第42話 有希子の選択

「オレ、助けなきゃって……それしか考えてなくて………携帯、サラの着信に気付かなくて……だから……」


 自分の声がうわずりはじめ、呼吸が浅くなっている。息苦しい。

 心臓がビクビクと怯えているように、震える。つられるように、その両手も震えていた。



「そうよ。私は責めてるんじゃないの。隆太君がサラからの着信に気付かなかったのは、消火活動に必死だったから。そして、あの時隆太君が助けに行かなければ、あの親子も亡くなっていた」


 すかさずカイが続けた。


「そうだね、ユキコ。リュータがブログを始めたのも、瞑想を広めるためと、悩んでいる人を助ける気持ちだった。私たちがサラの心の解放を助けようとしたのも、同じでしたね。フオンだって、リュータ達を助けることしか考えなかった。自分の限界など、考えなかった」


「そう。みんな、その時最善だと思うことをした。だから、私は誰のことも責めない。自分のことも」


 有希子の声が力を帯びてきた。

 隆太を励ますというよりは、自分に言い聞かせるかのように。



「天空橋の人たちのことも、責めない。最初から翼を使っていれば、空からの消火活動も早くに出来たし、放置自転車をどかして もっと早く消防車を通すことも出来た。

 でも、それを今言ってもしょうがない。だから、責めない」


 天空人たちは、自分たちの苦い歴史を遠ざけるかのように、長い間翼を使うのを避けてきた。

 故に、あの火災のときも 隆太と長老が空に飛び立つまで、誰も飛ぼうとしなかったのだ。



「自転車を放置していた人達のことも、今さら責めない。もっと言うなら……」


 言葉を継ぐ有希子の声が、微かに震えた。


「サラの猫をひき逃げした犯人のことも。そして……」


 有希子が唾を飲み込む音……



「サラのご両親のことも、責めない」


 続けた有希子の声は、もう震えていなかった。


「無理矢理にでも、サラの悩みを聞き出してあげてれば……そもそもサラがあんなに悩むこともなかったかもしれない。でも……でも、誰も思ってなかった。……あんなことになるなんて」



 沈黙が流れた。



「わかったでしょう? 今更誰かを責めるなんて、時間の無駄なのよ」


 そう言って、有希子はふたたび強い視線を隆太に向けた。



 隆太の心も頭の中も、今にも壊れそうなほどに張りつめていた。

 それにつられるように、部屋の空気も張りつめていた。


 ほんの数分のあいだに隆太の中でわき起こった、怒り、ショック、後悔……様々なものが渦巻き、耳鳴りが聞こえ、目の前がチカチカしはじめた。




 数秒の沈黙の後、カップを静かにテーブルに置く音と共に ホアが話し始めたとき、何故か皆、少しほっとしたようにソファに沈み込んだ。


 ホアの声は、やはり深く穏やかだ。

 深刻な内容の話だというのに、まるで世間話でもしているかのように、いつもと変わらずに優しく響く。



「ユキコ。あなたは、あの後何度もサラの家に通っているのよね?」


「え? ……ええ。サラの居たアパートと、ご実家のほうに」


 急に話の流れが変わって、有希子は少し驚いたようだった。


「それは、どうして?」


「あの……アパートを引き払うお手伝いと、それから……サラの……」


 有希子は言葉を選びながら続けた。

「その……元気だった頃の様子を、ご両親にお話したり……」


「ご両親は、喜んでくれる?」


「……ええ。どんな小さなことでもいいからって、いろいろ訊ねられて……お話しするたびに泣き笑いをされて………いつも、『ありがとう、ありがとう』って……」


 切れ切れにそう言った有希子の声は、最後の方には呟きのように小さくなり、有希子も俯いたまま黙ってしまった。



「ユキコ、辛かったわね。サラと一番親しくしていたのは、あなただものね」


 ホアは独り言の様にそう言って、いつの間にかギュッと組み合わせていた有希子の両手の上に、自分の小さな手を重ねた。


「サラのご両親のためとはいえ、楽しかったときのことを思い出すのは、まだ辛かったでしょう」


 有希子は何も答えなかった。俯いたまま、息をつめているようだった。


 泣きたくないのだ。

 息をつめて、涙をこらえている。隆太には、それがわかった。

 わかったから、隆太も顔を上げることが出来なかった。



 そう。ホアの言うとおり、サラとの信頼関係を最も強く築いたのは、有希子だった。

 重く凝り固まっていたサラのエネルギーを開いたのは、有希子だった。

 しかも、ほんの1ヶ月程の間に。


 どれだけ心を砕いたのだろう。親身になったのだろう。


 隆太はあのとき 有希子を賞賛したものだったが、有希子のその努力についてはほとんど無関心だったことに、今更ながら気付いた。


 自分のことばかりで頭が一杯になってしまっていたことが、いたたまれないほど恥ずかしかった。



「誰も責めないって、とても辛いことかもしれないわね……」


 ポツリとそう呟くホアの声が、隆太の心の奥に染み込むように響く。



 きっと有希子は、「責めない。責めない……」と頭の中で唱えながら、サラの両親と会っていたのだろう。

 そう思うと隆太は、自分の不甲斐なさに頭を掻きむしりたいような心持ちだった。



「リュータも、頑張ったね。ご両親にあの時のことを話しに行ったよね」

 カイが励ますように言ったが、その言葉は慰めになるどころか、さらに隆太を落ち込ませるものでしかなかった。


 自分がサラの両親に会いに行ったのは、退院した翌日、あの1度きり。

 しかも、サラの気配を感じるのが辛くて、早くあの家から離れたいとばかり思っていたのだ。


 隆太には、俯いたまま力なく首を振ることしか出来なかった。


 俺は、なんて情けない男だ。未熟なガキだ。水沢さんが怒るのも、無理はない……



「リュータはあの火事の現場に飛び込んだ。炎の中のサラを助けた」


 続くホアの言葉に、隆太は思わず顔を上げた。


「大変なことだったわね。とても怖かったでしょうね」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る