エゴイスチックスイーツ
みもと りも
半月バイオレンス
五月のゴールデンウィークが過ぎると、どこのスーパーマーケットにも夏の新商品がどんどん入荷される。
一番厄介なのは缶ビールだ。季節ごとに各メーカーが「限定発売」と称し、その季節のビールを送り込んでくる。ビールの売り場は全て模様替えと言っていいほどに商品を置き換えなければならない。
冷蔵ケースに頭と腕を突っ込んで新商品を並べていると、客が横から手を伸ばしてどんどん攫われる。季節にかかわらず、新発売のビールは最初の入荷で必ず売れるのだ。店としてはありがたいことだが、いつまでも並べ終わらない。
ここ数日は連日同じ作業だ。季節は夏に向かっていても、冷蔵ケースにくっついての作業は三十路半ばの身体を冷やし過ぎる。
後ろに身体の大きい男の気配がした。次は何本持っていかれるのか、と構えていると声を掛けられた。
「ほのかさん、こんばんは」
違った。並べたビールを攫う客ではなかった。見慣れた顔に少しほっとする。
「あ、颯太(そうた)君、いらっしゃいませ。ええとね、リカは今休憩なの。そろそろ戻ってくる頃だけど」
「いや、今日は会いに来たんじゃないから。うちの爺さんのお供だよ。」
颯太はこの店で働いているフリーターのリカの彼氏だ。身体が大きく身長も180cmは越えているだろう。横幅も相当にある。体格から安易に想像できる通り彼は柔道選手だ。
颯太の家は道場でもある。この近辺で「西条柔塾」といえば知らない人はいないだろう。
なにしろ塾長ならぬ師範は代々オリンピックのメダリストである。颯太の祖父も父親もオリンピックのメダリストであり、兄も次の大会でメダルの有力候補だ。
しかし残念ながら颯太は世界選手権の直前に腰を痛めて欠場。その後復帰出来るのかは聞いていないが、今は道場の手伝いをしているらしい。
その身体の大きな颯太の後ろから、道衣姿の華奢で背も小柄な老人が顔を出す。颯太の祖父だ。
「やあ、こんばんは」
「あ、先生。こんばんは。いらっしゃいませ」
「いつもすまんね。アレ、来たかな」
「はい、風ノ蔵、入荷しましたよ。今お持ちします」
倉庫に先生が注文した日本酒を取りに行く。ついでに試飲用にメーカーが置いていった新商品の缶ビールを、三本ほど別袋に入れる。
「お待たせしました。いつもありがとうございます」
風ノ蔵を渡すと、先生はにっこり笑って日本酒コーナーに向かって歩いていった。他の酒も物色するようだ。日本酒が好物らしい。
先生はのしのし歩くのではなく、すーっと歩く。不思議な人だ。身体も小さく、その風貌だけでは柔道の師範にはとても見えない。
身体は華奢でも嘗ては「三四郎」と呼ばれたほどの人物だ。実際に見たことは無いが、あの小さな身体で易々と大男も投げ倒してしまうそうだ。しかしそれを感じさせない不思議な雰囲気を放っている。皆が言う「三四郎」のような猛々しさは感じられない。
颯太にも似た感じの雰囲気がある。武道の風格と、それと真逆な穏やかなオーラ。
颯太に試飲用のビールの入った袋を渡した。
「いつもありがとね、これはあげる。試飲用だからレジは通さなくていいわ
「わ、ありがとうございます!」
颯太が嬉しそうに袋の中を覗く。颯太はビールが好きだとリカから聞いていた。袋の中を確かめるとニコッと笑った。
ふいに颯太の足元で、ドカッと鈍い音がした。
「痛ってえ」
颯太が顔を歪めてしゃがみこむと大きな身体の後ろから、リカが現れた。
「え?もしかして蹴ったの?」
「そ」
リカは腕を組んで仁王立ちしている。
「大丈夫?」
颯太が痛そうに足首の辺りのジャージパンツを捲ると、すでに青腫れている。
「うわ、リカ!やりすぎよ!」
「いいの」
リカは踵を返えして、どこかへ消えた。
「いいんですよ、いつものことだから」
でも、と言いかけた私の言葉を制するように「じゃあ俺、爺さんのお供するから」と言い、捲くったジャージパンツの裾を下ろした。
それから先生のいる少し先の日本酒コーナーに歩いていった。足を少し庇うようにして。
颯太とリカ。こんなシーンは何度も見た。
リカは人前でも平気で颯太を殴ったり蹴ったりする。普段のリカはどちらかと言えば大人しい、普通の女の子だ。身体も華奢で、力も強いわけではない。
何故、自分の彼氏にこんなに暴力的なのだろう。
そして颯太も。リカが何をしても颯太は決して怒らない。
