-AFRAID- 不穏分子 2
現代/世田谷/理恵
背後を振り返り、首都圏の様相を再度確かめた
新宿に立ち並ぶ高層ビルは無事のようだが、それらと張り合うかのように黒煙が数本、揺れながら成層圏を目指している。
「無事に辿りつけるかしら……」
理恵の独り言は、オートバイの轟音によって瞬時に掻き消され、空気と同化した。
急いで渋谷警察署に戻ったが、特課のオフィスはまるで夜逃げをしたかのように、事務用品のみを残し空っぽになっていた。そして地下駐車場に停めてあった私物のオートバイに貼られていたメモ用紙——そこには温泉のマークが描かれていた——を見て、有事の際の拠点、つまり下呂に降ったのだと察した。
道路標識はここが世田谷区であることを示している。首都圏とは打って変わって郊外には特に何の被害も出ていないようだが、上空を見上げると遠くをPWCSの巨大な飛行兵器が編隊を組んで、理恵と同じ方向へと移動を続けていた。そして離れたにも関わらず、散発的な銃声音はここまで届いている。
周囲を見渡すと、車はもちろん、それらの隙間にまで入り込む形で、人間の群れがあちこちを右往左往している。
首都圏から遠ざかろうとしているようにはとても見えない。単に自分たちの住居からほんの十数キロ離れた首都圏で大規模戦闘が勃発したという事実を受け入れられずにいるのだろうか。
そんなことを考えながら、理恵は再び彼方へと消えてゆくPWCSの編隊に目を向けた。それらの行く先は、おそらく下呂——。
今頃特課の連中は、PWCSが存在し、政府の危惧していた通り侵略を開始してきたことに心底驚いている筈だ。もちろん、燠継士と彼らの間に何らかの繋がりがあることについても。
脇腹に違和感を抱いた理恵は路側帯にオートバイを停めると、原因を手で探る。程なくして携帯端末が振動していることに気付き、それを手に取ると、通話ボタンを押した。
「理恵です」
「風街か。こちら夏海だ」
ところどころ雑音が入るが、その声が特課の責任者である夏海のものであることは間違いない。
「無事でしたか、課長」理恵は一度携帯端末を耳から遠ざけると、液晶ディスプレイの上部に目を向ける。
圏外の表示はいつの間にか消え失せており、代わりにアンテナ二本の記号が表示されていた。
「現在世田谷区まで脱出しました。敵のジャミングは範囲性のものでしょうか?」
「そう見て間違いないだろう」夏海は咳払いをすると、「我々も渋谷から遠ざかり、高井戸辺りまで差し掛かったところで電波が復活した。だが、ネットの方はアクセスが不可能となっており、壊滅的な状況だ……」と続けた。
夏海の声には少し焦燥が感じられる。自分の部下、あるいは自分が奉公する国家、そしてあるいは家族——に起こる事態に対して様々な思いを馳せ、それらを隠しきれていないようだ。
「……困りましたね」理恵は淡々と呟くと、「燠継士を逃がしてしまいました」と告げた。
「……それは言葉通りの意味だろうか、それとも死んだという意味も含まれるのか?」
「分かりません」理恵は即答した。「途中までは追えたのですが、PWCSの邪魔が入ったことにより完全に見失いました」
「分かった。何にせよ君が無事でよかった。報告ありがとう」電話の向こうで夏海はそう言うと、「こちらでも幾つか分かったことがある——三年前の件だ」と続けた。
三年前の件——理恵が公安特課から身分を隠し、表参道大学に入学するきっかけとなった事件。
「当時、燠継士と交際関係にあった同級生、鹿野絵昊が失踪し、今日の今日まで行方不明のままだという点は変わらないのだが、そもそもこの鹿野絵昊という人間に、謎が多すぎることは君からの報告にもあった通りだ」
「ええ……」通話が長くなることを確信したのか、理恵は側部にヘルメットを括り付け、再びオートバイに跨ると、アクセルペダルを踏み込んだ。
「鹿野絵昊の両親とされる二人は交通事故により既に他界している。この情報は以前、身辺調査をしていた君から聞いたものだ」
「その通りです」
その情報を、理恵は半年以上前に夏海に提示していた。鹿野絵昊の両親は北海道から引っ越してきた直後に車を運転中、崖から転落し、彼女を残してこの世を去っている……という話だ。
「彼らの死についてさらに踏み込んで調べたところ、役所の死亡届提出日が巧妙に改竄されていることが分かった」
「改竄……ですか」
風の煽りを受け、顔を歪めながら理恵は相槌を打つ。
「実際に二人が死んだとされる日は、死亡届に記載された日時からおよそ七ヶ月前だ」
七ヶ月前。つまり、まだ北海道に住んでいた頃に、鹿野絵昊の両親は死んだことになる。
「札幌市、そして神戸市。両自治体における彼らの個人情報が、巧妙に書き換えられている。両自治体の職員もいつどのようにして改竄が行われたか、全く知り合わせていないそうだ」
「……申し訳ありません。私が力不足である故、PWCSの侵攻までに突き止めることが叶わず」
喋った後、理恵は夏海に聞こえないように舌打ちをした。
「鹿野絵昊の両親の出生日は昭和四〇年代だ。個人情報がデータベース化され管理されるようになったのは最近のことで、それ以前の管理形式は紙ベースであることが大半だ。改竄を行った人間は二人が神戸市で崖から落ちて転落死したことを真実とさせる為、それらの紙面に関しても同じように手の込んだ改竄を加えている。さらには転落事故時の警察の現場検証記録、さらには架空の葬儀屋をでっち上げ、巧妙な葬儀の記録を取らせるなど——。鹿野絵の両親が北海道でほぼ同じ死因、つまりドライブ中に崖から転落して死亡した、という点も我々の捜査が遅れる一因となってしまった」
役所に保管されている一個人の情報を書き換えるのは、市役所の職員であっても至難の技だ。ましてやデータベースに加え、紙面として保管された情報までも秘密裏に改竄し、整合性を取るためには膨大な手間と作業時間が掛かる。
「……鹿野絵昊自体について、何か判明したことはありますか?」
「今は両親について、進展があったのみだ」夏海はすぐに返答した。「だが彼女の経歴についても、恐らく今後、多数のことが判明すると思われる」
「分かりました。ただ、PWCSが侵攻してきた今になっても、我々は引き続き燠継士、鹿野絵昊の情報収集を行う必要はあるのでしょうか」
夏海は電話の向こうで暫く沈黙した後、「上の判断が全てだが、私は行う必要があると確信している」と言い、そこで一旦言葉を切った。「——実は電話したのは、そのお偉方の件だ」
「お偉方の件?」
「下呂への退避だが、我々は一旦延期となりそうだ」
延期? なぜこのタイミングで? 理恵は再び舌打ちをしそうになったが寸前で思い留まり、夏海の報告を待った。
「……政府要人を乗せた公用車が、現在PWCSの追撃を受けている。それらへの攻撃を自衛隊の第三、第一〇師団、つまり近畿と中部地方の任意部隊が受け持ち、我々特課は直接的な護衛を行う予定。最終的な目的地は下呂だが、恐らく迂回に迂回を重ねる可能性が高い」
「つまり、特課は要人達に引っ付いて護衛し、自衛隊が要所要所でPWCSを迎撃して足止めする、という認識で問題ないでしょうか」
無茶だ。理恵は心の中で呟いた。積極的に止めはしないが、現状PWCSの兵器に対抗できるものを、自衛隊も特課も保持していない。そして、自衛隊以上に特課は非力だ。直接の殴り合いなど出来る筈がない。
「その通りで問題無い。たった今、君の携帯に閲覧回数一、五分後に自動消去される暗号化ファイルを送っておいたから目を通し、我々との合流場所、作戦概要について把握するように」
「承知しました。要人の一覧も、そのファイルに記されていますか?」
「ああ、確認しておいてくれ。では後ほど」
夏海との通話が切れる。理恵は携帯端末に届いていたファイルを開くと、中に入っていた要人の一覧に目を通し——不気味に微笑んだ。
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