-CLIENT- 人工知能 2

 時刻は夕方の七時を少し回った頃だろうか。


 青山通りには仕事帰りの会社員か、男の方が少し裕福そうで女の方が多分に毳毳けばけばしいカップルの組み合わせがちらほら見受けられる。


 無表情の継士と違い、会社員は皆疲れきった様な顔で、対照的にカップルは皆幸せそうな顔で通りを歩き、夜の街に彩りを加えていた。


 大学を出て、通りを駅に向かって少し歩いた所にある喫茶店に、継士は入った。店内はそれほど込み合っておらず、継士と同じように帰り際に立ち寄って一人の時間を堪能する学生が何人かいる程度だ。


 コーヒーをブラックで頼んだ継士は席に腰掛けると、六限の講義のノートを取り出した。そして蛍光ペンを取り出すと、一時間前に自分が書いた黒文字を黄色く塗り潰す。


 ほぼ毎日、授業がある日は必ずこの習慣を欠かさないようにしていた。講義についていけないということは、彼にとっては堪えられず、また奨学金を取っている以上、あってはならないことでもあった。


 暫くは無心にノートに記載された自身の文字と格闘していたが、突然携帯が震動したことで、継士は現実へと引き戻された。


 復習をはじめてからかれこれ一時間強が経過しており、店内の客層も学生から夜の空気を楽しむ大人へといつの間にか移っている。


 周囲を意識してしまったせいで、人々の喧噪が一気に身体の中へと流れ込んできたのだろう。居心地の悪さを感じた継士は勉強道具を畳むと、早々に店を後にした。


 携帯の電源を切っておけばよかったと後悔しながらも、既に断ち切れた流れを紡ぎ直すこともまた難しい――溜め息を吐くと、継士は駅の方角へと歩く。


 人の姿はまばらとなり、遠くの高層ビルの明かりは半分が消えていた。脇道には洒落たバーや居酒屋が光を燻らせ、帰路につく継士を帰らせまいと手招きしている。


 ここで一杯というのも一興ではあったが、今日はそんな気分ではなかった。そういった渋い大人の遊びはまた別の日にしよう――そう考え、先程自分を現実へと連れ戻した張本人である携帯を取り出すと、メールの画面を開く。


 受信箱には合計二通のメールが入っていた。一通はどこかのサーバから無作為に送信された出会い系のメール。そしてもう一通の送信者を見た瞬間、継士の頭は真っ白になり、金縛りにあったかのように身体が動かなくなった。


 煌々と輝く液晶画面にはたった一文字、送信者の名前が表示されていた。


「……ありえない、そんな」


 無意識に紡ぎだした言葉と共に、意識が戻った。足は止まり、人が流れ、闇が押し寄せる。


「どうして、今になって……」


 驚きと嬉しさ、その二つを飲み込む位の闇が周囲の風景に溶け込み、アスファルトを伝い、身体に入り込もうとしていた。歪みに気付き、それらを振り払うと、継士は宮益坂を駆け下りた。


 今にも叫びだしたい気分だった。しかし同じように坂を下る数人の通行人に対する羞恥心が、行為を寸前で押し止めて理性を維持するよう継士に語りかけている。


 どうして、三年前に失踪したはずの彼女――何度メールを送っても返信が無かった――それが今になって、わざわざ連絡をよこして来たのか。


 勝手に指が携帯のボタンを叩き、彼女に電話を掛ける。しかし今迄と同じく電話は通じない。何度掛けてもそれは同じだった。


 坂を下り交差点で立ち止まると、電信柱に凭れ掛かる。


 柱は通行車の排気ガスを多分に浴びて煤で汚れている筈だったが、そんなことを気に留める余裕はなかった。信号を待つ群衆のうち一部の目が自分に向けられているような気もしたが、それも最早どうでもいいことだった。


 呼吸を整えると、携帯を再び開く。送信者の名前を見て口から心臓が飛び出そうになるのを堪えながら、メールの本文を確認する。


 そこには何も書かれていなかった。曇りの無い白色の光が輝くのみで、一文たりとも文字は見当たらない。


 やはり何かの間違いなのだろうか――そう思った刹那、そのメールの末尾に添付ファイルが含まれていることに気付いた。震える指で圧縮された添付ファイルを展開すると、中身を覗く。


「……何だ、これは」


 添付ファイルは画像データであり、そこにメッセージが書かれている――期待はあっさりと裏切られ、代わりに現れたのはよく分からない、見たこともないような形式――拡張子のないファイルだった。


 クリックし、ファイルを開こうとした継士は待て、と心の中で呟いた。もしもこのメールが彼女を語る他の人間からの、悪意あるメールだったとしたら。それこそ、毎日大量に来るスパムメールの業者よりもたちの悪い奴らによる、犯罪を前提としたものだったとしたら。