自分の彼女に対して怒らない、というのは理解できる。
しかし仮にも颯太は柔道の優秀選手だ。リカの暴力を止めたりかわすことも出来るはずだ。
颯太は何かを承知の上で、わざと殴られたり蹴られたりしてリカのサンドバック役を引き受けている。
私にはそんな風に見えていた。
リカがアルバイトの面接を受けに来たのは昨年の夏。面接を担当したのは私だ。
21歳。華奢ですらりと背が高く、おとなしそうな女の子だった。
気になったのは、長い髪で隠すようにしていたが額から頬にかけて大きく痣があった。それはもう治りかけで青味が引き、黄色くなっていた。
何の根拠もない自分の直感だがそれは「殴られた痕」だと思った。気になって痣の理由を訊いてみた。
「顔の痣はどうしたの?」
リカはギクッとしたように、私の顔を見た。
「あ、ごめんなさいね。答えなくてもいいのよ。痛そうだから聞いてみただけ」
リカのギクッっとした態度にこちらもギクッとしてしまった。直感が当たった、という直感がした。
「あの、ええと、転んでしまって、すみません」
答えが嘘らしい嘘で、理由を訊いた事が申し訳なくなった。何かに怯えているようにも見えた。
話を変えて、業務の説明をした。そのうちに手の甲にも痣があることに気が付いた。ドメスティックバイオレンスという言葉が頭を過ぎったが、それがあったとしてもプライベートなことだ。仕事に支障が無ければ問い詰める必要は無い。業務の話を進めた。
リカは主に夜勤を希望していた。女の子だからなあ、と思ったが社内規定に夜勤は男子のみとは記載されていない。通勤と生活に不便がなければいいよ、と希望を通した。
その男が店に乱入したのは、リカが採用されて二ヶ月程後の深夜のことだった。
自分は基本的に夜勤はしないが、夜勤のリーダーが欠勤になるとやむなく代行を務める。その日も代行だった。
リカと翌日の特売予定のコーラを並べていると、胸ポケットの店内連絡用PHSが鳴った。鳴ったと同時にどこからか男の叫び声が聞こえた。
PHSに出ると警備員が早口で話す。店内入り口で酔った男が暴れているので、警察を呼びました、という内容だった。
だんだん叫び声が近くなり、叫ぶ声や内容もはっきり聞こえてくると、隣にいたリカが「ひっ。」と声をあげた。青ざめた顔で耳を押えてしゃがみこむ。
――ああ、男か。痣の犯人か。
「倉庫に行きなさい」
そう言ってもリカは震えて動けない。腕を引っ張って「関係者以外立ち入り禁止」のドアの向こうへ押し込んだ。
「リカー!」
真っ赤な顔の眼が据わった男がこちらに向かって歩いてくる。
途中警備員が止めようとするが突き飛ばされる。ああ、全く、弱いな警備員。自分は酔っ払いなら何度も相手にしてきた。怖いには怖いが、慣れている。
「いらっしゃいませ。」他の客への態度と同じように挨拶をする。
「リカはどこだ?」
「どなたかお探しですか?」
「村下リカ、ここで働いているだろ?」
「申し訳ございません、この店には三百人近い従業員がおります。失礼ですがどこの部署の従業員かご存知でしょうか。」
わざとのろのろしゃべって時間を引き延ばす。警察、早く来い。
「知るかよ、リカの母親に聞いたんだ。アイツがここにいるってな」
酒臭い息を撒き散らしながら、やや呂律の回らない、しかし威嚇でもするかのような大きい声。
「失礼致しました。ですが村下という従業員はこの時間にはおりません。どの時間の勤務かお調べも出来ますが、よろしければご用件を私が承ります。」
いいから早くリカを連れて来い!などとを男が叫び出したところで警察がやってきた。
警察官は男の顔を見るなり「またアンタか」と呆れた。他でも暴れているのだろう。
事情徴収をさせて欲しいと警察官が言った。男が店から連れ出されたのを確認しリカも同席させた。
「この際だから訴えなさい。暴力を受けてたんでしょ」
リカはぼろぼろと涙をこぼしながら今までの経緯を警察官に話した。
男はリカの実家に入り浸っていたこと。
酒を飲んでは暴れ、自分に暴力を奮ったこと。
何度か警察に届け出たが相手にされなかったこと。
やむを得ず友達の家に非難し、夜勤なら男に見つかりにくいと考えてこの店にバイトを決めたこと。
今日はその自分を追って、男が店に来たこと。
一通りの経緯を聞き終わると「話は通しておくから明日被害届けを出しなさい」と、警察官はリカに言った。
