8.春の終わりは、全部、桂坂のせいなんだ。
先端恐怖症のきっかけは、単純だ。これも全部、桂坂のせい。
五月の大型連休が明けたあとの月曜日。
登校してくると、自分の机の上に一輪の菊を挿した花瓶が置いてあった。クラスメイトはみんなして知らない素振りで輪を作って話をしている。
「ねえ、これ、誰がやったの?」
誰ともなく尋ねたけど、誰も返事をしてくれなかった。仲のいい牧田くんも桂坂の相手をしていてから答えてくれる様子はなかったし、他の子も、僕が目を合わせようとすると露骨に視線を逸らした。
どうしたのだろう。なんでみんな僕を無視するんだろう。
みんなの行動と、菊の花。それが何を意味するのか分からなかった僕は、邪魔になるからと花瓶をそのまま教壇に移した。
「おい、こんなことしたのは誰だ?」
朝の会で開口一番、真田先生が眉を顰めて教室を見渡した。いつも溌剌とした声で挨拶をするのに、今日に限っては菊の花を見た途端、笑顔に陰りが差したのだ。
「いまだったら怒らないから、名乗り出なさい」
「……僕、ですけど」
そう言って僕は静かに立ち上がった。みんなの視線が一斉に集まる。なんだか悪いことをして立たされた気分だった。何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな空気になるのだろう。
「葛城だったのか。これ、どういう意味か分かるか」
「教壇机の上に花瓶を置いたことですか?」
「そうだ」
真田先生の語気が強い。どことなく怒っているのだけは分かった。けど、どういう意味なのか分からない僕は、首を横に振るしかない。
「ドラマとかでこういうのを見たことはないか?」
「僕、ドラマを見るのは禁止されているので」
「そうか……。知らないのであれば仕方がないな。でも、こんなことは今後二度とやっちゃ駄目だぞ。死んでしまった人の冥福を祈るための手向け花になってしまうからな。れっきとしたいじめになる」
手向けの花。先生が語句を強めてそう言った。
それってつまり、僕は死んだことにされたってことか。誰かが僕を殺したってことなのか。
れっきとしたいじめだとも先生は言った。僕はいじめを受けたのか。
そんなことをされる覚えがない。あの菊の花は、誰かが片付けを忘れたから置いてあったわけじゃないのか。僕を殺した証だったのか。
なんで。どうして。
身体の底から冷たいものが這い上がってきて、全身が粟立つ感覚に襲われる。脳髄からさーっと血がなくなっていく。このまま倒れてもおかしくないな、と思うほどに頭がくらくらしてくる。
「……僕、死んでません」
僕の口から自然と否定の言葉が出た。
努めて何もなかったかのように、「僕、死んでません」ともう一度、喉を震わせる。
「どうした? 葛城」
「僕、どうして死んだことにされたんですか?」
「……何かされたのか?」
「だって、その花瓶、登校してきたら、僕の机の上にあったんです」
真田先生が息を飲むのが分かった。大きく見開いた目が僕を見て、それからゆっくりと閉じていく。深く息を吐いてから、先生は「誰か、葛城の机に花瓶が置いてあったのを見た人はいないか」と静かな口調でクラスに投げかける。その声には、名乗り出なさいと言ったものとは比べものにならないほどの感情が詰まっていた。
そんな先生を前にして、誰一人として手を挙げない。ずっと机に視線を向ける子、興味のないふりをしてそっぽを向いている子、それから、桂坂と僕へ視線を往復させる子。
みんなして事情を知っているのに、知らないふりをしている。僕だけがその輪から外されていた。
僕だけが除け者にされていた。
嘘でしょ、と僕の口から声が洩れた。
「みんな、僕の机にあの花瓶があったの、見てたじゃん。どうして誰も何も言わないの? おかしいよ。なんでみんなして知らんぷりするんだよ。黙ってないでなんとか言えよ。一体なにがあったんだよ。僕、何かしたかな。悪いことしたんなら謝るから、事情を教えてよ」
「落ち着け、葛城」
「先生、こんなのおかしいよ。なんで僕こんな……。いきなり、わけわかんないって」
なんで誰も反応しないんだよ。俯いたままやり過ごそうとしてるんだよ。みんな見てたじゃないか。
そんな僕の叫びは誰にも届かない。
なんとなく空気で分かった。桂坂が裏で糸を引いている。
昨日、愛花を助けるときにあれだけのことをしたから、その仕返しなのだろう。そうとしか考えられない。
――逃げられると思うなよ。覚えておけよ。
桂坂は、先生にこってりと絞られたその日のうちにみんなに、連絡を取って箝口令を敷いたに違いない。次のいじめの標的を僕にすること。手始めに僕の机に菊を挿した花瓶を置くこと。そして、これから起こるだろういじめの数々を誰にも告げ口しないこと。
