9.夏の終わりも、全部、桂坂のせいなんだ。
僕が牢獄に閉じ込められてから四ヶ月が経った。
夏休みの間に観察日記をつけ、宿題として提出してからたった三日後のこと。僕の朝顔だけ腐ったように草臥れていた。
黒くどろっとした茎が虫に食われたようになっていたり、一方で膿んでいる箇所もあった。葉は黄ばみがかったように変色し、芋虫に食われたように穴だらけになってしまっていた。
たった数日でこんなことになるだなんて。
「あー。葛城のだけ枯れちゃってるなぁ。これだともう、根っこから駄目になっているかもしれん」
真田先生が至極残念そうな顔をして腕組みをする。
「先生、どうしよう……」
「ちょっと先生、考えてみるよ」
花のつぼみが萎んでそこから種ができるまでを観察することが目的だったのに、あんどん型の支柱に力なく寄りかかった僕のアサガオは、もう花を咲かせる元気などないようだった。
途方に暮れて朝顔の葉っぱを触っていると、桂坂たちが近づいてきた。
「ざまあねえな、クズ」
彼の隣にひっついている牧田が僕を笑う。
「水とか栄養とかやりすぎたんじゃねぇの? 友達がいないからって毎日世話しすぎたんだろ。アサガオしか友達がいねぇとか、マジで可哀想だな」
「牧田くんはアサガオの芽も出なかったくせに偉そうだね」
「俺に喧嘩売ってんのか?」
「別にそんなことないけど。芽が出なかったのは事実じゃん。アサガオだけじゃなくて友達もたくさんいるのに、ずうっとほったらかしにしたまま水も栄養剤もあげなかったから、そのまま枯れちゃったんだよね」
牧田はアサガオを育てるどころか、芽を生やすことすらできなかった。みんなのアサガオは足並みを揃えて双葉を出したのに、と不思議がった牧田が養土を掘り返すと、種のまま枯れていたのだ。「いまならまだ間に合うからもう一回植えてみろ」と真田先生に促されて挑戦したものの、やはり駄目だった。三回やって、そのどれも芽が出なかった。
ざまあみろ。
三度目の失敗を聞いたとき、僕は心の中で快哉を叫んだ。
ざまあみろ。ざまあみろってんだ。
水やりなんかをしていないようだったから当然だとも思ったし、だから彼はうさぎの世話だって放棄をしたのだとも納得できた。きっと彼が『いきものがかり』になったのも、世話焼きな愛花だったら係の仕事を全部押しつけられそうだと、そんな浅はかで愚かなわがままからくるものだったに違いない。
牧田はそれから夏休みに入る前まで、桂坂のアサガオを一緒に観察しはじめた。流石に桂坂には逆らえなかったようで、桂坂がサボる分、ずっと牧田が日誌を書いていたのは、僕を含めてみんな知っている。
「アサガオの世話だって僕より下手なくせに、よく笑えるよね、僕のこと」
「それとこれとは関係ないだろっ!」
支離滅裂なことをいう牧田を前に、頭が痛くなりそうだった。
アサガオを枯らしたことにかこつけてひとりぼっちの僕を嘲笑ってきたのはそっちだろうが。
「関係ないなら、アサガオを枯らしたついでに僕を罵るのもやめてくれないかな」
「クズのいうことなんか聞くかよ」
「僕をクズ呼ばわりして気が済んだならどっかいってよ。このアサガオ、これからどうするか悩んでるんだ」
もう数日、根気よく観察してみようか。それとも潔くここで諦めて土に還そうか。そういうことを真田先生と相談しないといけない。そのためには、もうちょっと観察しないと僕も判断がつけられない。
「諦めろよ、もう。腐ってんだからいまさら生き返るわけないだろ」
ズボンに土がつかないようしゃがんで観察する僕の真後ろに立っ牧田が背中を小突く。
いつものことだ。小突かれる程度、どうということはない。
何度か小突いてから、牧田が「ほんと面白くねぇな」と舌打ちをした。
