパソコンがなかった。あんなものは仕事だけで充分なのだ。
本屋でそういう情報の載った雑誌でも買うか?
それもあまり気がのらなかった。そもそも本屋のどのへんを探せばいいのかもよくわからないし、面倒だ。プライベートな時間で、調べ物に労力を使うのは勘弁してほしいと真剣に思う。
ま、出たとこ勝負だな。俺があんまりちまちま下調べしてからデートするのも変だろ?
もっとも、あまり近いところじゃだめだろうな。
おそらく香はポルシェに乗りたいだけなのだ。だから高速を走らなければ意味がない。飛ばしてこそポルシェの意味がある。
それなら横浜にでも行くか? いっそ伊豆まで足を伸ばして温泉にでも……。
いや、いくらなんでもそれはまずいか。そんな深い仲じゃない。
熊野のデート計画は暴走し、妄想に近くなっていく。
そんなことを考えているうちに昼近くになってきた。
とりあえず着替えよう。
いつまでもジャージを着ているわけにはいかない。いつ香が帰ってくるかわかったものじゃない。行く場所はそれから考えても遅くはない。
そうは思ったものの、いったいなにを着るべきか?
熊野が星のような気の効いたデート用の服など持っているはずもない。いつものように擦り切れかかったダークグレイのスーツはまずいだろうと思う。ドライブとはいえデートには違いない。カジュアルかつ明るい雰囲気がいい。
洋服ダンスなどない熊野は、コインランドリーで洗濯し、乾燥機から取り出したまま詰め込み、その後何ヶ月もビニール袋に突っ込んだまま放置してあった服を漁る。
青いスリムのジーンズが出てきた。とりあえず若者らしくていいだろう。相手はまだ十代の女子大生なのだから。
そして気の迷いで買った黄色いポロシャツを見つけた。試しに着てみる。
たった一度の洗濯で縮んだのか、ぴちぴちだ。
風呂場に行って、鏡で全身を見る。
「ちっ」
思わず舌打ちする。しかし考え様によってはこの筋肉質な体を強調しているともいえる。ポロシャツ越しに浮き出る大胸筋。腹筋のくびれまで見えそうだ。そして露出する丸太のような腕。短い髪と髭だらけで熊のように厳つい顔にもマッチしている。
「ふんはっ」
熊野は気合いを吐きながら空手の型を演じた。その動きに応じて、ポロシャツの中の筋肉が躍動するのがわかる。
「これぞ、野生の男のセクシーさだ」
思わず独り言をいう。
反り返ると臍が見えそうになるのはご愛敬だ。
「きゃああ、素敵。ポルシェがぴっかぴかぁ」
外から甲高い声が聞こえる。香が帰って来たらしい。
「ねえねえ、熊野さんいるの? 早く行こう。ドライブ、ドライブぅ」
玄関ドアを叩きながらおねだりする。
なんて可愛いんだ。
熊野は満面の笑みでドアを開け、胸を張った。
「きゃはははははは~っ」
その姿を見るなり、香は腹を抱えて大笑いする。
「へ、変か、この格好?」
「え、そんなことないよ。でも胸張るとお臍が出るよぉ」
そういってふたたび笑う。そのへんが香の琴線に触れたらしい。
「マッチョ、マッチョぉお」
着替えようかとしたとき、香は腕を絡めてきた。
「だいじょうぶ。いいよ、すごくいい。熊野さん、あたしのためにオシャレしようとしてくれたんでしょう?」
そういって、小悪魔のような笑みを浮かべた。
「行こう。どこでもいいよ。熊野さんの横に坐りたい。ポルシェぶっ飛ばして」
「ようし、そうするか」
幸せだった。ここまで女の子にもてたのは何年ぶりだろう。あるいははじめてかもしれない。
そのとき、スマホが鳴った。
いやな予感がした。
「熊野だ」
『やった、捕まった。警部、星っす』
「なんだポチか、俺は今忙しい、あとにしてくれ」
『それがそうもいかないんすよ。銀行強盗です。人手が足りないんすよ。出て来て指揮取ってください。場所は四つ葉銀行友愛一番高校前支店っす。警部のアパートからなら近いでしょ?』
「馬鹿いうな。俺はきょうはひさびさの非番だぞ。誰かいるだろう?」
『それがきょうは事件が多発してみんな出払ってるんすよ。もうしわけないすけど課長の命令です。待ってますんで、五分で来てください』
ポチはいうことだけいうと、非情にも電話を切った。
なぜきょうなんだ? この世に神はいないのか?