 だが結局、継士は誘惑に負けてしまった。ファイルを実行すると速やかに地図のアプリが開き、数秒に渡る待機動作の後、ある一点の場所を指し示す。


 ここから徒歩で十数分はかかるだろうか――墓地の隣に位置する小さな都立公園に目的地を示すピンが刺さり、彼の現在地からの道筋が青い点線で示されていた。


 大学近辺は青山通り沿いしか歩いたことがなく、もちろん大学から多少離れたその公園には足を運んだこともない。


 しかし、継士の足は自然のうちに液晶ディスプレイ上の点線を辿り、目的地へと継士を案内しようとし、その歩幅は次第に大きく、かつ早足となっていった。


 下から駆け上がった為、先程宮益坂で追い抜かした会社員の群れと再びすれ違った。数人に怪訝そうな顔で振り向かれるが、継士は構わずに携帯を片手に翳しながら地図上の点線を辿る。


 時刻は午後八時を少し回った所だった。初夏のからっとした、それでいて夜の冷気を浴びた風が建物の間を吹き抜け、それが合図となったかのように店からは酒気を帯び、すっかり頬を赤らめた人間の群れが通りへと躍り出た。


 眠らない街。昼の渋谷が若者の街だとすれば、夜の渋谷は大人の街だ。一秒たりともこの街が休むことは無く、昼夜問わず何らかの役割を持った人々がこの街に息衝き、金を落とし、去ってゆく。


そんな夜の慟哭どうこくを傍目に感じる位まで精神を持ち直した頃に、彼女へのメールに対し、返信をしていないことに気付いた。


『大丈夫か?』とだけ打ち、送信する。送信完了のメッセージが表示されたのを確認し、顔を上げるとそこには目的地である公園の門がそびえ立っていた。


 公園と名乗るには丁度良い広さだろうか。街灯の光が弱々しく外郭を彩り、円状のオブジェが中央に、入り口から幾分か下に置かれていた。周囲にはブランコや遊具が申し訳程度に置かれており、まるで中央のオブジェを円卓と見立て、話し合いを行っている風にも見える。


 道の中央を歩き、正面から颯爽と門を潜って入るほど不用心ではなかった。継士けいじは向かいの建物に目をつけ、壁に備え付けられていた梯子を伝って屋上に登ると、姿勢を低くして慎重に他の人間の存在を伺った。


 十分程公園を監視したが、動きは何もなかった。同じように周囲をうろつく人間が居ないことを確かめると、梯子を降りる。そして慎重に通行者を装って公園の門まで歩くと意を決し、中へと踏み込んだ。


 近くで見て、円状のオブジェだと思っていたものは水の枯れた噴水だと分かった。暫く水の流れた気配のない、冷たくなった大理石に腰掛けると、継士は周囲を見渡した。


 彼女が来るという期待、そして彼女を騙った誰かが来るという不安。二つの感情を上手く棲み分けさせながら、こんな場所に暢気に座っていていいものか、と自問を繰り返す。しかし時間が経つにつれ、その自問の回数も段々と少なくなってゆき、やがて消えた。


 彼女がもし来るのならそれはそれで嬉しいし、既に来てどこかへ去ってしまったか、あるいはそもそも来ないなら、それはそれで構わない。


 最初は警戒こそしたものの、いつの間にか継士は、もし彼女以外の何か――場合によっては彼女を装ってメールを送信し、彼を犯罪的な何かに巻き込もうとしている第三者が来たら、それはその時に、どうすれば良いか考えればいいとさえ思うようになっていた。


 時間は刻々と過ぎてゆき、諸々の焦燥とそれ以上の虚無感が、彼を枯れた噴水に縛り付け、動けなくさせていた。一方では闇を従えた初夏の風が彼を撫でつけ、継士に慰めではなく諦めを施そうとする。


 彼の気持ちも、どちらかと言えば後者の方に傾いていた。それでも神経を尖らせ、狐の様な目で辺りを監視しながら、動く物を捉えようと身構える。


 しかし、やはり継士の思惑とは裏腹に、公園を訪れる人間はおろか公園の前を通る人影さえもなく――公園に入ってから一時間が経過した。


 もしかして、と継士は立ち上がると、後ろに顔を向けた。かつて水が咲き、溜まっていた筈の噴水は今や茶色く変色し、底の方には塵と煙草の燃え滓が溜まっていた。


 何も、彼女自身がこの場所に来るとは限らない。場合によっては彼の行方を示す重要な物、あるいは痕跡がどこかに隠されている――諦めたくないという僅かな気持ちが、彼にそのような思考を植え付け、公園から立ち退くまいと踏ん張らせていた。


 継士は数分の間、噴水の中や、ブランコ、滑り台等の遊具、そして木々の付け根、考えられそうな所を見て回るが、手掛かりになりそうな物を見つけることは出来なかった。尤も、何を探すかが分からない時点で、手掛かりを見つけ出すこと自体、不可能だと分かってはいたのだが。


 公園の端、墓地側にある木の根元に腰を下ろすと継士は溜め息を吐いた。そしてようやく、公園内の空気が先程とは少し変わっていることに気付く。


 木の陰に隠れ、気配を消すと、辺りをもう一度伺った。異変の元凶にはすぐに気付いた。


 先程まで腰を下ろしていた噴水に一人の少女が腰掛け、星すら見えない淀んだ夜空を物憂げに見上げていた。

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