4.いつまでも、あの頃のままじゃ、ないんだよな。
鬱屈した僕の気分とは正反対に、入学二日目の空には抜けるような晴天が広がっていた。
予感していたとおり、思い出したくもない過去の夢を見た。朝から気分は最低最悪だ。
けど、どれだけ嫌でも、高校には行かなければならない。入学二日目から不登校はできない。授業に出席しなければ卒業はできなくなるし、そもそもサボりなんて続ければ、お節介な深月や両親から何を言われるか想像に難くない。
憂鬱な気分のまま校門をくぐると、あっという間にジャージ姿の先輩たちに囲まれ、わら半紙で刷られたビラを掴まされた。
「軟式テニス部でーす。よかったら放課後、見に来てくださーい」
「サッカー部は昼休みも活動やってるから、興味あったら来てくれ」
快闊な勧誘を受け、たじたじになる。そう、今日から部活動の勧誘期間なのだ。先輩たちが校門から校舎までの道のりに並んで威勢の良い声を出している。朝っぱらからよくもまぁそんな元気な声が出る。低血圧を自称する僕にはとてもじゃないが無理だ。
知らない上級生に「おはよう」と声を何度か掛けられて、僕はそれに軽く会釈するだけでやり過ごした。
部活動に入るつもりはない。中学校の時は陸上部に所属していたけど、それも中学二年の夏が終わる頃に退部した。上には上がいる現実を知ってから、急に面白くなくなったのだ。怪我が重なったこともある。そういえば、スイミングをやめたのも同じ理由だった。
どれだけ努力しても、体格差があってはどうにもならないことがある。死ぬような努力をしても、才能には勝てない。
もらったビラをそのまま昇降口にあるゴミ箱に捨てる。どうせ答えは決まっているのだ。部活には入らない。何かに熱中するなんて、馬鹿馬鹿しい。僕に訪れるはずだった青春はとうに枯れ果てている。腐ったこの性根と一緒で、二度と蘇ることもない。
僕以外にも同じ気持ちの子がいるようで、ゴミ箱の中にはくしゃくしゃに丸められた紙が捨ててあった。これを捨てた生徒も、帰宅部というカースト最底辺のレッテルを背負って三年間を生きていくのだろう。そうか、僕と一緒か。顔も名前も存じ上げないが、お互い頑張ろうな。無感情にそう思った。
下駄箱を開けると、そこにもぺらぺらとした藁半紙が入っていた。
「うっぜぇ……」
さすがにここまでやられると腹が立つ。下駄箱に入れておくとか、チラシじゃねぇんだから、控えろよ。これを新入生全員にやっているのだとしたら質が悪い。どこの部活か知らないが、深月にでもちくってやろう。そう思いながらビラに目を通す。
『葛城くん。放課後、屋上まで』
ボールペンで、そうとだけ書かれていた。勧誘にしては素っ気ない。連絡先も何もない。
忘れもしない、特徴的な字。下手くそなひらがなに、濁点。
「はっ……」
顔から血の気が失せていくようだった。目の前が白黒に明滅して、倒れようとする身体から伸びた手が下駄箱を掴む。靴から上履きに履き替える生徒の視線。紙。ボールペン。濁点。放課後。呼び出し。屋上。
やばい。はやくこれをどうにかしないと。
このまま捨てても見つかったら殺される。千切って捨てるか。でも、こことクラスの他にゴミ箱のある場所を知らない。燃やしてしまえれば。でもライターなんかない。だったら濡らすか。そうか、そうだ。
僕は外履きのまま校舎の中にあるトイレに駆け込んだ。A5サイズの紙をばらばらに千切って水で流す。その姿が見えなくなっても、何度も繰り返し水を流す。
消えろ。
消えろ、消えろ。
消えろ消えろ消えろ。
あの日の光景ごと、なくなれ。消え失せろ。
呼吸がままならなくなって、喉と肺の中間あたりで何かが詰まる。胸を叩き、空気を吐くように嗚咽したところで発作が止まった。壁に手をついて、酸素を求めるように肩で息をする。
視線の先でゆらゆらと揺れる水面に映る顔は、久々にみる酷い顔だった。
放課後になって、クラスメイトが三々五々に散っていく。そのほとんどが部活動の話をしていた。先輩がいるから俺もバスケットやるんだ。憧れの先輩がいるから私はバレーボールを見学に行こうかな。ギターやベースが入るケースを担いだ二人組の男子が、好きな曲について語り合いながら肩を並べて教室を出ていく。
