22.愛の花が咲く(後編)
「どう……して……」
「あはっ! やっぱりそうだったのね。鎌を掛けたつもりはなかったのだけど、そっか。そっかぁ……あれ、盗聴器だったんだね、やっぱり」
見れば、手に持っていたグラスに罅が入っている。さっきまでは一遍の曇りもなかったのに……。私の握力でこうなったわけじゃない。きっと寿命だったのだ。
使い古されて、いよいよその耐久が限界に近づいていただけ。不吉な予兆なんかじゃ、ない。
「どうして確信したように言えるの、って顔してる。そんなに疑問かしら」
頷くこともできず、私は愛花の唇をじっと見た。薄紅に塗れるグロスがのった、ほんの微かに色気のある口元。そこに貼り付く笑みの気味悪さに怖気が走る。
「盗聴したんだったらそのあたりも全部聞いてると思うけど、私って両親が離婚してるの。原因は母の浮気。その証拠を掴むために父親は探偵事務所を使って母を調べたの。でね、その探偵事務所は私にも色んな盗聴器を持たせた。ボールペンとか防犯ブザーとかお守り型のキーホルダーとか。ああいうのって意外と録音時間も長めにできて、有用なのよね」
胸の奥から熱を帯びた嘔気がせり上がってきた。痛みの感覚と動悸を近くに感じる。呼吸の仕方、どうやるんだっけ? 意識しなくていいはずのことに躓いてしまう。息が、苦しい。
「行人が色々と看病してくれていたときにふと思い出したの。そういえば、どっかでこんなボールペンを見たことがあったな、ってね」
「まさか、盗聴器だと知ってて、あんなこと……言ったの?」
「そうよ。真心にも私と行人の間にあったことを知っていてもらおうと思って」
開いた口が塞がらない。息苦しさで心音が大きく、早くなっていく。初めて、愛花の存在そのものを不気味に思った。安穏としたクラシック音楽の場違いさは滑稽でしかない。
「私も女だもの。真心が行人に少なからぬ感情を抱いていることくらい気付くわ。というか、見え見え。三年経って、隠しきれないほどに肥大した下心ってのは、醜いものね」
「……っ」
「どうせ桂坂のことを中途半端に調べたんでしょ。それで、あいつが私に好意を抱いているのを知って、私と行人を別れさせようとしたって所かしら。愚策すぎてとても笑えたわよ。流血沙汰になるのは想定外だったけど、あとは私が目論んだ通りの展開になってくれたもの。真心には感謝してるわ」
「私、嵌められた、の?」
「嵌めてなんかない。私と行人の会話を聞いて復讐計画を知った真心は、桂坂に情報を流して止めさせようとした。それって結局、真心の意志でしょ? 私と行人が抱えてきた復讐の念を話し合いで止められると思わなかったから、桂坂に頼ったんでしょう? 違う?」
畳み掛けるような詰問に、ぐ、と呻いてしまう。
私は、葛城くんと正面から向き合うことに逃げてしまったのだ。彼をちゃんと説得できていれば。桂坂に頼ってさえいなければ。ああ、駄目だ。後悔が溢れかえってくる。どれだけ謝っても消えてくれない悔恨に溺れてしまう。
「警察官の娘なのに調べるのが雑すぎるなぁとは思ったけれど、桂坂を嗾けてくれてありがとう、と言っておくわ。おかげであいつは退学になった。これで学校生活を安穏に過ごせる」
「ありがとうって……どういうこと。葛城くんは彼のせいで入院までして……危うく死んでいたかもしれないんだよっ」
「別にあそこで死んでくれても、私には不都合なかったのだけれど。知っているでしょ。私はね、行人も恨んでるの。どうしようもなく、この手で直接殺したいくらいには憎いと思ってるの」
「何、それ……」
その感情も、相反するような行動の数々も、平気な顔して殺したいだの憎いだのと穏やかじゃない単語を口にするのも、何もかも認めたくなかった。
こんなのが愛花の本性なの……。
否定したい。受け入れたくない。認めてしまえば、私は……。
ああ。
愚かな自分は未だに、愛花と友達でいられると心の片隅で願っている。なんて未練がましいのだろう。啖呵を切り、敵であることを覚悟してなお、せめて好敵手でありたいと願っている気持ちが燻り続けているのを自覚する。
けど、絶望的なまでに得体の知れない存在を前にしてふつふつと煮えたぎってくるのは、あの時と同じ憤りだった。
愛花の側に葛城くんはいちゃいけない。憎悪と復讐の権化と付き合っていたら、本当におかしくなってしまう。葛城くんに対する私の思いを下品な下心と表現した愛花が抱いてるのは、純粋で強烈な負の情動。
そんなものを認めちゃいけない。負けちゃいけない。
「愛花は、本当に葛城くんのことが好き、なの……?」
乾ききった喉から絞り出した問いかけに、愛花の口元が妖しげに曲がった。
「好きよ。この手で殺したいほどに憎いけど。嘘偽りなく、好き。でも、決して愛することはないでしょうね。だって――」
――本物の愛なんて、この世界には存在しないもの。
微笑を浮かべる愛花の声が店内のBGMに溶けていく。
「愛なんて、存在しないわ。そんなものを信じたところで、幸せになれはしない。ただの幻想。まやかしよ」
「愛花……?」
「全部、嘘なのよ。この世界に蔓延する好意の感情は全部、まやかし。ただの自己満足。愛なんて耳障りのいい言葉で飾った黒い感情でしかない」
そう訴える目は少しも笑っていなかった。
「支配したい。縛りたい。性欲をぶつけたい。足りない欲求を満たしたい。自己補完のため。自尊心のため。価値のないプライドを誇示するため。見栄を張りたいから。世間体とか外面とか気にしてしまうから。
愛なんてものはね、そんな低俗で腐った本心を隠すために使われる都合のいい言葉でしかないの」
鬼気迫るような声音が鼓膜にこびりつく。復讐の念に塗れた、哀れな嘆きが心を揺さぶってくる。
「私が言いたいのは、つまり、そういうこと。人を愛するなんてことは、二度とない。私は、愛を信じない」
いっそ清々しいまでの宣言を前に、私はたった一つだけ、問い質す。
「仮に復讐を全て終えたら、どうするつもりなの……」
「そんなの、考えたことないけれど、そうね……。投身自殺でもしましょうか? 生きている目的を失って、ただ自堕落に生きるのなら、いっそ死んでしまったほうが楽になれるもの。ああ、そうか。最後は行人と一緒に地獄に落ちるのもいいわね」
「葛城くんは、私が救ってみせる」
「……あはっ」
珈琲が入ったカップを空にした愛花が、今度こそバッグを手に立ち上がった。
「ぜいぜい期待しているわ。その名に恥じない真心(まごころ)を見せてよね」
そんな一言と共に、彼女は店を後にしていった。
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