19.アイがさく

 復讐なんて企てなければよかったのだ。

 今さらそんな後悔をしても、取り返しはつかない。桂坂が僕らの稚拙な復讐計画に気づいたか否かは定かでないものの、はっきり言えば消去法でほぼ間違いなく知られている。

 呼び出しを無視したところで無意味だ。根無し草になれるわけもなく、僕は教室で椅子に座ってただただ時間が過ぎるのを待っているだけしかできないでいた。

 退屈な国語の授業は名前も知らない作家が書いたエンタメ小説の一部を生徒がじゅんぐり読むだけ。クラスメイトの怠そうな声が右から左に流れていく。その内容はちっとも頭に入ってこない。

 昨日と何も変わらない。国語も数学も物理も英語も、どれも変わらない。前回の授業の続きから始まり、淀みなくつつがなく進んでいく。鐘が鳴り、昼が終わり、気付けば最後のホームルームを残すだけとなっていた。

 昨日、ああは言ったが果たして愛花は守ってくれるか定かではない。あの態度からして、僕の期待通りには動いてくれないだろう。かと言って僕も一日そこらで愛花を退場させる上手い手段を思いつくわけもなく。

 結局は愛花の自由意志に任せるしかないのだった。

 筋山の暑苦しい連絡事項を聞き流しつつ、学ランの内ポケットを確認する。大丈夫だ。これがあれば、桂坂と対等に対峙できる。そう信じ込む。

「明日からゴールデンウィークだが、交通事故と体調管理には気を付けろよ。夜更かしするんじゃないぞー」

 筋山の注意ではたと気付く。今日が終われば長期の連休だ。

 愛花は結局どうするのだろう。復讐を遂行するために遠くへ出よう、なんならダムなんかどうかしら、と語った彼女はこの連休をどう潰すのか。少なくとも運動部の連中と遊ぶようなことはあり得ない。この連休で春の地区大会が開催される予定で、部員はぴりぴりしていて一緒に遊べるような雰囲気ではないからだ。

 僕だって満足に遠出ができるような家柄ではない。度を超して過保護な姉をどこまで騙くらかすことができるか、で収まってくれれば良かった話はとうに立ち消え、連絡が取れなければ警察へ捜索願いを出されてしまう始末。無断外泊なんてもっての外だ。

「起立」

 あれこれと思索に耽っているうちにホームルームも終わってしまったらしい。日直当番の女子が号令する。

 力なく席を立ち、軽く頭を下げる。

 部活動に勤しむ面々が足早に教室から出て行く中、僕はじっと椅子に座ってその背中を見送る。

 どれだけ覚悟しても慣れないものは無理だ。手の平に滲んでくる脂汗を制服のズボンで何度も拭う。ノミのような心臓ではこれから自分に降りかかる災いに対して大した気構えをすることもできない。あの頃はまだ鼠程度だと思っていたのに、いつの間にか僕の肝っ玉はちっぽけなものになってしまったようだ。いや、身体だけ大きくなって心はあの日からちっとも育っちゃいないということかもしれない。

「行人、私も残るから」

 やがてクラスから生徒がほぼ出払った頃、鞄を肩に提げた愛花が僕の側までやってきては小声でそう呟いた。

「教室に残るなってお願いしたよね」

「行人だけ危険な目に遭わせるわけにはいかない」

 珠のような瞳から揺るがない決意が洩れていた。どうして、とすら思う。

「前にも言ったわよね。自分を価値のない、矮小な存在みたいに卑下して卑屈でいるのはやめて、って。自分が犠牲になれば全部救われるって、本気で思ってる。押しつけがましいし、犠牲になる自分に酔ってるだけよ。そんな益体もない自己犠牲ははた迷惑だわ」

「そんな言い方ないだろ」

「いいえ。行人は今の自分に酔ってるわ。自分を犠牲にして私の心の中に楔を打ち込もうとしてる。罪という概念で縛り付けようとしてる。そんなものを押しつけられるのは、はっきり言って不愉快でしかない」