「ねえどうしたの、熊野さん?」
香が怪訝な顔で聞く。よほど顔にショックが出ているのだろう。
「いや、じつは香ちゃん、急に仕事が入った」
「ええええ、あたしをその気にさせといて、行っちゃうの?」
「ご、ごめん」
「熊野さんの嘘つきぃ」
香はそのまま走り去った。
なぜだ? 俺がいったいなにをしたっていうんだ?
悪いのはポチか? 課長か? いや、違う。銀行強盗だ。
殺してやる。
熊野はそのままポルシェに乗り込むと、アクセルを全開で吹かした。
6
「犯人に告ぐ、おまえたちは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめて投降しなさい。くり返す……」
外から警察がハンドマイクで呼びかけた。
「なんだって? 俺たちは今来たばかりなのに、どうしてもう警察が来てるんだ? いくらなんでも早すぎるだろうが!」
キングコングのマスクを被った男がいらだたしげに吼える。
はい、それはあたしたちのせいです。さくらは心の中で答えた。
「ちくしょう。わけがわからんが、こうなったら篭城するしかないぜ」
コングが叫んだ。
「おまえたち全員そこに並べ。奥にいる銀行員もだ」
さくらたちは全員、窓際に並んで立たされた。警察の狙撃を警戒して、弾よけにする気だろう。
「ひいい、待ってくれぇ。肩が……」
ひとりだけ負傷したのか横たわったまま立ち上がれない人がいる。四十くらいで頭がかなり薄くなっているにもかかわらず、薄いブルーの派手なスーツを着ている。真面目なのか、遊び人なのかよくわからない感じだが、少なくともやくざやチンピラといった顔つきではない。どこか小ずるい感じのするしょぼくれた男だ。
「私は高木という外科医です。診てやってもいいでしょうか?」
そういって、一歩前に出たのは、痩身の体にぱりっと折り目のついたクリーム色のスーツを着こなし、銀縁眼鏡と七三分けの似合うヤングエリートといった雰囲気の男だった。たぶん三十歳くらいだろう。
「いいだろう、診てやれ。他のやつらはそこを動くな」
コングはそういって、拳銃をさくらたちに向ける。
「おうおう、動くんじゃねえぜ、おまえらよぉ」
ゴジラは体を揺すりながら、威厳のないちんぴら丸出しの声を張り上げ、やはり拳銃を向けた。もっともその先はふらふらと一定のところを向いていない。よく見ると体が震えていた。案外、さくらたち人質同様、かなり動揺しているのかもしれない。
一方、もうひとりのガメラはほとんど動かず、銃を向けながらも終始無言だ。顔を隠していることもあって感情が読み取れず、なにか人間というよりもロボットかサイボーグのように思えてしまう。
「両肩が外されてますね」
エリート医師は倒れている男を診るなり、いった。
「失礼」
高木医師はそういうなり、いきなり男の腕を掴んだ。
「ぎゃああああ」
男が叫ぶ。
「だいじょうぶ。今のではまりました。もうひとつも」
「ぐあああああ」
「はい、これでよし」
パンパンと手を叩きあわせ、顔色ひとつ変えずに高木医師はいった。
だけど、いったいどうして?
コングだけでなく、さくらも混乱している。なぜその男の肩が外れていたのかわからなかった。もちろん、さくらたちの仕業ではない。
「なにがあった? おまえは何者だ?」
コングは男に銃を突きつけ、聞く。さくらもぜひその答えを知りたかった。
「ひいい、私は
どっひゃあああああ。芸能プロのスカウトマン? 見下してすみません、あたしをスカウトしてください。さくらはそういいそうになった。
「あら、やったのはわたくしよ」
そういいきり、窓際から一歩前に出たのは、二十歳くらいの若い女性だった。
グラマラスな肢体に薄いピンクのミニスカートとジャケットを身に纏い、栗色の長い髪はくりんくりんとカールしている。顔立ちは高貴にして華やかというのが一番似つかわしい。白人を思わせる白い肌とまっすぐに通った高い鼻がとくに印象的。耳に煌くダイヤのピアス。そしてバックにバラの花をしょってるように錯覚してしまう超お嬢様。そんな感じだ。彼女はさくらと違い、芸能界に憧れなどはないらしい。
さくらにはちょっとだけその女がかっこ良く見えた。
「その男がどさくさに紛れて、わたくしに痴漢行為を働こうとしたので制裁を加えたまでですわ」
どひゃああ? 見かけによらず、武道の心得でもあるのだろうか?