心を殺すようになってから、僕は痛いと叫くことも寂しいと叫ぶこともしなくなったし、反抗することもやめた。
これが意外と効果的だった。
いじめ甲斐がない。ちょっかい出しても思うような反応が返ってこない。面白くない。口々にそういって離れていくクラスメイトは、僕を空気のような存在として扱うことに決めたらしかった。無視はするけど、ちょっかいも出さない。お互いに不干渉を貫いて、別の世界を生きる。約束をしたわけでもないのに、自然とそんな空気ができつつあった。
そうして僕に興味をなくした子がいる一方で、牧田や桂坂のように一部のメンバーだけは執拗だった。
「おい、なんか言ったらどうなんだよ」
言えば揚げ足を取られることが分かっているから、僕は無言を貫く。
「反応しろって、言ってんだろ!」
今度は蹴りがきた。背中の上から踏みつけるような重たい一撃。ぐっと踏ん張って見えない抵抗を試みる。
土まみれの靴で踏まれたから、Tシャツにくっきりと足跡が残ってしまうのだけは考えものだった。お母さんにどう言い訳をしようか。そんなことを考える。
「なんとか言えよ、このクズが!」
罵倒しながら、何度も勢いをつけて牧田が僕を踏みつける。もしかすると飛び上がって足を振り下ろしているのかもしれない。どす、どす、と鈍い音が響く。先生は遠くで女子たちに囲まれててんやわんやしているようで、僕がやられていることに気付かない。
「まどろっこしいなぁ、牧田くん」
膠着状態にあったいじめかたに痺れを切らしたように、桂坂が大袈裟に溜息を洩らす。
「そんな甘いやり方じゃ反応が返ってこないのも当然だって。いままで散々無視されてきてるのに、まだそんなことも理解できないの?」
牧田を小馬鹿にした桂坂が「見本を見せてやるよ」と得意げに言う。
「ねちねちやってるのもいいけど、それってやっぱり反応ないとつまんないでしょ。だから、こうやるんだよっ!」
桂坂が叫んだ瞬間、僕の股下にくぐり込んだ足が思いっきり振り上げられる。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
踏ん張りの利かないまま足が地面から離れて、僕は前につんのめる。
ぶつかる。そう思っても身体は止まってくれなかった。
プラスチックの植木鉢にぶつかって、自分のアサガオを巻き込んだまま倒れた。
「おいっ! 何をやっているんだ」
大きな物音でようやく気付いた真田先生が駆けつけてきて、僕に手を差し伸べてくれた。大きな手を掴んで立ち上がった僕は牧田と桂坂を睨み付ける。
「先生。ごめんなさい。牧田くんと葛城が喧嘩してたから、二人を引き剥がそうとしたら葛城がバランスを崩しちゃって。それでこんなことに」
僕の服についた土や泥を手で払う先生の背後で、桂坂が戸惑うような声音で嘘八百を並び立てる。
「なんで喧嘩になったんだ?」
先生が訊くと、今後は牧田がもごもごと口を開いた。
「葛城のが枯れちゃったから可哀想だって言ったら、芽も出せなかった奴に言われたくないってこいつが……それで俺、頭にきちゃって……」
「そうか。なんにせよ、葛城は怪我がないか保健室で看てもらいなさい。歩けるか?」
先生の言葉に無言で頷く。
俯いてアサガオを見ると、鉢から飛び出した土と一緒に、白い根っこがむき出しになっていた。うねうねと根を伸ばして、その面積を広げていたことまで分かる。ここまで頑張ったのに、こいつらは最後まで生きていけなかった。
ああ。ごめんな。
閉ざした心の中で自責の感情が蠢くのが分かった。
僕がもっと適当に世話をやっておけばよかったんだ。僕がもっとしっかりしていたら、アサガオは駄目にならずに済んだのに。生を全うする前に、殺してしまった。
