第二章

-CONNECT- 残夢追想

高校二年生としての学生生活も終わろうとしている、そんなある日。


 その日も継士けいじは、あと数ページに迫った小説の最期を見届ける為、放課後になっても荷物を整理せずに教室に居座っていた。


 一人で小説を読むことが、その時点での継士にとっては何よりの至福だった。六限目が終了してから約二時間もの間、誰にも邪魔されず、小説を読み、自分の世界に浸れるのだ。その世界には自分と小説の登場人物だけが存在すればそれで良く、クラスメイトという邪魔者は必要なかった。


 継士が放課後に残り始めてからかれこれ一週間が経つが、教室に戻ってくる生徒は殆どおらず、放課後になって三〇分も経てば、教室で噂話に花を咲かせる女子達も何時の間にか何処かへと消えていた。


 だから、一七時を過ぎた所で教室の扉がガラガラと音を立てて開いた時、継士は思わず顔を上げ、その方向を直視してしまった。


 一人の女子生徒が扉に手を当て、同じように彼のことを見つめていた。


 背は一五〇前後だろうか。夏服を身に纏い、その上から紺色のブレザーを羽織っている。黒い髪は肩に届くか届かないかの所で綺麗に切り揃えられており、それに包まれた端正な顔が驚きの表情を浮かべている。


 継士もその女子生徒も、まさか夕暮れ時に教室で他の生徒に出くわすとは思ってもいなかったようだ。若干の間が空き、時が止まったかの様に二人は口を開け、その場に硬直した。


「……驚いた。誰も居ないだろうな、って」


どれ程の時間が経過しただろうか、先に口を開いたのは女子生徒の方だった。どう返そうか迷っている間に、彼女は教室に上り込んできた。


「ええと……今読んでいる小説のキリが凄く悪いから」


彼女がすぐ隣の席の脇に立った。自分に用があるのかと不審に思いながらも、継士は身体を彼女の方へと向ける。


「ごめんなさい。読書の邪魔をしちゃった?」


そう言うと彼女は鞄から本を一冊取り出すと、それを隣の机の中へと忍ばせた。


「ーーこの子に漫画、借りていたの。危うく家に持って帰る所だったから、忘れないうちにと思って」


言葉と共に、彼女が微笑む。


 このままだと、彼女はこれで帰ってしまうーー理屈は分からなかったが、何故か継士はその時、彼女との繋がりをここで終わらせるべきではないと直感的に悟ってしまった。それは可愛い女子生徒に微笑まれたことにより思い上がっていただけかもしれなかったが、彼は会釈をし、去ろうとする彼女を「ちょっと待って」と言って、呼び止める。


 呼び止められた彼女にしても、それは意外だったようだ。あ、と小さく呟くと、再び彼の方に身体を向ける。


「君、名前は?」


継士の質問に、彼女は口を半開きにし、数秒の間沈黙した。


「少し前に転校してきたクラスメイトにそんな質問をする人がいるとはね?」


「クラスメイト?」


条件反射で言葉を返し、記憶の中から今、目の前に立つ女子生徒の記憶を探り出す。

 頭の中には、これまで読んでいた小説が残りカスとなって漂っている。


 それらを撥ね退けることは簡単だった。手にしていた分厚い小説を閉じると、机の上に置くーー登場人物の映像や、物語の設定が頭の中から完璧に消え去り、過去と現在の、現実世界の情報が脳を埋め尽くす。


 もちろんその中に、彼女の情報も存在していた。いくら継士とクラスとの接点が希薄であるとはいえ、二週間前のホームルームで紹介のあった転入生のことを忘れている訳がなかった。