「あら、わたくし、べつに武道とかを習ってるわけではありませんわ。必死に抵抗したら結果的にそうなっただけです」
言い訳しているが、そんなことはないはずだ。きっと涼子と同じような技を使えるに違いない。
「冗談をいうな。私はそんなことをやってない。私は痴漢なんかじゃない。常識で考えろ。どうしてあんな状況で痴漢をしなくちゃならないんだ?」
たしかに渋谷のいうことはもっともだった。あの煙幕が彼の仕業ならわかるが、それはあり得ないのだから。
お、なんか知らんが煙だ。まわりからは見えない。ラッキー。痴漢しちゃえ。
いくらなんでも、そんなやつがいるとは思えない。
たぶんパニックになって逃げようとしたとき、偶然触ってしまったんだろう。
「あたしもそう思う。きっとその人は痴漢じゃないよ」
さくらは渋谷を擁護した。
「そうだろう? 客観的に見ればそうなんだ。あんたはなにか誤解している。あのパニック状態で誰かがあんたに触った。あんたは近くにいた俺が触ったと勘違いしてるんだ。それはあんた自信もパニックになっていたからだ。いや、自意識過剰なんだ。自分に近づくやつは全員痴漢だと思ってるんだ」
渋谷は必死の形相で自己弁護する。
スーパーお嬢様は渋谷に目もくれず、さくらをきっと睨んでいう。
「あら、あなたスカウトマンに取り入ったりして、ひょっとして芸能界に入りたいの?」
「ぎくっ」
「まあ、あなた程度の顔じゃあ、取り入らないと芸能界なんて夢ですものね。お~っほっほっほ」
ムカツクぅ! この女。
上品そうに口に手を当て笑い狂う女を見て、さくらの怒りのボルテージは上がる。一方、そんなさくらの思いを無視し、一歩前に出ると、渋谷に迫る男がいた。
「おまえ、美由紀に痴漢したのか?」
大学生くらいの若くてかっこいい男だ。黒いスラックスに黒シャツ姿で痩せている。お嬢様は美由紀というらしいが、この男は彼女の恋人のようだ。甘いマスクは暗い雰囲気を放ち、目だけがぎらついている。目に被るくらいの長い前髪も陰気な感じだ。イメージとしては黒豹を思わせる、まさにダークな雰囲気を持った美形。おそらくつばめの趣味に違いない。いや、それともつばめは年下専門なんだろうか?
