16.全ての始まり
結局、愛花の熱は下がらなかった。
「駄目っぽいね。咳もまだ止まらないみたいだし、今日は学校休んで寝てたほうがいい」
「お言葉に甘えて、そう、させてもらうわ」
顔も紅潮し、息も絶え絶えといった様子だ。
「朝ご飯は辛いだろうし、とりあえず粥を作っておいたから」
「あ、うん。ありがと……」
「ドリンクとかゼリーは、ここに置いておくよ。冷蔵庫がなかったし」
昨日、コンビニでポカリなり蜜柑ゼリーなりを買っておいた甲斐があったというものだ。
愛花の家を出るとき、「これ、真心に返しておいて」とボールペンを手渡された。何の変哲もない黒色のボールペン。女子が持つにしては硬派な趣だが、父親が警察官である栗原のことだから、こういうのが好みなのだろう。
「昨日、うっかり筆箱を忘れちゃって。それで、借りたのよ。借りっぱなしは悪いし、真心も困るだろうから」
「わかった。返しておく」
愛花の家を出て、そのまま高校へ向かう。家に戻ろうとも一瞬考えたが、深月と鉢合わせれば詰問されるに違いないし、朝から面倒な目に遭いたくないな、と思い直す。
少し早めに高校に到着し、教室へ入る。
部活動の連中だろう、机の上に荷物が置いてあった。普段はお目に掛からないだけに新鮮な光景だが、授業開始まで一時間弱というこの場所には、人っ子一人いない。もっとも、朝練に勤しむ生徒でなければこんな時間に登校する理由がないからだが。
締め切った窓を開けてから席に座り、両手を枕にして俯せになる。雀のさえずりに混ざって、サッカーボールを蹴りつける鋭い音が聞こえてくる。大抵の部活動は曜日ごとに朝練メニューが組まれていて、ほぼ休みはないのだという。その苦労を思えば、帰宅部で心底よかった、と思わずにはいられない。
春の陽気な日射しの暖かさに包まりながら舟を漕いでいると、がらがら、と教室の引き戸を開ける音があった。
顔を上げて寝ぼけ眼を向ける。
「いたわ」
「あっ……」
深月だった。
どうして、と思う間に深月は僕の前までやってきて、膝で机を蹴り上げた。その反動で舌を噛んでしまう。
「いってぇな。舌、噛んだんだけど」
「この程度で噛みきれないから」
「は? ごめんとかないわ――」
ないわけ、と言い終える前に、今度はこめかみを渾身の力で叩かれる。
「ごめんだって? あんた、何様のつもり?」
「いっつぅ……。そっちが何様だよ。いきなり暴力とか、とち狂ってるだろ」
「行人、あんた、身に覚えがないって言い張るわけ」
愛花の家で無断外泊したことだろう。多少のばつの悪さはあるけど、ここまでやられるような悪事を働いたわけでもないのにどうしてこんな仕打ちに遭わなければならないのか。
「そうじゃねぇけど、それにしたってここまですることないだろ」
「どれだけ心配したと思ってるのよっ」
机をバンッ、と叩き、金切り声を上げるように深月が叫んだ。キッと睨み付けるような目つきで、瞼の端を濡らしながら「ふざけるな」と嗚咽混じりに剥き出しの感情をぶつけてくる。
呆気に取られる。
深月が、泣いていた。涙を拭うこともなく。僕に見せつけるかのように。
「あんたまじで、あり得ない。どれだけ心配したと思ってるの。もしかしたら、あの子にどこか引きずり回されながらイジメを受けてるのかと思って、警察にまで捜索願を出して、必死にあちこち駆けずり回ってたっていうのに!」
「ば、馬鹿。ここ、どこだと思ってんだよ。誰かに見られでもしたらどうすんだよ」
「そんなの今はどうだっていいでしょ!? 昨日、一体どこに行ってたのよ!」
鬼気迫る深月が机を乗り出し、胸ぐらを掴んできた。その勢いで数発殴っきても不思議じゃないほどに昂ぶっている。思わず身を竦め、両手で深月の両腕を掴んだ。これ以上暴力を受けてはたまらない。
「ど、どこだっていいだろ……。こうして無事でいるんだし。もう高校生なんだからちょっと連絡が取れなくなった程度で騒ぎすぎ――」
瞬間、胸ぐらを思い切り引っ張られ、額に頭突きを喰らった。痛い。ただでさえ若干の寝不足で調子も良くないというのに。視界がぐらつき、脳が揺さぶられる。
「心配するに決まってるでしょ! もう高校生? あんたまだ未成年でしょうが。夜な夜な歩けば警察に補導だってされる。母さんと父さんの同意がないとバイトだってできない。そんな年端もいかないのに、きっと大丈夫なんて思えるわけないでっしょ!」
何を言っても揚げ足を取るように、深月が責め立ててくる。僕の言葉はどれも火に油を注いでいるのと同じだと、ようやく思い知った。
「……ごめん。次から気を付ける」
「ごめんじゃない。謝るのは家に帰ってきてから、母さんと父さんに言いなさい。私が聞きたいのは、どこに行っていたか、ということよ」