「こっちは本当に愛花のことを心配してるから逃げてって言ってるんだよ」

 僕の心配を真正面から受け取ってほしいのに、愛花は呆れたような面持ちでため息を漏らす。

「私が行人の心配をこれっぽっちもしてない、なんて思ってないとそんな行動できないわ。心配してくれるのは嬉しいけどね、私は借りを作るのが大嫌いなの。勿論、看病してくれたことには感謝してるし、いつかお返しもするつもりよ。でも、これは違う」

「だからそんなつもりはないんだって」

「だったら行人が私を除け者にしようとする理由はないわね」

 あなたの思惑には乗ってあげない、と言われていよいよ返事に窮してしまう。自己犠牲なんてしているつもりはない。昨日の提案が最善策だと思ったし、そうでなければ僕が愛花を守りたい気持ちはどうなる。いざ守れなかったら、僕は一生罪の意識に苛み、罪の意識は色濃くなるばかり。そんなの、心が耐えられない。

「……わかったよ。でも、一つだけ約束してほしい」

「何かしら」

「命の危険を感じたら、すぐに逃げ出すんだ。僕だって別に死にたいわけじゃない。桂坂を上手く撒いて、逃げて、桂坂の危険性をどうにかして皆に知らしめることさえできれば……この高校から追い出すことができれば、それだけでも勝ちなんだ」

 職員室まで逃げ込んでは先生たちに助けを求めた古い記憶が蘇る。上手く立ち回れば、登校禁止や停学、退学処分だって夢ではないはず。復讐と呼べるかは別として、僕の望みはこれで叶う。

 そう、最初から僕は復讐など望んでいない。平穏な日常を取り戻すことができれば、ただそれだけでいい。分不相応な望みはいつか身を滅ぼすと決まっているし、高望みしたところで神様は願いを汲み上げてはくれない。

「わかったわ」

 愛花は僕の忠告に頷いて、それから僕の後ろの席に座った。クラス一同の意見もあって席替えをした今、そこは栗原の席ではなくなっている。

 座して待つ間、会話はなく、窓の外からはボールを金属バットで打ったときの甲高い音と、雑草を狩る刈払機の音だけが空間を占めていた。ギギギ、と歪で機械的な音が切創を連想させるようで、身体の内側から肌まで粟立って落ち着かない。処刑場、ギロチン、刃物……ああ駄目だ、想像するだけで動悸がしてくる。ずっと意識しないようにしていたのに、懐に潜ませた正当防衛の道具で心臓を鷲掴みにされている錯覚に襲われる。

 早く、何事もなく、今日という日よ、終わってくれ。

 芝を刈る音が止んで、その隙間を埋めるように廊下から話し声が飛び込んでくる。そして、上履きを廊下に擦りながら踵の部分をぺちぺちと叩き付ける乾いた音。間違いない。

 そう確信すると同時、足音が止まり、教室の扉が乱雑に開けられる。

 桂坂だ。

「よぉ」

 待った? と気の知れた友人に挨拶せんばかりの軽薄な口調だった。噛んでいるガムでくちゃくちゃと音を立てながら、ゆったりとした足取りで教室に入ってくる。へらへらとした表情に宿る鋭い眼光が僕らに突き刺さる。

「へぇ……二人とも逃げずに待っててくれたんだ。てっきり逃げ出すものと思って校門に何人か張り付かせておいたんだけど、バラしちゃっていいかな。なぁ、外で待機してる連中、解散するように言っといてくんない?」

 廊下に仲間がいるようで、低くドスの利いた声で「おぅ」とだけ返事があった。話し声や立ち去った様子もない。つまり、メールかチャットで連絡をして、そいつは見張り役ということらしい。

「ま、逃げ出さなかったことだけは褒めてやるよ。……いや、違うか。尻尾巻いたら殺すって書いてあったし、むしろそれに怖じ気ついちゃったかなぁ?」

「……どっちみちロクでもないことを企んでいたくせに、何言ってんだ」

「そう喧嘩腰になるなって。呼び出された理由には心当たりがあるんだろ? それを教えてくれって話。俺だってこんなことはしたくねぇんだわ。けど、知っちゃったからには仕方ないっつうか、ね? とりあえず、これ、説明してくんねぇかな」

