第31話 炎
3月の初め。
寒さは大分緩み、日中は暖かいともいえる陽気だ。
フオンは来月に控えた入学式の準備に余念がない。ランドセルや文具等も一式揃っている。
ランドセルを背負ったり下ろしたり、ノートを詰め込んだりまた出したり。かと思うと、ひらがなの練習をしてみたり。
不安と期待ではち切れんばかりだ。
しかし、修行もきちんと続けている。
最近では、ティッシュの端にしみ込ませた数滴の水を、じわじわともう一方の端まで移動させることに成功していた。
テーブル上の水を移動させるより、こちらのほうが簡単らしい。
隆太の翼は、背中の中程まで大きくなっている。
瞑想のほうも、あれから何度か宇宙と繋がる体験が出来ている。
サラと有希子の修行も順調だった。
ふたりはよく連れ立って、店に食事をしに来た。
その度に修行の様子など話し合うのだが、修行の成果もさることながら、サラの外見の変化は目を見張るほどだった。
背筋が伸び、明るい色の服が増え、髪型も垢抜けて、薄化粧やごく控えめなネイルまで施している。
猫の墓参りも果たしたそうだ。
内気でおとなしいことに変わりは無いが、あの内に籠ったような様子は影を潜めていた。
グエン夫妻も元気で、相変わらず穏やかだ。店も繁盛している。
もうすぐやってくる春を待ち望みながら、各々が平穏な日々を過ごしていた。
この日の夜までは。
* * *
夕方から、風が強く吹きはじめた。
仕事帰りに同僚と少しだけ酒を飲んで帰ってきた隆太は、店に顔を出し挨拶してから部屋に上がった。
上着を脱ぎ、パソコンを立ち上げる。起動を待つ間、手を洗っていた時だ。
遠くで、どーん、という音が聞こえた。今のは爆発音だろうか。
手を拭きながらベランダへ出て、辺りを見回す。何事も無いようだ。
メールのチェックを終え、今日の分のブログを書き始めた、その時。
さっきより大きな爆発音がした。慌てて再びベランダへ出てみる。
遠くの空が一部赤く染まっている。火事のようだ。
(風が強いから、燃え広がらなきゃいいけど……)
そう思いながらテレビを点けた。ニュースで何か報じられているかもしれない。
背中でニュースを聞きながらブログを書いていると、フオンが部屋のドアをノックした。
「今の音、なに?」
店にテレビは置いていなかったから、隆太の部屋まで見に来たのだ。
「火事みたいだ。まだニュースにはなってないね」
リモコンでチャンネルを変えながらニュースを探す。
「あ、あった」
地元の局ではバラエティ番組を放送していたが、ニュース速報のテロップが出ていた。
「商店街の反対側みたいだな。同じ町内だけど、ここからは少し離れているから大丈夫だよ」
そう言って安心させると、フオンは両親に報告に行った。
ブログの続きを書きながら、隆太は何度かベランダに出て様子をみた。
騒ぎが大きくなっているようだ。遠くから、消防車のサイレンや人のざわめきが聞こえてくる。
テレビではバラエティ番組が中断され、臨時ニュースが流れはじめた。
羽田空港近くの倉庫街の一角で爆発火災が起こり、おりからの強風にあおられて道路を挟んだ住宅街にまで延焼が及んでいる。
放置自転車などのせいで、住宅街のほうには消防車が通れず立ち往生しており、近隣の住民がバケツリレーなどで延焼をくい止めようとしているが、被害は拡大するものとみられる……
隆太のブログ「対立から自由になること」
http://tsubasanomoribito.blog111.fc2.com/blog-entry-21.html
書きかけのブログを急いで仕上げてしまうと、隆太は一度脱いだコートをまた羽織って、階段を駆け下りた。
店を突っ切り、厨房にいるグエン夫妻に消火の手伝いをしにいくと告げる。
「充分気をつけるんだよ」「危ないことしちゃ、駄目よ」
わかってます、と手を挙げ、隆太は店の外に停めた自転車に飛び乗り、火事の現場へと向かった。
現場から少し離れた公園に自転車を停め、走って現場に到着してみると、既に炎は燃え盛っていた。離れていても熱風が押し寄せてくる。
混乱の中、男達が必死にバケツリレーで家々に水をかけているが、まさに焼け石に水、といった感じだ。じきに燃え移ってしまうだろう。
だが隆太は、バケツリレーに加わった。何もせずに見ているわけにはいかない。
怒号や悲鳴が飛び交う中、みな汗だくで水を運びながら祈った。早く、消防車を!
そのとき、少し離れたところで一際大きな叫び声が聞こえた。
帰宅してきた家の主人が我が家の惨状を目の当たりにし、半狂乱で叫びながら燃え盛る家に駆け寄ろうとしているのを、周りに抑えられている。
叫んでいる内容までは聞き取れなかったが、隆太は同情しながらバケツリレーを続けるしかなかった。
「リュータ! リュータ!」
フオンが全速力で駆け寄ってきた。カイも後ろから駆けてくる。
「フオン、駄目だ。危ないから離れてろ!」
そう言う隆太のコートの裾を掴んで、フオンが泣きそうな顔で叫ぶ。
「サラさんが! ユキコがサラさんがいないって!!」
意味を掴みかねている隆太に、やっと追いついたカイが息を切らしながら説明する。
火事の起きる少し前まで、有希子はサラと電話で話していた。
しばらくして火事のニュースを見たユキコは、サラが気になり再び電話してみたのだが、電話に出ないというのだ。天空橋での火事と聞いて、そちらに向かったのではないか。
「そんな、まさか……」
隆太はバケツリレーから外れ、携帯電話を開いた。サラからの着信が3件。
消火活動に必死で、着信に気付かなかった。
「隆太さん、火事は大丈夫ですか?! 電話下さい!」
最後に留守電に残された声には、不安と怖れが混じっていた。
隆太は祈るような気持ちでサラに電話した。コールを繰り返すが……やはり出ない。
サラさん……この群衆の中にいるのか?
「サラさんを探してきます」
カイにバケツを押しつけ、隆太は人混みを掻き分けながらサラの名を叫んだ。
なかなか前に進めない。それでも隆太は必死でサラを探した。
そのとき、大勢の悲鳴が聞こえた。隆太は苦労してそちらへ向かう。
突然、女の子が燃えている家の中へ走りこんで行ったようだ。
群衆の中からそんな声が聞こえてきたとき、隆太は心臓が潰れたような気がした。
「それ、本当ですか? 女の子が入って行ったって」
誰にともわからないまま隆太が尋ねた大声に、どこからか「ホントらしい。見たヤツに電話で聞いた」と返ってきた。
(サラだ……)
隆太は確信した。
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