第一章:パン屋経営とチートへの目覚め
第一章 ~『パン屋経営の基本』~
「山田君、あなたパン屋を経営したことがあるの?」
山田の人気店にしてやるという自信に満ちた言葉の根拠を知ろうと、アリアは質問する。
「俺は昔、外資系投資銀行にいてな」
「外資系投資銀行?」
「日本以外の国で作られた投資銀行のことだ。顧客の株式・社債の引き受け業務や、企業買収、リストラ支援、コンサルティング業務まで何でもこなすビジネスエリートの集まりだな」
「つまりは万事屋のようなもの」
「う、う~ん、違うんだが、まぁそんな理解でも良いか。外資系投資銀行の業務は幾つかの専門職に分かれているんだが、俺は長いキャリアの中で、リサーチ部門を担当したことがある」
「リサーチ部門? また聞いたことのない単語ね」
「簡単に説明すると、顧客がどこに投資すべきかを判断するために情報を集めてくる仕事だ。それぞれ調査担当ごとに業界が割り当てられていて、俺の専門は飲食業界だった」
リサーチ部門は企業の業績などの財務情報を分析する数学的能力と、現地に足を運んで実態を調査する実調査能力、さらには調べたことを資料に落とし込む資料作成能力まで求められる難しい仕事だ。
難易度が高い分、給料も高い。日系の会社でも年収六百万は軽く超えるし、上位の外資系投資銀行なら年収二千万円でも当然のように貰える。もちろん採用人数が多い役職でもないので、採用されるには実力が必要になるのだが。
「聞いていると楽しそうな仕事ね」
「楽しいこともある。飲食業界担当だったおかげで、現地調査と称して経費で飯が食えるし、自分の調査内容が雑誌に載ることもあるから自己顕示欲も満たせる」
「雑誌に載るの?」
「投資専門誌だがな。良い記事を書けば、記事から集客もできるから、皆必死に文章を考えるんだ」
投資専門誌は主に個人顧客向けに書かれている専門誌とプロ向けの専門誌がある。飲食業界だと主な顧客は個人向けなため、前者を目標に書かれることが多く、最終顧客が個人なため雑誌の販売数も多い。投資銀行員たちは雑誌に記事を載せることを目標に、日夜努力しているのである。
「もちろん楽しいことだけでなく、辛いことも沢山あるがな」
飲食業界は株主優待などのおかげで人気銘柄になることも多いが、倒産するリスクが高い業界でもある。自分のリサーチが誤りであった場合、大勢の人間に不利益を与え、頭が擦り切れるほどに土下座周りをしなくてはいけなくなる。
「つまりだ。スーパーエリートとして、飲食業界をリサーチしてきた俺がコンサルをしてやるのだ。大船に乗ったつもりでいろ」
「はいはい」
アリアはまだ信じ切れてはいないのか、話半分に山田の言葉に相槌を打つ。
「経営について何も知らないアリアには、パン屋からではなく、客商売というものから説明してやる」
「まずは基礎からということね……でも知識なんてなくても経営はできるわよ」
「あるのとないのとでは効率が全然違うんだ」
「そういうものかしら?」
「そういうものだ」
アリアは自分でも経営が上手くいっているとは思っていなかった。そのため山田の話に素直に耳を傾ける。
「客商売にはパン屋の他にどんなものがある?」
「そうね~パン屋以外だと、ケーキ屋、服屋、雑貨屋もそうね。特に私、服が好きだからパン屋と服屋どちらを開こうか悩んだのよね~」
アリアは思い出すように昔のことを語りだす。服に関する知識を駆使して、良い商品を安く売る。アパレル店を経営する者なら誰もが一度は夢描く光景だった。
「服屋を選ばなくて正解だったな。好きなことを仕事にするな、という格言があるが、アリアの発言にそのすべてが集約されている」
山田はゴホンと咳を吐いて、数瞬の間を置く。
「好きなモノを売ろうとする場合、どうしても感情を優先して利益度外視の商売をしがちになる」
人間とは不思議なモノで思い入れのない商品ならドライに商売できるのだが、好きなモノを売るとなると、多くの人に広めようと、採算が取れなくても商売を始めるのだ。
商売の基本は利益を出すことで、より多くの人に商品の素晴らしさを知ってもらうことではない。この原則を肝に銘じておかなければ、とてもではないが、三年で九割以上が廃業する客商売で成功することなどできないのである。
「それに客商売の中でも物を仕入れて売る物販ビジネスは経営が難しいんだ」
「なぜ? モノを買ってきて、それより高い値段で売るだけでしょ?」
「その高い値段で売るのが問題なんだ」
一般的に商品の仕入れをする際は売値の六割の価格で問屋から購入する。そのため人件費などを考えると、物販ビジネスにおける商品の利益率は四割あっても赤字、五割あればギリギリ黒字、六割を超えてくると儲かるようになるといわれている。
良いモノを安く売るの精神は素晴らしいが、物販ビジネスで安く販売すると、だいたい爆死するので避けるのが無難である。