 桂坂がポケットからレコーダーを取り出し、「再生するから、聞き逃すんじゃねぇぞ」と気怠げに言う。

「なんだよ、それ」

「見て分かれや。レコーダー」

 そういうことを言ってるんじゃない、と続けそうになるのを堪える。そこに録音されているのは何だ。まさか僕と愛花を盗聴した記録か? だとしたらどうやってそんなことを、いつ、実行したんだ。

 激しい混乱の中にある僕を待つこともなく桂坂がレコーダーを再生させ、ザザッという音が流れはじめた。


『復讐したい人間は山ほどいるの。この魂が地獄に落ちたっていい。あいつら全員、徹底的に絶望させてやるんだから』

 怨嗟に濡れた愛花の声がレコーダーから洩れてくる。耳を疑った。風風邪気味で擦れた声とその言葉はまさしく、あの日、看病をしながら彼女の過去を洗いざらい告白されたときのものだ。

『手始めに桂坂を選んだのだってきちんとした理由があるわ。復讐するなら共通の敵を最初にしたほうが、行人も乗ってくれると思ったから』

『なるほど。僕は愛花の考えまんまとはめられたわけか』

『はめた、なんて表現はよして』

「嘘だ……」

 疑問と動揺が一緒くたになって胸に押し寄せてくる。身動きの一つもできず、やめろ、という否定が頭の中でぐるぐると反響する。

『私が一人悪者みたいじゃない。行人は自分の意志で私の手を取ったの。復讐したい気持ちと私への罪の意識でもって、自分の頭で、私とともに桂坂へ復讐することを選んだのよ』


「で、つまりこれがどういうことなのか説明してくんね? 復讐って何? 罪だの罰だの聞いてて胸糞悪いっつうか気持ち悪いやりとりなんだけどさ、ん?」

 どうして、という動揺の中で言い訳の言葉を探してしまう。咄嗟に「違う」と言いそうになって、それを無理矢理咳き込んで声を潰す。何が違うのか。あのやりとりは事実であり真実だ。一縷の嘘もなく、全てが本音のやりとり。疑いようもなく僕と愛花は心の内を吐露していた瞬間。それを、どうして、こんな風に聞かされなきゃいけないのか。

 あり得ないあり得ない、あり得ない。

「それ、なんだよ。どうしてそんなもん、桂坂が持ってるんだよ」

 やっとのことで擦れ出た疑問に、桂坂がせせら笑う。

「昨日な、机の中に入ってたわけ。そいつはご丁寧に書き置きも付けていやがった。前田と葛城の会話を聞いてみて、なんてふざけた一文だけの紙っきれだよ。けど、どうしてかその時の俺は興が載った。だってよ、お前ら二人の会話だぜ? 聞いてみたいと思うに決まってるじゃねぇか。で、これだよ。

 お前ら、マジで何なの?」

「それは本当に私たちの会話だと本気で信じているの?」

「前田ぁ……」

 桂坂が「くっ」と喉を鳴らした。

「お前よぉ、今の自分が少しも動揺してねぇって態度だな? これがお前らじゃないってんなら一体誰だ? 俺に復讐してぇなんて輩は腐るほどいやがるだろうが、こんなにも昔の話をネチネチと抱えてる奴、この高校にいると思うか?」

「そんなの、私たちが知るはず――」

「しらばっくれるのもいい加減にしろよ、おい」

 違う、そんなつもりはない、と否定の声が出かかった瞬間、鳩尾に鈍い衝撃が沈んだ。鉄球が直撃したような重さが僕の身体を教室の壁まで吹き飛ばす。

「行人っ!」

 愛花が叫ぶ。壁に打ち付けた腕に灼けるような激痛が走る。内蔵を殴り潰された感覚が波紋のように身体の内側から込み上げてくる。口から出ちゃいけないものが零れ出そうだ。

 腹筋に変な力が入って肺がうまく動かない。頽れるように倒れ込んでしまい、木張りの床に顔面を強打して視界が一瞬真っ白になった。呻きながら立ち上がり体勢を立て直そうとしたところでもう一発、今度は膝下に蹴りが入った。ぴきり、という不快な音が響き、今度は後頭部を床に打ち付ける。

