14.もうひとつの冬

 愛花が保健室に運ばれた。

 フットサルをしている途中でグラウンドに倒れ込んだという情報は、体育館でバスケをしていた僕たちの耳にものの数分で飛び込んできた。

「愛花ちゃん、朝から顔色が良くなかったから。無理してたんだろうね」

 昼休みの時間になり、保健委員の栗原が教室に戻ってきた。付き添いで面倒を見てくれたようだ。

「あ、それと葛城くん」

 僕の姿を見つけて近寄ってきた栗原が小声で「保健室まで来てくれない」と言ってきた。

「何か用?」

「教室だとちょっと、ね。とにかくついてきて」

 黙ったまま頷く。容態がよっぽどひどいのだろうか。

 廊下に出ると、栗原が話を続ける。

「熱もあるし、誰か付き添いで帰ってもらったほうがいいってことになって」

「それでどうして僕なの?」

「愛花ちゃんご指名だよ。帰るなら葛城くんが一緒じゃないと嫌だってさ。昨日のデートといい、随分と愛されてるね」

「まさか。小学校以来の知り合いで家に行ったことあるのが僕しかいないからでしょ。それに、僕らはそんな関係じゃないって言ったろ?」

「客観的にはさ、恋人同士じゃなかったら何なの? って問い詰めたくなるレベルなんだけど」

「それは……ただの幼馴染みだよ」

「幼馴染み、ね。そう……」

 苦し紛れの言葉に納得したのか、栗原はそれきり話題に触れてこなかった。

 愛花の家に行くのは、五年ぶりだろうか。

 小学校の頃に何度か通った彼女の家は地元でも豪奢な一軒家だった。丁寧に剪定された梅と桜の木があって、小さな庭には鯉が泳ぐ池もある。綺麗に白塗りされた二階建ての家は、団地住まいの多かった僕ら世代の憧れだった。愛花の家にある大画面のテレビで遊びたいがためにゲーム機を持参する男子までいたほどだ。

 それが、彼女の両親の離婚を機にぱたりと止んだ。そうやって気遣える程度には成長していた僕らは、愛花に微妙な距離を取った。

「愛花ちゃん、喉の調子も良くないみたいで。葛城くんに道案内頼みたいってことみたいだけど、お願いして大丈夫かな。先生にタクシー呼んでもらってるから」

「僕が?」

「うん。他に頼める人もいないし。午後の授業、先生には欠席扱いしないよう言っておくから。ノートも私があとで見せてあげる。それでどう?」

 魅力的な提案だった。正当な理由でもって授業をサボれるのだからここで拒否する道理がない。

「分かった。それならいい」

 そう返事をして、教室へ荷物を取りに戻る。限りある昼休みを謳歌していたクラスメイトから不審げな眼差しを向けられるのも構わず、なるべく目立たないようにして教室を抜け出した。

 栗原の道案内で保健室に入る。

「あ……」

愛花が上体を起こして帰る準備をしていた。目が合って、彼女が吐息を漏らす。僕を呼ぼうとして、咳き込む。上手く声が出せないようだ。

「愛花ちゃん支えるの手伝って」

 栗原の声はどうしてか、どこか刺々しい。詮索するなとその目が訴えてきたので、黙って頷き、愛花の右肩を支えてやる。

「病院に行くかどうかは愛花ちゃんに任せるけど、安静にね」

「ん……あ、りがと」

 校門前で待っていたタクシーに乗り込んで、運転手に北原小学校前まで、と告げる。タクシーの運転手が無愛想な顔つきでミラー越しに僕らを見てくる。それから車を発車させる前に、マスクをかけた。

「色々、ごめん」

「いいから休んでて。道案内は僕がするから」

「う、ん……」

 きっと昨日から具合が悪かったのかもしれない。そんな風には見えなかったけど、我慢していたのだろう。辛くないように振る舞うのは愛花ならではとも言えるけれど、そうやって壊れてしまうのは自分なのだから無理なんかしなきゃいいのに。

 やがてタクシーが小学校の校門前に到着した。愛花の自宅はどうこだったか、記憶を掘り起こす。何度も通ったのに、今ではすっかり朧気になっている。正確な住所を思い出せるわけもなく、記憶を頼りに次を右、そこの曲がり角を左に、と指示を出しながら車を進めてもらうと、見覚えのある屋根が見えてきた。焦茶色の屋根瓦が多い一軒家が集まる中にあって目立つオレンジ色の屋根瓦、随分と浮いたモダンな印象の家が愛花の実家だったはずだ。

「ここでお願いします」

 運転手にタクシーチケットを渡し、愛花の腰に手を回して降車する。

「鍵は?」

「鞄の中」

「中、見るぞ」

 了解を取ってから鞄の中を物色する。化粧ポーチや昨日買った本、数学の教科書なんかが整然と詰め込まれている。鍵は、ステンレス製の水筒の下にあった。何の飾り気もない赤い紐のついたそれを取り出し解錠して、玄関のドアを開ける。