リカは小さく頷いた。
その後の男の処罰は知らないがそれ以来、男はリカの前に現れなくなった。
それであまり笑うことのなかったリカに笑顔が戻るかと思っていた。しかし「新しい彼氏が出来ました」と颯太を紹介された時も、なにやら不満そうな顔だった。何かに怯えたような表情だけは消えていたが。
殴られ続けていたリカが、何故自分の恋人を殴ったり蹴ったりするのだろう。
少々の暴力くらいで颯太は動じないだろうけれど、あれはリカの「甘え」なのか。
訊いたところでアラフォー世代の自分に、一回り以上も年の差がある若い子の恋愛は理解できないだろう。きっと。
疑問を持ちつつも忙しい日々で、そんな二人のやりとりにも慣れていった。
「外国人による両替泥棒」
店長から絶対読むようにと言われたそれは、従業員通路にでかでかと貼られていた。
中東系らしき外国人数人のグループの犯罪で、一人が自販機を使うので小銭が欲しいとレジに両替を依頼する。
レジ係がキャッシャーを開き、両替した硬貨を渡している間にもう一人がレジ係の後ろから手を伸ばしてキャッシャーから札を掴んで逃げる。
――という内容だ。監視カメラ写真も貼られているので、どこかの店が被害にあったのだろう。
「両替を依頼されたら従業員をもう一人呼んで警戒すること」と、赤字で付け足されている。
――嫌だな、こんなのあるとしたらウチみたいに深夜営業している店だ。昼間っからこんな大胆なことはいくら外国人犯罪者だってしないだろう。
予感は随分後になって的中した。
その掲示も忘れかけた頃だった。
レジから無線連絡で「ほのかさーん、両替です」と呼ばれた。
事件は忘れられつつも「両替時は二人以上で対応」だけは従業員に定着していた。
はいはい、と面倒臭いがレジへ向かう。
遠目にレジの客が見えたところで、ドキッとする。深く帽子を被っているが、客の肌が浅黒い。季節は夏も近いがそれは日焼けた日本人の肌ではない。
レジの手前でPHSで小声で連絡する。
「店内巡回してください。レジに中東系外国人」
小走りにレジに向かうと、その先から颯太がやってきた。
「こんばんは、忙しいのにごめんなさい。リカを迎えに来たんです」
「リカはもう上がったわよ。店内で待ち合わせならきっともうすぐ来るわ」
ありがとうございます、と颯太は頭を下げた。
急いでレジへ向かうともう一人の外国人がレジの後ろに近づいている。
それに気が付かず、レジ係の女の子はキャッシャーを開けようとしている。
あああ、私が行くまで待ちなさいってば。心で叫んでも聞こえるはずは無い。
レジ係がキャッシャーを開けた瞬間、後ろから近づいてきた外国人がそこに手を突っ込む。それに気が付いたレジ係はキャーッと叫んだ。
叫んだと同時にレジ係は突っ込まれた手を掴んでいる。危ない、反抗して攻撃されるくらいなら金を取られたほうがいい。
「手え離して!」
咄嗟に叫んだ。
その声に反応するように、両替を受け取ろうとしたほうの男が腕を振り上げた。その先が光った。刃物だ。ああ、もう駄目だ。眼を瞑った。
――ドサッ。
惨状の叫びが聞こえると思いきや、違う音がした。
眼を開くと颯太が刃物を持った男に寝技をかけていた。
「あ、もう一人は逃げちゃった。すみません」
寝技をかけられている犯人は、まるで瀕死の呻き声だが颯太は暢気だ。
またも警察の出番となったが、颯太のおかげで怪我人は出ることなく済んだ。逃げたもう一人にしっかり金は盗られたが。
その一部始終を、ちょうど店に入って来たリカが見ていた。まるで硬直したように動かず、颯太の行動を凝視していた。
金銭の被害もあるので正式な届けは店から出すことになる。時間も遅いので店長に連絡して、自分は帰ることにした。
店の前に停めてある自転車を取りに行くと、リカと颯太がまだそこにいた。気軽に声をかけられるような雰囲気ではない。重々しく緊迫した空気だ。
少し離れたところで様子を見ることにした。
「俺のしたことが気に入らないのなら、俺を殴ればいい」
「殴るわよ。たくさん」
「気が済むまで殴れ」
そこに居るのは先程の暢気な颯太ではない。けれど怒っている様子も無く、悠然とリカの前に立っている。
リカはヒステリック気味の普段より高い声で颯太に声をぶつけている。
「百発よ、百発殴るわ」
「わかった、やれ」
――百発?