「しかも物販ビジネスは飲食店以上に参入障壁が低い」
料理が下手でも買ってきて売るだけで良いので、物販ビジネスは誰もが起業できる。ライバルも多く、競争が激しい業界で生き残っていくのは困難を極める。
「ならパン屋を選んだ私は正解なのね?」
「俺はそう思っている」
客商売を始めるなら、まだ飲食店の方が生き残れる確率は高い。それは参入障壁以上の理由がある。
「飲食店は客が絶対に客になるからな」
「どういうことかしら?」
「簡単な話だ。飯を食いに店に入るだろ。で、何も食わずに外に出るか?」
「しないわね」
「だろ。ならもう一つ聞くが、服屋に入って、何も買わずに外に出ることはあるか?」
「私はしないけれど、一般的にはあるのかもしれないわね」
「そこが一番の違いだ」
もちろん飲食店にも食材の廃棄リスクなど、さまざまな欠点があるが、それでも山田としては、客が必ず客になるというのは重要な要素だと考えていた。
「飲食店が正解だということは分かったわ。ならどうして正解した私の店が流行らないのかしら?」
「簡単だ。アリアの経営センスが絶望的だからだ」
「えっ!」
山田は店の窓から見える光景を眺める。あたり一面緑が広がっており、人の住む気配はない。
「どんなに良い商品でも、客が来なければ意味がない。なぜこんな僻地を選んだのか理解に苦しむ」
「それは簡単よ。自然に囲まれた隠れ家的な美味しいパン屋さん。風情があるでしょ」
「いるんだよなぁ~、こういう阿呆な経営者」
「私のどこが阿呆なのよ?」
「お洒落だとか、風情があるとか、過程が目的になっているんだよ。アリアの目的は旨いパンを食べてもらうことだろ」
「そ、そうだけど……」
集客に繋がらないこだわりは犬にでも食わせればいい。重要なのは経営結果、つまり利益をどう生み出すかなのだから。
「話を戻すが、アリアは好きなことを仕事にするなという鉄則に見事嵌ってしまっている。だから収益を考えずに、趣味の延長のような仕事になってしまっているんだ」
「ならどうすればいいの? いまさらパン屋はやめられないわ」
「俺が客観的な意見をするから、それを経営に反映すれば良い」
山田は並べられたパンと値段をグルっと見て回る。パンに視線を向けるたびに、彼の表情が青く染まっていった。
「値段が随分とバラバラだな」
「よく気付いたわね。オススメのパンは値段を安く、好みが分かれるパンは値段を高くしているの」
「つまりは勘か……」
「失礼な。原価も考慮しているわよ」
「なら聞くがこのマズイ新作ドーナツはいくらで売るつもりだ?」
「原価が銅貨九枚だから、銀貨一枚ね」
「チョコのドーナツは?」
「原価が銅貨一枚だから銅貨二枚ね」
良心的でしょ、とアリアは笑顔で語る。彼女によると、この世界で成人男性が一月に得る所得は金貨二十枚とのことで、金貨は銀貨十枚で、銀貨は銅貨十枚で、銅貨は小銅貨十枚で交換できる。新作ドーナツはともかくチョコドーナツの値段は確かに良心的だった。
「言いたいことは色々あるがまず新作ドーナツは人を不幸にするだけだから販売はなしだな」
「え~、改良すればきっと美味しくなるわよ」
「味だけの問題ならそうかもしれないが、価格が問題だ。パン一つに銀貨一枚払う奴がいるのか?」
「うっ、それは……」
「それに原価が銅貨九枚だろ。利益率は最低二割を確保しないとやっていけないと云われている。もし材料を大きく変えないなら銀貨一枚より高くしないといけない」
「うっ……なら仕方ないわね……」
山田の言葉に納得したのか、アリアはすんなり諦める。彼女がアドバイスに素直に従ったことに、彼は内心驚いていた。
「どうかしたの?」
驚きが表情に出ていたのか、アリアは不思議そうな声で訊ねる。
「アリアのことを経営センスが絶望的だと言ったことは訂正する。まだ救いがある」
「どうしたのよ、急に……」
「本当に最低の経営者は他人のアドバイスすら無視する。経営を学べば、アリアは立派な経営者になれるよ」
「私、立派な経営者に……って、私パン屋だよ! 美味しいパンを食べてほしいだけだよ!」
「なら次は人を集める話をする」
「私の話を自然に無視するね……」
「この辺りで人通りの多い場所はあるか?」
「ここから五分歩けば、街と街を繋ぐ街道があるわよ」
「そこに看板を立てよう」
看板は人件費がかからないため、最初に一度作ってしまえば以降コストが発生しない優良な宣伝媒体である。使わない手はない。
「それと街道の近くに飲食店はあるか?」
「ないわね」
「ライバルはなしか。それなら街道を行き来する連中は何を食べているんだ?」
「家からパンを持ってきているのよ。私から言わせれば固くてマズイ最低のパンよ」
「なら十分勝機はある。見てろよ、一か月後アリアの店は、大人気店になっているからな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます