6.真心


 中学校の入学式で葛城行人の姿を見て、私は心底驚いた。

 学区が違ったはずだ。北原小学校を卒業した子は全員、隣の宮崎平(みやざきだいら)中学校へ行く。だというのに、彼はここ――上作(かみさく)中学校の入学式の席にいた。二週間前にスイミングスクールで見たときと何も変わっていない。間違いない。この私が、見間違えるはずがない。

 式が終わってクラスに戻ると、葛城は教室の端の席で窓の外をぼうっと眺めていた。クラスの中にはすでにグループができあがっているのに、そこから弾き出されたように孤独だった。

 数日経っても、葛城は心の壁をつくり、構わないでくれ、というオーラを纏って窓の外をずっと眺めている。そのせいで、皆はちらちらと視線を彼に向けているのに、それにすら気付いていないようだった。

 スイミングスクールではとっつきにくい雰囲気を漂わせる子じゃなかったのに。たった半月の間に何があったのだろう。

「ねぇ、葛城くん……。だよね?」

 呼びかけると、窓の外を眺めていた彼が私に振り向いた。濁った瞳。どこか怯えているような表情。寂しくてたまらないくせに、それを必死に隠そうとしている。

 彼が「ああ」と微かに唇を震わせた。それから、どこか安堵したような表情を浮かべる。

「栗原か」

「うん。久しぶりだね」

久しぶりというほどでもないのに、そう感じるほどに葛城という人間は別人のように覇気も元気もない。

「それにしたってびっくりしたよ。葛城くんの家からだと、宮中(みやちゅう)じゃないの?」

「春休みの間に引っ越したんだ。学区的にはどっちにもいける距離なんだけど、それでも宮中は遠くて。だから上作中にしたんだ」

「良かったの?」

「何が?」

 どうしてそこでしらばっくれるのだろう。だって、宮前平中学校に行けば彼女がいる。

 いつも目で追いかけていたあの女がいるはずなのに。

「だって、愛花ちゃんがいるじゃない」

 その名前を口にした瞬間、葛城は苦虫を噛みつぶすような顔をして、天井を仰ぎ見た。

「……もう、いいんだ。彼女のことは、もう、駄目なんだ」

 どうして。なんで。

 問い質そうと思えばいくらでもできたのに、葛城の顔を見ていると自然と言葉が引っ込んでしまった。とても後悔して、懊悩して、苦しんでいるのがありありと伝わってくる。けれど、どう手を差し伸べていいのか私には分からない。

 いいってなんだろう。駄目ってなんだろう。

「あの――」

「おーい、真心(まこ)ってば。あんたも早くこっちに来なさいよー」

 一体何があったのか。それを聞こうとした矢先、同じ小学校から上がってきた姫野に呼ばれてしまった。彼女にお呼びを受けてしまった以上、逆らうわけにはいかない。

 女子の世界には、従っておかないといけない相手というものが存在していて、姫野はその一人。これからの三年間を平穏無事に過ごすために、彼女のご機嫌を損ねてしまうことだけは避けなければならない。

 だから――。

 頭の中でそんな言い訳を並び立てる。

 まだ話したいことは沢山あるのに、一人にしちゃうけど、ごめん。

「呼ばれてんぞ」

「あ、うん。話の途中でごめん。またね」

「ああ」

 葛城は机の上に頬杖をついて、窓の外に目を向けたままの姿勢で固まってしまった。そうやって今日も孤独を貫くつもりだろうか。毎日そうやって、ずっと一人でいるつもりだろうか。

私だったら相手になってあげられるのに。

 でも、ごめん。今だけは許して。ひとりぼっちにしてしまうこと、根に持たないで。

 彼に向かって心の中で謝りながら、スクールカーストの女王から見限られてしまわないよう、私は輪の中に飛び込んだ。


 そんなことがあってから二週間後のこと。仮入部期間は授業が終わるとすぐに帰宅していたのに、葛城は陸上部に入部した。部活動の勧誘期間が終わってから最初の部活で、体操着姿の彼を見かけた。

「葛城くん。陸上部に入るんだね」

 声を掛けると、彼はしかめっ面を浮かべながら「まあ、ね」と頭を掻く。入学式のときから、彼は変わっていなかった。壁を張ることも、他人に興味がない素振りをしているところも、頑ななまでに貫いている。

「水泳じゃないんだね」

「まぁ、そんなに得意じゃなかったし。でも、どこかの部活に入るのが強制だっていうし、仕方なく陸上にした。本当なら帰宅部がよかったんだけど……」

 そう言って、葛城は苦笑いを浮かべる。

 スイミングスクールでの彼の成績は中の中で、良くもなく悪くもなかった。ただ、男子の中でも小さい方だったから、周囲が身体の成長に合わせて早くなるのに比べ、思うようにタイムが伸びなくなっていたのが原因なのは明白だった。身長のことばかりはどうしようもない。

「栗原こそ、水泳部じゃないんだな。スクールの中じゃトップレベルだったのに」

「親に色々習い事をやらされていたうちの一つってだけだったから。水泳が好きなわけじゃないし、未練もないの」

 スイミングの他にも、そろばん、公文、ピアノ、茶道なんかにも通わされた。心底嫌だったけれど、仮病なんて使う勇気もなかったから休まず通い続けた。

 あんたは警察官の娘なんだから、品行方正、正義を貫くのよ。そのためには心から清くありなさい。そういう願いを込めて、あなたの名前は真心にしたのよ。

 母の言葉は今でも呪いのように纏わり付いている。

 中学に進学する際に、部活動に専念するかわり、習い事の大半は卒業させてもらえた。将来、警察官を目指すのであれば足が速くないといけない、という父の厳命で、陸上部へ入る事は半ば強制だ。私には選択権などなかった。走ることが不得手だったら、どうなっていただろう、なんて思ったりもするのだけど。

