21.愛の花が咲く(前編)
こんなことになるなんて、予想だにしていなかった。
何度謝罪の言葉を繰り返しただろう。どれだけ後悔しただろう。けど、彼が無事だったことに安堵する権利はどこにもない。そんなことくらい分かっている。申し訳なさに擦り潰されそうになりながらこの数日を過ごしてきて、それすらも彼のためではなく自分のためだった。エゴイズムの塊みたいな自分が嫌になる。
本当に、馬鹿みたい。
こんな風に自責の念に苛まれるのは自業自得。自嘲する気も起きない。
選択も、方法も、頼る人間も、間違えた。
桂坂のことをろくに調べもせず、ただ、彼は愛花のことが好きなのだろうと当たりを付けただけで頼ったのが、失敗だった。気性の荒さ、獰猛さを見くびっていた。言い訳がましいことを今さらに思う。
愛花に向けられるはずだった感情は色と様相を変えて葛城くんを赤く染め上げた。肩や腹から溢れ出てくる血液の、鼻をつくような臭いが未だそこかしこにこびりついている。洗っても落ちない罪がまとわりついている。
ああ。
絶望に触れるような心地が、ふとした瞬間に顔を出してくる。無心でいられるときは平気なのに、こうやって愛花の姿を認めた瞬間、私の心が深い闇に落ちていくようだった。贖罪の灯火を求めて見えない出口を探すように、彷徨いだす。
私のせいでこうなったのだ。
「それで、何の用? 真心」
複合商業施設で唯一の喫茶店に現れた彼女は、ここにいるのが場違いなほど完璧な外装だった。
きっと、葛城くんの見舞いだったのだろう。春色のフレアスカートに皮製のショルダーバッグが彼女の気品を華やかなものに仕立て上げている。うっすらと化粧をして、頬のあたりに淡い桃が溶け込んでいた。
制服を着ている時よりも大人びた姿に、見とれてしまう。緊張のあまり、息を飲んだ。
学校での彼女は周りに気を遣っているのか、それともすっぴんに自信があるのか、化粧も薄く、着飾らない。そんな愛花に、私たちは背伸びをしても飛び跳ねても届かないのは事実で、こうして武装をされると圧倒的な差を突き付けられた気分になって、敵わないことを自覚させられる。
「来て、くれたんだ」
「ん? 私、行けないかもなんて口にしたっけ」
「いや、そうじゃないんだけどさ」
「ん?」
愛花は小首を傾げた。その仕草もまた、美しい。罪だ。過度美で裁かれればいいと嫉んでしまうほどの美貌が、醜いアヒルの私を見つめてくる。
「どうしてそんなに不思議がっているのか分からないけれど、約束したんだもの。いきなりボイコットなんてしないわよ」
「あ、うん。ごめんね、いきなり呼び出しちゃって。用事あったでしょ」
「友達はみんな忙しいって言うから特に遊ぶ予定もなかったし、大丈夫よ」
にこやかな笑顔を浮かべたままの愛花は通りかかったウェイターに珈琲を注文し、対面の席に座った。
「早速本題に入りましょう。話って何かしら」
珈琲が来るのも待たずに愛花がそう切り出した。会話で私の先手を取ろうとしたのかもしれない。そうはさせまいと、私もすぐに切り返す。
「私が言えたことじゃないだろうし、迷惑な話かもしれないけれど、お願いしたいことがあるの。――葛城くんを、解放して」
「……それはつまり、もう関わるなってことかしら」
「そういうことじゃない。もう、葛城くんを愛花の私怨と復讐に巻き込まないでってことだよ」
私の声に、周囲が一斉に振り返っては訝しげな視線を向けてきた。痴話喧嘩か、修羅場か、物騒な話か。迷惑そうな顔をした老夫婦が睨みを利かせてくる。和やかな雰囲気とはかけ離れたやりとりが、喫茶店に流れる軽やかなクラシック音楽と優雅な空気をぶち壊してしまった。
「真心、あなた、何を言っているの?」
周囲の視線を気にした様子もない愛花は、またもや小首を傾げた。困ったような表情を貼り付けている。
私があなたにとってのジョーカーを隠し持っていることなんて露程も想定していない、油断しきった態度。
その化けの皮を剥がしてやる。
「私、知っちゃったの。愛花と葛城くんの関係性。桂坂くんに、復讐、しようとしたんでしょ?」
「……誰から聞いたの、それ」
「部活の先輩」
「私、上級生に知り合いは誰もいないのだけど」
「葛城くんと二人きりで一緒にいるときはしょっちゅう話しているみたいじゃない。部活の先輩が食堂で愛花と葛城くんを見たとき、おっかない計画を立てていたって聞いたよ」
「ああ、そうなんだ。そういうこと」
あっけらかんとした返事。こうなることを想定して……いや、もしかしたら仕掛けていたのか?
