20.束の間の休息
目を覚ますと、見知らぬ天井が広がっていた。
「こ、こ……は……」
唇と喉がまるで動かなくて、肺に溜まっていた僅かな空気が口から漏れる。
身体が鉛のように重たい。指を動かそうとすれば腕や肩に激痛が走り、たまらず呻いた。その反動で鳩尾のあたりにも裂けるような違和感が生まれる。
どうしてこうなったのか、ようやく思い出す。桂坂に数箇所刺され、気絶したのだ。生きていることが信じられないくらいの出血だったと記憶しているけれど、助かったのか。
あのとき、彼女がきてくれなかったら、きっと……いや間違いなく僕は桂坂に殺されていた。失血多量か、痛みによるショック死か、いずれにしても助かりはしなかっただろう。九死に一生とはまさにこのことかもしれない。しかも、これで二回目だ。果たして運が良いのやら悪いのやら。
口元には酸素マスク、腕にはカテーテルがあてがわれていて、大仰に思えた。右腕は包帯とギプスで固定されていて、やはり骨が折れているみたいだ。嫌な音、したもんな。
名前の知らない花が数輪挿された花瓶の他には装飾のない、真っ白な部屋だった。窓の外に雲一つない青空と高架が見える。ここはどこだろう、と考えて、どこの病院かまでは判別ができなかった。
身体を起こしたい気持ちに駆られたが、きっと死ぬほど後悔するだろうと思い諦める。痛み止めは打たれているだろうが、それにしたって体の感覚が大分近い所にある。ただ呼吸をするだけでじりじりと肺のあたりに違和感を覚えるし、何より痛いのは嫌だった。もう、こりごりだ。
何の模様もないタイルのような天井をぼうっと眺めながら、考える。
僕がここに運ばれて何日経ったのかは分からない。それでも、知らないところで事態は動いているはずだ。
桂坂は、僕を救ってくれた誰かを前にして、蜘蛛の子を散らすように窓を伝って教室を抜け出した、と思う。目視で確認はしていないから、あくまで僕の予想でしかないけれど、間違いないだろう。返り血に塗れた外見で校内をほっつき歩けるわけもないだろうし、きっと捕まっているとは思う。そのまま退学扱いになってくれれば、馬鹿みたいな犠牲を払った甲斐もあったと言えるけど、どうだろう。
不安で心が埋め尽くされていく。そういえば愛花は? と思い出した瞬間、今すぐにでも会いたいと思う気持ちが胸が苦しくなるほどに膨らむ。僕をベッドに縛り付ける全てを引き千切り、どこでもいい、ただ闇雲にでも探したい。家族もなく、ただ一人で不釣り合いな一軒家に住み、学生という身分を捨てれば浮き草のように知らない世界へ漂っていける愛花を、見放せない。
どうしようもなく無力で愚かな自分を呪いたくなる。そして、満身創痍のくせに、こんなときまで僕の身体よりも愛花が心配なのだ。どうしようもなく、愛花に好意を抱いていると自覚せざるを得なくてニヒルに口を曲げてしまう。
色々なことを考えすぎて思考が焼き切れそうなのか、こめかみに鈍い痛みを覚える。身体も、心も、頭もままならない。潔く、ベッドの上で安静にするしか僕にはできない。
それが歯痒い。
情動が不器用に渦巻いて、その波に抗えず呻き声をもらす。何度もそれを繰り返していると、不意に病室のドアが開いた。
僕の前に姿を現したのは、愛花だった。
はっ、と息を飲む音がした。
「ゆき、ひと?」
ああ。
よかった。
行き場なく暴れていた気持ちが弛緩していく。全身の力みがすっと抜けた。
「あ…………っ」
「っ! 目を、覚ましたのね。よかった……。本当に、よかった」
「あ……、い……」
「いいわ、しゃべらなくて、いいから。だから、今はゆっくりして」
愛花が僕の頭上にあるナースコールを押して、看護師を呼んだ。行人が目を覚ましたので、今すぐきてください。落ち着き払った愛花の声。それを耳にするだけで、とてつもない安堵感に包まれる。
「一時はどうなるかと思った。血まみれで、あちこち刺されていて、もしかしたらこのまま死んじゃうんじゃないかって気が気じゃなかった。ねぇ、三日も昏睡状態だったのよ?」
そんなに意識を失っていたのか。もう、五月の大型連休も半分が終わってしまっているじゃないか、と野暮なことを思ってしまう。予定はなかったが、損をした気分は否めない。
