第74話 フウジン

「日本の風の神様を見に行きませんか?」



 ホテルに電話がかかってきたのは、今朝の8時半だ。


 当然ながら、俺はまだ寝ていた。

 ジェットラグの影響も抜けていなかったし、それに昨日は色々あって うまく眠れなかったのだ。

 大量に飲み干したビールも、寝起きの悪さの一因かもしれないが。

 日本のビールは、やけに酔いが回る……気がする。


 寝ぼけてグズグズしている間に、待ち合わせの算段が決まってしまっていた。


 適当に受け答えして電話を切り、俺はそのまま再び眠ってしまったが、ご苦労なことに、チエンは待ち合わせ時間の1時間前に再度電話をかけてきて 俺を起こしやがった。


 仕方ないので、時間になるとロビーに降りて行った。



 チエンだけだと思っていたら、あと2人いた。


 いきなり全員から、満面の笑顔で話しかけられる。

 ベトナム語か日本語かすらも判別出来ず、ただ戸惑う俺に、チエンが通訳してくれた。

 父親チエンこと、カイ。母親ランこと、ホア。

 そして娘でありサレンダーである、マイことフオン。



 ……ちょっと待ってくれ。そんなこと突然言われても、困る。

 こんな風に皆で急にやって来るなんて、あまりにも突然すぎるじゃないか。


 そんな覚束ない口調の俺の反論など無視して、チエンことカイは笑顔で手招きする。

「歩けないほど具合悪い? 大丈夫? オーケー、じゃあ行こう!」


 急な展開に巻き込まれるように、駅までの短い道のりを歩き出していた。




 フオンが俺を見上げ、あちこち指を差しては何事か話している。

 いつの間にか俺は、フオンに手を引かれていた。


「フオンは、コイノボリを泳がせて欲しいと言ってます」

 カイが、通訳と共に日本のコイノボリについて説明してくれる。


 特に断る理由も無かったので、俺は風を操ってコイノボリをなびかせた。


 それに、自分自身。

 あのゴージャスな美しい魚が青空を泳ぐ様を見てみたかったという気持ちも、少しはあった。



「吹き飛ばしたら駄目、だって」


 そんなつもりは初めから無かったが、俺は出来るだけ美しく魚が泳ぐように、風をコントロールする。

 一番近くのコイノボリから、ぐるりと円を描いて 届く限り遠くまで……


 日の光を受け、キラキラと煌めくコイノボリ。


 フオンは瞳を輝かせ、俺の足元に纏わりつく。

 空を指差して叫んでは俺を見上げ、手を叩いては飛び跳ねる。

 掛け値なしの、破裂するような 可愛らしい笑い声が辺りに響く。


 この娘は、心の底から喜んでる。笑っている。

 俺の起こした、風の力によって。



 耳の下辺りが、ふわりと熱くなった。

 胸の真ん中がザワザワと揺さぶられるような、そして同時に 温かいものが広がるような。

 不意の感覚に驚き視線を上げれば、フオンと俺に注がれる 両親の暖かな眼差し。


 一瞬激しく混乱し、俺はコイノボリどころか そこらじゅうの物を吹き飛ばしそうになった。


 その衝動を押しとどめたのはやはり、キラキラした粉を散りばめたような、フオンの笑い声だった。




 ……何なんだ、これは。



 心臓がこそばゆい。居心地が悪い。恥ずかしい。逃げ出したい。

 でも、フオンも両親も喜んでいる。

 その笑顔を、もっと見たいと思う。だがやはり逃げ出したくも思う。


 妙に浮き足立ってフワフワムズムズしていたが、それを隠して俺は風を吹かせ続けたものだ。





 今、フウジンの像をひとり見上げ、思う。

 浅草を見学して彼らと別れた後、ひとりここへ戻って来てしまったのだ。




 自分も、こんなふうだったのだろうか。


 今まで俺は、風の力を悪いことばかりに使ってきた。


 初めは、周りの奴らへの仕返しのため。

 身体の小さかった俺は、常に不良どもの格好の得物だった。


 だが、風の力を手に入れてからは、奴らに災難が降り掛かるよう仕向けることが出来た。

 突風を起こして、道端の看板やゴミ箱を相手にぶつけたり、高いところにいる奴のバランスを崩させて転落させたりもした。


 そのうち、俺に近寄る物は誰もいなくなった。

 まさか風の力には気付いていないだろうが、「アイツに関わるとろくなことにならない」という噂が広まり、不良どもはおろかオトナ達にまで敬遠された。


 常に孤立していた。

 だが、それを苦痛には思わなかった。むしろ、気楽でいいとさえ感じていた。



 10代も半ばには身体も大きくなり、力もついた。

 風の力など使わなくても、少々の喧嘩なら負ける気はしなかった。


 だが、俺は力を使い続けた。ただ単に、憂さ晴らしのために。


 この頃既に、家には知らない男が同居するようになっていた。くだらない男だ。

 母親の恋人らしいが、ほとんど会話などしなかった。向こうも自分を嫌っていた。


 高校を出るとすぐに家を離れ、ケチな仕事を掛け持ちしてギリギリの生活を送った。

 生き伸びるだけで精一杯の生活。


 周りの人間は、全て敵だった。そう思っていた。




 目の前の、フウジンの像。


 カッと目を見開き、こちらを威嚇するかの様に睨みつけている。

 大きく口を開け歯をむき出しにしたその顔は、怒りに満ちて見える。

 荒々しく風を纏い一歩踏み出さんばかりのその威容は、少し前なら共感を覚え悦に入っていたかもしれない。


 だが、今は。




 フウジンから目を逸らし、フオンの笑顔を思い出す。

 キラキラした、満面の笑顔。全身で素直に喜びを表わす姿。

 それを眺める両親の幸せそうな様子。


 そして………くるくる回るかざぐるま。




 再びフウジンを睨み上げる。


(俺は、こんな風にはなりたくない。お前のようには、ならない。)



 そう決意したエリックの表情は、皮肉にも 目の前の風神に劣らぬほど、猛々しかった。


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