3.始まりの夢


 小学生の頃の桂坂力也は典型的なガキ大将で、絵に描いたようないじめっ子としてカーストの頂点に君臨していた。

 気に入らないものを徹底的に嫌い、暴力ですべてを牛耳ることが彼の素行だった。逆らう者を容赦なく痛めつけ、服従させるには充分な体格が備わった、絶対暴君。

 最初はクラスの中でひそかにいじめまがいな出来事が起きていることに、僕を含めて半分以上のクラスメイトは気付いていなかった。だから、これがいつから始まったことなのか、知っているのは当事者だけ。

 桂坂による、愛花へのちょっかい。

 そう言えるものであればまだ可愛いものかもしれない。けど、ちょっかいという範疇を超え、いじめと呼べる形で事態が顕在化した頃には、桂坂をリーダーとした威勢のいい性悪な男子たちが、愛花を含めた女子グループに看過できないような悪事を働いていた。

 追いかけ回したり、は虫類や昆虫を投げつけたり、ドッジボールでは容赦なくボールを当てたり。とにかく冗談では済まなくなってきて、クラスの中に不穏な空気が蔓延していくのが目に見えてきた頃、それは起こった。


「どうしていつもいつも私にばかり意地悪するのよっ!」

 五年生もあと少しで終わる終わる三月のこと。

 温和で物静かな愛花が、道徳の授業が始まってすぐに、泣き叫んだ。

 今まで彼女が癇癪をあげることなんて一度だってなかったから、クラス中が騒然としたたのを覚えている。大人びた印象が強かった愛花が泣きじゃくっている、その姿は衝撃的だった。怒りに任せて爆発した態度も似付かわしくなくて、そのときばかりはぐしゃぐしゃな顔が不細工になっていたのも覚えている。

「ど、どうしたんだい?」

 先生だって唖然としていた。

 裏表紙に油性のマジックで『ブス』と書かれた道徳の教科書。それを床に叩き付ける愛花。偶然にも席が隣だった僕は見てしまった。筆跡は、特徴的なまでに下手くそな桂坂のそれだった。五年も一緒のクラスにいれば、濁点の位置だけで彼のだと容易に判別ができる、汚らしい字。

 愛花がわああっと叫きだしたので、先生と、保健係だった僕は慌てて保健室へと連れて行った。愛花を保健医に任せて教室に戻ると、桂坂が率いる悪戯軍団と女子一同の大喧嘩が始まっていて、教科書を投げ合ったりビンタと殴り合いの応酬が始まっていたりでしっちゃかめっちゃかな有様だった。その後、両隣のクラスからも先生が集まり、道徳の授業は中断になって、先生の説教をみっちり聞かされた。

 それまでにも愛花は下劣な嫌がらせを受けていたらしい。靴に画鋲を入れられたり、体育のドッチボールでひたすら標的にされたり、些細な失敗を大袈裟に馬鹿にして笑ったり。とにかくそれは毎日のように飽きることなく続いたという。

 爆発するまで、彼のしつこい態度と行動にひたすら我慢していたのだろう。

 そういうものが積み重なって、許容量を超えてしまった。愛花はずっと耐えてきたのだ。堪忍袋の緒が、小さく積み重なった傷でずたぼろになって、苦しいという感情の重さに耐えきれず、するするっと切れた。そういうことだったのだろう。

 一か月に一度しかない道徳の授業で発覚した、教科書への落書き。普段はずっとロッカーに眠っていて、月に一回出てくるだけのものに対してまで、悪意を刻みつける桂坂。執拗なまでの悪戯だった。

「俺のことをいらつかせるから悪いんだよ。次はねぇからな」

 小学四年生の時点で背丈が百六十の後半もあった桂坂の言葉は、脅迫でしかなかった。

 愛花は桂坂に何もしていなかった。どころか関わろうとさえしていなかった。二人は住む世界が違っていて、明確な境界線が引かれていた。なのに、どうして桂坂はいらついていたのだろう。それは今だって理解できない。

 最上級生になっても、愛花に対するちょっかいは止まらなかった。学年の数字が一つ増えただけで、桂坂はまるで改心していなかった。洗練された悪意は、容赦のないものへ変貌していたように思う。

 そうしてある日、僕は決定的な現場に出くわしてしまった。新入生を歓迎するようま桜も散ってしまった四月の終わり。昇降口を出て校門に向かう途中、愛花の叫び声が聞こえてきた

