2.力也


 一年一組。

 ひっそりと楽しみにしていたクラス分けの結果は、春休み中に深月から伝えられていた。生徒会長でなければ知り得ないような権利と情報を、どうしてこんな、僕の楽しみを奪うために振りかざすのだろう。職権乱用にもほどがある。

 体育館から出るときに念のため模造紙を確認つもりだったが、愛花のことで呆けている間に片付けられてしまっていた。仕方なく近くにいた先生に名前を告げ、確認してくださいとお願いすると、「ああ、生徒会長の弟さんか。君は一組だよ」と返ってきた。深月の悪戯な顔が浮かんでげんなりする。

「そっか。一組か……」

素直に嬉しかった。ただ、それ以上に気が重い。

 同じクラスだ。そう思う度、脚は動かなくなりそうだった。このまま永遠に辿りつかなければいいのにとすら思う。

 愛花とは小学生の卒業式以来、丸三年ぶりの再会になる。その間に僕は三十センチ近くも背が伸びたし、陸上もやっていたから顔つきや体つきだって多少は精悍になっている……はずだ。変声期もとっくのとうに終わって、声もそこそこ低くなった。たとえ同姓同名でも、すぐに同一人物だとは気付くまい。

 むしろ、願うことなら一生気付いてほしくない。だって、合わせる顔なんて、どこにもないんだから。

 昇降口で上履きに履き替え、適当な場所にローファーを突っ込んでおく。一学年全七クラス。一年生は四つある校舎の中でも、校門から一番遠い二階建ての木造校舎に詰め込まれる。一階に四組から七組、二階に一組から三組。二階の端には美術室と化学室がある。

 二階に上がって、一番手前の教室に辿り着く。ドアには一年一組と書かれた木板の札が掛かっている。

ここが、これから一年間は拘束されるコミュニティ。

 友達とか同士とか仲間とか、そんな仲睦まじい空気を醸成するために無理矢理つけられる単位と符号。

無難に付き合っていけるか不安で仕方ない。空気のように生きていくことだけを意識する。誰の記憶にも残らず、適当に最低限の付き合いでやり過ごし、さざ波に投じられても波音一つ立てない小石のようにひっそりと息を殺して過ごすこと。ただそれだけでいい。

 期待など、抱いてはいけない。そんな権利、僕にはない。絵に描いたような青春とは無縁であることを、忘れてはいけない。

「よし」

 腐った信条を反芻し、呼吸を落ち着けて引き戸を開ける。何人かが僕に振り向いた。後ずさりしそうになるのを堪え、誰とも目線が合わないよう俯きながら静かに教室へと入る。どうやらホームルームらしきものが始まっていたようだ。ほとんどの席が埋っている。

「おお、ようやくきたな、葛城。お前の席は窓際の後ろから二番目だ」

「……はい」

 教壇で仁王立ちしている若々しいマッスル教師が僕を見るなりそう言った。PTAがうるさいこのご時世とあって、顔と名前を覚えるのは教師として欠かせないことなんだろう。その苦労、心中お察しするばかりだ。

 着席し、机の脇にあるフックに鞄を掛けてから、頬杖をついてクラスの様子を眺める。

男子と女子の数が半々。その中に、愛花もいた。一番廊下側、前から二番目の席。男子の視線も、ほとんどが彼女に注がれている。無理もない。彼女以外は、団栗の背比べだ。愛花は場違いなほど綺麗だった。

「約一名まだ来ていないが、そいつのためにみんなを待たせても仕方がない。ホームルームを始めるぞ」

 マッスルが両手をぱんぱんと叩きながら軽い口調でそう言った。

 もうすでにこの教師、暑苦しい。春なのにジャージ姿でタンクトップなあたりが特に。

「俺は筋山だ。これから一年間、このクラスの担任となる。んで、受け持ちの科目は見て分かるとおり、政治経済だ」

 いや、どこをどう見ても体育だろ。と、心の中でツッコミを入れる。

政治経済を受け持つような利発さとか、白衣を纏わないまでも研究者チックな装いとか、相応の外見してくれないと分かんないって。

 クラスメイトも揃って反応に困っている。体育教師だったら「まぁ、そうだろうな」みたいな空気とか作れただろうし、数学だってなるとそのギャップが意外性を呼んでこれまた良い掴みができたかもしれない。が、政治経済ときた。このマッスルに憲法とか戦後日本の高度経済成長とか習うのか。シュールな光景が目に浮かぶ。

「ちなみに政治経済は三年生になったときの選択科目だ。その時になったら是非受講してくれ」

 まずは一安心だ。筋山の熱血授業を受けるにしても、まだまだ先になるということらしい。まぁ、政治経済なんて露程も興味はないが。

「先生の自己紹介はそんなところとしておいて、それじゃあ早速みんなの自己紹介を――」

「すんません遅くなりやしたー」

 筋山の声に被さるようにして、気怠そうな声が教室の後ろから飛んできた。声変わりしたてな、甘ったるく擦れた響き。それを裏打ちするかのような軽い調子の声音。

 全員がその声に顔を向ける。

「っ」

 僕は、すぐに視線を黒板のほうに戻した。

 安い染髪剤で染めたようなムラのある金髪。それを肩口まで伸ばしたロングヘアー。ワックスで適当に盛って、ゆるくパーマをかけている。細く整えた眉に、釣り上がった一重。強そうな鼻っ柱に、不敵で勝ち気な印象の口元。制服は第三ボタンまで開けて、ズボンは腰にすら引っ掛かっていない。

