第9話 超電導鉄道
「この壁がいちばん薄いです。ここに穴を開けましょう」
電光板だけとなったJR北海道のネップシャマイは、自分のほぼ全身であるディスプレイにそう表示した。ヒロトはカバンの中から構造遺伝界キャンセラーを取り出した。この工作員はそのボディの死に際に、頭脳部分である電光板と、この武器だけをヒロトのカバンに忍ばせておいたのだった。
手にとってみると構造遺伝界キャンセラーは驚くほど単純な外観をしていた。懐中電灯に似た筒に、出力を調整するつまみと照射のスイッチ、それとバッテリー残量を表す小さな液晶があるだけだ。底面にはJR北海道のロゴマークである狐のシルエットがあしらわれている。人類が数百年にわたって全く太刀打ちできなかった横浜駅の膨張に立ち向かえるテクノロジーの産物とは到底思えない。
「このスイッチを押せばいいんだな?」
「はい。人体に当てても無害ですからご安心ください。ただエネルギーを無駄遣いしないように、出力は控えめにしましょう」
ヒロトはその懐中電灯を壁に向かって照射した。壁は熱線を浴びせられたアイスクリームのようにどろどろと溶けていった。
「ここらへんの壁は生成後数百年経っていますからね。もともと高温多湿な日本では、コンクリートは百年程度の寿命しかないんですよ。構造遺伝界が浸透して横浜駅化することで強固になっていますが、それを消去してしまえばもうぼろぼろです」
しばらくすると、壁の穴が貫通して向こう側の空間が見えた。電灯はまったく点灯しておらず、真っ暗だ。ひんやりといた空気が流れ出てきたが、今朝がた通ってきたカビ臭い旧道と違い、臭いはほとんど無い。
「この穴が、甲府まで続いてるわけか」
「ええ。ところでヒロトさん、甲府には何しに行くんでしたっけ?」
「キセル同盟という組織のリーダーを探しに行くんだ。自動改札から長期間逃れているとなれば、スイカネットの届かない場所にいる可能性が高い。つまり、喫煙所が集中している甲府ってことだ」
「なるほど。それは興味深いアイデアですね」
「…お前が考えたんだけどな」
ボディを失ったせいで、ネップシャマイの短期記憶力は著しく低下していた。彼のボディには見たもの・聞いたものをすべてアーカイブする補助記憶装置が搭載されていたからだ。いまの彼の頭脳には、電光板の背面にはりついた小さな主記憶装置しかない。このため、ヒロトと会ってから見聞きしたものは、なんど言っても覚えられないようだった。
「ユキエさんが設計したもので、僕も技術的な詳細はよく知らないのですが」
と前置きして、彼はその小さな電光板に文字をいっぱい並べて説明した。
「このボードに搭載された僕の主記憶装置は、構造としてはヒトの脳に似ているんですよ。ナノユニットが無数に結合したネットワーク状になっていて、そこにデータを流し込むと、ちょっとずつネットワーク構造が変化するんです。ふだんは補助記憶装置の内容を何度も反芻させて、内容を定着させるんですが。」
「おれと出会ってからの出来事が定着していないのは、記憶を反芻するヒマが無かったってことか」
「そういうことです。一日に三時間くらいは外部の情報収集をシャットアウトして、反芻作業に集中するんですよ。まあ、皆さんのいうところの睡眠ですね。」
どうやらこの北海道出身のヒューマノイドは、その姿形のみならず多くの点で、24時間動き続ける自動改札とは大きく異る存在であるようだった。わざわざ記憶力の悪い人間のような頭脳を搭載したのは、対人用の工作員だからコミュニケーション能力に重点を置いたということか。
発掘作業を続けること30分、どうにか壁に人が通れる程度の穴が空くと、構造遺伝界キャンセラーの電池残量表示は「82%」にまで減った。
「充電機能はボディに搭載されていたのですが、こうなると内蔵のバッテリーだけが頼りですね。こういう事態は弊社もあまり想定しなかったようです。まったく、なぜ僕のボディだけが破壊されてしまったんでしょうね? 横浜駅にはそういう物理的な危険性はほとんど無いはずなのですが。」
ヒロトはその質問には答えず、穴の中に入っていった。
「…で、ここは何なんだ?」
そこは、音の反射から察するに途方も無く細長いチューブ状の空間のようだった。光源と呼べるものはネップシャマイの電光板しかなく、そのために彼が喋るのに合わせて周囲全体が呼吸するように明滅した。
