横浜駅SF
柞刈湯葉
本編
第1話 黒富士
その朝、富士山は黒かった。
昨日までコンクリートで覆われていた白富士が、一夜にしてエスカレータの黒一色に染められたのだ。それは長かった梅雨が明け、夏が来たという印だった。
「斜度が影響している」
海岸に座った教授が、富士のほうを見ながら言う。
「ストラジーンは一定斜度のある場所にエスカレータを形成するように記述されている。しかし同様に雨が続くとコンクリートの屋根を形成する。富士山では頂上付近と麓の天候の違いにより、エスカレータとコンクリートの層がパイ生地状に重なった構造となる。これが白富士と黒富士の構成原理だ」
「そうか」
三島ヒロトは相槌をうった。彼は教授の言っている内容はほとんど理解していなかったが、この孤独な老人の相手をすることがヒロトの仕事のひとつであった。
「教授」と呼ばれるこの認知症気味の老人が
どうにか意味が通じたのは、彼がエキナカの「ラボ」と呼ばれる場所で「教授」をしていたという事だった。横浜駅を追い出されたということは、恐らくSUICA不正利用判定を出されたということだ。この岬には、駅から排出されてくるゴミと一緒に、たまにそういった「不正利用者」が吐き出されてくる。
しかし、彼が何をして駅を追い出されたのかはわからなかった。そして教授がヒロト達の言語に慣れるころには、今度は頭のほうが不明瞭になってしまった。
ひとしきり富士山表層の横浜駅増幅原理について語りおえたあと、教授は反応を見るようにこちらを見た。それでようやく今話している相手がヒロトであることに気づいたらしく
「今日、出発するのだったな」
と言った。
「ああ。世話になったな」
「お互い様だ」
ヒロト達の暮らす岬は、三浦半島にある横浜駅141592番出口の長い長いエスカレータ(二本あって二本とも下り)の下にあることから「九十九段下」と呼ばれていた。実際には九十九段よりもずっと長い。逆走して登ろうにも、途中で休むとすぐ下に流されてしまう。岬の子どもたちの間では、このエスカレータを一番上まで登り切ることが「一人前の証」とされていた。
エスカレータを登り切ったところは「花畑」と呼ばれるゴミ捨て場で、そこを暫く行ったところに、自動改札たちが待ち受ける横浜駅エキナカへの入り口があった。そこまでがヒロト達にとっての「世界」のすべてだった。横浜駅の外で生まれ、SUICAを持たない彼らは「エキナカ」に立ち入ることは出来ない。海岸沿いに点在する他のコロニーと交易のための船を出す以外は、この岬で一生を過ごすのだった。
「よう、行くのか」
ヒロトがエスカレータを登り切ったところにヨースケがいた。彼はこの「花畑」で、横浜駅のエキナカから廃棄されたゴミを活用する掃除人だった。期限切れ直後の食糧、機械部品、そういったものが毎日のように流れてくる。ヨースケ達の仕事は使えそうなものを選り分けてエスカレータの下に送り、それ以外は自動改札のそばにあるダストシュートに投げ込むことだ。ダストシュートがどこに繋がってるのかは誰も知らない。
「今日は電波が強い。多分、近くに新しい基地局が生えたんだろう。天気もいい。旅立ち日和だな」
ヨースケが端末のキーボードを叩きながら言った。横浜駅構内ネットワーク「スイカネット」の基地局はエキナカにしか存在しない。しかし「花畑」のようなエキナカのすぐ近くであれば、こぼれた電波を拾ってくることができる。ただ基地局の場所も刻一刻と変わるので、通信はきわめて不安定だった。
「見ろ。さっきネットから拾った画像だ。登山者が撮ったらしい」
と、ヨースケが示したのは看板の画像だ。よく見る駅構内案内板で
「横浜駅最高地点 海抜 四○一二メートル」
とある。
「富士山の頂上か」
「ああ。自然の地形は3800メートルくらいまでらしいがな。駅が積もりに積もってついに4000を越えた」
花畑の窓からも黒富士が見えた。あの山もかつては雪と土壌を露出させる火山だったという。横浜駅が増殖をはじめてから四世紀あまり、もはや自然の山は本州にほとんど残っていない。
