15.冬の記憶と罪と罰
愛花が目を覚ました頃には、日がとっくに暮れていた。幾分か体力が回復した彼女が部屋着に着替える間、僕は電話で出前を頼み、深月にもメールで連絡を入れた。
深月からは「誰の家なの? 何かあったとき迎えに行くから」と返信があった。ろくに友達もいない僕の突飛に見える外泊を訝しんでいるに違いない。これ以上やりとりするのも面倒だったので、携帯の電源を落として連絡手段を断つ。
これから大事な話をするのだ。余計な茶々を入れられたくない。
出前で注文した鍋焼きうどんを小さな炬燵にもぐって突く愛花は、無我夢中でがっつくように食べていた。半分ほど食べ終えたところで、それこそ唐突に「ごめん」と呟き、僕へと顔を向ける。
「もしかして、昨日から体調悪かったの?」
「うん」
「ほんと、無理だけはしないようにね。気付かなかった僕も駄目男だけどさ」
「本当にごめんね。色々と世話やかしちゃって。まさか倒れるほど具合が悪くなると思わなくて」
「いいよ。家の掃除も買い出しも全部僕が好きでやったことなんだし。というか、見てしまった以上、放っておけなかったし」
「……聞きたい? 私がこれまでどうしてきたか」
愛花が言った。
「いいのか? 聞いて」
「だってもう、無関心じゃいられないでしょ? 共犯相手の事情など知ったことじゃないって小説ではよくあるけど、私たちは違う。行人にはいつか話さないといけないって、ずっと思ってた。でも、こんな家庭事情を学校で話すわけにはいかなかったし、切り出すタイミングも迷ってて……。一緒に早退できたのはラッキーだったかもね」
「話をしたくて僕を巻き込んだわけじゃないよな」
「結果的にそうなっただけよ。あんな体調じゃ自力で帰るのも無理だったし、誰を家にあげてもリビングの光景とか説明しないといけなくなっちゃうじゃない」
それはつまり、僕以外には語りたくない事情がある、ということだ。
「話すよ。行人が知らない、空白の三年間」
僕が引っ越しをしたことで進学する中学校が変わったことを、愛花は中学校の入学式で知ったようだった。小学校を卒業した三日後に決まった急な引っ越し。両親が夢のマイホームを手に入れたことによって起こったことだった。
愛花が遅れて知ったのも無理はないし、お別れの挨拶をする間もなかったから、動揺するのだって当然かもしれない。それに、愛花を見捨てるようなこと、自分からは口が裂けても言い出せなかった。引け目を感じていなかったといえば、嘘になる。
「入学式が終わってから先生に何度も問い詰めたわ。行人はどうしたのって。なんで宮崎平中学校にいないのかって。そしたら教頭先生から、春休みの間に引っ越しで学区が変わると連絡を受けたって、そう言われたの。嘘だと思った。初日から体調を崩して休んでいるのかとすら疑った」
「ごめん。挨拶もしないで引っ越したから……」
「行人の家に行ったら、もぬけの殻だった。空家になってて、白いベニヤ板に売出中って文字を見たとき、ふざけるなって、本気で怒った。怒りをぶつける相手もいないし、裏切られたショックで延々泣いたわ。こんなタイミングで見捨てられるなんて、夢にも思わなかった」
「……耐えられなかったんだ。桂坂のいじめをあと三年も耐えるなんてこと、想像するだけで駄目だった。心が折れたんだ。引っ越しは偶然のきっかけだった。そのチャンスに乗っかって、僕は桂坂から逃げるしかなかった」
千枚通しを突き付けられたあのとき、僕の心には一生かけても埋まることない深い穴が空いてしまった。三年経っても、桂坂への畏怖が一瞬で蘇る。恐怖が、深い穴の中で根付いてしまっている。
「行人があんな目に遭ったのを目の当たりにしてもなお、私は縋りたかった。あまりにも自分勝手だけど、でも、私はあのとき、行人を心底憎んだわ。桂坂のこと以上に恨んだかもしれない。あいつと地獄に落ちろと呪ったこともあった。そうでもしないと、私は壊れそうだった」
「……親父さんには、相談できなかったのか?」
「…………家族のこと、本当に、聞きたい?」
愛花は言葉を詰まらせ、躊躇うような仕草を見せる。
「聞きたい。覚悟はできてる」
「……そう」
愛花が肩の力をふっと抜いて、深く長く、息を吐いた。