「……ごめん。鹿野絵さん、だよね。季節違いのーー転入生の」


「ああ、よかった! 本当に忘れられていたらどうしようかなって」


小説の世界に気を取られ、現実の世界のことを忘れていた。そんな説明ができる訳もなく、継士はそう告げると、「本当にごめん」と呟く。


 不意に彼女が隣の席に、すとん、と腰を下した。香水でも付けているのだろうか、柑橘系の甘い香りが継士の鼻腔をくすぐった。


「継士君は、いつもこの時間まで教室に残っているの?」


「ほぼ毎日、かな。家に帰ってもすることがないし」


彼女が継士を下の名前で呼んだことを若干気にしつつ、そう答える。


 普段の自分であれば、一人で居るのが好きだから、と言う筈だ。だが、そんなことを言ってしまえば、目の前の女子生徒は気を遣ってたちまち教室を出て行ってしまうかもしれないーーいつもならそれは大歓迎だが、今日この場面では、何故か非常にまずい気がした。


「することがないなら、どうして家でも小説を読まないの?」


「……どうしてだろう。小説は学校で読むっていう癖が、自己暗示として定着しているからだと思う」


「そっか」


彼女は相槌を打つと、視線を窓の外へと移す。


 教室の外に植えられた針葉樹が風に煽られ、ざわざわと揺れた。


 何か喋らないと。焦燥感が次第に込み上げてくるが、先に彼女が継士に向き直り、口を開いたことで、その心配はすぐに消え去った。


「あの、継士くんーーこの前、クラスの新田くんのことを、助けたよね?」


彼女が急に早口でその話題を捲し立てたものだから、継士は面食らい、頭の中が一瞬真っ白になった。


「助けた……のかな?」


「私、あの時ずっと見ていたの。その……みんな、見て見ぬふりで、私も含めて、誰も注意してあげることができなかった。なのに、継士くんは」


 助けたつもりなど毛頭もなかった。その日、たまたまいじめの現場が継士の机の前で行われた為、騒音の源を叩いただけだ。


 そうかーー現場に彼女も居合わせていたのだ。その時の行為を含め、継士の心の中を、またたくまに羞恥という感情が埋め尽くす。


「いや。正義感とか善悪とか、全然関係ないんだ。煩くて小説が読めなかったから、注意しただけーー」


言ってから継士は、少し後悔した。本当のことを言わずに「よくないと思ったから」と言っておいた方が、印象が良かったのではないだろうか?


「それでも」と彼女は言って、一呼吸置いた。「継士くんのお陰で、あの人たちはむやみに手出しができなくなった。でも、その代わり、継士くんは」


彼女はそこで言葉を止め、何とも言えない表情で俯く。


 今、クラスから村八分にされているのは他でもない、継士だった。


「それも仕方がないよ」


言った後で、継士は考える。どうして鹿野絵はむきになってまで自分がやった行為を肯定し、かつ褒めたがるのだろうか?


「本当に僕は、自分の為だけに彼らを注意した。……それで今、余り良くない仕打ちを受けていることは鹿野絵さんも知っているね?」


彼女は頷いた。


「そう。だけれども、僕はこう見えて小心者だよ。実際注意した時は震えが止まらなかったし、嫌がらせを受けている最中も泣き出したいぐらいだった。今では言ったことも含めて後悔している、っていうのが本音なんだーーそれに、いじめられる側にだって幾らかの原因はある。自分もそれに当てはまるというのは重々承知しているし――後悔はしているけど、仕方のないことなのかもしれない」


言い終わった所で、鹿野絵と同じように、視線を彼女の胸辺りに落としていることに気付いた。視線を上に向け、彼女の顔に再び目を向け、少し驚いた。


 彼女の表情は、哀しげででもあるが、どこか怒っているようにも見えたからだ。


「……おかしいよ。継士くんは正しいことをしたのに、それが原因で嫌がらせを受けて、それに対しても立派に反抗している癖に、心の中では自分はそうされても当然だって思っているってこと?」


その非難はいじめっ子達に向けられているのではなく、最終的には継士に対して狙いが定まっていることに気付き、彼は胸の奥が詰まる様な感覚に襲われた。


「正しいのは多数派だよ。彼らがクラスの主導権を握っているのは、人付き合いの悪い僕だって何となく分かる。傍から見れば、その大本に反発する僕こそが間違っていると思われて当然だし、さっきも言った通り、仕方のないことだ」


