第9話 『出会い』

 夜中二時半。

 繁華街の裏側、世界の終りのように真っ暗な道を、一台のワゴン車が走る。

 道を曲がり、一方通行の細い道路に入ろうとした瞬間だった。通行止めの看板と、ライトを振る人影にワゴン車は急停車した。

 看板の向こうから、作業服姿の男が現れた。パワーウィンドウを開けた運転席へ、声をかける。

「申し訳ありません、下水道の工事を行っておりまして、迂回をお願いできませんか?」

「下水道工事って、こんな真夜中にするもんなの?」

 運転席から、運転手が首をかしげた。

「ええ、ちょっと緊急で。配管に異常が発生している可能性があって、そのチェックです。明け方には終わりますけど、ご迷惑をおかけします」

 かぶっていた工事用ヘルメットを脱いで、男は一礼する。

 その後ろでは、数人の作業服姿の人間が、サーチライトの中でマンホールの蓋を開ける作業をおこなっている。

 工事用のトラックの横で、責任者らしい人物から、指示を受けている二人が見える。

 光のライトの具合で顔は見えにくいが、何だか妙に若いな、と運転手は思った。しかも黒ずくめだ。下水道とはいえ、あんな作業着あるのか。

「……近道なんだけど、ついてねえな」

「申し訳ありません。警察の通行止め許可書をお見せしましょうか?」

「いや、いい」ワゴン車はバックし、そのまま走り去る。

……カスノはヘルメットをかぶると、看板の向こうにいる仲間たちにライトを振って、会図を送った。


「このマップを見ての通り、この地点を中心として、地下下水道に死骸が発見されているのよ。下水道の形状と捨てられた場所から見て、多分、犯人はマンホールから下に降りてゴミを捨てていると思うの」

 トラックの横で、ナンシーが圭人と蓮に向かって言った。

 二人がそれぞれ持つタブレットには、下水道の水路図と地上図を組み合わせたマップが表示されている。

「成程、下水道内を調査し、不法投棄野郎が辿ったと思われるルートを見つけ出せと」

「その通り。地上は私と一緒に大森と田森で待機。地下は桂と九鬼、あなたたちは、こちらの指示に従って頂戴」

 ナンシーの言葉に、四人の現場班は肯いた。

「一番良いのは、投棄現場を押さえる事だけど」

 マンホールの蓋をバールで持ち上げて開く。ぱっくりと開いた空間から、ぬるくて嫌な匂いの風が吹き上げる。圭人は防護服とセットのヘルメットをかぶり、酸素ボンベとライトのスイッチを入れて、穴の中に体を入れた。

 少し遅れて、蓮が下りる。

「気をつけるのよ!」

 ナンシーの声が降ってきた。

 まるで壁が迫ってくるような穴を、鉄の梯子で下に降りていく。肌で感じる事はないはずだが、視覚だけで体が湿気ってくるような冷たい暗さだった。

 どこまでも続く、地獄への落とし穴のような地下七メートル。

 足がついた時、圭人は思わず息をついた。

「すげえ」

 ヘッドライトで照らされた闇に、思わずつぶやく。

 トンネルの縦は二メートル半、水路の横には一メートル幅の側道がある。無機質な、死の世界のトンネルのようだった。陰鬱と虚無以外、感想は無い。

 ざわざわと水が流れる。だが、水路に流れる水は、生活排水とし尿だった。

「ここの匂いはおろか、硫化水素とメタンガス、二酸化炭素が織りなす世界。この防護服脱いだら、鼻と肺が腐って一分で死んじまうんだろうな」

 圭人はボンベで呼吸しながら歩いた。

 蓮が後ろに続く。

 圭人は通信回線を個人に切り替えた。それを蓮に促す。

 蓮の回線が開いた。

「任務中に、何の話だ?」

 ちょっとね、と圭人は嘆いた。

「……蓮、お前の訓練地はどこだったっけ」

「日本の富士だ」

「じゃあ、フィリピンのバブヤン島は行った事あるか?」

「無い」

「綺麗なところだったぜ。軍隊の駐留地じゃなくて、リゾート地だろって言われていたよ。まあ実際は、中国と東シナ海の領有権がらみで、海賊だの不法侵入だの、小競り合いは結構あったけどね。でも、実際住んでいる島の人はどうかっていえば、とんでもないくらい平和でさ、住民同士の口喧嘩すら見たことないよ」

