第15話 駅の峠
ヒロトの視界は黒と灰色に二分されていた。床一面を覆い尽くすエスカレータと、その天井をなすコンクリートだ。茫漠たる黒い段々が、あるものは上に、あるものは下に流れ続けるその様は、巨大生物の生命活動を思わせる。
赤石山脈は、甲府階層都市を西に抜けたところに立ちはだかる、日本アルプスをなす三つの山脈のひとつだ。複雑に折り重なった山の斜面はほぼ全面的にエスカレータに覆われ、あちこちに巨大な壁や柱が立ちはだかり、巨大な天井がそれらに支えられている。
天井のところどころにある天窓からは日光が取り込まれている。甲府のような都市とは違い、ここには層状構造がほとんど存在しない。これではケイハの垂直座標偽装を使っても、自動改札の目を逃れることは出来ないだろう。
平地と違ってエスカレータのある斜面なら、座っているだけで楽に上まで登れるだろう、というヒロトの目論見はあえなく外れた。一直線で山の稜線まで登れるレーンなどは無く、ところどころで乗り換えが必要だった。
エスカレータで登り切った先には下りのエスカレータが現れて立ち往生、というトラップもあちこちにあり、そういう場合は下りの経路を逆走するか、手すりを乗り越えて隣のレーンに入るしかない。ベルトの動いているエスカレータを横に越えるというのは容易なことではない。
「エスカレータをご利用のお客様は、ベルトにおつかまりになり、黄色い線の内側にお乗り下さい」「エスカレータ付近で遊んだり、またエスカレータから身体を乗り出したり、駆け上がったりするのは大変危険ですので絶対にやめましょう」
同じ内容のアナウンスがあちこちから少しずつ違うタイミングで流れ出すので、音はほとんど認識不可能な言葉の靄となって構内をこだましていた。
ケイハから譲り受けた端末で時刻と現在位置を確認する。まもなく午後になろうというのに、稜線までの距離はまだ半分ほどある。当初の計画よりもだいぶ遅れている。その上、昼が近づくにつれて気温が上がってきたように思う。おそらく壁一枚隔てて外につながっているせいで、太陽熱が 直接流れ込んでくるのだろう。
ヒロトがネップシャマイの電光板を持って甲府を出たのは朝の八時すぎのことだった。ケイハの夜を徹した充電作業は結局功を奏さなかったようだ。電光板をここに置いていってほしい、という彼女の頼みをヒロトは断った。
「一応、こいつとは約束があるんだ。期限がきれた18きっぷを渡すっていう」
もちろん現状ではその約束も果たせそうにないが、広い横浜駅内を歩きまわっていれば何か解決策が見つかるのではないか、とも考えていた。ケイハは残念そうにしていたが
「この端末を持って行くといいよ。SUICA認証情報が内蔵されているから、君もスイカネットに接続して一部サービスを利用できる」
といって、18きっぷと同じサイズの箱型端末を渡した。
「もう死んじゃった仲間のアカウントだけ残してるの。ふつうはSUICA利用者が死んだら、その情報がスイカネットに送信されてアカウントが停止されるんだけれど、その人の分は色々やって送信を止めたの。私のアドレスもそこに書いてあるから、何かあったら連絡して」
「…いいのか? 大事なもののように見えるんだが」
「ええ。君のような人にこそ必要なものだし、それに私にとってもその方がいいと思う。変な言い方だけど」
そうして手渡された端末を持って甲府を後にした。
ヒロトの目的は山脈の横断であるため、山頂と山頂を結ぶ稜線のうち比較的低い場所を越えて反対側へ向かう。いわゆる駅の峠だ。
横浜駅の山岳地帯は、平地ほど決まった道がない。通行人はそれぞれ違うエスカレータの流線に従って移動するため、他の通行人と出会うことは少ない。だが駅の峠ではこれらの流線がいったん集合するため多くの人が行き交い、ちょっとした休憩所になっている。わずかにある平らな場所には待合室が生成され、そこに商品を並べて商売を始める者もいた。SUICAを持たないヒロトは買い物はできないが、飲料水だけは無料だったのでボトルに補充した。
峠に来る人はヒロトのような横断者がほとんどだが、登山者も何人かいた。ここから稜線沿いにエスカレータを登って山頂まで行くらしい。「なぜそんなことをするんだ」とヒロトが聞くと、三十歳ほどの登山者の男は「青天井を見に行くのだ」と答えた。
この近くにある山頂は横浜駅の外にあるという。直径数キロほどの空間には自然の地面が露出し、上には屋根がないので、天気がよければ視界一面に青天井が見られるのだ。いわば巨大な「喫煙所」とも言えるが、さすがに日常の喫煙でこんなところまで来る者はいない。
「若いころは富士山に登ったけどね、あそこはてっぺんまでエキナカだからつまらんよ。窓があるから外は見られるけどね。やはり登山の醍醐味は外の空気に触れて、青天井を見ながらビールを飲むことだよ。あんたは青天井を見たことがあるか?」
「ああ。わりと頻繁に」とヒロトは答えた。
登山者の男はふーんという顔をして
「富士山は斜面が単純だから、一直線で登れるエスカレータが多すぎてつまらんね。それに数年前に横浜駅観光局とかいう連中が勝手にあの山をなんとか聖地に指定したせいで、観光客が増えて登山マナーが問題になってるらしいよ。おれが登った頃はまだ4000メートルなかったかな。そのころはまだ登山をする人は少なくて、山は静かで良かったものだよ」
と語った。ヒロトは黙って持ってきた携行食を食べていた。
ひとしきり休憩すると、峠から伊那谷に向かって下り始めた。下りのエスカレータはかなり楽に歩けるので、調子に乗ってスピードを上げ、途中で足を踏み外して転倒し、勢いでカバンが隣のレーンに放り投げられてしまった。そのレーンが登りだったものだから、回収するのにひどく時間と体力を無駄遣いしてしまった。
コンクリート天井の窓から漏れてくる日光も減り、伊那谷に近づくころには、だんだんエスカレータの流れ方にある種のパターンがあることが掴めてきた。
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