10.秋の終わりだって、全部、桂坂のせいなんだ。
桂坂力也という王様を、僕は見誤っていた。
確信したのは、彼が凶器を手にして振り回すことが度々あって、そのときの顔に見慣れた頃のことだった。
カッターを振り回してカーテンを切り裂いたり、僕の机に『クズ』と彫刻刀で彫っているときの顔。愉悦に浸って、周りにどう見られているのかも考えずにくつくつと笑いながら僕を罵倒する態度。常軌を逸している。
「あーあ。もう机にも掘る場所がなくなっちまったな……。もう、こうなったらクズの身体に直接刻み込んでやろうか? イレズミってやつ。あはははははっ」
冗談じゃない。そんなの、許されるはずがない。
殴る、蹴る。それだけじゃ飽き足らず、刃物で脅してきたり、定規やプラスチックのバットで頭を叩いてきたり。ぐらついてきた乳歯が抜けるまで顔面を殴られたりもした。
檻の中は無法地帯だった。犯罪まがいなことは平気で行われ、むしろ賞賛すらされる有様。この小さな世界は、桂坂が法であり、倫理だった。
『大丈夫? 葛城くん』
目に見えるような暴行を受けた日に限って、愛花から電話がかかってくることが多くなった。携帯に着信履歴を残さないよう、家の電話を使っているらしい。市外局番から掛かってくる電話が、距離の遠さを表しているようで、どうしてか悲しかった。
『殴られて歯が抜けたって聞いたよ』
「大丈夫だよ。転んだことにして親にはごまかしてるし」
『そういうことじゃなくって』
「もう少しだからさ。卒業すれば、少しはマシになるはずだから」
閉ざした心の中で、腐ったアサガオが残していった根も葉もない願望が芽を出していた。
中学生になれば、世界が変わる。環境が変われば、きっと元通りになるはずだと信じて、僕は越冬するしかないんだ。
『なんでそう、我慢するの』
「我慢してないよ。無関心なだけだよ。痛がったり反抗しようとすると調子に乗っちゃうから」
『でも、桂坂はやめてくれない』
「それでもみんなは興味なくなったみたいだから。前よりは楽だよ」
自分で言っていて鼻で笑いそうになってしまった。楽って、いつと比べてだろう。
桂坂のいじめが犯罪じみたところまでエスカレートしているのに、楽ってなんだろう。
僕は自分がされていることに興味を持てない。他人事のように思えてしまう。殻に籠っているうちに、自分の表面と空気との境目がなくなってしまったようだった。もう、痛いのかどうかも分からない。身体と心の在処が別々の場所にあるような感覚がずっと続いている。
「なんにしたって、もう少しだからさ。冬休みが終われば、もう学校なんてあってないようなものだから」
『だから大丈夫だなんて、私、絶対に信じないからね』
「そっか」
僕のことを心配してくれているのに、愛花に対してありがとうの一言すら言えなかった。
右頬を触ると、青痣の内側からじんわりとした痛みが走る。
「心配かけてごめん。もう少しで終わるから」
『辛くなったらいつでも電話していいからね』
「うん」
でも、きっと、僕から愛花を頼ることはない。
僕はまだ、彼女のナイトであり続けたかったから。
姫とナイトの逢瀬を、王様は見逃してくれなかった。
どこでばれてしまったのか分からないけれど、桂坂は全てを知っていた。夜に僕が愛花と電話をしていること以外の全て。クラス全員が密告者だった。
二月の冬の日だった。放課後、逃げるようにして教室から飛び出したのに、あろうことかうさぎ小屋の側を横切ろうとしたところで待ち伏せに遭った。
「逃げるなよ、クズ」
死角から飛び出してきた牧田が僕に足払いを掛けてから羽交い締めにして、大声で「クズを捕まえたぞ!」と叫ぶ。それが人から人へと伝播して、数分後には桂坂を呼び寄せてしまった。
「お、牧田くんじゃん。よくやったじゃんか」
「でしょ。ここなら絶対捕まえられると思って――」
「この程度のこと、できて当然なんだから誇らしげにしてんじゃねぇよ、馬鹿」
たったそれだけで、得意げな顔を浮かべていた牧田から笑みが消え失せた。僕の脇下から羽交い締めにしていた両腕を抜くとき、彼は脇腹を殴ってきた。不意打ちだったせいで、僕の口から短い呻き声が洩れる。
「それじゃ、俺、帰るから」
「お役目ごくろうなー、牧田くーん」
手も振らずに帰る牧田が見えなくなる。僕を殴ったままの握り拳を解かずに、肩を少し怒らせたままの彼が滑稽に思えた。
