第7話 旧道

 横須賀から大船に向かうかび臭い旧道を、大小ふたつの影が歩いている。

「ここまで来るのに一年かかりました」

 JR北海道の工作員、ネップシャマイは語る。旧道を歩くこと一時間、大船までの道のりはあと半分ほどだ。この小さな工作員は体格のわりにヒロトよりも歩くのが速く、それでいて全身を忙しく動かしている印象もない。無駄のない動き方、という印象だ。

「道中いろいろな人達と出会いました。エキナカの人たちは、横浜駅に対してさまざまな価値観を持っているものですね。例えば宮城のあたりには、有名な大堤防があるのですが、あのあたりは駅は神聖なものとして信仰されているんですよ。冬戦争から国土を守るために横浜駅が生まれた、とかなんとか。実際の横浜駅の増殖は冬戦争より一世紀ほど後なのですが、信仰においてそういうディティールは問題視されないですからね」

「なあシャマイ、あんたは工作員なのに、そんなに素性をべらべら喋って大丈夫なのか?」

 ヒロトが聞くと、小さな工作員は笑って言った。

「誤解があるようですが、僕はべつに横浜駅の住民と敵対しているわけではないんですよ。我々の目的はあくまで、横浜駅の北海道上陸阻止です。僕の任務は一般情報収集なので、内地の方々と話すのも任務の一環なんですよ。どこにどんな情報が転がっているか分かりませんからね」

 そういうものか、それもそうだなあ、とヒロトは思った。彼の持つ工作員のイメージは、たまにスイカネットから流れてくる戦争映画のものだった。まだ日本とかアメリカとかいった人間による政府が機能して、人間と人間が領土をめぐって争っていた時代のものだ。

「そういえば、おれが子供の頃に北海道の防衛線が突破されたって噂を聞いたんだが、あれはデマだったのかな」

「いいえ。それは真実ですね。一度は突破されたんですよ。構造遺伝界が函館のあたりまで浸透していたそうです。」

 ネップシャマイはさっき留置所に穴を開けた筒を取り出した。「構造遺伝界キャンセラー」だ。

「これで何とか海峡まで押し戻したんです。ユキエさんの技術です。あの人がJR北海道の技術責任者に就任してから、おそらく人類史上で初めて、横浜駅を押し返すことに成功したんですよ」

 彼は自分のことのように誇らしげに言った。


 横浜駅が海を渡れないことは、その拡張の始まりから知られていた。

 もともと「横浜駅」という名は、その始まりの地である港湾都市の名から付けられたという。東京湾に臨む位置に端を発した横浜駅は、ほぼおなじ速度で北と西に向かって膨張し、数年後には周辺各地の空港を呑み込み、アクアラインと呼ばれた自動車道路を伝って房総半島に渡った。

 この時点で東京への物流はほとんど遮断され、首都としての機能は完全に停止した。日本政府は拡大する横浜駅に追われて北へ北へと逃亡したが、やがて山河を転がる岩のようにその身をすり減らしていった。どこで消滅したのかは歴史に伝えられていない。

 この増殖する建造物が本州の北端まで辿り着いたのは、増殖開始から一世紀半ほど後の事だった。河川程度の幅であれば連絡通路を伸ばせる横浜駅であったが、20キロ近くある津軽海峡を渡ることは出来ない。

 青森の北端・大間岬では、横浜駅が北海道に向けて連絡通路を伸ばしては、自重に耐え切れず崩落していく様が地元住民に何度も目撃されている。

 横浜駅の上陸を阻止するJR北海道にとっての唯一の懸念は、青函トンネルを通じた横浜駅の侵入であった。トンネルを埋めても意味は無い。構造遺伝界は鉄骨やコンクリートを通じて伝搬できるからだ。すでに建設されたトンネルを地下から取り除く技術は、当時の人類には無かった。

「横浜駅は少しずつ進化しているんですよ。より正確には、少しずつ波形の違う構造遺伝界の重ねあわせ状態にある横浜駅が、撃退戦のたびに弱い成分を失っていくので、平均として強くなっているんです。二世紀以上拮抗していた青函トンネル防衛線が破られたのもそのためです」

「そうか。それじゃその武器があっても安心、というわけにはいかないんだな…」

「ええ。我々の仕事はこいつの進化を上回る速度で新兵器を開発するか、新たに弱点を見つけ出すことです」

 彼は足で地面を指して言った。

「なあ、好奇心で聞くんだが、北海道ってのはどういうところなんだ?」

「広いですよ。自然の地面が、見渡す限りずっと広がっているんです。地球の丸さが分かるくらいに。とても綺麗です」

「そりゃすごい。一度見てみたい」

 ヒロトは「地面」が一面に広がる様子を思い浮かべてみたが、どうもうまくイメージが湧かなかった。彼にとっての地面とは、そびえ立つ横浜駅と海との間にへばりつく、茶色と緑の弱々しい付着物だった。