「まぁ、知っているなら隠すようなことでもないか」
愛花が小さく息を吐くと同時、私の死角からウェイターが現れて、注文した珈琲を置いた。軽いお辞儀をして、厨房の裏へと戻っていく。
その背中を見送ってから、愛花が口を開いた。
「真心の言うとおり、私と行人は桂坂に復讐したくて色々と動いていたわ。それこそ入学三日目くらいから、ずっとね。いや、もしかしたら再会する前からかもしれない。それくらいには確固たる復讐心が煮えたぎっていたのよ。結果、こんなことになっちゃったのは予想外けどね」
桂坂に復讐したい一心で、ずっと、そんなことを考えて生きてきたのか。
「どうして、そんなこと……」
「復讐しないと気が済まないから。ただ、それだけのことよ」
「本当に、それだけ?」
「疑り深いのね、真心って」
息が詰まりそうになる。愛花はまだ、私がどこまで何を知っているか読み切れていない。
弱みを握るための両刃の剣。それをいつ、どうやって突き付けるか。そのことで頭が一杯一杯になりかけている。
緊張で喉が痛い。愛花が来る前に注文してあったアイスレモンティーに口を付けて、心を落ち着かせる。
「ごめんね。私、警察官の娘だからさ。ちょっとでも引っ掛かると自分でちゃんと納得できない限り、ずっとしつこいよ」
「ふぅん、そうなんだ」
愛花は淡々とした声でそう呟いて、珈琲に口をつけた。苦さを連想させる特有の臭いが鼻を掠める。珈琲は苦手だ。私の舌はまだまだお子様で、甘ったるくて苦さ控えめが好みだったりする。ブラックなんてとてもじゃないが舌が受け付けない。
「でも、本当に復讐したいって気持ちしかないの。別に行人を巻き込もうと思っていたわけではないんだもの」
嘘だ。そんな言葉、私はもう信じない。
だって、知ってしまっている。
壮絶な家庭事情も、こじれて壊れて黒く濁ったその心模様も、その断片だけで戦慄してしまうようないじめがあったことも、葛城くんを道連れにした理由だって、知ってしまっている。
愛花がまるで弁明するように、滔々と続ける。
「行人も桂坂には少なからず恨みがあったから協力したまでのことよ。そして、桂坂が消えれば少しは心が晴れやかになるものだと思ってた。でも実際はね、全然そんなことはなかった。復讐なんて虚しいものでしかない。言葉では知っていたけど、それを思い知った。それでも、私は止まれない。まだ復讐した人は沢山いる。行人とは縁もゆかりもない人ばかりだけど、彼が望む限り、引き続き協力はしてもらうつもりよ」
「そんな……。桂坂くんへの復讐が終わったんだったら――」
「私は、私を苦しめた存在が我が物顔でこの世界を生きていることが一番許せないの。そいつらを後悔させないと気が済まない」
葛城くんの解放を望む私の願いを無情に断ち切るような淡々とした声が、痛々しく響く。
「これまでどれだけ辛い思いをしてきたのかを思い知らせるまで、復讐を止めるつもりはない。この身が地獄に落ちてもいい。私を苦しめた人間全てに後悔をさせてやるの。勿論、行人だって例外じゃない」
「だから、巻き込むの?」
「巻き込んでないわ。行人は贖罪という都合の良い言葉で騙しながら、本当は自分自身のために私に協力してくれているだけ。そうすることで私が復讐したい人間から卒業するつもりみたい。それだってきっと無自覚でやってるのよ」
卑怯でつまらない男よね、と愛花がため息交じりに呟いた。わざと聞こえるような言い方。勘に障る。
「だから、復讐を諦めて、と真心に止められてもそんなことは無理だし、行人を解放して、と私に言うのだってお門違い。言いたいことがあるなら彼に直接言って」
無関係と言い放つ愛花にぶつける言葉がない。どうして、そんな白々しいことが言えるのだ。葛城くんは彼なりの誠意と贖罪の心で愛花の復讐に手を貸しているのに、愛花はそれを自分勝手な行動だと、そんな風に突き放すのか。彼は愛花のことが好きなのに。その好意を自分でも虚しいと断言する行為に利用することの傲慢さに、腸が煮えくり返りそうになる。
その傲慢さと無責任さを糾弾しても、愛花はしらを切り通してしまうだろう。もう、私の願いは届かない。この怒りも通じない。そもそも、相手にすらされてない、かもしれない。だとしたら悲しいな、と場違いに落胆しそうになる。
「もう、話はいいかしら?」
愛花が椅子に掛けていたショルダーバッグを肩に掛け、席を立つ。
「待って」
ここで彼女を見逃すわけにはいかなかった。
私にだって譲れないものがある。