「結局、おれの頼んだ情報は見つかったか? 駅構内のくわしい地図とか」
「ああ、悪いが無理だった。このシステムはあくまでスイカネットを流れるデータを拾って集めるだけで、こっちから特定の情報にアクセスすることはできない。SUICA認証さえ出来れば、もっと色々なことができるんだがなあ」
ヨースケは悔しそうに言いながら画面を切り替えた。地図らしいものが表示された。
「これが今のところ手に入れた最新地図。六十年くらい前の構内図の断片だ。地名から推測するに、たぶん宮城の牡鹿半島あたりだ。どうする、持ってくか?」
ヒロトは黙って苦笑いした。
「まあ、中で自分で探したほうがいいだろ。住民のための情報は、こっちで探すよりもずっと充実してるはずだからさ」
「それもそうだ」
ヒロトは頬をかいた。ヨースケは炭酸の抜けきったコーラをぐっと飲んだ。
「ヨースケ。お前もたまには下に降りたほうがいいぞ。おふくろさんが心配している」
「嫌だね。最近は食って寝てばかりだから脚も鈍ってきたんだ。降りたらもうあのエスカレータを登れない」
ヨースケの体は、去年の暮れに会ったときよりもまた一回り丸くなっていた。子供のころ、どちらが先にエスカレータを登りきれるか競い合っていた頃の面影はもう無い。
「お前こそ、マキを置いていっていいのか? 一緒に来い、とか言えばよかったのに」
「18きっぷは一人で五日間までなんだ。二人で使うと有効期限が半分になる。東山のやつはそう言っていた」
「ふーん、それじゃお前が戻ってこなかったら、俺が責任持ってあいつの面倒をみよう」
「お前はまず自分自身の面倒を見ろ。流れてくるものを食べるだけの生活から離れてみるとかな」
「なーに。なんやかんや言って九十九段下の生活は俺たちが支えているんだぜ。下々の者達もそのところは分かっていよう」
ヨースケはカカカカと笑った。
岬には、わずかな土地を使って農業をする者、船を出して交易をする者、ヨースケのような掃除人がいたが、全体的に労働人口に対する仕事は不足していた。そもそも横浜駅から廃棄されてくる食糧が、この狭い土地の人口に比べて多すぎるのだ。ヒロトも岬での決まった仕事はなく、海を眺めたり、教授の相手をして日々をやり過ごすことが多かった。
横浜駅から廃棄される食糧があまり安定していないことは、岬の住人の懸念のひとつだった。駅のちょっとした気まぐれで廃棄物の流路が変化して、この九十九段下に食料がもたらされなくなる事もありうる。そうやって滅びたコロニーの噂はいくつか聞いたことがあった。
「駅に依存しない生活」
と岬の酋長たちは目標を掲げていたが、目下のところほとんど趣味程度の食料自給しか出来ていなかった。住民の何人かは自分たちを「横浜駅の家畜」と自嘲的に言っていた。家畜ならもう少し駅の役に立つことをするべきではないかとヒロトは思ったが、この巨大構造物にとって何が「有意義」なのかなど、彼の想像力の及ぶところではなかった。
ヨースケのもとを離れ、エキナカへの入り口へ向かう。自動改札がその両手を勢い良く広げて、ヒロトの侵入を阻む。
「SUICAが確認できません。お客様のSUICAまたは入構可能なきっぷをご提示ください」
六体の自動改札が声を揃えて言う。
「これで頼む」
ヒロトはポケットから、小さな箱状の端末を取り出して見せた。
「18きっぷを認証しました。有効期限は本日から5日間となります。5日が経過いたしますと、駅構内からの強制排除が実行されます。以上のことに同意いただける場合は画面にタッチをお願いします。」
自動改札の顔のパネルに「規約を確認して同意」のボタンが表示された。ヒロトはそのボタンに触れた。
「ようこそ横浜駅へ」
「本日は当駅をご利用いただき誠にありがとうございます」
自動改札たちは重々しくその両手をおろした。ヒロトはその間をくぐってエキナカに入った。彼にとって、そして九十九段下に住むほとんどの人間にとって、もう何世代ぶりか分からない横浜駅のエキナカへの旅立ちだった。
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