 間髪入れずに桂坂が僕の右肘を踵で踏み込む。擦り切れたローファーがめり込み、神経が焼き切れるような激痛で擦れた呻き声が洩れた。

 桂坂が終始無言なのが余計に恐怖を増長させる。一方的な暴力を前に、反抗の意志が根こそぎ奪われていく。

「俺をコケにしたか、クズシロぉ……」

 獰猛な声が教室に響いた。「違う」と、ようやく口にできた言葉は何に対する否定だったのか理解できないほどに、意識が朦朧としている。起き上がろうと床に立てた腕が自分のものではないように思えるほど重い。顔を上げようとした刹那、視界の端から飛び込んでくる蹴りが見えて、反射的に怯んだ。

 鈍い音が響く。右腕が折れるような感触を覚えながら、またも床を転がる。背中や膝裏に机の脚が当たり、机上で逆さまになった椅子がけたたましい音を立てて床に倒れてきた。間一髪、頭に落下してこなかっただけ助かった、のか。

「やめてってば!」

「やめるわけねぇだろ」

 悲痛な声に桂坂は貸す耳を持たない。「早く答えろよ」と僕を睥睨してくる彼の表情からは、先程までの薄ら笑いが消えていた。

「おい力也、あまり騒ぐとややこしくなる。穏便にやれ」

「ったく、たりぃなぁ」

 廊下で待機する桂坂の仲間から飛んできた忠告に、桂坂はしかめっ面を浮かべた。ただでさえ虫の居所が悪いそんな油を注ぐなよ、と言いたくなる。

 上半身を起こすと嗚咽が込み上げてきて、堪えきれずに血反吐を吐く。肩を上下させながら喘ぐように空気を求めていると、教室の隅で怯える愛花が目に入った。

「逃げろ、愛花」

 硬直したままの愛花に向けて叫ぶ。視線を彷徨わせていた愛花が僕を見て、悲痛な面持ちのまま首を横に振った。

「逃げられるわけねぇ。窓からでも飛び降りんのか?」

「トラックが、窓の下に、横付け、されてる、からっ! いけ!」

 愛花に命令しながら、僕は懐にしまっておいた折りたたみ式の小型ナイフを取り出し、桂坂に突き付ける。利き手である右手はもう肘から感覚がない。ナイフを握る左手は、緊張と恐怖と怒りで震えが止まらない。まずったな、と動揺が悟られないようにするので精一杯だ。ここから先、どうすればいいかなんて考えだって何一つない。

「駄目。行人を置いて行けないっ!」

「逃げろって! 死にたいのかよ!」

「おいおいおい、てめぇら何勝手してんだぁ? おいそれと見逃すわけ――」

「動くな桂坂! 愛花に手を出したら刺すっ」

「……チッ」

 桂坂が愛花へと向けた足を止めた。僕に背を向けているせいでその表情は分からないが、その頬が痙攣しているのだけは窺えた。

 一瞬の静寂の後、愛花が素早く壁伝いに歩き、窓に足を掛ける。除草作業で処分する雑草を積んだトラックが真下にあるのを確認して、覚悟を決めたようだ。

「必ず、助けを呼んでくるわ。だから……」

 待ってて、という言葉とともに愛花が窓から飛び降りた。

「あいつを追え! 神永!」

 桂坂が怒号のような命令をし、廊下を駆ける足音が一瞬で遠くなった。外に待機していた神永と呼ばれた仲間が愛花を追ったようだ。僕もドアに手を掛けて開けようとしたが、つっかえでも置かれているのか、びくともしない。