「それは言えない」
「どうしても駄目だっていうの」
そんな、懇願するような目を向けてくるなよ。らしくもない。
僕も相当に意固地だが、ここで折れるわけにはいかない。愛花と二人きりでいたことを深月が知れば、どういう行動を起こすか知れたものではないからだ。
母も父も深月も、きっと、僕がどこかで一宿一飯の恩義を受けているのであれば粗品をもって挨拶にいこうと考えているに違いないのだ。そうなれば、事態はもっとややこしくなる。お節介にも愛花のために色々とし出すだろう。僕の境遇など知ったことではなく、地獄の中に済む愛花を決して切れない蜘蛛の糸で絡め取って強引に掬いだしてしまう。
そんな状況を桂坂が知ったらどうなる。復讐を成し遂げる前に桂坂から粛清を受けるかもしれない。そんなの耐えられない。想像するだけで吐き気が込み上げてくる。
たまらず、深月の腕から手を離して口を覆う。うぐっ、と喉が鳴る。
それと同時だった。
「会長、何やってんすか。いきなり会議室を飛び出したかと思えば、こんな所でガキ相手に叫いて。廊下まで聞こえてきましたよ」
擦れた声音に、深月がびくりと肩をふるわせ、恐る恐るといった仕草で声の主へ顔を向けた。
知らない生徒が教室の出入り口に背中を預け、僕らに流し目を向けていた。スッとした面持ちに似合う、細い銀縁の眼鏡に理知的な雰囲気を感じる。その奥にたゆたう瞳は、闇のように深い。聡明な佇まいだが、どことなく高圧的な態度が見え隠れしている。
「鬼柳くん。ちょっと待ってて。取り込み中だから」
冷静さを取り戻したのか、落ち着きはらった声で深月が言う。それを、鬼柳と呼ばれた男子はせせら笑って受け止めた。
「取り込み中、だって? こっちはあんたに呼び出されて朝っぱらから総出で会計書類の整理してんだ。こんな痴話喧嘩が大事な用だぁ? お姫様に振り回されるこっちの身にもなってくれってんだよ」
「ご、ごめん。あ、あとで謝るから」
「謝ってくれなくていいから、今すぐに生徒会室に戻ってください。仕事、たんまり残ってますんで」
鬼柳は無表情で切って捨てると、僕の胸ぐらを掴んでいた深月の手を強引に剥ぎ取り、引き摺っていく。
「痛い。痛いから離して。一人で歩けるからっ」
「手を離したらまたどこかに逃げおおせるつもりだろうと思ったもんで」
「こんなとこ、誰かに見られたらまずいって」
「大丈夫ですよ。部活でもないのにこんな時間に登校してくる物好きはいないから」
僕を見ながらそんなことを曰う鬼柳が侮蔑に近い眼差しを僕に向けてきた。
「ああ、僕としたことがつい、物好きの前で口を滑らせてしまった」
「……鬼柳さん。あんた、随分といい性格してんだな」
「ああ? 年上相手に随分とナメた口利くじゃねぇの」
「大して変わんねぇだろ。僕もあんたも、まだ高校生だし。っつか、胸糞悪いんだよ。姉貴から手を離せよ」
席から立ち上がってぱきりと指を鳴らす。こういうのは好きじゃない。しかも深月の為とか何の得にもならない。が、とにかくこの鬼柳という男は、いけ好かない。
臨戦体勢になった僕を見て、鬼柳はやれやれと首を振った。
「はぁ……。今日はついてない。朝から書類の整理だわブラコン会長のお目付役にされるわシスコンにたてつかれるわで、全くもってついてない」
頭の中でぶちり、と血管が切れる音がした。そのまま右手に拳を握り、鬼柳に飛びかかろうと足を踏み出したところで、
「やめて、行人」
と、深月が僕の前に立ちはだかった。
「なんで止めんだよ」
「……彼、空手でインターハイ三位なの。喧嘩を挑んで敵う人じゃない」
「そーゆーこと。よかったねー。僕から手を出すと犯罪になっちゃうし、正当防衛だったら少しは許されるんだけど、それも叶わなくなっちゃったか」
面白くないなぁ、と嘯きながら愉悦な表情を浮かべて、鬼柳は深月とともに教室を出て行く。
「有耶無耶にするつもりはないから。家に帰ったらちゃんと説明してもらうからっ」
「はいはい。こっちも生徒会室に戻ったら仕事終わるまで逃がしませんよーっと」
きつく絞り上げられる右手の痛みを耐えるように苦悶の表情を浮かべる深月の背中を見送ることしかできなかった。
「面倒だ。すげぇ、面倒くせぇ……」
腫れた頬を擦りながら、一人ごちた。
ついてないのは、僕も同じだ。
この日は至極平穏無事なまま、何事もなく六限目の授業が終わった。
帰りのホームルームが始まるまでの業間休みに、栗原に声を掛ける。
「栗原。昨日は色々と助かった」
「どういたしまして。それで、どう?」
「咳も出たから、今日は一日安静にしてろって言ってある。病院にいくほどでは、ないと思う。解熱剤と咳止めの薬も買っておいたから」