「葛城さ、俺に何か言わなきゃいけないこと、あるだろ」
桂坂が鼻にかかった声で言う。
「……何もないけど」
「謝らないといけないことがあるだろ、ええ?」
「覚えがない」
「しらばっくれてんじゃねぇぞ。前田といちゃついてるの、知ってるんだからな」
そんなことかよ、と僕は呆れてものも言えなかった。
一体僕が何をしたというのだろうか。ほんの少しだけ、愛花と話をすることがあっただけだ。彼女との電話のことは着信履歴を消しているからばれるはずがないし、桂坂が知らないことはそれくらいしかない。
その他だって、荒波を立てないように過ごしてきた。痛い目に遭うのが分かっていて、桂坂の逆鱗に触れるような真似をするわけがない。
僕が無言を貫いていると、桂坂が「謝れよっ!」と吐き捨てながら背中を蹴ってくる。
「黙ってないでなんとか言えってんだよ!」
繰り返し僕の背中を蹴ってから、それでも倒れない僕に苛立ちを覚えたのか、胸ぐらを掴んできた。そのまま背負い投げをするように僕の身体を放る。世界が半回転して、ふわりとした感触が一瞬だけ背中を包んだ。どっ、と固い土に叩き付けられた身体に電撃が走る。肺に溜まっていた空気が一挙に吐き出される。
ぎしり、と内側から軋むような怖い音がした。ここがうさぎ小屋じゃなかったら、コンクリートの硬さで骨が折れていたかもしれない。
仰向けになったまま動けないでいる僕の上に、桂坂が跨がる。下敷きになった腕が圧迫されて、血が通う感覚が遠ざかっていく。
「とりあえず、まずは一発」
桂坂は口角を上げながら三発殴ってくる。どこが一発だよ、と睨み付けると、今度は大きな掌で僕のこめかみを掴んできた。目玉から血が出るような錯覚。頭が割れるかと思うほどの痛みで、僕は思わず「やめてよ!」と叫ぶ。
「なんだ、鳴けるんじゃねぇか」
「早くどけよぉっ」
感情を殺した言葉に、桂坂は無慈悲な拳で応えてくる。溜めてきた怒りや憤りを込めているのか、一発がとても重かった。
「お前、目障りなんだよ。なんでお前が前田に好かれるんだよ」
「知らないよ、そんなの」
そんなこと、愛花に直接聞けばいいだろう。どうして僕に訊いてくるんだ。
「俺に殴られるたんびに、前田に慰めてもらってるんだろ」
「それだって愛花ちゃんが勝手にやってることで、僕には関係ない」
そう言い切ると、どうしてか僕の身体の奥がじんと疼いた。あれは愛花が勝手にやっていることで、僕は仕方なくその優しさをもらってやっているだけだ。そのはずなのに。
「関係ないことないだろ!」
桂坂が叫びながら僕の頬を横殴りにする。さっきよりも重たい一撃。抜歯を手伝ってやると言われて殴られた場所と同じ箇所。新しく生えてきた永久歯に衝撃が響く。
「……お前なんかいなくなればいいんだ。死ねばいい」
彼の口から『死』という言葉を初めて聞いた。
本当に彼ならやりかねない。僕をこのまま殴り続けて殺すことだってできるだろう。そこまで、僕のことを恨んでいるのか。憎んでいるのか。
僕のことが嫌いなのか。
荒げた息を整えた桂坂は、ランドセルの横に引っかけた袋から彫刻刀のセットを取り出した。気味の悪い笑顔を浮かべながら、慣れた所作で蓋をあけて中身を取り出す。
「千枚通し……」
僕は目を瞠った。
真っ赤な夕陽に照らされて鈍く光る先端が赤黒く錆び付いている。この世界のどこかに、この凶器で傷つけられた犠牲者がいるということ。そのシーンも、痛みも、苦しみも、何一つとして想像したくない。
「それで、何、するつもり」
喉から絞り出した僕の声が、がらがらに嗄れていた。
怖い。
刺して穴を開けるためだけに作られた道具。それだけ単純だからこそ、それを手にした桂坂が何を企んでいるのかが理解できてしまう。訊かなくたって、分かる。分かるからこそ、これから先に待つ展開。嫌だ。死にたくない。
「言わなくても分かるでしょ」
「やめろよ。そんなことしたら、もう誰もごまかせなくなる。僕もお前も、取り返しがつかなくなるんだぞ」
「いままでだって何も変わらなかったんだから、この程度で人生が変わるかよ」
「僕を、殺すのか」
「俺の気が済むまでメッタ刺しにしてやるよっ!」
言って、桂坂は目を見開きながら千枚通しを振り上げた。
「どこがいい。最初はお前に選ばせてやる」
