11.終わらない冬は延々続き、そうして今が巡ってくる。
酷い夢を見た。
「怠い……」
ベッドの上で上半身を起こす。頭が重い。休日だというのに体調を崩すだなんて社会人でもあるまいし、と自嘲する。
高校に入ってから繰り返し見るようになった過去は、そのどれもが思い出したくないものだった。寝巻きに纏わり付く汗が不快で、二度寝をする気分にもならない。夢の続きを見てしまうような気もする。あんなものまで見たら、活動意欲を根こそぎ奪われてしまいかねない。
着替えてリビングに入ると、深月が幅広のソファーに横になってテレビの前を独占していた。
「やっと起きてきた。なんか顔色悪いけど大丈夫? 朝ご飯作れる?」
「別に」
「別に、どうなの?」
「心配されるほどでもないってこと」
「そうならはっきりそう言いなさいよね。心配して損した」
「心配してくれるくらいなら自分で朝食くらい作ってくれたほうが僕としてはありがたいんだけど」
しかも損したって何だよ。大して気にとめてくれているわけでもないくせに。
怠い身体を起こすがてら適当にトーストとサラダを準備して、テーブルに並べる。 深月が匂いに釣られて席についた。
「そういえば、学校はどう?」
「どうって言われても」
「楽しいか辛いか、みたいな」
「別に」
「別にってことはないでしょ?」
「だから別にって言ってるだろ。分かれよ。楽しくもないし、辛くもないから」
僕は声を荒げた。嘘だ。本音を隠すための見え透いたはりぼてだ。本当は辛いけど、深月に本音なんか漏らしてどうなる。先生に告げ口するのか? 生徒会長権限でどうにかするのか? そんな簡単なことで済む話じゃない。
愛花がいて、桂坂がいる。復讐を目論んでいて、けれどあの頃のようないじめや犯罪まがいの暴力が再び始まってしまうのを恐れている。いまの気持ちは、そう簡単じゃない。思いつきで解決できるような根の浅い問題ではないのだ。
「……じゃあ、桂坂って子は行人に危害を加えてきていないってことでいいの」
珈琲を飲みながら、深月がぼそりと呟いた。
どうして知っている、という言葉が出かかって、音になる前に息ごと飲み込んだ。それも会長権限ってことだろう。それにしたって、よく覚えているもんだと感心すらしてしまう。
「桂坂は別に、今の所は静かにしてるよ。暴力を振るってくるわけじゃないし、少しは知能もついたってことでしょ」
「本当に何もされてないのね」
「されてないよ。傷だってつけられていない」
だけど、それは見えない所だけの話。心はもうそこそこにボロボロだ。傷が塞がる前に、桂坂にかさぶたを剥がされてしまった。彼がいる限り、治りようがない。
「パシリ扱いされてるみたいって友達が教えてくれてね」
「それだって、暴力を振るわれるよりはマシだ」
「筋山先生には?」
「言うわけないだろ。教師が解決してくれるんだったらとっくのとうに解決してる」
教師は誰も助けてくれない。親の顔色ばかり窺って、ろくに当人たちのことは見てくれない。小学校も中学校も、そして高校も同じ。教師がどこを向いて仕事しているかなんてのは明らかだし、僕が誰かに何かを訴えたところでどこにも届かないし響かない。
「あんた、いまのままでいいと本気で思ってるの?」
僕が素っ気ない態度だったからか、深月が身を乗り出してきた。
「いいか悪いかなんて選べるような場所じゃないんだよ」
あそこは牢獄だ。囚人に選択肢など与えられていない。
僕は搔き込むようにしてトーストとサラダを口に入れ、食器を片付ける。「まだ話は終わってないよ」と深月が突っかかってくるがそれも無視する。
「これから出掛けなきゃいけないから。自分で食ったもんくらい片付けしといてな」
「ちょっと、逃げる気なの」
金切り声のような糾弾を耳にしながら、僕は頭を悩ませる。
うるさい姉貴だ。僕のことなんか放っておいてくれと、何度言えば分かってくれるのだろうか。
虚な目のまま壁掛け時計を見ると、昼に差し掛かる頃合いだった。やばい。そろそろ家を出ないと待ち合わせに遅刻してしまう。
急いで着替えて財布とスマートフォンをポケットに突っ込む。少しだけ寝癖がついているが、まあ許容範囲だろう。適当にワックスで誤魔化すことにした。
「ちょっとあんた、出掛ける気?」
身支度を終えて玄関で靴を履いていると、先程の熱が冷めていない深月がリビングから駆けてくる。
「出掛けるってさっき言ったろ」
「いますぐとは言ってなかったじゃない」
「なんか都合悪いことでもあんの?」
「洗濯とか庭の手入れとかお母さんに頼まれてるんだけど、誰がするのよ。私だってこれから生徒会の仕事で出払うんだけど」
「はぁ?」
リビングであんなにだらけて朝食もろくに準備してなかったくせに、洗濯と庭の手入れまでやらせる気か。
「いや、待ってよ。やろうと思えば姉貴だってできただろ。時間あったろ」
「行人がやってくれるもんだと思ってたし。出掛けるんだったら昨日のうちに言っておいてくれないと分からないじゃない」
「だって母さんに言われたのは姉貴じゃん。僕が知ったことじゃないよ」
普段であれば深月より早く起床する僕がそういった家事の頼まれごとをして片付けている。けれどそれは僕か深月、どちらかがやっておいてくれ、ということだったはずだ。基本的には僕が、という話ではない。
「なんにしても、出掛けられると困る」
「知ったことかよ」
そう吐き捨てて、僕は玄関を飛び出した。そのまま数十メートル走り、十字路を曲がったところで膝に手をついた。久しぶりに走ったせいか、動悸が激しくて、無意識のうちに肩で息をしてしまう。
「体力……落ちたな……」
駅までの道はまだ長い。自転車で行けば五分と掛からない距離だというのに、今日ばかりはその距離を歩くことすら億劫だ。今さら自転車の鍵を取りに戻ることもできない。
「参ったな……」
これからもっと体力と気力が必要になってくるというのに、もうすでにへとへとだ。悪夢を見たのと朝からの喧嘩で気分もまったく晴れない。
風に巻かれるようにして、桜の木から桃色の花びらが落ちてくる。見れば、歩道脇の排水溝いっぱいに春の破片が落ちていた。
「もう、春も終わりか……」
僕の冬は延々続くのに、季節だけが何のしがらみもなく余韻を残して過ぎ去っていく。それがどこか物悲しく思えた。
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