「……父さんは、私を引き取ってから、ろくに家に帰ってこなくなった。蒸発したのはつい先月だったかしら」
「なっ……」
「私の世話なんかろくにしなかった。資産家なだけあって皮肉にも金だけはあるから、私の口座には生活に困らないほどの金が毎月振り込まれる。いまもそう。でも、それだけ」
「っ……」
覚悟したつもりだった。心のどこかで想像はしていた、最悪の事態。まさか本当に、一人暮らしだなんて。
僕が絶句するのも構わず、愛花は続ける。
「ただね、そうやって最低限の食いぶちだけは与えてくれる父には感謝してるの。母と比べればまだそこに愛というか、申し訳なさのようなものを感じとれるから。だた、母はそうじゃなかった。私を捨てて、行方をくらました」
愛花の元母親は小柄で感じのいい人だったのを覚えている。
遊びに来れば必ず茶菓子を出してくれたし、遅くなったときには夕飯を振る舞ってくれるような、暖かい、理想の母親像に近い人だった。ぶり大根や味噌汁、とんかつ、肉野菜炒め、どれも隠し味が入っている特製の手料理が出てくるのに感動した覚えがある。僕の母なんて手料理は月に一回出てくればいいほうで、スーパーで買ってきた惣菜のオードブルが定番だ。
「派手だけど、若いわりには優しくて気さくな人だったってみんなには評判だったわ。でも、周囲のお母さん方からすれば不気味で仕方なかったみたいよ。どうして資産家の父と結婚できたのか、結婚詐欺じゃないか、なんて根も葉もない噂までされてたから」
「そう、だったんだ……」
「でも、大人の目は正しかった。母は、父が長期の海外出張で出払っているときに浮気してたの。父はそれに気付いたみたいで、探偵を雇って母の身辺を一週間ほど調べさせた。それこそ、自分が出張していたときにね。
ペン型の録音器とかキーホルダー型のGPS機器とか、色々仕込まれた母は、そんな密偵にも気付かないで男との逢瀬を楽しんでたみたい。調べがついて、父が母に離婚の話を切り出したのは小学校六年になったばかりの春だったわ」
「そういえば、あの頃、ちょっと休んでいたよね」
愛花が小さく頷く。
「出張から帰ってきた父が密偵の結果を母に突き付けて、母は人違いだとしらを切ったのが始まりだった。母のことがショックで、私は体調を崩して寝込んでいたの。看病をしてくれたのは父だった。思えばあの頃から、母は私に興味をなくしてしまっていた」
あんなに優しく接してくれた人が看病すらしなくなるなんて、よほどだったのだろう。高校生になったから少しは想像ができる。普段から優しい人が豹変したときの態度が別人格のようになるってことは、ドラマや小説でもままある話だ。
「しらばっくれる態度が父の逆鱗に触れた。あのとき素直に謝っていればよりを戻せていたのかも知れないけど、もう過ぎたことだから言っても仕方ないわね。一年くらいかな、離婚の調停をして、親権をどうするかって話になった。すべてのことが終わったのは、中学一年の夏休みの頃だったかしら。父は財産と親権を母に譲り、縁を切ろうとした。母はそれを承諾して、私を引き取った。でも、私を置いて家を出て行った」
「なんだよ、それ……」
「私は要らなかった、というより余計だったんでしょうね。引き取った後で気付いたみたい。この家もそう。売って金にすることすらまどろっこしかったのかもしれない。頭悪くて、本当に馬鹿みたいでしょ。離婚調停で手に入れた数千万の現金を持って姿を眩ましたわ」
僕は、どう反応すればいいのか、まったくわからない。
「私は結局、父に育てられた。といっても、日中は仕事で家にいないし、家事はからっきし。料理だってできないから金にものを言わせるように外食三昧。洗濯はコインランドリー。塾に通えたのは父のおかげだったけど、私にあったのは家庭じゃなくて、金だった。そして中学校を卒業したと同時、父も蒸発した。金と名義だけは残してやるから一人で生きていけと、そんな書き置きだけを残してね」
聞けば聞くほど、かける言葉が見当たらない。不憫に思う気持ちも、憤りも、後悔も、全部が一緒くたになって腹の奥底でごちゃ混ぜになる。