「ここは鉄道の跡地です。」
「鉄道? なんだそれは」
「乗り物ですよ。駅と駅を結んでいたものです。」
「駅と駅? ちょっと待て、言っている意味がよくわからないが。横浜駅が昔は複数あったってことか? それで、こういうトンネルでつながっていたと」
「全然違いますが、大体そんな感じですよ。」
「要するにこれはエレベータみたいなものか」
ヒロトはエキナカに入った直後に出会った、エレベータ番の中年女を思い出していた。つい昨日のことなのに、ずいぶん昔の話のように思える。
「そうですね。ただ、ものすごく速いです。営業していたいちばん最後の頃は、東京から大阪まで40分で着いたそうですから。」
大阪がどのあたりなのかヒロトは知らなかったが、とにかくものすごく速いということは何となく分かった。
「へえ、横浜駅にはそんな乗り物があったのか。スイカネットでも見たことが無かったんだが」
「これは横浜駅の一部ではありませんよ。人間が作ったものです。」
「人間が? バカ言うな、こんなでかい穴を人間が掘れるわけがないだろう」
ヒロトは首をかしげた。彼に想像できる人間の建築物といえば、九十九段下にある自分たちの住居だけだった。岬の周辺にある陸地から伐採した木や、横浜駅から放棄されてくる材料を組み立てて作ったものだ。一番大きい岬の中央の公会堂が、40メートル四方ほどしか無い。こんなキロ単位の構造物が人間の手で作れるとはまったく信じられなかった。
「大体、人間の作ったものが、どうしてまだ横浜駅の中に残ってるんだ」
「これは超電動式の鉄道ですからね。構造遺伝界は、超電導物質に反発する性質があるんですよ。だから鉄道周辺の空間を取り込めず、コンクリートで覆ってしまったんでしょうね。」
暗闇の中をしばらく甲府方面へ向かって歩くと、だんだん目が慣れてきて、周囲の様子が薄ぼんやりと見えてきた。
「ありました。これが車両です。」
ネップシャマイが言った。ヒロトの足元には、タタミ一枚分ほどの金属製の一枚板が置かれていた。上面は突起のない平板で、四隅に何かをつなぎとめるアンカーがあるだけだ。
「貨物輸送用に使っていた小型のタイプです。この上にコンテナを置いて運ぶんです。旅客用があれば良かったのですが、まあこれでも問題ないでしょう。上に座ってください。」
ヒロトが言われたとおりに金属版の上に乗ると、板は数ミリだけ下に沈んだ。どうやらこの板自体が少し地面から浮いているようだった。
「…待て、これに乗って行くのか?」
「安心してください。人体に影響のない速度までしか出しませんから。まず前方のカバーを開けて端子を出してください。ああ良かった、AAT(※)規格ですね。これなら制御可能です。僕の背面からケーブルが伸びてるので、それを接続してください。」
ヒロトは電光板に表示される指示通りに作業を進めた。ひととおりケーブルを接続すると、ネップシャマイはふと黙った。唯一の光源である電光板の文字がなくなると、あたりは全くの闇に覆われた。彼の両端部にある排熱ファンが回転するごうごうという音だけが周囲に響き、何やら壮絶な作業をしていることが察せられた。
「侵入に成功しました。」
一分ほどして表示が復活した。
「それでは出発します。ここからだと東京方面と甲府方面に行けますが、どっちに行きますか?」
「…甲府だ」
「わかりました。それでは出発しますよ。しっかり掴まっていてくださいね。」
掴まれ、と言われても板上に掴めそうなものは何もなく、ヒロトは俯せの体勢になり、板の前方の突端を両手でつかんだ。金属板は「すっ」と一センチほど浮いたかと思うと、そのまま音もなく前方へ加速しはじめた。
空気がものすごい勢いで顔にぶつかってきて、耳元ですさまじい音を立てはじめた。手に握った金属板がどんどん手に食い込んできた。どうもシャマイは自分で「人体に影響のない速度」と言ったことを忘れてるのではないか、と妙に冷静に考えた。
※AAT: Almost all terminal / ありとあらゆる端子
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