桂坂からなんの報復もされないなんて考えてはいなかったけど、それにしたって急すぎるって。
今日からずっと、彼の気が済むまで続くのか。
僕はひとりぼっちになる。その事実だけははっきりと飲み込めた。
「そっか……そういうことか……」
僕はみんなを一瞥して、拳を握った。
机に視線を落として、込み上げてくる悲しい気持ちを堪える。心のどこかで覚悟していたよりもずっと辛い。世界から急に色がなくなって、視界が歪んでいく。ここで泣いたら桂坂がつけあがるだけだ。だから、絶対に涙は流しちゃいけない。
先生はしばらく間、仁王立ちで六年一組の生徒たちを見つめていた。そうしたところで誰も口を割らないに決まっている。だって、先生よりも桂坂からの報復が怖いのだから。
「先生、誰も知らないって言ってんだからもうやめにしない? 犯人捜し」
桂坂がそう切り出して、他の子もその意見に賛同するように頷いた。空気が俄に染まっていく。先生には分からないかもしれないけど、僕も、他のみんなも、はっきりと気付いている。
このクラスはもう、桂坂の所有物だ。
誰をどう扱おうが彼の自由で、逆らえば徹底的に潰される。機嫌を損ねればば側近から厳しい罰が下される。
桂坂のさじ加減一つで総意が決まってしまうコミュニティ。
そんな牢獄でただ一人、僕は囚人になってしまったのだ。
檻の中で一人、ひたすら罰を受け続けて、卒業までの刑期をただ必死に生きていくことしかできない。抗うことは許されない。
それがこの世界。
秩序なんてどこにもない。大人なんて誰も頼りにならない。
真田先生もこれ以上の詮索は難しいと感じたのか、「もし心当たりがある子がいたら、いつでも先生に言うんだぞ」とこの場での犯人捜しを打ち切った。
僕は席についた。真田先生が「今度こういうのを見つけたらお母さんとお父さんにも言いつけるからな」とみんなに釘を刺す。
けれど、先生の言葉は誰にも響かない。
桂坂に逆らえばどうなるか分からない恐怖心で染められた心は、自分の身をどうやって守っていくかで精一杯なのだ。先生の言葉なんて誰も守りはしない。
僕は両手で顔を塞いで、深く長く溜息を吐いた。そのまま授業が始まっても、しばらく顔を上げることができなかった。
真田先生は僕の気持ちを汲んでくれたのか、今日の授業で僕を指名しなかった。
無言のまま午前と午後の授業を終えて、放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、僕は逃げるように教室のドアを開ける。
廊下に出る直前、
「逃げ足だけは速いよなぁ、クズ野郎」
僕をからかうように嘲笑する桂坂の声が背中に刺さる。だけど、ここで足を止めるわけにはいかない。桂坂の手下に捕まってしまう。
僕は勢いを殺さずに廊下を走り出した。
「助けたはずのお姫様がいなくて残念だったなぁ!」
心を殺して僕は逃げる。耳を傾けちゃいけない。
愛花はどうして学校を休んだんだよ。
でも、彼女には罪も責任もないんだから、そんなこと、思っちゃいけないんだ。
三人しか知らないうさぎ小屋の一件以降、愛花は二週間ほど、ずっと学校を休んでいた。ゴールデンウィークが終わっても、ずっと愛花の席は空っぽのまま。
週二回のスイミングスクールもずっと休んでいたし、うさぎの世話にくることもなかった。「川原さんの代わりに牧田くんがうさぎ小屋の世話をするように」と真田先生は言ったけど、牧田はその面倒な仕事を全部僕に押しつけた。「逆らったら桂坂にチクるからな」という一言に、僕はうさぎの面倒をみるしかなかった。
「みんな、飽きちゃったのかな」
僕らが三年生のとき三十周年を迎えたお祝いでこの学校にうさぎが来て、小屋が建った。最初はみんなで世話を焼いて、可愛がった。人参やキャベツを無理矢理餌食べさせたり、あちこちと身体を触ったりしていたのはいい思い出だ。
でも、こうやって適度に放っておかれたほうがこいつらにとっても住み心地はいいのかもしれないな、とふと思う。
「お前らはいいよなぁ。生きてるだけで可愛がってもらえてさ。餌も、寝床も、みんな勝手に用意されるんだもんな」
一人ごちながら、枯れ草を取り替えて、餌を補充する。
桂坂は僕が世話をしている間はちょっかいを出してこなかった。それは不思議だったけど、愛花のように閉じ込められてしまったら、きっと僕は誰にも助けられない。内心ほっとした。
そのことに安心してしまうほど、僕は二週間の間で孤独になった。
世界で一人ぼっちでも、人間はそこそこに生きていけるんだよ。