「お邪魔、します……」

「私の部屋、二階に上がって一番奥だから」

「お、おう」

 急勾配の階段を愛花のペースに合わせて上がり、言われたとおり一番奥の部屋を開ける。

「これが、愛花の部屋、なのか?」

「驚いたでしょ」

 驚いた、なんて簡単な感情には収まらない。驚愕に目を見開き、しばし茫然としてしまう。

 数年前にタイムスリップしたような錯覚を覚える。小さすぎる電気式のこたつと、何年も前に流行ったアニメのキャラクターシールが貼り付いた木製の簞笥が目に入った。どちらも、愛花の成長に追いついていない。小さすぎる。高校生が使う大きさではないことは一目瞭然だ。無理矢理に衣服が押し込められているのか、両開きの扉は開いたまま。セミダブルのベッドもあの頃に見たものと変わっていない。

「これは……」

「色々と聞きたいこと、あるでしょ? でも、ごめん。いまは横になりたい」

「あ、ああ……」

 愛花をベッドに寝かせ、布団を上から被せてやる。愛花は窓側へ身体の向きを変え、そのまま寝入ってしまった。

 やることもなくなった僕は、どうしようかしばし考えて、リビングに降りてみることにした。

 抱いた違和感の正体を探りたかった。部屋を出てから、目に焼き付いた光景のおかしさに肌が粟立つ。

 普通、子どもの成長に合わせて家具や寝具は買い換えるだろう。歳頃の女子なのだから、外見を飾るための雑貨やアクセサリーがあってもおかしくない。なのに、そういった小物は、鞄の中に入った化粧ポーチ程度だった。部屋の内装がまったく変わり映えしていないなんて、想定していなかった。こんなこと、普通だったらあり得ない。

 一段降りる度にギシリ、と音を立てる階段の手すりも、風化したように錆び付いていた。掃除、していないのか。

 一つほころびを見つけると、次々と目につく。天井に張られた蜘蛛の巣。廊下の隅に溜まった埃。そういえば玄関だって砂利が散らばっていて、掃除した様子がない。客用のスリッパは煤けたように塵が積もっている。

 違和感の核心に近づいているような気がして、リビングのドアを開けるのに躊躇した。

 けど、気付かなかったふりはできない。

「……っ」

 ドアの先に広がる光景に絶句するしかなかった。

 リビングには、およそ家具と呼べるものがなにもなかった。テレビも、電話も、テーブルも、ソファーも、食器棚も、食器さえも見当たらない。引っ越してきたばかりの部屋に、ただゴミを溜めているような、酷い有様だった。

「なんなんだよ……」

 部屋の端には乱雑に積み上げられたコンビニ弁当のケースが異臭を放っている。蠅が集っている。テレビの向こう側で広がる都会の汚れた部分と同じ、目を背けたくなるような有様。

 どうして、こんなことになってるんだ……。

 愛花が寝ている間に、自家に戻った。台所にしまってあったゴミ袋とゴム手袋を鞄に詰め込む。愛花の家に戻る途中で小学校に隣接するコンビニに立ち寄り、目についた掃除用品を片っ端から買い込んだ。

 戻ってきてすぐさま、リビングの掃除を始める。予想していたとおり、掃除機はなかった。窓を全開にして、鼻が曲がりそうな悪臭を少しでも外へと逃がす。殺虫剤を撒き、手袋を嵌め、ゴミ袋に弁当の空箱や飲料の紙パックを放り込む。

 無心だった。思考すればするほど、想像したくない答えに行き着きそうで、怖かった。誰もが憧れ、尊敬し、慕ってきた愛花という存在が理不尽に汚された思いすらしてくる。僕のせいではないはずだ、と信じきることができない。背負った罪の大きさを思い知る。

 美しく、綺麗で、可愛くて、完璧を具現化した愛花のこんな私生活、誰も想像できないはずだ。裏表なんて言葉では足りない、もっと深い闇を彼女は抱えている。どれほど過酷な環境で過ごしてきたのか、想像が及ばない。

 片付けたゴミの下に埋もれていたリビングの床は所々腐っていた。元の状態に戻すには業者に頼んで張り替えを頼むしかない。

「そういや……」

 愛花の父親は、どうしているのだろう。

 離婚してからの愛花は父親に引き取られ、ここで変わらず暮らしていた、はずだ。ここ数日で会話するようになってからも、家族の話は禁忌だと思って話題にはしてこなかった。

 この状況はおかしい。まるで、この家には……。

「まさか、な」

 僕は頭を振って悪夢のような想像を掻き消す。

 そのとき、窓の外から吹き込んだ風が桜の花びらを運んできた。

 ふと思いだし、窓の外から庭を覗く。

 幾多もの大輪の花を咲かせた桜の木が、梅の木の成長を妨げるように枝と幹を伸ばしていた。シーズンを過ぎて窮屈そうに枝をくねらせる梅を見ると、もう何年もの間、誰の手も入っていないように見える。

 目線を下げた先にある池も、緑色の藻がびっしりと水面を占めている。あれではもう、鯉は生きていないはずだ。

「罪を償え、か……」

 変わり果てた景色の中で思い知る。

 僕が背負った罪は、僕が知る以上に重く、深いものだということを。

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