 温暖で、美しい海と空を見て生活を送っていると、人はずっと善良でいられるのかもしれない。

 駐留地の、軍の訓練生のくせに、そう思っていた。

「島の医者の、じいちゃん先生がある日俺に教えてくれたんだよ。この島は、何年周期で変な熱病が流行るから注意しろって。この島の土地風土病で、外部のワクチンが効かないんだよってね」

 そう、圭人に教えてくれた老医師が、感染した。

 患者を食い殺し、看護婦に食い殺された。

 床も、カーテンも赤く染まっていた。風邪を引いた子供や、年寄りが暇つぶしのおしゃべりついでに、やってくる診療所だったのに。

「感染者に、落ち度はなかった。目にも見えないウィルスが、体内に入って発病したんだぜ。被害者だよ」

 ウィルスも、自然発生したものだ。どこにも形ある加害者はいない。目に見えるのは、感染したからという名目で、家族を殺す兵士だった。

浴びせられた言葉を、圭人は思い出す『人殺し』罵声や怒りではなく、生き残った住人たちの呪詛だった。その中には、親しかった顔もあった。

「圭人。感傷は今の内に済ませろ」

 白く浮かぶ闇に、蓮の声が混じった。

「実際に手を下す役目を負った以上は、被害者の顔をするのは許されない。特にこの仕事は、個人的感傷を挟むのは厳禁だ」

「承知の上だよ」

 蓮の言葉で、圭人は島の少女の顔と、言葉を追い払った。

『私が大人になったら、お嫁さんにしてね。ケイト』

 顔馴染みになった、定食屋の娘だった。非番の日はよく勉強をみてやった。

「で、蓮。お前の見解はどうだ? やっぱり感染者は生きていると思うか」

「確かにあの骨からみれば、感染者に喰われた後にも見える。だがもう一つ、破壊された骨の形状が気になる」

 答えが返ってきた。

「捨てやすくしたように、叩き潰して折っている。そして骨を捨てたのが、この下水道の流れの中だ。マンホールの真下は側道。流れの中に捨てるには、マンホールを開けて側道に降りて、端によって捨てなくてはならない。お前は、マンホールの蓋の重さを知っているか」

「約五〇キロ。生身の人間には、簡単には無理だ。俺たちも蓋を開けるのに、専用用具を使った。そうなると、奴は人間離れした力を持つ相手の可能性もある、感染者の特徴だ……だが、感染者に、骨を砕いて死骸隠匿だなんて知能はない」

「典子のケースがある」

「……おい」

 その時、端末に着信が届いた。圭人は回線を個人からオープンに戻した。

 網膜走査型ディスプレイに情報が矢継ぎ早に表示された。

 地下二階、2―E方向に足音らしき異音。

 現在位置の座標と、異音が発生した位置を示すマップが現れた。同時にインセクト・アイからの短い映像が再生される。

 通路の奥で、影が動いた様に見える。

 感染者なのか。

 圭人はサブマシンガンを持ち替えた。背後の蓮も、ハンドガンを握り直す。

 ナンシーから静かな、だが緊張した声の命令。

『確認して』

「了解」

 二人は足を速めて移動した。少し見上げると、地上で待機している仲間のマーカーが現れた。大本二曹と、田森二曹だ。

 サーモサーチに熱源の感知は無い。まだ感知できる範囲に入っていないのだろう。それに、防護服とヘルメットの完全防備によって、空気の動きを肌で感じ取ることは出来ない。

 代りに、圭人は耳を澄ませた。

 ごうごうと反響する濁流の音、段差によって落下する水の音、全て規則的に、断続的な音を立てていた。ヘルメットの中でこもる音のせいで、風の吹く音さえいつもと違って聞こえる。そして気配。