「ばか、やめろ」
「そうか。だったら俺が選んでやる。心臓は死んじまうから、それ以外となると……。そうだな、目玉とかどうだ」
「やめろって。死んじゃうって」
眼球の後ろに何があると思ってるんだ。そのまま貫けば、心臓を貫くのと一緒で、本当にどうしようもなくなるんだぞ。僕は死ぬだろうし、お前は殺人者になるんだぞ。
脅しのような言葉は僕のなかにいくらでも用意があったのに、そのどれもが声にならなかった。喉元でつっかかり、白い息に変わってしまう。
「まずは右目からだな」
「嘘だろ、おい」
「嘘なもんか、やるっつったら、やるんだよ」
笑みを浮かべたまま、桂坂がぐっと腕に力を入れる。
ああ、このまま僕は死ぬのか。心を閉ざしたまま、誰にも看取られることなく、こんな場所で。うさぎ小屋。もしかしたら愛花が最初に発見するかもしれない。そしたら彼女はどんな顔をするのだろう。僕が死んだことを悲しいと泣いてくれるだろうか。
凶器の先端をじっと見据える。あれが、僕の血に染まるのを想像する。押し寄せてくるだろう痛みを想像する。
嫌だ。嫌だ。僕はまだ死にたくない。
「死にたく、ないっ」
「キヒッ」
僕の懇願も虚しく喉を鳴らした桂坂が右手を振り下ろそうとした瞬間、
「桂坂っ」
悲鳴のような叫び声と共に、血飛沫が吹き上がる光景が頭の中で広がる。
それと同時、千枚通しが何もない地面へと突き刺さった。
僕は息を止めていた。そのことに気付いて、むせるように息を求める。肺が痙攣して、上手く息ができない。僕は生きている。苦しいけれど、血は流していないけれど、生きている。
「どうして……」
桂坂は僕から目を離し、たった一点を見つめたまま固まっている。
「何、やってるの……。桂坂」
愛花だった。僕の目に逆さまに映る彼女が喉を震わせるように尋ねる。さっきの僕と同じように、やっていることなど一目瞭然なのに、それ自体を否定したい気持ちが声に出ているようだった。
「何やってるのよ桂坂っ!」
怒号と悲鳴がないまぜになった声が桂坂を糾弾する。僕に側に刺さった千枚通しに目をやって、もう一度彼を見る。
「葛城くんを殺そうとしたの!?」
「違うっ!」
「じゃあ、どうしてそんなものを振りかざしているのよっ!?」
金切り声をあげる愛花が千枚通しを指差す。
「黙れ黙れ黙れっ! なんでてめぇはいつもいつもいつもそうなんだよ! 葛城のことばかり気にしやがって! ざけんじゃねぇよ!」
「ふざけてるのは桂坂でしょう? いじめも大概にしなさいよ」
「なんだよ、俺はただの悪者かよ……」
「悪者以外の何だと思ってるの。クラスのみんな、桂坂のことなんか大嫌いよ。嫌々従ってるふりをしてるだけで、桂坂が好きで付き合ってる人なんて誰もいない」
「……そうかよ。俺は完全に悪者かよ」
桂坂は何かを諦めたように脱力して、ゆらりと立ち上がる。力なく僕の脇腹を蹴り上げると、そのまま逃げ出すようにして姿を消してしまった。
愛花が僕の側に駆け寄ってきて、「大丈夫?」と声を掛けてくる。僕はそれに頷いてみせる。
「刺される前に愛花ちゃんが助けてくれたから、大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃないよ。顔がぼろぼろだよ。こんな怪我して、どうして大丈夫なんて言うの」
愛花の瞳から涙が零れて、僕の頬を濡らす。熱い。これが彼女の体温か。僕のよりもずっと暖かくて優しい。殴られた場所にとても沁みる。
彼女をまともに見れなくて、僕は顔を逸らした。目の前で地面に突き刺さる凶器が鈍く光っている。
もし彼女が来なかったら。もし桂坂が動揺しないでそのまま僕の右目を貫いていたら。
「ごめん、愛花ちゃん」
意味もなく、僕は呟いた。
「いいんだよ、葛城くん」
彼女の掌が僕のおでこを柔らかく撫でる。こういうものが愛情と呼べるのだとしたら、ずっとこのまま浸っていたいと思った。震えが収まるまでずっと、彼女の愛情に包まれていたい。心にぽっかりと空いた穴を、その愛情で埋め尽くしてほしい。
「ありがとう。ごめんね、愛花ちゃん」
「うん」
もう、無理だった。
初めて僕は、愛花の目の前で咽び泣いた。
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