鹿野絵は何か言おうとして、口を半分開いた。


「ほら、見てごらん」


それを遮る形で、継士は彼女の視線を自分の机へと向けさせる。


「あまり女子に見せられる様なものではないけど。放課後まで残るのは、読書の為だけじゃあないんだ」


机には黒いインクによって、罵詈雑言がずらずらと書き込まれていた。誰がそれをやったかは、事情を知っている者からすれば一目瞭然だ。


唖然とする彼女を尻目に、継士は続ける。


「放課後遅くまで残って、下校時間近くになってから、僕はこの落書きを消すようにしている。いつ彼らがこれを書いているのか、殆ど席を離れることのない僕からすると甚だ疑問だけれど……この時間になれば、僕は人目を気にせずに、雑巾で机を拭くことができる。水性じゃないから、ちょっときつく擦らないといけないけれど」


羞恥を塗りつぶす形で、継士の楽園は成り立っていた。


「……酷い」


そう呟いた彼女の顔が、継士のすぐ近くにまで寄っていた。甘い香りがますます強くなるが、噎せ返るほどでもなく、それは継士の心を擽り、弄んでさえいる。


「これが僕の現状だよ。分かったなら、あまり僕に近づかない方が良い。鹿野絵さんまで巻き込みたくないしーー」


どう転んでも最終的に、人を遠ざけてしまうんだなーー自嘲したところで、彼女が机のある一点を凝視していることに気付く。


「あれ、継士くん、上の名前、燠、って言うの?」


継士を罵る文章の中に、彼の苗字と名前が書かれていた。


「ん? ああ。よく変わった苗字だって言われる」


「だよね。私もよく、珍しい苗字と名前だってーー下の名前、昊って言うの」


「ソラ」


「そう、ソラ」


彼女はそう言うと、ポケットからシャープペンシルを取り出し、机の落書きの空いた箇所、端の方に、鹿野絵昊、と小さく書き込んだ。


「ほら、これで私の名前、次からすぐに思い出せるでしょ?」


そう言うと、彼女はくすっと笑う。


「落書きであることに変わりはないから、教師に見つかる前に消したいんだけど……」


「あら、そう?」鹿野絵は微笑を浮かべながらも、「決めた!」と叫び、突然席を立った。「忘れて貰わない為にも、私も放課後、継士くんと一緒に残ることにする!」


「……は?」


どういう話の流れだ? いや、冗談? 様々な憶測が継士の頭の中を駆け巡るが、鹿野絵は彼に考えさせる余裕を与える気はないようだ。


「私、成績はそんなに良くないし? どっちにしろ成績優秀者の継士くんに勉強を教えて貰わなきゃって常日頃から思っていたんだ」


間髪置かずに彼女はそう言うと、継士に背中を向ける。


「……やっぱり……から一人で……抱え……だね」


唐突に、彼女が何かを呟いた。


「……え?」


聞き取れなかった継士は目を細めながらも、何となく自分に向けられた言葉ではないことは分かっていた。


 何を呟いたんだ? 聞き漏らしたことが、何故かとてつもない失態ーー世界の損失に繋がるような、そんな感覚に自分が陥っていることに気付く。


「……あれ? ごめん、何でもない」彼女も場の空気に違和感を抱いたようだ。

「じゃあ、また明日!」と、口調を戻してそう告げると、足早に教室を去ってゆく。


 彼女の後ろ姿が過去の残像となってもなお、継士は教室の戸口を無心に見つめていた。多分、久々に女子と喋ったことで心が酔っているんだろうーー暫く経ってから、継士はようやく結論を下した。


 どこか腑に落ちないところもあったが、そんなことは次の日から鹿野絵が本当に放課後に残り始めたことで、どうでもよくなった。

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