 インセクト・アイが異音を拾った地点まで、九七メートル。

 右、左、直線、ライトが次々と分かれ道を照らす。マップの指示通りに、闇の奥へ二人は進んだ。

『止まれ!』

 地上で待機している大本二曹が叫んだ。

『九鬼三曹、少し下がってくれ ――そう、そこだ』

 二人が装着しているカメラ映像の中に、何かを見つけたらしい。

『足元に棒状のものがあるだろう。拾ってカメラに近づけろ』

 蓮が大本二曹の指示に従って、水の中を探った。

 無造作に拾い上げたそれは、くの字型に曲がっている。黒い髪の毛らしきものが、大量に巻きついていた。

「不法投棄発見か」

 よく見ると、浅い汚水のあちこちで同じような物体が見え隠れし、水面から突き出ている。

「これは喰い残しかな」

 圭人はヘドロに包まれた、肉のロープを引き上げた。

「大腸か。成程、入っているモノを考えたら喰う気が失せる」

『骨は新しい。肉がまだついていて、ざっと見ても一週間以内。そこにあるのは、人間の頭蓋骨じゃないのか? 二人とも、その辺りの流れの中を、少し探ってくれないか?』

 二人は水の中を捜索した。いくつかの骨と臓器が見つかった。

 頭蓋骨は全て割られていた。中身が取り出された形跡がある。髪の毛の塊には頭の皮がついたままだった。

 すると、聞き慣れない声が割って入った。

『破片は全て持ち帰れ。感染者の痕跡が残っているかもしれん』

 大本でもナンシーでもない。圭人は顔を上げた。大本と共に、地上で待機している田森二曹の固い声が、その言葉を諌めた。

『無理です。現在の任務は下水道の探索であって、サンプルの回収ではありません』

『ならば私から命じる。おい、地下の二人。その遺留品を全て回収しろ』

『ドクター若木。あなたにそんな権限はありません。そこで大人しくしておいて下さい』

 割り込んできた通信は、ナンシー達の指揮車両ではなく、支部からのものだった。

 ということは、あの国立研究センターの研究主任か。

 田森二曹の冷静なあしらいを聞きながら、圭人は口を曲げた。専門家か何か知らないが、部外者の口出しほど鬱陶しいものはない。

 その時だった。ディスプレイに警告表示が出た。

 目標を捕捉。前方二四メートル。角を曲がったその先だ。

『急いで!』

 ナンシーが叫ぶ前に圭人は大腸を放り捨てた。側道を駆ける。その後に蓮が続く。

 すぐさまサーモサーチが熱源を感知した。ディスプレイにオレンジ色の影が映る。確かに、その大きさは見間違えようもない……人間だ。

 曲り角の手前で圭人は立ち止まり、蓮にハンドサインを出す。

 援護しろ。

 蓮が肯く。

 三

 二

 一

 圭人は飛び出し、サブマシンガンを構えた。安全装置を外す。

 ―あれは人間じゃない。

 ―一発で死なせてやれ。

 脳裏によぎる言葉と、目の前の光景が重なる。圭人は前方の男の頭に銃口を向けた。

 トリガーを引きかけて、違和感がその指を止めた。

 男はバッグを持っていた。大きなスポーツバッグだ。

 側道の端にしゃがみ込んでいる。開いたバッグを逆さにして、流れの中に中身をぼとりと捨てた。 その動作に感染者特有の歪さはない。

 バッグの底に残していたらしい、何か最後の一本を取り出すと、骨付きチキンのようにかぶりつき、咀嚼する。

 男が喰らいつくそれが、圭人の意識を跳ね飛ばした。

 五本の指がついた、人間の足。

 男は足先に噛みつき、足指から器用に肉を歯でこそげ落とす。ぺっと何かを吐き出した。それは足指の爪だった。

「!」

 その光景に絶句しながら、圭人は再び銃口を上げてトリガーに指をかける。その時、男の顔がこちらを向いた。正面からライトを浴びて、眩しそうに目を細める。

「……何だよ、お前ら」

 明瞭な言葉が聴覚に入った瞬間、圭人の認識が混乱した。間違いなく、正常な言語機能だった。自分のことを人間と認識している。知能も正常だ。

 行動は感染者だが、反応は正常な人間だった。さらに丸腰であることが圭人にためらいを生んだ。わずかに銃口をそらす。男の足元へ威嚇射撃した。

 男は銃声に驚き、ビクッと肩をすくませる。

 次の瞬間、男は振りかぶって投げた。飛んできた人間の足を、圭人は素早く避けた。

「待て!」

 逃げだす男の背中へ蓮が撃つ。男は身をそらして弾をかわした。右に左と弾を避けながら逃げ続ける。その有様に圭人は驚愕した。

 蓮の射撃をかわす奴を、初めて見た。

 驚愕しつつも、地上で待機している仲間に要請する。

「目標を発見。対象は4―G方向へ移動中。地上は先回りしてくれ。俺たちも追う」

『了解』

 ディスプレイで地上班を示すマーカーが移動を始めた。

 二人は反響する足音を追ったが、角を曲がった途端に姿を見失った。サーモサーチからも反応が消えている。道は三つに枝分かれしていた。どのルートを使ったのか。

 圭人はセンサーの感度を上げた。わずかな熱痕の跡がぼんやりと浮かび上がる。

 薄い黄色の足跡が、一本の通路に続いていた。

 ナンシーの声が入った。

『3―Gで対象を捕捉』

 ディスプレイに表示される座標。圭人は息を呑んだ。もう五〇〇メートル以上引き離されている。見失って一分も経たないというのに。この動き、やはり人間ではない。二人は再び走り出した。