「おい、色男の兄ちゃん、面倒を起こすな。おとなしく窓際に並んで立ってろ。そこのお嬢様、あんたもだ」
コングが拳銃を向け、彼を押しとどめた。人質は若いカップルや、芸能スカウトをふくめて改めて全員、窓辺に並ばされた。
「はっきりいってわけがわからんが、俺には関係のない話だ。どうでもいい。そんなことよりまず銀行に要求する。このバッグに入るだけ現金を詰めろ」
コングはそういって、三宅にバッグを渡した。
「ま、またですかぁ?」
「なにわけわからんこといってるんだ? 早くしろ」
なんてかわいそうな三宅さん。一日に二回も強盗に金を要求されるとは。
さくらは同情せずにいられない。
「いや、ちょっと待て。その前におまえのスマホを出せ」
コングは金庫に行こうとする三宅のスマホを奪った。
「それからおまえたちもだ。スマホくらい持ってるだろう? 全部出せ。下手に外部に連絡取られると困るからな」
コングは見かけによらず用心深いらしく、スマホ狩りをはじめた。とうぜん、みな持っているらしく、全員が差し出した。もちろんさくらもだ。スマホはゴジラが集め、受付カウンターの上に置く。
「おまえ、こいつらを縛れ」
コングはゴジラに命令する。
こうなった場合も想定していたのか、ゴジラはバッグからロープを取り出すと、不必要に顔を左右に振ったり、威嚇の言葉を吐きながら、片っ端から人質を後ろ手に縛りはじめた。その間、ガメラは対照的にびしっと背筋を伸ばし立ったまま、無言で銃を突きつけている。
「てめえ、この」
一瞬の隙をついて体格のよい角刈りの中年男がガメラに突進した。ぶわっと広がった作業ズボン《ニッカポッカ》に地下足袋、ついでに日に焼けた四角い顔に角刈り頭といかにも大工ふうの男で、どう見ても女のガメラより強そうだ。男は拳銃を持ったガメラの腕を掴む。
しかし次の瞬間、男はふわりと宙に舞うと、床にたたきつけられた。
ガメラが投げ飛ばしたのだ。息切れひとつしていない。さくらにはよくわからないが、たぶん合気道か古武術の技なんだろう。ガメラはその技を苦もなく使うらしい。
「ふざけた真似をするんじゃねえ」
叫んだのは、ガメラではなく、ゴジラだった。ガメラが床に倒れた男の頭に銃を突きつけているのをいいことに目一杯強がり、「こんちくしょうめ」と叫ぶ大工風の男を後ろ手に縛り上げる。他のものはそれで誰も抵抗する気がなくなったのか、あっさりゴジラに縛られた。
唯一金をバッグに詰めて持ってきた三宅だけが雑用係として縛られるのを免れた。彼女以外の全員はそのまま窓際のソファに坐らされる。さくら他あぶれた数名はそのまま床に直座りだ。
「まあ、こうなったら仕方がねえ。とりあえず、自己紹介をしてもらおうか」
コングがひとりひとり指名する。
わかりやすく一覧票にすると、さくらとつばめ以外の人質は以下の通りだ。
渋谷広一 (芸能プロ)
小山内美由紀(大学生)
川口勝 (大学生)
高木明 (医者)
大田黒郷一郎(大工)
さらにいえば銀行員は以下の通り。
斎藤光太郎 (支店長)
小笠原しのぶ(事務員)
大島潮美 (受付)
三宅広海 (受付)
「おまえんとこの関係者はこれだけか? 少なすぎねえか」
コングは斎藤支店長に銃を突きつけ、問い詰めた。
「えっ? そ、そういえば、木更津くんがいない」
おそらく五十を過ぎている白髪頭のさえない支店長はしどろもどろになって答えた。
「ほう? で、その木更津くんはどこにいるんだ?」
「さ、さあ?」
「きっとひとりだけどこかにこそこそと隠れているのよ。そういう卑怯な人だから」
キツイ一言は大島だ。よほど嫌われているらしい。
「おい、その木更津くんとやらはどんなやつだ?」
「若い男子行員です。いかにも軽薄そうなやつ」
大島が憎々しげにいう。
「おい、そいつを探せ。トイレかどっかだろう」
コングはゴジラに命令する。ゴジラは命じられると、肩をゆっさゆっさと揺すりながらトイレを見に行った。
「おい、鍵を開けろ。中にいることはわかってるんだ」
ゴジラの強がったわめき声がする。ほんとうにトイレに閉じこもっていたらしい。
銃声がした。業を煮やしたゴジラが銃で鍵をこじ開けたのだろう。
その数秒後、ゴジラは「どひゃああ!」という奇声と共にトイレからばたばたと飛び出した。
「なんだ? なにがあった?」
異様な様子にコングも動揺した。だがゴジラの発した言葉は、そこにいたさくらを死ぬほど驚かせた。
「死んでる。その木更津くんとやらが死んでる。殺されてる」
そ、そんな馬鹿な?