青春だ。
二度と取り戻すことのできない煌びやかな日常がそこかしこに転がっている。ぶつかり合って、様々な音を奏でている。そんな合奏を、僕はただ傍観することしかできずにいる。混ざり方などとうに忘れてしまった。懐かしさは蘇るものの羨ましいとは思わない。僕の青春は、上辺だけが綺麗な紛い物だったから、そんなものに未練はない。
好奇心にわずかばかしの不安を混ぜ込んだ顔をした彼らが「また明日」と告げて別れていく。誰に挨拶をすることもなく、僕も鞄を持って立ち上がった。
「ねぇ、葛城くん」
真後ろから僕を呼ぶ声がして、振り返る。
「なに?」
「葛城くんは陸部の見学に行かないの?」
「……もう、やめたんだよ。同じ中学だったんだから知ってるだろ」
「そっか……。やらないんだ」
やっぱりもう走らないんだね。淡々とそう言った栗原真心は、沈んだ表情を見せた。
なんだよ、それ。高校生になってから初めての会話がそれかよ。
高校に入れば心機一転、陸上を再開すると思っていたのだろうか。だとしたら、とんだお節介だ。勘違いもいい加減にしてほしい。大会での怪我はただのきっかけだったに過ぎない。とうの昔に腐った性根は、一年ちょっとじゃ生え替わらない。環境が変わらないのに根っこだけが再生するわけがないだろ。
確かに、中学を卒業すれば変われると思った。学力という明確な線引きのある高校であれば、中学時代の腐った部活動の面々とも、桂坂の亡霊ともおさらばできる。そうなればもう、怯えることもない。
そう信じていたのに。
淡い期待は踏みにじられてしまった。根っこごと、入学初日にぽきりと折れてしまった。希望とか期待とか、そういった未来に向けて伸びていくはずだったものが、根こそぎ駄目になった。
「それじゃ、僕、行くから……」
「あ、う、うん……」
栗原に別れを告げ、力ない足取りで教室を出た。目指す場所は屋上。呼び出しを無視したら、どんな仕打ちを受けるか想像ができない。今度こそ、存在ごと消されてしまうかもしれない。あいつだったらやりかねない。だから、嫌でも行くしかない。
僕が纏う空気だけが異質だった。部活動の見学に向かう一年生。それを歓迎する上級生。みんな明るい未来を見ている。僕だけが、過去に怯えている。この小さな世界で、僕だけ。
たったひとりで階段を上り、屋上に出る。
……くそ野郎。
扉を開け、空に向かって静かに一人ごちた。朝と何も変わらない、鬱屈したこの気持ちとは正反対に胸糞が悪くなるほどの晴天だ。すぐそばを流れる多摩川の水面と川の向こう岸にそびえ立つビル群が、春の陽光を受けてきらきらと輝いている。河川敷にぽつぽつと植えられた桜木が、春色に染まっている。
絶望的なまでに暖かい世界の中で、僕はどこまでも一人だ。
僕を呼び出した張本人はいなかった。きっと、どこかでゆったり時間を潰してからここにくるのだろう。もしかしたら見せしめるために友達を集めているのかもしれない。一兎を確実に生け捕るために、仲間を呼んでくるつもりだ。座して待つしかない。
逃げればいずれ殺される。あの日と同じように、ほんの少しあいつの心持ちが本気に傾けばそれで全てが決まってしまう。
心を殺すか、命を絶つか、どっちがいい。
僕に与えられた選択肢はそれだけだった。
絶望の淵に立ちながらグラウンドで部活動をはじめた陸上部の姿を眺めていると、背後で扉が開く音がした。
きた、と意識すると同時に肌が粟立つ。喉の奥で「ひゅっ」と音が鳴って、全身に変な力が入った。
「お待たせ」
「……えっ」
振り返ってその姿を見た僕は何度も瞬きをして、目を擦った。見間違えるはずがない。
「ごめんね。遅れちゃって」
「い、いや……」
嘘だろ。
「ここに来てくれたってことは、ちゃんと下駄箱に入れた紙、見てくれたんだね」
「どうして」
「ん?」
「どうして……あいつじゃなくて、君、なんだ」
陽光をうけて亜麻色に照り輝く髪の穂先を揺らしながら、彼女が距離を詰めてくる。
「あいつって、誰?」
「桂坂」
「どうしてそう思ったの」
彼女がとぼけて尋ねてきた。
「だって、濁点の位置が」と返す。