『目標は4―F方向へ尚も移動中……何よこれ、速すぎるわ』

「桂より地上班へ」

『こちら地上班』

「田森二曹、奴を見ましたか」

『お前からの映像で確認した』

「人間にしか見えませんでした」

『だが奴は死体を喰っていた。あれは感染者だ』

「でも普通の言葉をしゃべっていた。あんなの初めてじゃないですか」

『そうだ。だから絶対に逃がすな』

「……了解」

『そのまま走れ。前方に神崎駅前に出るマンホールがある。奴はそこから外に出る気だ。こっちも現着した』

 ディスプレイが、神崎駅前広場を映した。田森二曹のカメラが、地上のマンホールを捉えている。画面の端に彼の構えるサブマシンガンの銃口が見えていた。

 いくら蓮の銃撃をかわせるような運動能力であろうと、至近距離での弾幕を避けられはしない。

 圭人は息を吐いた。その時だった。

『うわぁぁっ』

 耳に突き刺さる声と共に、突然地上モニター画像が暗転した。二人のカメラが同時に切れる。圭人は思わずトンネルの上を見上げた。

「大本二曹! 田森二曹!」

 カメラが自動で映像を切り替える。黒い画像が幾つか続き、ようやく戻った映像に圭人は息を呑んだ。

 斜めになった画角の中、地面にぽっかりと穴が開いている。マンホールの蓋が無い。

 それ以上の映像は来なかった。

 代りに、通信回線には大量の雑音が押し寄せた。不明瞭で耳障りな雑音が耳を打つ。

『二人と……ぐに……』

『やめろ、はな……て……!』

『……や……なん……おう!』

 ナンシーとカスノ達の悲鳴が入り混じる。圭人の背中に戦慄が突き刺さった。

「蓮、急げ!」

 何が起きた? 圭人は走る。大本と田森、どちらもプロだ。俺なんかよりずっと。そう簡単にやられるわけがない。

 地図通りの場所に、地上へ出る鉄梯子があった。圭人は飛びつき、駆け上がる。穴から見上げる空は、まだ暗い。

 地上で出る手前で止まり、先に銃口を突き出して様子を見る。

 反応なし。

 そのまま首を突き出した。呼吸が止まった。

 地上班のワゴンが横転していた。

 その強化ガラス製のフロントに、マンホールの蓋が突き刺さっている。

 屋根も大きくへこんでいた。

 街路樹がへし折れていた。車から放り出された人影が、車の下敷きになっている。

 コンピューターは冷静にその影を識別し、ナンシーを示すマーカーを表示した。

 腕が落ちていた。サブマシンガンを持ったままで。

 軍用ブーツを履いた、脚が落ちていた。

 驚愕が圭人を殴りつけた。咽喉の奥が凍った。

 外に飛び出した。蓮が続く。

 圭人はサブマシンガンを構え、あたりを警戒した。荒涼とした広場を月明かりが照らしだす。