その復讐心と同じくらい色濃く強い想いがある。
ここで怯むな。狼狽えるな。まだ終われない。
全てをぶちまけて宣戦布告するのが、今日の本題なのだから。
「何?」
「……葛城くんは、愛花のこと、好きなんだよ」
自分で用意した言葉なのに、ナイフで刺されたような鋭い痛みが胸を裂くように走る。葛城くんはきっと、この何倍も苦くて辛い思いを胸に生きてきた。そして、ふと、こんなものを何年も抱え続けてきた彼のことがたまらなく愛しくなる。
痛々しい姿を側でずっと見てきた。中途半端にしか手を差し伸べられなかったし、掴んでくれたこともなかった。
だけど、もう、逃げちゃいけない。
「葛城うくんを都合の良いように利用する愛花は、彼のこと、愛してる?」
「……あはっ」
奇怪な笑い声が響いた。
「真心もそんなこと聞くのね。はっきり言うけれど、私、行人のことは好きよ? 下心なく、純粋に好き。でなきゃ、一緒に休日出歩いたり病院まで見舞いに行ったりしないわ」
喉を鳴らすような笑い声の主が愛花だというのに、一拍遅れて気付く。
「献身的なところも年相応に落ち着き払ったところも好きよ。色々と私のことを思ってくれて、優しくて、気遣いもできて、抜けているところもあるけれど体を張って守ってくれる。まさに理想の男だと思わない?」
「それって、好き、って感情なの?」
「私たちがどういう認識なのかって、存外重要じゃないと思うわ。どういう理由で他人を好きになろうと、第三者が口を挟むのは烏滸がましいと思わない?
行人は私以外の女性と積極的に関わろうとしない。その時点で、誰がどう見ても特別な関係だって周囲は勘繰るでしょ?
だけど行人は誰からも特別視されてない。そんな彼には、恋愛沙汰は起きようがない。違う?
外見はぱっとしないけど、良い男。クラスに埋もれて、女子は誰も彼に興味を持たない。正直見る目ないなーと思うけど、好都合よ。行人が好きになるのは私だけでいいの。私だけを異性の対象として見てくれれば良い。他の子に靡いたりして協力してくれなくなっちゃったら、それはそれで困るもの」
わざとらしく困ったように眉を曲げる愛花に、反吐が出そうだ。
「どこまで身勝手なのよ……」
「身勝手じゃないわ。ただの願望よ。というか、私は行人に復讐の協力をしてって脅したわけじゃないし、その恋心や贖罪の想いを都合良く利用しているわけでもない。これまでのことだって全部、彼の意志でやってくれたことなの。それを真心がとやかく言う権利なんてどこにもないでしょう? 私へのあてつけだとしたら――」
「……ある」
言う声が震える。愛花がきょとんと、面食らった顔を浮かべ、私をじっと見つめてきた。
「私は――」
声が擦れる。それでも構わない。
もう、覚悟はできている。
「私は、放っておけない」
「私のことを?」
「愛花じゃない。葛城くんのこと」
「っ……」
撤回することも誤魔化すこともできない、決定的な本心を吐露する。これで後戻りはできなくなった。愛花とは、もう友達ではいられない。好敵手でもない。純然たる敵。恋敵。
「……ねぇ、それって、つまり、真心は行人のことが好きってことよね」
「そうだよ。なんとなく好きだったけど、つい最近、やっと自覚したの」
「ふぅん。そっか」
いつまでもそうやって気のない振りをしていればいい。いつか葛城くんを失ったとき、あなたはきっと後悔する。彼の想いを自分の都合のいいように解釈して、上辺だけの『好き』という言葉で操れると過信すらしているその性根なんかには負けない。
「応援してるわよ。私への下心と真心をこじらせた行人を振り向かせられるよう、せいぜい祈っておく。ま、人を好きになるなら盗聴癖は直したほうがいいと思うけど」
「……は? え?」
「盗聴。してたんでしょ?」
きっと、今の私は阿呆な面をしているに違いなかった。
対面の愛花が私にちらりと視線を寄越す。そして、愉悦に満ちた表情を浮かべながら珈琲を啜った。
急に、足許が覚束ない感覚に襲われる。これまで均衡を保っていたはずだったのに、盤上ごと引っ繰り返された唐突さに戸惑いを隠せない。
あわよくば胸に秘めたワイルドカードで優位に立とうとすら画策していたのに、私自身がその切り札に牙を向けられ、返答に窮してしまう。
嘘。どうして。
「あら? 真心じゃないの? 私が熱でダウンした日の行人との会話を録音したの」
耳の奥で硝子の砕ける音が鳴った。
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