「行人が目を覚ましたって知った親御さんも駆けつけてくるだろうし、私はまた、時間のできたときに来るわ。毎日ってわけにはいかないけど、ゆっくりと話したいこともあるから」
わかった、と言葉にする代わりに少しだけ頷いてみせる。
愛花は腰に黒いリボンが巻かれた薄桃色のプリーツスカートを揺らし、「元気になったらこの姿でまた出掛けましょう」と微笑んだ。
また、あの趣味の悪い映画鑑賞に付き合わされるのか。もしそんな機会が巡ってきたら、流血沙汰になる物語はもう現実だけでこりごりだ、と反論でもしてみようか。
「それじゃ、またね」
僕が意識を取り戻してから三日後、愛花は颯爽と病室を訪れた。数少ない知り合いや家族ともブッキングしないような真昼に、近くにあるコンビニで買ってきたおにぎりを僕の目の前で広げる。
僕はといえば、まだ意識を取り戻して三日だから満足にご飯にありつけるなんてことはできず、流動食と点滴でもって体調の回復に勤しんでいる。だから、愛花の行動は僕に対するあてつけにも思えてならない。
まぁ、僕の前で食べるのはよしてくれ、というのは御法度な気がしたので言葉にするのは慎むけれど。そもそも病室に食べ物を持ち込むのはいいのかすら知らないのだけど。
「何から話そうかしら、と色々考えてきたわ。それで、まずはあいつのことを話そうと思う」
愛花は丸椅子に腰を下ろして難しい顔をしていた。どう話そうか迷っているのだろう。
「結論から言うと、桂坂は退学になったわ。正しくは退学処分ね」
「そ、うか……」
諸手を挙げて喜ぶべきだろうに、僕の心は冷静で凪いだままだった。学校生活を過ごす上であってはならない存在をもう拝む必要がなくなったというのに、素直に諸手を挙げることができない。現実味がないからではなく、愛花の言葉を信じられないからでもなく。何だろう、このもやもやとした気持ちは。もうちょっと喜怒哀楽の情動が駆け巡ると期待すらしていたのに……。
きっと、僕らの期待通りの結果になってしまったからだ。望んだ結果そのまますぎて、むしろ気持ち悪さすら覚える。
桂坂は僕と対面したときにはっきりと言った。愛花が好きだ。ちょっかいを出しては興味を惹こうとした。けれど愛花は微塵の関心も寄せてくれない。だから、愛花の興味の対象になっている僕が憎い。そんなニュアンスに近い言葉でもって、僕という存在をこの世界から抹消しようとすらした。
あの言葉が嘘だったとは到底思えない。僕へのいじめはむしろ報復に近かったようなものだ。僕を抹消すれば愛花は自分のものになる。桂坂がそう考えていたとしたら、行動原理のすべてに納得がいってしまう。
目的を達成したというのに、どうして素直に喜べないんだ……。
寒々しく、虚しい気分に襲われる。愛花が漂わせている不穏な雰囲気がそうさせるのか、それともまだ僕は桂坂を恐れているからなのか、目的である復讐を終えたからなのか、自分でも判然としない。
「今日から学校がまた始まって、桂坂のことは校長先生から全校生徒に伝えられたわ。流石に行人の名前はその場では口にしなかったけれど、犠牲者は誰かってこともあと数日すれば広まるでしょうね」
愛花は流麗にそんなことを口にする。
クラスメイトが僕を慮るなんて考えられないし、愛花の言うとおり、噂も自然と広まるはずだ。人の口に戸は立てられない。桂坂との過去を墓荒らしのように探る奴がいないことを祈るしかない。いじめられっこの烙印は中学の卒業式で卒業証書を受け取る代わりに突き返した。もう一度受け取るなんて真似は嫌だ。
「そうそう、傷害事件が起きたってことで、今週いっぱいは午前授業だけになったの。午後は全員帰宅命令が出ているわ。生徒会とか、全国大会まで進んだ真心とか、一部の生徒は残っているけど、先生の見張りが絶対つくようになってる」
「栗原は全国大会に出場が決まったのか……」
「ええ。関東大会を決勝二位で通過したんですって」
流石は我が中学のエースだっただけのことはある。そもそも一キロを三分ちょっとで走るような女子は全国眺めても両手で数える程度しかいない。そのペースでハーフマラソンを走りきれるだけの体力がすでにあるのだから、もはや高校でもすでにエース級だろう。
「真心のことは置いておいて、もう一つだけ変わったことがあった」
「何?」
「行人が刺された場面が録画されていたのよ」
「……はぁ?」
録画? 誰が、何の為に?