 ディスプレイの現在地情報によれば、私鉄阪西沿線の神崎駅の南側広場だった。

 一級河川の川沿いに位置し、その向こうのフェンス越しには、更地が寒々と広がっている。通行人の姿はない。

 マップによると、その更地は二万平方メートル以上。五年前まで大手薬品会社の工場と倉庫があったが、生産拠点の移転のために閉鎖。

 そのため地域は空洞化し、南側は局地的なゴーストタウンになっていた。

 あたりを照らすはずの外灯は、全てくの字にへし折られて、ガラス片が散乱していた。並んだ街路樹が、草のようになぎ倒されていた。

 ゴミ屑のように転がっている田森も、大本も、呻き声すらない。

 奴はどこだ。

 圭人は警戒しながら、仲間の元に駆け寄った。蓮が応急処置を行っている。呼吸も脈拍も弱まってはいるが、まだ生きていた。蓮が止血帯を巻きながら呼びかけた。

「地上班がやられた。回収班を要請」

『了解、三分待て』

 サーモサーチに熱源感知。圭人は頭を跳ね上げた。駅の屋根。距離四五メートル。ディスプレイのカメラをズーム。

 それは人間のシルエットだった。

 建物の陰と月明かりが逆光になっていて、顔までは判別できない。

 だが。

「笑ってやがる」

 表情どころか、顔の輪郭すら分からない。それなのに分かった。こちらを向いて笑っていると。

 圭人はサブマシンガンを構えた。

 今度は外さない。

 人影の頭に、狙いをつける。

 突然、横から伸びた手が、銃身をつかんだ。

「何すんだよ!」

「撤収だ」

 蓮は銃身を、下に押し下げた。

「警察無線を傍受した。通行人から通報があったらしい。警察のパトカーがこちらに向かっている。到着まで五分。見つかれば厄介だ」

「だけど!」

 屋根の上を見た。蓮にも分かっているはずだ。あそこから自分達を覗っているのは、間違いなく、仲間を傷つけた敵だと。

しかし、蓮は感染者を見ようとはせずに、まっすぐに圭人の顔の方を向いていた。

 その目は、激昂する圭人とは真逆の冷たさだった。

「追う時間は無い」

「……んだとぉ……」

「撤収命令が出た。後一分で回収班が到着する」

「……」

「仲間を助けるのが先だ」

 歯ぎしりしながらも、圭人は銃口を下ろした。

 もう、敵の影はない。

 ただ、月明りだけが、あたりを包んでいた。



「報告します。今回の作戦により、ナンシー曹長をはじめとして、その場にいた後方支援の職員三名が重体。軽傷者一名。そして感染者と抗戦した二名、大本二曹は右膝から下を切断、田森二曹は左腕を切断。六人はマーニット軍医により、現在緊急治療室で手当てを受けています。軽傷者以外、現場復帰は不可能です」