「ち、くっそ……」

「お前だけは粛清だ、クズ野郎」

「さ、刺すぞ」

「はンっ! そんな無様でボロボロなくせにまだ刃向かおうってのか。その威勢だけは褒めてやる」

「黙れ黙れ黙れっ! もう、お前なんかには屈しない!」

 桂坂が至極つまらなさそうな顔を浮かべて僕を睥睨する。

「……雑魚がナイフ持ったところで雑魚のままなんだよ。慣れない凶器ってのは、身を滅ぼすぜ」

「誰のせいでこんなもの持ち歩かなきゃならなくなったと思ってんだ!」

「……なぁ、お前は俺を殺したら満足か?」

 甘ったるく、小馬鹿にするような声で桂坂が言った。腕を大仰に広げ、肩を竦めながら、ゆったりとした口調で続ける。

「俺を刺せば満足か? 優越感に浸れれば満足か? 前田にとってのヒーローであり続けられれば満足か? 違うだろ。本当は、俺が消えてくれることを望んでたんだろ? ただそれだけで良かったんだろ? なのに、どうしてお前は他人のためにそんな馬鹿みたいなことまでできる。ビビって反抗する勇気もねぇから前田の誘いに乗っかって、俺を世界から消す、なんてほざいておきながらずーっとイチャイチャしてるだけだったくせに、前田の為なら死ぬことだって厭わねぇ。ナイフまで持ち出して俺にたてつこうとする。何がてめぇをそうさせる」

「それは……」

 答えは明確で、言葉にしてしまえば至極簡単なものだ。

「僕は、愛花のことが好きだ。だから、彼女のためなら、これくらいのことはする」

 僕の言葉を受けた桂坂が、腕を脱力させてゆっくりと天井を見上げる。

だらりと肩を下げ、「好き、か。好き、ね」とぶつぶつ繰り返してはけらけらと喉を鳴らし始めた。

 あまりの不気味さに、ナイフを向けたまま後ずさる。数歩下がったところで背中が出入り口の引き戸にぶつかった。これ以上、逃げ場がない。

 桂坂がゆったりとした足取りで、ふらつきながら僕へと歩み寄ってくる。

「クズシロよぉ……好きって何だ? 俺も前田のことは好きだぜ。あいつを支配してやりたくてたまらねぇ。あんなイイ女、なかなかいねぇだろ。抱きてぇし、SEXしたらどんなに気持ちいいかって想像したら興奮するだろ? 自分のものにできりゃあ、こんな幸せなことはねぇからなぁ。だから、ガキの頃から必死だったんだよ」

 桂坂の口元が釣り上がる。引きつった頬を痙攣させ、こめかみに青筋を立てていた。向けたナイフを必死に主張するように腕を振るうが、桂坂は怯んだ様子も見せずに不気味に笑う。

「なんでだ? どうして俺は前田に相手にされない。ひ弱で根暗な葛城が好かれて、俺は嫌煙される理由が分からねぇんだよ。なぁ、教えてくれよ。好きってなんだ? どうして俺の好意は伝わらねぇんだ?」

「桂坂のは好意じゃ、ないだろ。ただの嫌がらせで、いじめで、絶対悪だ」

「絶対悪だと? なんだよ、俺は悪者か? てめぇはヒーローにでもなったつもりか? ふざけんじゃねぇ」

 今度こそ桂坂が吐き捨てた。やばい、と直感する。同時、反射的に左手を振るうが、空を掠めた。間抜けな左手首に衝撃が走って、ナイフが手から溢れ落ちる。肉や骨が砕けるような痛みに耐えきれず呻き声を上げながら必死に逃げ道を探すが、見当たらない。もう、窓から飛び降りるしかないのに、その退路は絶望的なまでに遠い。