「録画場所からして、教室の後ろにある掃除用具を入れるロッカーの真上に取り付けられていた、って話。職員室にいったとき、偶然ね、そういう話をしているところに居合わせて知ってしまったわ」
「なんでまた、そんな……」
「真意は分からない」
愛花が首を振る。
「で、教室から逃げた桂坂の決定的瞬間が収まったその映像はすでに警察にも届いているって話。決定的な証拠というか、現場資料よね。れっきとした殺人未遂と傷害罪だから、色々と検証もされるんじゃないかしら」
「そう、なのか……」
「問題はその映像を誰が録画していたか、という話なの」
「なんだ、誰の仕業か分かってないのか」
「うん。そもそも、録画カメラも見つかってない。学校のポストと、それから警察書に届けられたダビングテープは都内の郵便局から届いたもので差出人は不明。だから、誰が何の為に録画をしたものか、動機だって分からない。まさか桂坂本人であるわけがないし、被害者である行人も意識不明だったから、二人はシロってのが濃厚。勿論協力者がいれば別だけど、桂坂の仲間は全員口を割らず、雲隠れ。そうなるとアテがない。一体誰だ、ということで警察の捜査は難航しているらしいわ。そいつが桂坂を仕向けた黒幕じゃないか、って線も上がってるって噂よ」
そんなことにまでなっているのか、と事態が僕らの手に余るようで、正直落ち着かない。愛花にも当然、警察からの事情聴取はあったはずだ。少なくとも僕と愛花には桂坂に対して復讐をする、という動機はあったし、結果として目論見通りになったわけで、完全にシロと決めつけたってことはないだろう。僕と愛花が共犯関係を結んでいることも、桂坂にはバレている。
そうだ。
あの日の会話を録画したのは、一体誰だったのだろう。
録画した人物と録音した人物は同一人物なのでは? そう直感して、背筋に怖気が走る。ボイスレコーダーを桂坂へ渡し、僕と愛花を呼び出すよう唆したあと、小型カメラで僕らの行動を撮影した人物。桂坂のチンピラ仲間ではない、誰か。
「どうしたの? 行人」
「いや……。なんか、大事になっちまったなって、そう思って……」
「そうよね。まさか録画されていたなんて思っていなかったもの」
愛花も神妙な面持ちで考え込んでしまう。
「誰、なんだろうな……」
「悪趣味よね。あんな喧嘩の現場を撮影するなんて。というか、教室の一角に隠しカメラなんて、ストーカーのすることよ」
得体の知れない某かをストーカーと表現されてしっくりきた。僕らのストーカー。僕らの共犯関係と復讐の動機を知り、桂坂を唆し、僕を殺そうとすらした、誰か。
相当に悪趣味だな、と思う。僕らも大概だけど、それ以上だ。
もしかしたらその誰かも桂坂を恨んでいた、という可能性は否定できない。その線はどれほどだろう。僕らを恨んでいた可能性もある。つまり、動機は玉虫色で、犯人像も靄がかかったまま。
天井を見上げて長い息を吐く。考えなければいけないことが多くて、疲れてしまった。刺された鳩尾がキリキリとした僅かな痛みを訴えてくる。
「なんか、色々と聞かされて頭がパンクしそうだ……」
「ごめんなさい。一気に話をしすぎてしまったかしら」
「いや。愛花のせいじゃないよ。聞かせてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「ちょっと休むよ。疲れた。折角お見舞いに来てくれたのに、ごめん」
「いいのよ。療養中にあまり無理はさせられないし、そろそろ行人のお姉さんもくるだろうから、帰るわ。あまり鉢合わせたくもないし……」