愛花の境遇は僕がしでかしたことになんの脈絡も関係もないのに、ごめん、と口に出してしまいそうになった。覚悟していたよりもずっと重苦しくて現実味のない話を、どう処理すればいいのか考えあぐねる始末だ。これがフィクションであったとしたらどれほどよかっただろう。
「どう? 現実は小説よりも奇なり、でしょ」
「よく、ここまで生きてこれたな、というのが正直な感想かも」
「そうね。まぁ、生きてるってよりは、死んでないだけって言った方がいいかもしれないけどね。復讐心を抱いて生きていたから、まともな生き方はしてない。少なくとも中学校では皮を被ることで精一杯だった」
愛花がニヒルに微笑んだ。目が少しも笑っていない。
「こうなったのは誰のせいか、わかってるわよね?」
ぐいっ、と愛花が顔を寄せてきた。その瞳に、戸惑った僕の顔が映っている。糾弾の眼差しが僕を抉る。責め立てる。
「僕は、愛花をぐちゃぐちゃにしたうちの一人ってことでしょ」
「なぁんだ、ちゃんと心得てるじゃない。良かった。安心したわ」
「ここまで打ち明けられて無関係を貫くって無理だから」
せめて僕が隣にいれば、愛花はまだ救われていたのかもしれない。孤独にならず、復讐を目論むような人間にはなっていなかったかもしれない。過ぎたこととはいえ、もし愛花の側に寄り添っていられる人が一人でもいれば、と後悔ばかりが募ってしまう。
「復讐したい人間は山ほどいるの。この魂が地獄に落ちたっていい。あいつら全員、徹底的に絶望させてやるんだから」
愛花の声は怨念に塗れていた。
当事者――報復したいのは、桂坂だけじゃないのか。僕の知らない場所で、僕の知らない誰かが他にいるのか。
「手始めに桂坂を選んだのだってきちんとした理由があるわ。復讐するなら共通の敵を最初にしたほうが、行人も乗ってくれると思ったから」
「なるほど。僕は愛花の考えまんまとはめられたわけか」
「はめた、なんて表現はよして」
諦めたように笑う僕に、避けようのない言葉が刺さる。
「私が一人悪者みたいじゃない。行人は自分の意志で私の手を取ったの。復讐したい気持ちと私への罪の意識でもって、自分の頭で、私とともに桂坂へ復讐することを選んだのよ」
僕の顎に手を当てて、愛花が呪うように呟いた。その挙動があまりにも妖艶で、たじろいでしまう。
「今度こそ、離さない」
絡め取って引きずり込む瞳の深さに魅入ってしまう。目を離すことなんかできない。こんな妖しい魅力に囚われて、落ち着いていられるわけもなく、僕はただ彼女の言葉に頷くことで精一杯だ。
「絶対に、逃がさない」
理性が限界に近い。
愛花をどうにかしてしまいたくなる。彼女の吐息。艶のある唇に吸い寄せられる。このままもっと、めちゃくちゃにしてしまいたい衝動が押し寄せてくる。僕の知らない誰かが汚した愛花を、僕の汚れで上塗りしてしまいたい。
本能の波に飲まれて、流されるがままに愛花を――
「へぇ、そういうこと、できるようになったんだ」
「……あっ」
ふと我に返ると、愛花を押し倒していた。
僕の真下にある顔が上気して、頬が薄桃色に染まっている。期待、しているのだろうか。彼女の潤んだ瞳が激しく揺れている。
「病人をこんなふうに押し倒すなんて、まるで理性の欠片もない野獣みたいね」
「これは、仕方ないじゃんか……。そ、そっちが誘ってきたようなもんだろ」
「言葉遣いもちょっと荒くなってる。弱ってるところを襲ってくるなんて、節操がなさすぎないかしら。というか、自分がこれからなにをしようとしているのかわかっているの?」
「そ、れは……」
図星を突かれて言葉を詰まらせる。そうだ。僕は愛花を看病しに来たんじゃないのか。こんなところで男女の仲を迫ってどうする。本能と衝動のままにめちゃくちゃにしたあと、絶対に後悔するだろ。馬鹿か、僕は。
「……ごめん。なんか、止まんなくて、やばかった。雰囲気に飲まれてとんでもないことをしようとしてた」
「襲ってくれてもよかったのよ?」
「もうよしてくれって
愛花がそんな誘い文句を口にしたところで、とっくに熱は冷めていた。箍が外れるというのは、こういうことをいうのか、と自覚して自分のことが恐ろしくなっているくらいだ。カレシカノジョ、みたいなことをするような気分はとうに消え失せてしまっている。