本当に殴る気なのか。止めようかどうしようかと迷っているうちに、パーンと頬を叩く音がした。
「いーち。」
平手でよかった、拳じゃなくて。そんなことで安心している場合ではないけれど。
「ろーく、しーち、はーち。」
パーン、パーン、と深夜に響くその音が痛々しい。自分はこのまま見ていていいのか。平手打ちを 次々と喰らう颯太は少しも動かず腕を組み、眼を閉じている。
「十四、十五」
止めよう、やっぱり良くない、こんなの。
「十八」
颯太の口からポタリと落ちた。
血だ。
「十…」
そこで頬を叩く音は止まった。
リカはしばらく動かなかった。
眼を開けた颯太が袖で口元の血を拭いながら言った。
「どうした、続きは」
リカの肩が震え、嗚咽を押えるように泣いた。
「どうして止めないの?アタシが悪いのよ。」
震えた声でリカが言う。
颯太は何も答えなかった。
「どんな場合だって、暴力はいけないわ。どうしていつも誰も止めないの。」
――それなら何故貴女は彼を殴るの。
ずっと抱えていた疑問が口から出そうになった。
「ほのかさん。」
ドキリとする。私に気付いていたのか。
「そこにいるんでしょう?何故見てるだけなの」
そうだ、アタシは何故すぐに止めなかったんだ。
「アタシはあの男と同じよ!暴力女よ!最低よ!なのに誰も止めない!」
やはりリカは甘えている。やりたい放題やって自分を止めない周囲のせいにする。
けれど自分だって嫌なはずだ。
暴力を奮う自分。
「ほのかさんは関係ないだろう。悪いのは俺だ」
「あなたは悪くないでしょう?今日だって良いことをしたんでしょう?なのに何故アタシに殴られるの。あなた強いじゃない、すごく強かったじゃない。本当はアタシなんて簡単に止められるんでしょう?なんでわざと殴られるのよ」
どうしてよ、どうしてよ、とリカは泣き崩れ地面に覆い伏せるようにして大声で泣いた。颯太はリカを抱え上げ、脇に停めてあった車に乗せた。
車のドアを閉めると私に近づき
「すみません、リカを許してください」
颯太は私に頭を下げた。
「謝ることなんて、何も無いわ」
その後に「あなた達を見ていて、ずっと不思議だった」と付け足した。
颯太は私が言った言葉の意味を理解したのか「でしょうね」と言い、そしてしばらく黙った後
「アイツは自分を殴ってる。俺はそう思うんです」と静かに言った。
――ああ、そうか。
――あの男に殴られ続けていた自分。
リカが許せないのは自分だ。
「自分でそれがわかって受け入れられるようになるまで、俺を殴ればいいと思ってるんで。だからこのままにしていてください」
颯太はもう一度頭を下げた。
わかった。そう答えると颯太は血の滲んだ唇でニコッと笑い、車に乗った。
西条先生が放つあのオーラが颯太にもあった。
きっと強さは優しさとイコールなのだ。とんでもなく強い人はとんでもなく優しいのかもしれない。
少しの間、そこに立っていた。
初夏にしては涼し過ぎる夜風が、今ここにあった悲しい熱気を取り去っていった。
あまり遅くならないうちに帰ろう、そう思ったところで後ろから声をかけられた。
「こんばんは」
西条先生が立っていた、今夜は甚平姿だ。
「こんばんは、お買い物ですか?」
「酒を切らしてね。颯太に頼もうと思っていたが、なかなか帰って来なくてなあ」
今ここであったことは、先生に話すべきなのだろうか。いや、話さないほうがいい、あれは二人で 解決していく問題だ。
「ああ、すまない、お疲れですか。遅くまで大変だねえ」
少しの間私が黙っていたので、先生が気遣ってくれた。
「いえいえ、大丈夫です。あ、風ノ蔵、まだありますよ。店の者に持って来させましょう」
「ありがとう。あの酒が一番気に入っててねえ」