無理だ。こんな満身創痍で今の桂坂を突破できるはずがない。

 桂坂がすかさずナイフを拾い上げ、手中に収める。終わった、と諦めの境地に至る。このまま僕は、桂坂の思いのままに蹂躙される運命を歩むしかない。

「てめぇさえいなけりゃ、あいつは俺のものだったんだ」

 腹に重たい衝撃が走り、身体がくの字に折れ曲がった。胃液が喉に込み上げ、胸が焼け付く。嗚咽しながら団子虫のように背中を丸めて床に膝をついた。

 畳み掛けるように腹部を蹴り上げられ、いとも容易く仰向けにされると、桂坂が馬乗りになってくる。その右手には、鋭利な切っ先が夕陽に照らされて鈍く輝く。

 想像できない痛みを覚悟した。

「こんなもんか、結局」

 僕の顔に痰を吐き、桂坂は迷いなくナイフを振り下ろした。咄嗟に顔面を庇った左腕が灼ける。小心者な自分にお似合いの刃渡りでよかった、のかもしれない。骨を抉るナイフが引く抜かれ、視界が朱く染まる。

「ああああああああああああああああああああああああああああっ」

 教室に絶叫が谺して、鼓膜が破けそうだ。桂坂の上半身が白黒に点滅して、色が消えていく。痛い、痛い。痛みで身体が分裂しそうだった。いっそ引き裂かれたほうが楽になれるのに、身体は痛みの根源と繋がったままだった。

 どうにかなってしまえばいいと思うほどに頭が鮮明になってくる。桂坂がきひっ、と気味悪く喉を鳴らす。振り下ろされるナイフが、今度は大腿筋と肩、それから腹部に突き刺さる。

 死ぬ。このまま僕は死ぬ。

 桂坂の表情が、あの日、うさぎ小屋の前で千枚通しを突き付けられたときと重なる。明滅する光景の中で過去と今がごちゃ混ぜになって展開されていく。ぐにゃり、と空間が歪んだ。もう、頭が痛みを拒絶している。気絶してしまえればいいのに、空気を求めてのたうち回る肺と心臓がそれを許さない。喘いで、呻いて、叫ぶことを何度繰り返しただろう。

 桂坂の腕が止まった。

「何、これ……」

 桂坂ではない、誰かの声が響いた。いつの間にか、背後にあったドアが開いている。声は女性のもので、聞き覚えがあった。霞んだ目では誰か判別ができない。途切れ途切れの意識が答え探しを始める。誰だ。愛花? 助けに戻ってきてくれたのか?

「あ?」と、桂坂が呆ける。僕に夢中で、彼女が声を上げるまで気付かなかったのだろうか。「ああ?」混乱の中に焦燥が混じっていく。

「い、や……」

「ばか、よせっ」

「ああああああ――」

 空気が震えた。桂坂が僕の身体を蹴飛ばし、離れていく。

「いやああああああああああああああああああああああああっ!」

 劈くような悲鳴が世界を支配する。

 殺伐とした重圧が一瞬で消えた。二人分の足音が重なり、それも束の間、ドンッ、と何かが激しくぶつかる音が遠くに響く。視覚がまともに機能しないせいで、何が起きたのか判然としない。

「しっかりして! ねぇ!」

「あ……、う……、かはっ」

 上半身を無理矢理起こされ、僕は、込み上げる溶岩のような塊を吐き出した。口の中で錆び付いた鉄が広がっていく。命が零れ出ていくのを止められない。

 僕を抱き抱える愛花が叫び続けていた。誰か、誰か、と泣き叫びながら僕の身体を揺する。

 お願いだからそっとしておいてくれよ、と声に出して訴えたかった。酸欠と失血で朦朧とする。言葉にならない。

「駄目、死なないで、お願いだから、ねぇ!」

「だ……い、じょ……ぶ……。あい、か……ご、め……っ」

 もはや、頷くだけの力も残っていなかった。

 視界が灰色に染まっていく。身体の中心から空気が抜けて、鈍重だった感覚が薄れていく。ふわりとした心地よさに身を任せていると、あらゆる感覚が遠くなっていく。遥か遠くで誰かが「駄目! しっかりして!」と叫びながら僕へと必死に手を伸ばしていた。けど、もうどう足掻いたって届かない。心地よさに委ねて灰色の世界を漂い続ける意識は、差し伸べられた手から離れていく。

 彼方に、鈍色に光る暖かい何かが見えた、気がした。

 その何かを掴もうとして、身体が闇に落ちていく。

 意識が暗転した。

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