ちなみに、愛花からはひっきりなしにメールが飛んできた。『今日は肉が食べたい』『やることがなくて暇』『クスリが切れた』等々、僕の言いつけを守らず、ずっと起きている様子だ。
「で、これを返してくれって頼まれた」
胸ポケットに仕舞っておいたボールペンを栗原へ手渡す。
「にしても、随分と硬派なボールペンを持ってるんだな」
「こういうシックなのが好みなの」
「結構高い代物なんじゃないのか?」
「どうでしょうね。父からの誕生日プレゼントだから、値段は知らない」
そんな大事なものをどうして貸すような真似をしたのだろうか。
「壊れたりしてないわよね」と様々な角度から熱心にボールペンを鑑定する栗原は、どことなく神経質というか、そわそわとしている。
「特に壊れるような使い方もしてないし、大丈夫だと思うけど……。というか、そんな大事なものなら、それじゃなくてもでも良かったんじゃないの」
「持ち歩いてるペンが他になかったのよ。別の子にお願いしてよ、って言ったんだけど、やけに頑なだったから私が折れるしかなかったの。……うん、大丈夫みたいね」
壊れていないことを確認し終えた栗原は、それを自分の胸ポケットに仕舞った。
「風邪がうつされて春の選抜に影響すると駄目だからお見舞いにはいけないけど、心配してたって伝えておいて」
「まるで今日も僕が看病に行く前提だな」
「違うの?」
「いや、間違っちゃないけどさ。もしかしたら行けない可能性もあるし」
愛花の家で看病を続けるつもりではあるものの、一旦家に帰らないと、流石に不味い。たった一日帰らなかっただけで、警察に捜索願まで出され、深月は涙目になりながら糾弾してきたのだ。このまま放っておけば父と母が何をしでかすか想像がつかない。うまいこと弁明をしなければ夜半外出禁止令が出され、最悪、部屋に軟禁される可能性もある。二階の窓から脱出しようにも、玄関と庭先に設置された監視カメラの目をかいくぐることはできない。
「もし看病に行けないようなら私に連絡をくれれば代わりに……って、それは駄目なんだった」
「そこまで心配するほど大事になってないから大丈夫だよ。静かに寝ていれば治る」
当の本人は寝ていた気配がまるでないが。
「それにもう高校生なんだし、体調管理くらい自分でできるって」
栗原は僕の言葉を受け止めつつも、しかし不安げな表情を引っ込めなかった。
「心配なのよ。複雑な家庭事情みたいだし」
「えっ……」
「愛花と同じ中学だった子から聞いたんだけど、シングルファーザー、だっていうじゃない、彼女」
「あ、ああ……。そういうこと」
一瞬どきりとしたが、栗原が口にしたのは中学時代の情報だった。桂坂以外にも何人か同じ中学校出身の生徒がいることは知っていたが、まさか栗原がその子と繋がっているとは思わなかった。
ただ、その情報は古い。現状はもっと過酷で、劣悪で、クラスメイト程度の仲にはとても口に出して語れるような惨状ではない。
「心配なのは分かるけど、中学の頃もこうやって体調を崩したことはあったみたいだし、夜は親父さんがいてくれるから平気だよ」
「それならいいんだけど。ほら、片親の家庭って親子で上手くいってないことも多いって聞くし」
「愛花に限ってそれはないよ。そういうケースの場合は子どももグレるとか、不良になってるでしょ。品行方正な愛花に限ってそんなこと……。想像できないし」
嘘を嘘で塗り固め、美化された虚像の愛花が壊れないようにすることで精一杯だ。愛花の素性に迫る同級生に対して必死に言い繕って、秘密の領域を死守する。その度に、自然と流れるように吐き出される方便が罪悪感となって胸を圧迫してくる。
これで何も間違っていない。
そのはずなのに、嘯くことが苦しきて辛い。
「そう、だよね。大丈夫よね。なんかごめん。昨日の愛花の苦しそうな表情を思い出すと、すごく不安になっちゃって」
無理矢理笑みを浮かべた栗原を前に、心の中で「ごめん」と呟く。
その不安はきっと正しい。謝ることじゃないし、どこもおかしなことじゃない。
「時間があるなら電話でも掛けてやってくれ。きっと喜ぶ」
「うん。そうしてみるよ」
一通り話終えたところでタンクトップ姿の筋山が「お前ら席につけー」と教室に入ってきた。僕は「それじゃ」と栗原へ軽く挨拶して席に戻る。
「前田が体調不良で休みだったが、みんなも体調管理は万全にな。特にこの時期は花粉でやられたり新学年になって張り切りすぎて倒れる子もいるからな。それでは、今日はこれで解散だ。日直、号令を」
「起立」
日直当番の栗原が号令を掛ける。
「礼」
ほんの僅かに顔を下げ、僕は足早に教室を後にした。
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