親とかいるけど、そういうことじゃなくて。誰からも見放されて檻に閉じ込められたままでも、心を閉ざしてしまえば意外と楽になれるんだよ。
耐えるのは疲れる。だから、痛みを感じないように心の動きを止めてしまえばいいんだ。
自分に言い聞かせるように、僕はそんなことをうさぎ相手に呟いた。
うさぎはひとりぼっちになったら寂しくなって死んでしまうのだと、そう愛花は言っていた。人間ほど理性があるわけじゃないから、仲間が死んでしまうと人間以上に辛い思いをしてしまうのかもしれない。
そう考えると、僕のクラスメイトよりもうさぎたちのほうがよっぽど心が豊かだ。僕と一緒に授業を受けている子は、みんな駄目。頼ることも寄り添うこともできない。
僕の友達だった子はみんな、僕がいなくなっても悲しんではくれないんだろうな。
「お前たちはいいよな。五匹で仲良く暮らせてさ」
どのうさぎも確か今年で四歳とか五歳くらいだったはずだ。みんなで仲良く暮らしていて、喧嘩をした場面を見たことがない。寒いときには固まって団子になるし、暑いときは勝手気ままに枯れ草の上で伸びていたりする。
近くにいた一匹を撫でてやると、こそばゆいのか、目を細めて僕の指にされるがままだった。
「僕もこうやって誰かに可愛がってもらって、気ままに生きていけたらなぁ」
うさぎの顎をくすぐりながら僕は憂鬱な気持ちを吐いた。
五月も下旬になった頃、久しぶりに愛花が登校してきた。
「うさぎの世話、僕がやっておいたから。今日からまた宜しくね」
朝のホームルームが始まる前、僕は愛花に素っ気なくそれだけを言い伝えた。「あ、ありがと」という言葉に頷きだけを返して席に戻ろうとすると、彼女が「待って」と僕を呼び止めた。
「いきものがかりって私と牧田くんだよね」
「そうだね」
「じゃあ、どうして葛城くんが世話をやっているの?」
至極まっとうな愛花の声に、僕は言葉を返せなかった。
僕が答えないとみるや、愛花は牧田のほうを向いて少し怒ったふうに「牧田くん。うさぎの世話は?」と尋ねる。すると、桂坂たちとトランプをしていた牧田はうんざりしたように愛花に振り向き、しかめっ面を浮かべて舌打ちをした。
愛花が目を見開く。
「何、その反応」
「いや、別に」
それだけ言うと、牧田はまたトランプを再開してしまう。
「ちょっと――」
愛花が立ち上がった所で、今度は女子が「愛花ちゃん、ちょっと」と彼女を呼び寄せる。きっと愛花は牧田を叱りつける気でいたのだろう。けれど女子が数人がかりで彼女を教室の外に引っ張り出してしまった。
愛花を連れて行った子たちは、箝口令の話から始まって、この二週間で僕がどんな扱いを受けているのか、それを明け透けに話すのだろう。
桂坂に逆らわないほうがいいよ。葛城くんには関わっちゃ駄目だよ。きっと酷い仕打ちを受けるから。
想像しただけで僕の口から乾いた笑みが零れた。
だって、その先、彼女がどういう反応をしてしまうかまで、何となくだけど分かってしまうから。
『ごめんね、葛城くん』
授業中、バイブレーションを切った僕の携帯が愛花からのメールを表示する。
駄目だって。
メールを送るのがばれたら、タダじゃ済まないって。
それに、もう、手遅れだよ。
ごめんねじゃ、足りないんだよ。
『気にしないで。僕は平気だから。あと、これを読んだら、さっき送ったメールと一緒に削除して』
愛花への返信は悩みに悩んで、そんな内容になった。
僕に構うとろくなことにならないから、もう、話しかけない方がいいよ。そういうオーラを出すことにも慣れてしまった。孤独の殻に閉じこもるのは意外と簡単だったし、もしかしたら、いままでの僕はお友達付き合いということに無理をしていたのかもしれないと、そう思えるほど気楽にも思えた。
「葛城くん」
帰り際、愛花が声を掛けてきた。僕は彼女の顔も見ず、そそくさとランドセルを背負い、去り際にぼそりと呟く。
「うさぎの世話、よろしく」
愛花はまだ何か言いたそうだったけれど、僕はまた廊下を駆け出した。
昇降口を飛び出して、グラウンドを突っ切り、校門まで一気に駆け抜ける。
うさぎ小屋も、今日から寄ることはなくなる。二週間お世話になったけれど、もう僕はうさぎにだって甘えることが許されない。
愛花に近づくことは、きっと彼女を傷つけることになるから。だから、これでおしまいにしないと。
校門を出てからも、僕は走り続けた。
彼女は追ってこなかった。メールも電話も寄越さなかった。
そう、それでいいんだ。
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