7
「ここは強盗事件のために通行禁止になってます」
熊野が愛車ポルシェで入り込もうとすると、制服警官が制止した。
「知ってるよ。俺は警視庁、捜査一課の熊野警部だ」
熊野は身分証を見せる。
「し、失礼しました」
制服警官は信じられないといった顔つきで失礼を詫びた。
まあ、無理もねえか。知らないやつは誰も俺のことを刑事だと思わねえだろうな。
熊野は自分でもそう思う。こんなぴちぴちのポロシャツを着て、磨き上げたばかりのポルシェに乗って事件現場に来る髭面の刑事などいるわけがない。
ポルシェを中に乗り入れると、星を探した。
「警部ぅ~っ、ここです」
星のすっとんきょうな声が耳に入る。所轄署の刑事と思われる連中といっしょに、銀行の道路を挟んで向かい側に陣を張っていた。熊野は車を降りるとそこに合流した。
「な、なんすか、その体育会の学生のような格好は? それに自慢の車もぴっかぴか、もしかしてデートだったんすか?」
そういう自分はそれこそデートの最中のような高級スーツを着ている。しかも色はライトグリーンで、シャツはピンク、ネクタイは赤だ。人の服装をどうこういえる格好ではない、ぜったいに。
「うるせい。おまえには関係ない。おまえが五分で来いなんていうから着替える暇もなかったんだ」
星の脳天に一発入れる。
「僕を怨むのはおかど違いっすよ。怨むなら課長か犯人を怨んでください」
星は頭を押さえながら、情けない声でいった。
「それよりポチ、とりあえず、どういう状況なんだ?」
「それがよくわからんのですよ。通報があって駆けつけた直後、あそこの地下鉄出口から三人組の覆面をした男たちが中に突入し、その直後、正体不明の煙が立ち昇り、銃声が聞こえたんす」
なんのことだ? たしかによくわからん。警察が駆けつけたあとに覆面をした三人が中に入った? 共犯者か? しかしどうして警察が駆けつけたあとに入る? 知らなかったのか?
事件は熊野の常識を超えている。
「警官隊はまわりを囲んでたんだろう? どうして、そいつら中に入れたんだ? ありえんだろうが」
「あれを見てくださいよ、警部」
星が指さしたのは、銀行の出入り口のすぐ側にある地下鉄入り口だった。
「普通こういう場合、まずパトカーで包囲して、逃走用の車を探すじゃないっすか。まさか目の前に地下鉄入り口があるなんて思いませんからね。あれに気づいて、封鎖しようとしたんすが、銀行の真ん前に警官隊が向かうのは犯人を刺激するんで、べつの地下鉄入り口から回り込ませたんすよ。おかげで少し時間がかかりましたけどね。ところがあいつらはあらかじめ地下に待機していたらしく、警官が回り込む前にあそこから飛び出してきて、中に突入したんすよ」
「それで今はその地下鉄出口は封鎖したんだろうな?」
「ええ、もちろんっすよ。危険っすからね」
なにも知らない人間が地下鉄から外に出ると、目の前が犯罪現場っていうのはあまりに危険だ。
「銃声が聞こえたってことは誰か撃たれたのか?」
「まだ状況はなにもわかってないす。窓にはブラインドが降りていて、こっからじゃなにも見えないっすからね。ただブラインドに映る影から考えて、人質は窓辺に並ばされてますね。狙撃防止のためでしょう。犯人からはまだなにもいってきてないっす」
そのとき、さらに一発の銃声が銀行の中から鳴り響いた。
「な、なんだ、なんだ?」
「し、知らないっすよ」
まずい。熊野はそう思った。犯人はかなり狂暴なやつらしい。このままでは死人が出るかも。いや、もう手後れか?
「狙撃班は呼んでるのか?」
「課長が手配してるはずっす」
しかし相手は最低三人、いや、はじめから中にいたやつを入れると四人か? しかもブラインドは閉まってるし、狙撃で全員を同時に倒すのは難しい。ひとりでも生き残れば人質が撃たれるかもしれない。それどころか間違って人質を撃ちでもしたら上の人間の首がすげ替えられる。
どうする、どうする?
熊野は考えがまとまらないうちにハンドマイクを掴んだ。
「犯人。てめえ、誰か殺したんじゃねえだろうな? 人質をひとりでも殺してみろ。地獄の底まで追っかけて皆殺しにしてやるぞ。覚悟しやがれ」
「け、警部、犯人を挑発してどうするんすかあ?」
星がマイクを取り上げる。
そうはいうけどなあ。あいつのせいで、俺は、俺は……。
熊野は拳を握り締め、涙する。
香ちゃんに振られたんだよ。
「ちくしょう、ポチ、どっかから潜入できないのか? たとえばトイレの窓とか」
「トイレには換気扇はついてますけど窓はないっす。それ以外のところには窓は何ヶ所かありますけど、どれも小さい上に格子がはまっていて潜入は不可能っす」
「くそ」
なにか方法はないのか? 犯人はどうするつもりだ? いったいどうやって逃げるつもりだ?