「どうして?」
「だって、しつこそうだもの。病室に来ていることを知られたら根掘り葉掘り質問されそうだし。そういうの、今はちょっと、ね」
「ああ、そういうこと」
ごもっともだ。以前にも、この部屋に女の匂いがする、なんて凄まじい嗅覚でもって詰め寄ってきたことがあった。愛花が帰った直後のことだったし不意を突かれたのも相俟って誤魔化すに苦労した覚えがある。
姉貴に対するその忌避感は大切だ。これからもしばらく姉貴には二人きりでいるところを見られないほうがいい。
「あ、ごめん。お姉さんのこと悪く言っちゃったわ」
「いんや。姉貴は面倒な性格してるし、それでいいんじゃないかな」
「そうなんだ」
「うん、そう」
そう告げると、愛花はうっすらと微笑んだ。この前と同じように椅子からスッと立ち上がり、鞄を肩に提げて僕に背を向ける。
「ああ、そうだ。最後に一つだけ確認させてくれ」
「何かしら?」
忘れていたことを思い出し、呼び止めると、愛花が足を止め、フレアのスカートを舞い踊らせながら振り返った。
「僕に隠し事、してないよな?」
「……そうね」
あ、という声が出かかって、寸手で飲み込む。憂いの表情。その中に混じるえくぼ。愛花はきっと本当のことを喋ってはくれないな、とどうしてか確信してしまう。
「隠し事は沢山しているわ。例えば、次の標的は誰だとか、復讐すべき相手があと何人いるとか、私が行人のことをどう思っているのか、とか」「多すぎるでしょ……」
「秘密が多い方が魅力的っていうじゃない」
「魔性の女でも目指してるわけ?」
「高嶺の女でありたいとは思ってるわ」
「……」
思わずため息が洩れそうになったが堪えた。会話を本題に戻すべく深呼吸をしてもう一度問いかける。
「今から聞くこと、それだけは正直に答えてくれない?」
「いいわよ」
「僕のこと、どう思ってる?」
「好きよ。大好き」
「そっか」
「満足した?」
「キスすらしたことないのに愛してるって言われても説得力の欠片もないなって思ったけど」
「あら、いいじゃない。プラトニック・ラヴ」
カタカナにすれば雰囲気が出るとでも思っているのだろうが。曲がりなりにも思春期の高校生が欲の欠片もないって、ちょっとあり得ない。いや、僕だってそれなりに時機さえあれば愛花と、その、ね。
はっきりとは口に出せないけれど、これでも健全な男子だ。
「そういう関係は嫌?」
「嫌じゃないけど好きでもない、かな。僕、枯れてる自覚はないし、もっと欲望には正直でありたい」
「弱ってた私を襲えもしなかったビビリのくせに」
「うるさいなぁ……。あれは理性と優しさだってことにしておいてよ」
あの一件、愛花は根に持っているのか。これからも何かある度にこの話を出されては敵わないな、と内心で苦笑いを浮かべる。あのとき襲わなければよかった、とは露程も思わないけど、ネタにされるのだって気分は良くない。
「愛花の気持ちは分かったよ。ほんともう、疲れたから、寝ることにする」
「あら、本当に私の本心を見抜いたの?」
もう会話を続けたくなかったので黙り込む。愛花は僕の心の機微を悟ってくれたのか「それじゃ、またね」と部屋を出て行った。
愛花には伝えなかったけれど、もうすぐ退院できる。
僕が高校に戻れば、愛花は復讐計画を再開させるだろう。愛花を手伝うための理由。
罪への贖罪と、相思相愛。
それがあれば、十分だ。
だけど。だけどさ……。
なぁ、愛花。
復讐って、虚しくないか…………。
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