 関わってはいけない。そう、本能が警鐘する。たった一瞬見ただけで、網膜に焼付いて離れない強烈な外見が、網膜の裏にまで鮮明に刻み込まれていく。頭の中で警報が鳴り続ける。厳重に封じ込めていたはずの記憶が溢れかえってくる。

 嘘、だ。

「おばあちゃん助けてたら入学式終わってました。ははっ」

「そういうことは早めに学校に連絡しろよ。今日はその言葉を信じて遅刻にしないけど、次からは遅刻扱いだからな」

「うっす。先生めっちゃ優しいっすね。次から気を付けまーっす」

「本当に気を付けろよ。で、君の席はここだ」

 筋山は僕の前の空席を指差した。「うっす」という気のいい返事をした彼が、こっちに向かってくる。

 冗談じゃないぞ。

 全身の血の気が引いていく。

まさか、そんな。こんなこと、あるはずない。

 ぽす、ぽす、と上履きをタイル床に滑らせ、わざと音を立てるように歩きながら近づいてくる。軽薄な音が、終わりの始まりを告げてくる。平穏が音を立てて崩れていく。

 願えども悪夢のような足音は鳴り止まない。段々大きくなるすり足がどうしてか遠くに聞こえる。心臓の音が鼓膜を支配する。全身がばくばくと脈を打つ。空気が変に張り詰めていくのが分かる。彼がこの場に存在する事実が、どんどん僕を追い詰めていく。

 息が詰まりそうだった。意識的に呼吸をしていないと窒息してしまいそうなほどに苦しい。

 不意に、足音が止んだ。

「あっれー? なんだ、背の高い女がいると思ったら前田じゃねーか。今回も同じクラスかー。あっはは。そっかそっかー、楽しくなりそうだなぁ、おいっ! 今後ともよろしくな。くははっ」

 わざとクラス全体に聞かせてやるような威勢のいい声。あいつと僕は知った仲なんだぜ、という周囲への牽制と警告。このクラスにカーストがあるとしたら、その最上に自分がいることを知らしめるような、恫喝にも似た一言。

 あの頃から、何も変わっっちゃいない。

「そっかそっか、前田も一緒なのかぁ」

 くつくつと笑いながら彼が着席する。目が合うのを恐れるあまり、顔を上げることができない。机の木目をじっと見つめて、時が動きはじめるまでじっと耐える。早く、早く。

「先生、早速なんすけど、席替えとかしないんすか? 俺、窓際ってあんまり得意じゃないんすよねぇ」

 舐めた口調で彼が言う。

筋山はどうやら首を横に振ったようだ。

「しばらくは我慢してくれ。先生たちがみんなの顔と名前を覚えるまでは固定だ」

「窓際だと眠くなって寝ちまうかもしんないなぁ……。つまり、寝ても良いってことっすか」

「寝るのも御法度だぞ」

「へいへい」

 生返事をした彼は、大仰に音を立てて椅子を引いた。その勢いで僕の机とぶつかる。

「っと、わりぃわりぃ」

「……いや、大丈夫だ、から」

 擦れた声が出た。喉の奥がひりついて、干涸らびた口から出た言葉が、張り詰めた空気に広がっていく。ひどく静かな教室の中で、緊張のせいか想像以上に大きな声が出てしまったらしい。

「あれ? お前、もしかして……」

 声が近い。こっちを見ている。見られている。

 やめろ、気付くな。気付かないでくれ。僕は違う。あの頃とは違う。何もかも違うんだ。だから、お前の世界に組み込まないでくれ。お願いだから、放っておいてくれ。

 僕はお前を無視できないんだから、せめて、お前が僕に無関心を貫いてくれ。

「……あぁ、なるほどなぁ。そっかそっか……。そういうことかぁ。っつか、久しぶりだなぁ。中学は別々だったもんな。まだ根に持ってるから挨拶も寄越さねぇのか。どこまで昔のこと引き摺ってんだよ。反省してっから、良い加減許してくれよ。餓鬼のやったことなんだからお互い水に流して仲良くしようじゃんか。なぁ?」

 急ごしらえの僕の願いなんか、おいそれと叶うわけがないことくらい分かっていた。せめて、もう少しだけ覚悟する時間がほしかった。そう思う暇すらなかったのが恨めしい。せめてクラス分けが確認できていれば、どうにかなったかもしれないのに。

「これから三年間、よろしくな? 葛城」

 鼻にかかるような声が僕を呼ぶ。

僕は俯いたまま、心のなかでただ絶望する。

 ああ。なんでだよ。せっかくここまで来たのに。

心のなかでぽきりと何かが折れる音がした。大事にしてきたものが音を立てて根元から粉々になっていく。

 一瞬前まで愛花のことで一杯だった僕の心は、桂坂力也という暴君によって恐怖と畏怖に染められてしまっていた。

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