「出してっ。早くここから出してよっ! いい加減にしなさいよ! どうしてこんなことするのよっ!?」

 無意識のうちに僕は愛花の元へと駆けだしていた。

 悲痛な声が段々と近くなって、そうして辿りついたのはうさぎ小屋だった。身長が百四十しかない僕でもしゃがまないと入れない小さな扉がくっついた六畳ほどの小屋の中には、五匹のうさぎがいる。餌やわらを取り替えるのは『いきものがかり』の仕事で、係の愛花は、毎日のように下校時間に餌とわらを入れ替えている。

 彼女は、小屋の中に閉じ込められていた。

「いい気味だなぁ……。いきものがかりには檻の中がお似合いだぜぇ」

 金網を隔てた小屋の外で、桂坂が仁王立ちをしていた。小屋の中で愛花が餌を取り替えている間に外側から鍵をかけ、閉じ込めてしまったようだった。

 僕と愛花はこれからスイミングがあるのに。

 あいつ、なにやってるんだよ。

 反抗するのは怖かった。けど、それ以上に胸から湧いてきたのは憤りだった。

 一か月前、わあっと泣いた愛花と、その様子を満足げな表情で見下していた桂坂。目の前に広がった落書き。あのときだって僕は確かに怒りを感じていた。愛花をかわいそうだと思う気持ちよりも、ずっと大きくて激しい情動。あの場では代わりに先生が桂坂を叱ってくれたことでその切っ先を出さずに済んだ。

 敵対心。

 その感情に突き動かされるようにして僕は駆け出し、叫ぶ。

「何やってんだよ、桂坂っ」

「あん?」

 声を掛けて、それでようやく気付いたという態度の彼に、僕は一歩、また一歩と近づく。雨風に打たれた汚いわらと湿った砂利を踏みしめて、桂坂の前に立ちはだかった。

「なんで愛花ちゃんを閉じ込めてるんだよ」

「お前には関係ないだろ」

「関係なく、ない」

「んだと?」

 彼の問いに否定で返すと、桂坂の声がドスを聞かせたように低くなった。いつも甲高い声をあげてはしゃぐ彼の声が奥底から鼓膜を振るわせる。重く、鈍い音だった。

「てめぇ、誰に何言ってるのか分かってんのか」

 愛花を閉じ込めていたことなど忘れてしまったかのように、桂坂は興味と悪意と敵意とをいっせいに僕へと注ぐ。たったそれだけで僕は竦み上がってしまう。誰かに黒い感情をぶつけられた経験もないから、怯んだ身体が小刻みに震える。よりにもよって、相手は桂坂だ。喧嘩になれば勝ち目なんてない。

 だけど、

「分かった上で言ってんだよ、この、のろまっ!」

 叫んだ。きっと誰も言えないだろう、桂坂の急所を突く悪口を。その瞬間だけは世界一清々した気分になれる一言を。

 それと同時、僕は本能で後ろへ飛び退いた。一拍遅れて桂坂の蹴りが空を切る。「逃げて! 葛城くん!」と愛花が叫ぶ。言われなくても分かっている。背の順で一番前の僕ではどうやっても勝てない。窮鼠猫を噛むとは言うけれど、ネコ科でもライオンは相手にできない。

「逃げられると思ってんのか、クズ野郎!」

 桂坂は頭に血を上らせ、逃げる僕を追いかけてくる。これでいい。こいつが愛花から離れてくれればいい。そして全力で逃げて撒いてしまえばいい。決して追いかれることはない。かけっこでは誰にも負けたことがない僕が、のろまな彼に捕まるはずがない。

 その敵意むき出しの心ごと、檻籠まで連れてってやる。

 昇降口に戻り、外履きのままで廊下を走る。

 ――餌に夢中になったまま、網にかかってしまえ!