熊野は焦る。しかしいい考えはなにも浮かばない。
「警部、どうするんすか?」
「やかましい」
そんなこと俺が聞きたい。そういいたいのを飲み込んだ。
そんな中で携帯電話が鳴った。
『私だ』
「課長?」
『いいか、絶対に犠牲者を出すなよ。犯人は射殺して構わんが、人質はひとりも殺すな。狙撃班は送ったから、君の責任で使え』
「犯人を殺していいのはありがたいですが、相手は複数ですよ。狙撃は無理だ。そもそも窓にブラインドが掛かっていて、人質は窓際に並ばされている。どうやって撃てっていうんです?」
『そこをなんとかするのが君の役目だろうが。ちがうか?』
上っていうのはいつもこうだ。無理難題を平気で部下に押しつける。しかも非番中に呼び出しておいて、失敗すれば俺の責任らしい。
あんたが現場に来て陣頭指揮すりゃいいじゃねえか。よっぽどそういってやろうかと思った。
『で、どうなんだ?』
「今のところなんの進展もありません」
『馬鹿者、そんなことでどうするんだ。おまえは私の首を飛ばす気か? しっかりしたまえ!』
だから首が心配だったら直接来て指揮しろ。そもそもおまえのせいで俺は香ちゃんとだな……。
『もし失敗してみろ。貴様、警部補に降格させて離島の所轄に飛ばしてやるぞ。小笠原署とか八丈島署とかどうだ? ん?』
「課長、いいかげんにしてくれ。業務の支障になるから切るぜ」
そういって通話ボタンを切る。心底むかついた。
「ポチ、中の電話は何番だ?」
とにかく犯人と交渉をしないことにははじまらない。
星の口にする番号を押した。
『は、はいぃぃ』
間の抜けた女の声。
「俺は警視庁捜査一課係長の熊野だ。おめえらの要求はなんだ。いってみろ」
『あ、あ、あ、あの、あたし銀行のものです。三宅といいますぅ』
「なに? そ、それで、どういう状況なんですか? 誰か犠牲者が?」
『男子行員の木更津さんが殺されちゃいましたぁ!』
目の前が真っ暗になった。
殺された? 銀行員が?
早くも課長の絶対命令が守れなかった。
島流しだ。そういえばこの女、三宅とかいったな。それは三宅島に左遷されるという暗示か?
『あ、あの、犯人と替わります』
犯人だと? 香ちゃんとのデートを台なしにしただけでもの足らず、よくもこんな仕打ちをしてくれたな。
「貴様、必ず逮捕してやるぞ。いいてえことがあるならいえ。そのかわり、もう誰も殺さないと誓え」
『やかましい。こっちは今それどころじゃねえんだ。馬鹿野郎!』
電話は切れた。
8
銀行内はざわついていた。とうぜんだ。殺人事件があったのだから。
「おまえ、こいつらを見張ってろ」
コングはガメラに人質たちの見張りを任せ、自分はゴジラと共にトイレに行く。ガメラは例によって一言もしゃべらないどころか、殺人事件があったにもかかわらず、一切の感情表現を捨てたサイボーグかなにかのように機械的に銃を向けた。不気味すぎる。たとえ強盗といえど、女なら少しは愛嬌があってもいいと思うよ。
それにしても、トイレではいったいなにがあったんだぁ?