「そっか。泳ぐの速かったのに、もったいないな」

「兼部できる学校じゃないからしょうがないよ。それに、本命は長距離走だから、私」

「へぇ……。長距離、なんだ……」

 意外だ、とばかりに彼が自分に振り向いた。少しだけ目を見開いて、驚いたように口を開けている。

 その顔を見た途端、言葉にできない嬉しさが込み上げてきた。

 彼が私に興味を持ってくれた。私だったら彼の心に入っていける。

 誰にも心を開かないのに、私にだけはちゃんと向き合ってくれるんだ。

「うん。なんかさ、長距離で頭を空っぽにして走ってると、そのときだけは嫌なことから解放された気分になれるから」

「いいな、それ。でも、僕には向いてない」

 少しだけ彼は笑って、どこか諦めるように言った。

「向いてないかどうかなんて、やってみないと分からないよ?」

 そう言うも、葛城は力なく首を横に振る。

「長距離は向いてない。頭を空っぽにできるのは憧れるけど、そもそも僕にはずっと走り続けられるほどの根気がないから。人間としてなってないんだよ」

 自嘲する葛城は、でも、と続ける。

「短距離走だったら負けたことがないから。単純な理由だけど、短距離走者になろうと思ってる」

 その言葉通り、彼は新入生の誰よりも百メートル走が速かった。背が小さいのにあれだけ走れるんならこれから先が楽しみだな、と結果を見た先輩たちが語っているのも耳にした。

 きっと、これがきっかけで葛城は段々と周囲に溶け込める。皆に認められれば、壁を作ることもなくなって、近寄りがたい雰囲気もいずれは消えてなくなる。

 栗原は密かにそう思っていたし、期待もしていた。


 けれど、中学二年の夏の終わりに、彼の心も、私のささやかな願いも、ぽきりと折れてしまった。


 夏の大会を控えた直前の追い込み練習で起きた、膝蓋骨骨折。二年生で唯一の主力メンバーに抜擢されていた葛城に起きた悲劇は、陸上部の面々に大きな衝撃と困惑を与えた。

 個人で出場する短距離走だったらまだ影響は少ない。葛城だけが失格になればいい。だけど。

 ――リレーはどうするんだ。

 ――今年は関東大会まで狙える位置にいたのに。

 ――葛城が出場できないとなると、県大会上位に残るのも厳しいぞ。

 主力メンバーがそんなことを口々にしていたせいか。はたまた誰一人として大会のことばかりに気がいって、葛城の怪我をきちんと心配していなかったせいか。

 怪我をしたエースの分まで頑張る、という気概の欠片も持ち合わせていなかった男子は誰一人として関東大会に進めなかった。

 あの頃から、陸上部は歯車が狂いはじめた。

 陸上部の面々は、お前の居場所はもうここにはない、と言わんばかりに彼を冷遇し、体調管理のできないお前が悪い、大会で良い結果を残せなかったのは葛城のせいだ、そんな罵詈雑言を吐くようになった。

 大会での惨敗を不在だったエースのせいにして、男子は葛城を追い出した。結局、骨折が完全に回復しても、葛城は戻ってこなかった。

 そして彼は再び孤独に窓の外を眺めるようになった。

 

「陸上部に戻ってこないの?」

 最終学年に進級した初日。栗原は、ホームルームが終わってそそくさと帰ろうとした葛城に声を掛けた。

もう、先輩もいないし、みんな待ってるよ。

そう伝えたものの、彼の心は少したりとも開くことはなかった。

「前に言ったろ? 僕、根気がないんだ。それに、嫌われてるし。仲良くなんてやっていけないだろ、今さら。だから、もう、いいんだ」

 もう、いいんだ。

 栗原はどうしても思い出してしまう。入学初日もこんな顔をしながら同じ言葉を口にして、葛城は彼女のことをどこか諦めていた。後悔もして、未練もたらたらなくせに、そんな気持ちに蓋をして何重にも鍵を掛けてしまっていた。

「駄目だよ。それだけは、駄目だよ」

「駄目って? だって、もう、無理なんだよ。陸上やりたいって気持ちがこれっぽっちもないんだ。空っぽになったまま埋めようがないんだよ。そんな奴が部活にいたって、みんなに迷惑を掛けるだけだ。そうやってまた失敗したら、今度こそ僕は……」

 それきり黙ってしまった葛城に掛ける言葉を探す。なんでもいいから。でないと今度こそ、彼との繋がりを失ってしまう。

「私は――」

「真心ー? 久々に陸上部も休みだって言うからあたしが予定空けてんのに、いつまで待たせるつもりなの?」

 ああ、どうして。

 どうしてこうも、こんな大事なときばかり邪魔をするの。

 教室の出口から姫野が声を荒げている。陸上部が休みって聞いたから遊ぼうよ、と言ってきたのも、一方的に予定をねじ込んできたも彼女なのに。どうして、あとちょっとを待てないの。

「姫野に呼ばれてんぞ」

「分かってる……けど……」

「僕はもう、陸上はやらないって決めたんだ」

 やらない、と一際強調して断言する葛城が鞄を肩に引っ提げて教室から出て行く。それをただただ見送ることしかできない。

「ねえ、ぼうっとしてないで早くしてよね」

「……ごめん」

 姫野のご機嫌を損ねないようにしないと。彼女に嫌われた女子の末路を何度となく見てきたから、逆らえない。居場所を確保するためには仕方のないことなの。だから、ごめん。

 そうやってまた、繰り返す。過ちと、謝罪と、懺悔と、言い訳。

 私だったらその壁を壊せるのに。救ってあげられたはずなのに。

 最低だ。私。

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