 得意げな顔で僕は職員室のドアを開けて「先生! 助けて!」と叫んだ。

「どうした?」

「桂坂が追いかけてくる!」

 担任の真田先生の背中に回り込んだところで、桂坂が職員室に飛び込んでくる。

「どこだ葛城! 許さねぇからな!」

「おい、桂坂! 職員室だぞ、静かにしろ!」

 五年のとき担任だった青野先生が桂坂を怒鳴りつける。他の先生もどうしたんだという顔をしながら桂坂と僕を交互に見ていた。

「桂坂くんが愛花ちゃんをうさぎ小屋に閉じ込めてました。それで、注意したら追いかけられました」

 逃げながら考えていた台詞を早口で吐き出す。

「適当なこと言ってんじゃねぇぞてめぇ!」

 ここまで来れば多少はおとなしくなると思っていたのに、桂坂は怒りの強度をそのままにぶつけてくる。けど、青野先生と真田先生に両腕をがっしりと押さえつけられる。抵抗しようにも、大人二人がかりでは無意味に等しい。

「離せっ! ちくしょうが!」

「桂坂は説教だ」

 このまま生徒指導室に連れて行かれるんだろう。いい気味だ。素行が悪いから、先生たちも僕の言葉を疑いもなく信じてくれる。本当なんだ、と強調しなくてもすんなりと受け入れてくれた。

 こっちを睨みながら「クズ野郎! 覚えとけよっ」と叫(わめ)く桂坂を尻目に、僕は足早にうさぎ小屋へと戻った。みんな下校してしまったのか、愛花は小屋の中に閉じ込められたまま、うさぎの耳を撫でていた。

 ――うさぎは一羽でいると寂しくなって死んじゃうんだよ。

 六年生になってからはじめてのスイミングで、彼女がそんな話をしてくれたのをふと思い出した。

 寂しがり屋だから、二羽以上で飼ってあげないといけないの。一羽になると、死んじゃった子を追いかけちゃうから。

 そう語ってくれた愛花は、金網の向こうでひとりぼっちだった。

 このまま消えてしまいそうな儚さを纏っていた。すっと煙になって消えてしまいそうなほど、稀薄な存在に思えた。

「ねえ」

 僕の口から切羽詰まった声が出た。そんなことはないはずなのに、彼女をここで掴まないと二度と会えなくなるような気がしたから。

「迎えにきたよ」

「……葛城、くん」

 愛花がゆっくりと立ち上がる。彼女は桂坂と身長が変わらないから、自然と僕が見上げる格好になる。彼女の真っ黒な瞳が不安げに揺れる。吸い込まれそうなほど澄み切った色に寂しい感情が宿っていた。そのままいつまでも見つめていたいとすら思えるほどに綺麗だった。

「今、開けるから」

 引力に抗うように首を大きく振ってから、僕は鍵になっている棒を引き抜いた。つっかえが外れ、小さな扉が開く。

「ごめんね、巻き込んじゃって」

「いいよ。だって――」

 僕も桂坂にむかついていたから。

 違う。むかついた腹いせにあんなことをやったわけじゃない。もっとはっきりとした怒りがそうさせたんだ。愛花をいじめるなよ。お前、なにやってんだよ。そういう、純度の高い感情が僕を突き動かしたんだ。

「だって、僕は愛花ちゃんを助けたかったんだから」

「かっこよかったよ、葛城くん」

「そ、そうかな……」

 勇気がある、と褒められたように思えて、まんざらでもなかった。気のないふりをするための返事。でも、かっこよくなんかないよ、と否定することもできずにまごまごしてしまう。

「あ、そうだ。わらを入れ替えないと」

「今日、スイミングでしょ? 遅れちゃうよ」

「分かってる。これだけやれば終わりだから、もうちょっとだけ待ってて」

「じゃあ、僕も手伝うよ」

「うん」

 屋根のついた倉庫から枯れ草をたんまり持ってきて、二人でうさぎの寝床に新しい草を敷いた。つっかえ棒を締め直し、愛花が「これで終わり」と微笑む。

「助けてくれて、ありがとね」

「どういたしまして」

 あの日から何もかもが始まった。それでも小学校を卒業すると同時に終わったはずだった。


 終わった、はずだったのに。

 愛花を見捨てて逃げたはずなのに、一周回ってしまった僕は彼女と再会してしまった。

 そして、桂坂は僕と愛花に執着し続け、ここまで追いかけてきてしまった。

 ――逃げられると思ってんのか、クズ野郎。

 あれは呪いの言葉だったのだ。

 追いつかれるはずがなかった。可能な限り逃げてきたつもりだった。大切なものを置き去りにしてまであの世界を捨てたというのに、どうしてなんだ。

 僕に何の恨みがあるっていうんだ、桂坂。

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