「あれは、桂坂以外のものではあり得ないだろ」
「ああ。あれね、真似したの。行人くんが忘れるはずないものね」
行人くん。僕をそう呼んだ彼女の目は、あの日、うさぎ小屋で見たものと同じ色をしていた。
どうして。
教室でいろんなクラスメイトから声を掛けられて気さくに話しているのに。入学式のときだって、新入生代表として堂々としていたじゃないか。
辛いとか寂しいとか、そういう感情や境遇から解放されたはずじゃなかったのか。癒えたはずじゃなかったのか。
「あいつの真似なんて……。性格悪いよ、川原」
「今はもう川原じゃないよ。酷いわ、行人くん」
その言葉は、名前を読み違えたことに対してだろうか。性格悪いよ、という言葉に対してだろうか。
「でも、そっか。やっぱり忘れられなかったのね、あいつとのこと」
「忘れられるわけない。全部、覚えてる」
道徳の教科書のことも、うさぎ小屋のことも、それから始まった絶対暴君の横暴も、何一つとして忘れたことはない。この胸に抱いた怒りと恐怖も、逃げ出したことに対する責任や後悔も、何もかも、僕の一部になっている。
「忘れることなんてできなかったんだよ」
忘れるということは、失うということと同義だった。
何度も忘れようとして、失敗することを繰り返してきた。単純に失うことが怖かった。愛花という存在を忘却の彼方に追いやることではじめて、桂坂の存在も記憶から消せるということが分かっていたから。
せめてできること。それは、封じ込めることだけだった。記憶の宝箱に何重も鍵を掛けて、捨てずに取っておくことが精一杯の抵抗で、未練で、執着だった。
「入学式のときは驚いた」
「苗字が変わったこと、よね」
彼女の声は、僕が想像したよりずっと平坦な声だった。あの頃のように、一声一声に感情を乗せることもない。躊躇いとかそういう色があっていいはずの言葉からは何も感じ取ることもできない。
三年前と比べて随分と大人びた印象を身に纏うようになった愛花は、その気丈な顔つきも背丈も雪のような白さも別れたときのまま。
「三年もあれば、誰だって少しは変わるわ。行人くんだって、大きくなったじゃない」
色のない声が続く。懐かしさとか、そういったものがあっていいはずなのに、事実を淡々と口にする声に感情の色はない。
「伸びたのは身長だけだよ」
中学校でぐんと背が伸びた僕は、今ではもう、首を痛くして愛花を見上げることはない。
でも、あの頃から心は停滞したままだ。部活をやっても駄目だった。勉強だって、通っていた塾が用意したエスカレーターに乗り続けていただけ。それだけだった。そうすれば何もかもから逃げられると思っていたから。自分から何かを変えようなんて気持ちはなかった。
だから、三年かけても、中身は何も変えることはできなかった。
「そんなことないわ。行人くんはそこそこにかっこよくなった」
「僕のこと、持ち上げすぎだって」
「行人くんを呼び出したのは、私」
脈絡もなく、愛花がほくそ笑みながらそう言った。
「僕に何か用なの?」
「協力してよ。復讐に」
「……復讐?」
「そう。復讐」
似付かわしくない言葉だった。
「復讐って、誰にするの。どうしてそれに僕を巻き込むの」
「桂坂に復讐するの。行人くんしか桂坂のことを知らないし、彼に色々と酷いことをされてきた、言わば私と同じ被害者だもの。桂坂に憎悪して、消えてほしいと強く願っているんでしょ? つまり、私と目的は一緒なのだし、ウィンウィンじゃない? 復讐に快く協力してくれるのは行人くんしかいないと思った」
「消えてほしいって……。まさか、殺すとか、そういうことをするわけじゃないよね」
消すということがその行動に結びついて、背中から悪寒が広がった。どれだけ恨んでいても、それだけはいけない。
愛花は小首を傾げながら言う。
「実力行使が一番妥当だと思ったらそうするかもね。でも、やり方はいくらでもあると思ってるわ。桂坂の世界から私と行人くんを消してもらうとか、忘れてもらうとか、色々ね。具体的にどうこうしようって決まってるわけじゃないの。彼にどんな報いを受けてもらうか。そして、どうすれば私たちが解放されるのか。そこから一緒に考えてほしいの」