さくらは叫びたかった。もしほんとうに殺されているなら、この中に殺人者がいることになる。しかもどうやらそれはこの覆面強盗の中にはいないらしい。
つまり、この縛られている人質の中にいるということだ。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「おい、医者。来てくれ」
コングがトイレから出てくると、高木医師を呼んだ。さすがのコングも、わずかに声が震えている。
「見たい見たい、あたしも見たい」
いきなりとんでもないことをいい出したのはつばめだ。後ろ手に縛られながらも立ち上がり、ぴょんぴょん跳びはねながら激しく主張する。
「なに? 死体だぞ。そんなもの見てどうする気だ?」
コングすら呆れている。
「だって、あたしたちだって状況を知る権利があるわ。なにが起こったか知らないで、人質でいるなんて我慢できない」
「たしかにそうね、わたくしもその意見に賛成ですわ」
つばめのとんでもない意見に賛同したのは、意外にもお嬢様女子大生の美由紀だ。怖いもの知らずなのかもしれない。やはり縛られたまま、すっくと立ち上がり、胸を張りつつ足を広げ仁王立ちする。
「かあ~っ、好きこのんで女子供が見るもんじゃねえぞ」
「それは差別ですわ。そんな考えが歪んだ男性社会を増長させていくのです」
お嬢様フェミニストはきっぱりという。
「ふん、勝手にしろ。しかしいっておくが犯人は俺たちじゃねえぞ。おまえたちの中にいるってこった。他にも見てえやつはいるのか? 止めはしねえ」
他の大半の人たちはぶんぶん首を横に振った。
「よし、さくら、行くわよ」
つばめはとうぜんのようにいう。
「あたしはべつに……」
そんなものは見たくなかった。どんな死に方をしてるのかは知らないが、血まみれだったり、首が切り落とされたりしてたらどうするんだ? あるいはこの世のものとは思えないほど苦しそうな断末魔の顔と目が合ったらどうする?
「いいから行くわよ。ほら立って」
たしかにちょっとだけ見たいという好奇心もある。つばめはといえばうるうるした目をぎらつかせ、好奇心いっぱいなのがまるわかりだ。この事件はつばめの名探偵モードのスイッチを入れてしまったに違いない。
「ちょ、ちょっとだけよ」
聞きようによってはいやらしい返答をしてしまう。
「ほら、勝くん、わたくしたちも行きましょう」
「あ、ああ」
美由紀もボーイフレンドを促している。こっちはいかにも興奮して小鼻を広げてるお嬢様が彼氏を振り回しているって感じだ。きっとこの彼氏も、そんなものほんとは見たくもないのだろう。
けっきょく、高木医師の他はつばめ、さくら、大学生カップル、それに大工の大田黒となぜか受付の大島が現場のトイレを見ることになった。
『犯人。てめえ、誰か殺したんじゃねえだろうな? 人質をひとりでも殺してみろ。地獄の底まで追っかけて皆殺しにしてやるぞ。覚悟しやがれ』
外から警察がマイクで怒鳴っている。
「ちっ」
コングが苛立たしげに舌打ちする。
「犯人は俺たちじゃねえっていっても信じるわけねえわな。冗談じゃねえ。強盗と強盗殺人じゃ罪がぜんぜん違うぞ。下手すりゃ死刑だ」
そんなコングの苛立ちを無視し、さくらたちは手を後ろで縛られたままトイレの前に集まって行く。
やだ、……どんな死に方してるんだろう? か、覚悟して見なくっちゃ。
さくらは思いつくままに無惨な現場を頭に描いた。最悪の場合を想定してから見なくては叫び出すかもしれないと思ったからだ。
ここでトイレのことを説明しておくと、入口はドアがひとつで、ドアを開けると真ん前に洗面台がある。その両脇にトイレの個室がある。とはいえ、個室の壁は天井まである壁で、上の方が開いている間仕切壁ではない。つまりトイレの個室は完全な閉鎖空間で、上をよじ登って出入りすることはできない。
さくらたちがドアから顔を突っ込むと、そのトイレの個室のうちの片方、さくらたちから見て右側の個室のドアが開いていた。ドアは内開きだ。そしてさらに中を覗き込むと死体が。
な、なんだこりゃあああ?
その死体はさくらの想像を絶していた。いろんな死に方を想定して覚悟を決めていたが、そのうちのどれともかけ離れていた。
紺のスーツを着た男は、洋式便器の前に両膝をつき、便器の中に顔を突っ込んでいる。両手はだらんと便器の横に垂れていて、しかも男のズボンとパンツは膝までずり下げられている。つまりケツまるだしだ。
ぎゃ、ぎゃああああ。花も恥じらう乙女に変なものを見せるなぁ!