「葛城。大丈夫か?」
「……はい」
先生が心配そうに僕を見る。
もう、構わないでくれよ、と言いたかった。だけど、それ以上に面倒だった。反応するのに疲れる。
「先生はアサガオを片付けておくから。ああそうだ、前田さん」
真田先生が愛花を呼び寄せた。はぁい、と遠くから返事をした彼女が先生の隣に並び、僕の汚れた姿を見て目を丸くする。
「一体どうしたんですか、これ」
「ちょっとした男同士の喧嘩だ。保健委員の太田は欠席だし、申し訳ないけど、葛城を保健室まで連れて行ってくれるか?」
「わ、分かりました」
行こう、と愛花に手首を掴まれ、引っ張られるようにして僕は保健室へと向かう。
保健室で先生に手伝ってもらいながら泥を洗い流すと、右膝に痛みが走った。どうやら転んだときに擦りむいたらしい。消毒をして四角い大きな絆創膏を貼る。喧嘩をしたわけでもないのに、男の勲章みたいだった。
泥がついたままの服も洗濯してあげるから、と保健室の先生が言ってくれた。その言葉に甘えて、僕は体操着に着替えて泥まみれの服を預ける。
「このまま戻るのもなんだし、うさぎ小屋に行かない?」
「うん」
愛花の誘いに乗っかってうさぎ小屋に向かう。
もう、こいつらには頼らないって決めたのに、結局ここに戻ってきてしまった。
うさぎは暑い日射しが差し込む場所でひなたぼっこをしていた。愛花が近寄ると、餌の時間と勘違いしたのか彼女の周囲に群がってくる。
「僕が世話してたときはこんなに懐いてくれなかったのにな」
「ここまで懐いてもらうのに何か月もかかったよ」
「二週間ちょっとじゃ足りなかったってことか」
うさぎは僕のことなど忘れてしまったようだった。僕が近づいても、逃げていくかそっぽを向かれてしまう。
「僕の愛が足りないってことなのかな」
「うさぎって、そういうのに敏感なんだって。心を閉ざしたままだと、近づいてこないよ」
「そっか」
やっとのことでうさぎを捕まえた僕は、その顎を優しくさすってやる。あのときもこうして世話をしたことを思い出した。
あの頃から、特に思いやりはなかった。いまだって、こいつらをかわいいとは思わない。羨望すら抱いていたけど、いまはもう、どんな感情も抱けない。
僕はもう、心の開きかたも忘れてしまったのかもしれない。
「植物ってね、人間の悪意とかそういうものを吸収するんだって」
うさぎを愛でながら、愛花がぽつりと呟いた。
「だから、世話をしている人が疲れていたり病気だったりすると、元気のない人にパワーをあげようと頑張っちゃうから、早く枯れちゃうんだって」
「そう、なんだ」
「葛城くんのアサガオは、夏休みが終わるまで頑張ったんだよ。いっぱい元気をあげようって張り切って、それで枯れちゃったんだよ、きっと」
「かもね」
そうなのだとしたら、アサガオに顔向けできない。恩を仇で返すような真似をしてしまった。僕の汚くて醜い心は、アサガオの受け止められる感情の許容量を超えてしまっていたのかもしれない。閉ざしていたはずの心を癒やそうとして、力尽きた。そういうことだとしたら、僕って最悪だ。
複雑に絡み合った根っこ。黒ずんだ茎。咲き終わった場所にできるはずなのに、実らなかった種。ぐちゅぐちゅになって黄ばんだ葉っぱ。僕がもっとしっかりしていれば、あそこまで酷いことにはならなかったかもしれないのに。
「葛城くん。ごめんね。助けられなくて。何も、してあげられなくて」
彼女が言う。
僕はうさぎの首根っこを触りながら、ただ首を振った。
「気にしないで」
「……ごめんね」
ごめんねの言葉は、固く閉じた僕の心にはこれっぽっちも響かなかった。
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