ただ復讐したい。その思いに、僕を巻き込もうってのか。
「だから、協力してくれるかしら。私一人じゃ絶対に成功しないから」
「僕は……」
「もう、逃げないで」
凍てつくほどの冷たい言葉が、心の奥深くに突き刺さる。あのときのことを掘り返されたら、僕は抵抗ができなくなってしまう。
卑怯だ。僕がもうこれ以上嫌われたくないことも、近づきたくないことも理解した上で、逃げるな、と言ったのか。
「酷いよ、川原」
せめてもの抵抗だった。逃げられないのなら、僕も少しくらい抉ってやってもいいよな。そんな魔が差した。二度も、彼女を抉る言葉を口にした。
沈黙が流れる。春独特の突風が吹いて、愛花の髪が激しく揺れる。けど、その表情は少しだって揺れることがなかった。
「そんな能面のような表情、しないでくれよ」
色がついて感情が乗った表情だからこそ魅力的で、僕はそこに惚れていたのに。
僕が一言謝れば、抜け殻のようになった表情をしなくなるだろうか。彼女のいう復讐とやらに荷担すれば、僕の知る優しい笑顔を浮かべるようになるだろうか。取り戻してやることができるのだろうか。
「私みたいな美女に対してその言葉はどうなのかしらね」
「ごめん。言い過ぎた。許してくれ」
酷いのは僕も同じだ。愛花は、桂坂への復讐に協力を求めてきただけだ。そして、逃げないで、と糾弾されるのは何も間違っちゃいない。重ねてきた罪の数を思えば、問い詰められて然るべきなんだから。
サッカー部の誰かがボールが鋭く蹴る音がここまで届いてくる。その音に紛れ込ませるようにして、愛花が「許さない」とだけ言った。
「許さないわ。この復讐に協力してくれないんだったら、二度と許さない。未来永劫、私は行人くんを恨むわ」
「………………降参だよ」
僕はふざけ調子に諸手を挙げ、不器用に頬を釣り上げてみせる。未来永劫、あの頃の苦い記憶を恨まれるのはごめんだ。
「復讐に、協力するよ。まぁどうせ反対したところで引き入れるつもりだったんだろう?」
「そんなことないよ。これ以外に切り札なんかなかったもの。でも、諦めはしなかったと思う」
風に揺れる髪を手で押さえながら、愛花は淡々とした声で続ける。
「それはそうと、川原っていうのはもうやめて。お願い」
「それじゃあ、前のように愛花って呼ぶ。ちゃん付けは流石に、な」
名前で呼ばれたことに動揺したのか、彼女は目を見開いた。それからそっぽを向き、少しだけ俯きながらも、こくりと首を縦に振った。
「僕だって行人くんって言われるの、気恥ずかしいんだからな。お互い様だ」
自分で彼女の名前を呼んでおきながら、胸の奥から燃えるような感情がどっと押し寄せてきた。これから彼女のことをことあるごとにファーストネームで呼ぶのか。気恥ずかしさで死んでしまいそうになる。教室でも下の名前で呼び合うなんて、本当にこの僕が続けられるだろうか。いや、きっと無理だ。無理。不可能に違いない。
「……やっぱり、前田って呼ぶことにする」
彼女がびくりと肩を震わせた。かと思えば、次の瞬間にはその肩を落として僕へと向き直る。彼女から滲み出る怒気に少しだけ気圧されてたじろぐ。
「ああ、ええっと……。その、ごめん。今の、撤回」
「本当に最低だわ、行人くん。人の心を弄ぶようなことをして。男に二言はないのよ。苗字で呼ぶの禁止。どっかで旧姓を溢されたらたまったもんじゃないないもの」
グラウンドの喧噪を乗せた風が屋上に吹き上げる。舞い上がる桜の花びらが屋上に散らばって、こんなところにまで春を運んできた。雲一つ浮かんでいない春空はどこまでも青々としていて、何もかもが青臭い。初々しくて、輝いている。
なのに、ここにわだかまる空気だけは黒々としていて、青春の欠片なんてものはどこにも転がっていなかった。
「これからよろしくね、行人」
「結局呼び捨てか。まぁ、いいけど」
「私のこと、愛花って呼んでね」
「はぁ……。分かった。よろしくな、愛花」
最低で最悪な者同士、よろしく。
これはそういう、どこに出しても恥ずかしいだけの共犯関係の始まり。
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