先生ともう一度店に入り、深夜バイトの子に風ノ蔵を持ってきてもらった。
会計を済ました先生と、途中まで同じ方向の帰りの坂道を自転車を押して歩いた。
「おや、今日は月がちょうど半分だ」と先生が言うので空を見上げると、さっきまで雲で隠れていた 月が雲の隙間から姿を見せ、黄色い光を放っていた。
先生は、ふっふっと笑いながら話した。
「颯太がちょくちょくお邪魔してるようだね。忙しいのにすまんねえ」
「いえいえ、お客様ですもの。ありがとうございます。それに颯太くん、優しくていい子です。きっと先生に似てるんですね」
ふむ。と先生は相槌を打って、穏やかな口調で話し始めた。
「颯太はね、ワタシと血の繋がりはないんですよ」
「え?」
「アイツだけ身体が大きいでしょう。西条の男は代々小柄ですから」
そういえばそうだ。お父さんもお兄さんもたしか60kg以下級だった。
「息子は最初の嫁と離縁しましてね。颯太は今の嫁の連れ子なんです。颯太が西条の家に来た時はまだ赤ん坊でね、だからずっと自分は西条の男だと思っていたんですよ。
それが海外遠征に行くことになって、パスポートや何や取る手続きで気が付いたんです。自分は西条の血縁ではないってね。ワタシも息子も颯太の兄と颯太を区別することなく育てましたが、颯太はそれなりにショックだったようでね。徐々に成績を落として、去年はとうとう腰に怪我までしてしまった」
「…そうだったんですね。颯太君、復帰出来るのかしら」
「さあ、どうだろうね。颯太は春から柔道整復師の学校に通っています。柔の道を歩くか否かは本人が決めればいい。
ワタシはね、誰にも柔道を勧めたことはないんですよ。息子にも、孫達にもね。皆、自分からやりたいと言ってきた。だから教えてきたまでです。
ワタシは塾生に『勝て』と言ったことも無いのでね」
「ええ?勝たなくてもいいんですか?」
「ははは、柔の道に勝ち負けは関係ないのですよ。柔とは何か、力とは何か、その答えを探すことが大事なんです。答えは人それぞれに違いますがね。答えを見つけた時に、本当の力を発揮するんです」
「先生、やっぱりすごいです」
偉大な答えを受け取ったような気がする。
自分じゃ到底届かないような上のほうにある、すごいもの。
「いやいや、ワタシは好きなことしかやらん。好きな柔道やって、好きな酒を飲んで。しょうもないジジイですよ」
ああ、そうだ、と先生は思い出したように言う。
「リカさんとやら、アンタのところで働いている娘さんかな」
「あ、先生もご存知で?」
「うん、颯太の恋人らしい」
そうかそうか、と先生は呟きながら言った。
「あの子は心に悲しい闇を持っているように見えてね」
ああ、やはり先生には解るのだ。
「颯太君なら、その闇を取り払えると思います」
「ふむ。そう思うのかい?」
「はい。颯太君は強いし、優しいもの」
ははは、と穏やかに先生は笑い、じゃあここからワタシは右へ下るから、と言った。
別れ際、一番聞きたかったことを聞いた。
「ねえ先生、強さは優しさとイコールですか?」
「それがあなたが出した答えなら、そうなのでしょう」
風ノ蔵を抱えた先生は「気をつけて帰りなさいよ」と片手を振り、坂を下っていった。
夜風は自転車を押すように背後から吹いてくる。
坂道を続けて自転車を押し歩くと、半月が追うようについて来る。
半月の見えない闇の半分だって光を持っている。今は隠れているだけ。
見えないけれどイコールなのだ。光でも闇でも。光と光でも。闇と闇でも。同じ月なのだから。
空の半月にかかっていた雲はすっかり風に取り去られ、月は更に光を増している。
リカと颯太君は今、どうしているだろう。
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