「滅多なこというもんじゃないって。それに僕ら、恋仲でもないし。こういうのは、駄目だろ」
「恋に順序なんかないでしょ。やっちゃってから好きになっちゃう略奪愛だって世の中どこにでも転がってるわ」
「そういうドロドロとしたのはドラマで十分だ」
「私の境遇はそんなドラマ設定みたいなのに?」
「それだけでもう今日はお腹いっぱいなんだってば」
「いくじなし。さっきはあれほどがっついてたくせに」
「なんとでも言ってくれ。というか、既遂じゃなくて未遂だから。とにかく、安静にしていないと駄目だ。今日はもう寝てくれ」
有無を言わせず、僕は愛花をお姫様抱っこしてベッドに寝かせた。少しだけ恥ずかしかったけど、さっきの未遂行為で度胸が据わったのかもしれない。
「それじゃ、一緒に寝てくれる?」
「風邪がうつったら僕が困る」
舌打ちが聞こえたような気がするけれど気にすまい。コンビニで買ってきたマスクをつけ、僕も炬燵に身体を潜り込ませた。はみ出た膝下に毛布を被せ、座布団を枕代わりにする。
「……本当はね、こんなのは良くないことだって、わかってるの」
僕の背後からくぐもった声が聞こえてきた。
「個人的な恨みだから行人を巻き込んじゃいけないことも、桂坂とは綺麗さっぱり縁を切らないといけないのにそれができないことも、復讐なんて誰も報われないことに執着してしまっていることも、私を苦しめた全員が地獄に落ちればいいなんて考えも、本当は駄目なことくらい、わかってる。できることならなにもかも投げ捨てて自由になりたい。普通の女子高生をやっていたい」
「だったら、やっぱり復讐なんてやめればいいんだ。青春して、あわよくば彼氏を作って、辛い過去を幸せな記憶で上書きしちゃえばいい」
「……それができたら、どんなによかったんだろう、ね」
まるで自分は無理だと言っているように聞こえる。
「復讐を諦めた瞬間、私は一生幸せになれない」
「……もう、いい加減に寝ろって。僕も寝るから」
「でも、復讐を終えたら、きっと私は幸せから見放される」
「だからもう、やめろって」
身体が弱り、心をさらけ出した愛花の思考は負のスパイラルに陥っていた。いつもなら絶対に口にしない言葉が止めどなく漏れてくる。
「間違ってるとか正しいとか、関係ないだろ。本当は駄目だって分かってて、普通の女子高生の生活に憧れてるくせに、それでもやめられないのは、心からそいつらを憎んでるからだろ」
返事はない。けれど、続ける。
「せめて、僕の前でくらい貫いてくれよ。乗りかかった船なんだ。ここまで巻き込んでおいて、船頭が揺らぐのはやめてくれ。ここまで知ってしまった僕に償いをさせてくれよ」
なんて酷いことを言っているんだろう、という自覚はある。これまで散々引き留めていたくせに、愛花がいざ及び腰になれば後ろから背中を押しているようなものだ。ここで僕も潔く手を引こうと説得すれば折れてくれる、その勝算は十分に見込めるのに。
「愛花の隣にいさせてくれよ……。もう見捨てないから。離さないから。だから、こんなところで僕を一人にしないでくれよ……」
どこまでも自分本位を貫く。
これ以上、愛花の側から離れたくない。僕がいなくなったら彼女はこのまま消えてしまうような気がして、そう考えるだけで胸の奥が痛くなる。
一度手放してしまった罪を償い、見捨ててしまった報いを受けるまででいい。だからどうか、と目を閉じ、無心で祈る。
駄目になるなら一緒がいい。堕落して悪魔になるのなら、僕もついていく。だから、もう一度だけ、僕にチャンスをくれ。
「……お互い、馬鹿よね」
愛花が根負けしたようにせせら笑う。
「滑稽で、我儘で、自分勝手。それでいて腑抜けだなんて。神様でも救えないわ」
「そうだな」
本当に、どっちも救えない。
「……ごめんね。色々と」
「それだってお互い様、だろ」
「それもそうか」
「そう。だから、もうこの話はお終い。寝よう」
がさがさ、と布が擦れ合う音が聞こえてきた。寝返りを打ったのか、布団を被り直したのか、定かではない。ベッドに背を向け、俯せに近い姿勢で眠りにつく。枕代わりにした座布団から、微かに、愛花の香りがした。
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