「先程の留置所を通る前、駅の屋上から地形観測をしていたんですよ。富士山もよく見えました。真っ黒でした」

 いまは黒富士の季節だからな、とヒロトは思った。

「北海道にも羊蹄山という山があって、姿が昔の富士山に似ていたということで蝦夷富士とも呼ばれているんです。でも、いまの富士山よりはずっと綺麗です。我々はなんとしても、横浜駅の北海道上陸を阻止しなければならない」

 ネップシャマイは語気を強めて言った。

 彼の話を聞いているうちにヒロトは何やらばつの悪い気分になってきていた。九十九段下の岬は、歩いて一時間で回れる狭い土地だ。彼は横浜駅から勝手に流れてくる物質に依存して暮らし、たまたま18きっぷを手に入れて好奇心で観光に来ただけの身の上だった。この北海道の工作員のように心から守りたいものを持ったことは無かった。

 だから今は与えられた仕事をこなさなければならない。たとえ借り物であっても、ヒロトの人生ではじめて与えられた「使命感」があった。

「なあシャマイ、JR北海道では、キセル同盟という組織のリーダーについての情報は持っていないのか? おれの目的は、そいつを探しだすことなんだが」

「もちろん、その組織も接触すべき重要なターゲットのひとつではありますが」

「やはり見つけるのは難しいか。なんたって、何年も自動改札の手からも逃れているくらいの人物だ」

ネップシャマイはそこで足を止め、少し考えこんだ。

「それは逆にヒントかもしれませんね。横浜駅で自動改札から長く身を隠せるところはありません。あるとしたら、外です」

「…そうか、『喫煙所』か」

 先ほどの留置所で居合わせた、煙草売の男が言っていた。地形その他の都合で横浜駅が伸展しなかった穴ぼこが、横浜駅のあちこちに存在するという。

「でもそんな場所は山程あるんだろう? 横須賀のまわりだけでも複数あるらしいし」

「ヒロトさん。あなたに18きっぷを渡した人物が鎌倉まで逃げてきたと言いましたね。だとしたら、キセル同盟のその時点での本拠地は関東からそう遠くないと見るべきでしょう。だとしたら」

ネップシャマイはベルトからまた別の、カード状の器具を取り出した。スイッチを入れると壁に地図が投影された。

『首都圏喫煙所マップ』

とタイトルにはある。

「そんな便利なものを持っていたのか」

「いえいえ。さっきの留置所で寝ていた方の端末から拝借しました。まあ、餅は餅屋ってことですよ」

工作員は顔の半分だけ笑ってみせた。

「喫煙所は多数ありますが、人が長く潜伏できるほど大規模な場所は多くありません。とくに平地は横浜駅が伸展しやすいので喫煙所が少ないですね。この中で、海を目指して逃げた人が鎌倉に辿り着きそうな場所というと」

 彼は「甲府」と書かれた点を指した。広大な盆地を取り囲むように「喫煙所」の赤点が散在してる。

「まずはここを当たりましょう」

「でも、そんなところまで歩いて行けるのか? おれの18きっぷの有効期限はあと4日しかないんだ」

 地図を見るに、甲府までは100キロ以上ありそうだった。ヒロトが想像したこともない距離だ。

「甲府に行くならいい方法がありますよ。まあ、大船についたら説明しましょう」

 看板は、まもなくこの旧道が大船に至る新道に合流することを示していた。そこで急にヒロトは自分が空腹であることに気づいた。考えてみれば、昨日の昼に横須賀でカレーを食べて以来なにも口に入れていない。

 カバンには九十九段下から持ってきた食料があるが、せっかく街についたら何がうまい物が食べたいものだ。SUICAが無いので買い物はできないが、そのへんは彼に頼んで何とかできないだろうか。そこでヒロトはふと妙なことに気づいた。

「なあシャマイ」

ヒロトは先を歩く工作員に声をかけた。ネップシャマイは足をとめて振り向いた。

「あんたはSUICAをどうやって手に入れたんだ?」

そのとき、「ぱん」と巨大な風船を割ったような音が響いた。人通りがない旧道には反射音が吸収されずに響き渡った。同時に、ヒロトの顔のすぐ脇を人の顔のようなものがものすごい速さで通り過ぎ、後方数メートルの位置にごろん、と転がった。驚きのあまり膝から転び倒れると、背後に落ちた物体からは蒸気のようなものがしゅうしゅうと上がっていた。どうやらそれは、ネップシャマイの上半身であるようだった。

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