第82話 食卓

 グエン一家のプライベートスペースに初めて足を踏み入れ、エリックはようやく現実に目覚めたようだった。


 皆に倣い玄関で靴を脱ぎ、キョロキョロしながら奥へ進む。

 途中、洗面所にて手洗いとうがいの儀式を済ませつつ、振り分け式間取りの最奥、ダイニングキッチンとリビングへ。

 物珍しげに部屋中を見回しながら、エリックはフオンに手を引かれテーブルに着いた。


 グエン夫妻と隆太により、手際良く朝食が並べられる。



「いただきます」


 手を合わせて、声を揃える。フオンの指導のもと、エリックもそれに倣った。

 エリックがグエン夫妻の料理を口にするのは、これが初めてだった。


「お味はどう? お口に合うかしら?」


 隆太の実家の母親さながらの口調で、ホアが心配そうに訊ねる。

 この口調もきっと、近所の奥様連中に鍛え上げられた賜物なのだろう。


 カイが通訳するまでもなく、エリックは若干不器用に箸を操りながら、旺盛な食欲でそれに答えた。ひとくち食べるごとに、頷きながら素朴な賞賛の言葉を口にする。


 そして、かなり意識して、丁寧に咀嚼しているようだった。



 そんなエリックを微笑ましく眺めながら、隆太は先日の長老宅での宴会を思い出していた。

 用意された心づくしの料理に 無心に舌鼓を打つ、自分。それを優しく眺めている、親しい人たち。


 ふと自分を見守る視線に気づいたエリックが顔を上げると、皆こぞって別の料理を勧めたり、味付けのアレンジを教えようとした。

 それはほとんど、あの宴会の再現のようだった。




 食事を終え、一息ついて。

 ホアが淹れてくれたハス茶を、手分けして配る。


 エリックがため息をつきながら言った。

「日本の食べ物は、みんな最高だった」


「今のは、ベトナムの家庭料理だよ。ハーブやスパイスの少ないものだし、日本食に似ているけどね」

 カイが、そう言って笑う。


「なら、ベトナム料理も最高だ」エリックが真顔で頷く。



「これから、どうするの?」

 ホアのそんな質問にも、初めの頃ならきっと「お前らには関係ない」と答えただろう。


 だがエリックは、少し考えながらも まともに答えた。

「まずは、かざぐるまのおばあさんの墓参りに行こうと思ってる。それが済んだら、他の事を考えるよ」


「きっと、喜んでくれるわ」

 励ますようにホアが言う。


「……だといいけどな」

 一見ぶっきらぼうな口調だったが、その裏に自信の無さが窺えた。

 その行為に意味があるのかどうか、はかりかねているかのような。



 隆太がごく当たり前の会話の様に言う。

「またいつか、日本に来たらいいよ。今回はほとんど観光しなかったし。俺が案内するから、おばあさんのかわりに君が今の日本をあちこち見て廻って、またお墓の前で報告すればいい」


 カイの通訳を聞いて、エリックは俯いた。

 そしてそっぽを向いたまま、聞き取りにくい声で呟く。


「今回の旅は短かったけど、とても満足してる。かざぐるまを見つけられたし………日本の有名なお菓子も貰えたしな」


 エリックの耳が真っ赤になっている。


「また日本に来る機会があったら……それで、もしお前がそうしたいなら………イヤ、案内してくれたら、嬉しいよ……」



 後半はほとんど聞きとれなかったが、絶対に目を合わせまいとしているエリックの表情から、彼が何を言ったのか 正確に読み取った隆太は、クールに決めてみせた。


「楽しみにしてるよ」

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