変なもの、お尻の穴はもちろん、しわしわの袋も、像さんの鼻のようなもの丸見えだ。しかもでかい。
思わず手で顔を覆いたかったが、後ろ手に縛られているのでそれすらもできなかった。
一挙に緊張感がなくなった。怖いもの見たさで見たものは、生首でも血まみれの死体でもなく、これ以上ないくらい間抜けな死体だった。
誰も口を開かない。なんとコメントしていいのかわからないのだろう。
「とりあえず診てみましょう」
そういって中に入ったのはひとりだけ拘束を解かれた高木医師だ。彼はしばらく体を確認してからいう。
「たしかに死んでますね。死因はたぶん溺死でしょう」
いわれてみると、その便器は旧式なのか水位が高い。顔が完全に水に浸かっている。
「つまり、事故か? 小便しようとしたとき、転ぶかなんかして頭を便器に突っ込んで、水を飲んだ?」
コングがいう。少し安心したようだ。まあ、そんな間抜けな死に方をする人はめったにいないだろうが。
「そうか、そうだよ。だって中から鍵が掛かっていた。俺が拳銃で鍵を撃って開けたんだから」
ゴジラもその意見に賛成のようだ。
たしかにこの個室には換気扇はあっても、窓はない。出入り口がこのドアしかない以上、そういうことになる。
さくらも少し安心した。それなら、少なくとも人質の中に殺人犯はいないことになる。
「いいや、残念ですが、それは考えられませんね」
高木がいうと、つばめは目を輝かせていう。
「なんで?」
「だって、この人、両肩が外されてますよ。喉のところにも痣がある。つまり誰かが首に打撃を加え声を出せなくしてから肩を外し、抵抗できなくなったところで顔を便器の水につけて溺れさせたんじゃないですかね。となると、拷問殺人ってことですが……」
両肩を外したという発言で、みんなの視線が美由紀に向かう。
「冗談じゃありません。わたくしはそんなことしていませんわ。勝くんが証人です。トイレには行ってませんわ」
美由紀は弁解した。
「あ……ああ」
勝も同意する。
「けっ、わかるもんか。そんなに武道の達人がたくさんいてたまるか。その男だって自分の女のためならいくらだって偽証するだろうしな」
コングが苛立たしそうにいう。
「まって、これは密室殺人だわ」
そういったのはつばめだ。その顔は非常に嬉しそうだ。
「他殺なのはおそらく間違いないんでしょう? そして窓もなく、ドアには鍵。まぎれもなく密室殺人よ」
小説の中ではしょっちゅう起こるが、現実にはけっして起きない密室殺人が目の前で起こった。
おそらくつばめは興奮の極致にちがいない。なにせミステリーオタクなのだから。
「そんな馬鹿な?」
コングはそういったあと絶句する。誰も口を開かない。
まてよ?
さくらは思う。つまりはこういうことなのか?
今、この銀行内には二組の銀行強盗のみならず、残虐な密室殺人犯がいる?
喉を潰し、肩を外して、下半身丸出しにして、トイレの便器で溺れさすとは悪魔のような殺人鬼だ。あたしならぜったいにそんな死に方したくない。
不意に電話が鳴った。三宅が受けたようだ。
「男子社員の木更津さんが殺されちゃいましたぁ!」
三宅が電話で訴えている。
「おめえ、余計なことはいうな」
コングが叫び、三宅に近づいていく。
「あわわわ、ごめんなさい。で、でも……警視庁の熊野警部って方が犯人さんと話をしたいそうです」
「貸せ」
三宅は電話で犯人に変わるむねを伝えると受話器を渡した。
「やかましい。こっちは今それどころじゃねえんだ。馬鹿野郎!」
コングはそういうと、受話器を叩きつけた。
「けっ、こうなったら俺が犯人を見つけてやろうじゃねえか。俺たちが殺してないっていったって警察が信じるわけないからな。強盗殺人で死刑になんかなってたまるか」
コングはさくらたちを窓際に戻すと、拳銃を突きつけ叫ぶ。
「あいつを殺した犯人は誰だ? 今すぐ名乗り出ろ。俺に罪を着せようだなんて思ってるとただじゃおかねえぞ」
誰ひとり、「私が犯人です」という間抜けな人物はいなかった。
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