 雑居ビルの四階、支部長の執務室に圭人と蓮はいた。

「軍用車両一台が完全破壊されました。それに搭載していた装備や機器、ならびに端末類も同様です」

 支部長のマサムラは、端末のモニターから顔を上げた。

 冷え切った目が圭人を射抜いた。

「感染者は取り逃がしたか」

「……」

 圭人は黙って頭を垂れた。

「知能があったと、そう言ったな」

「はい」

 圭人はそのまま口をつぐんだ。説明しなくても、分かっているはずだ。支部にもリアルタイムで映像が入っているのだから。

「カスノたちが、インセクト・アイを使って駅周辺、それらしい対象者を捜索している」

 マサムラがキーを叩く。同時に、圭人の網膜走査型ディスプレイに、インセクト・アイから転送された画像が出現した。

 さっきの駅広場にパトカーが停車していた。なぎ倒された街路樹の木々の間を、警官二人が驚愕の表情で、それぞれの首を振り回すようにして歩き回っている。

 その他の周辺は、いたって静かな風景だった。

 マサムラが静かに指摘する。

「下水道で発見時の判断ミスだな。何故あの時、撃たなかった?」

 その通りだった。自責の念が、圭人の頭を押さえつける。

「知能が残っているのなら……まだ、人間としての心が残っているのなら、彼は民間人です。撃ちたくありませんでした」

「だが、対象者は人を喰っていた。その時点で感染者だ」

 マサムラは席を立ち、圭人の前に立った。

「それは君の個人的感情だ。それを優先した結果が、これだ」

 マサムラは、端末画面を圭人に見えるように移動させた。

 画面には、医務室の様子が写っている。ベッドに横たわる仲間たちは、包帯やチューブに覆われて顔も見分けがつかない。

 その間を、マーニットや手の空いた者たちが、せわしなく手当てに回っている。

「私が今回の越境作戦に君を迎えたのは、君のパブヤン島での経験を考慮してのことだ。あの時も、君と同じようにためらった者たちが大勢死んだ。あそこを生き残った君ならば、他の者とは違うとは思っていたが、そうではなかったようだ」

 圭人は何とか口を動かした。

「いかなる処分でも、受けます」

「当然だ」

 マサムラの目が圭人を射抜く。

「しかし、それは今ではない。これ以上人員を減らす余裕はない。現状は保留とする」

 握りこぶしが震えた。いっそ、軍法会議にかけられた方がまだマシだ。傷ついた仲間たちの姿を見せつけられた今、それは温情でもない。精神の生殺しだった。

「言っておくが、不問に付すわけじゃない。作戦終了後、改めてその責を問われることになるだろう。覚悟はしておけ」

「はい」

「任務の方針に変更はない。感染者の捜索を続行、見つけ次第処分する」

 圭人は顔を上げた。

「そ……」

 処分保留よりも、その命令に圭人は目を剥いた。

「支部長、それは……」

 感染者を処分する。感染の拡大を防ぐためには、それ以外に打つ手は無い。だが、越えるべきか否か、この場だけでは判断しかねる重要な項目がある。

 感染者は、この世界の人間だ。この時代の人間に対する、法的な拘禁権も強制力も、自分達は持っていない。

 以前、マサムラはウィルス感染した典子に対して『処分』を匂わせた。だが、あの時に口にしたのは、部下たちの判断力や能力を試すためだった。

 だがこの言葉は、違う。

「感染者は、ここの人間です。この世から人を一人、我々の手で抹殺せよとの、正式な命令と考えてよろしいのですか」

 基本的に、部下は上司の命令は絶対服従なのが軍隊だ。入隊してから骨の髄まで叩きこまれている。それでも聞かずにはいられない。

 それがどういった意味を持つのか。命令を下す上司に、部下として圭人は問う。

 支部長に、分からない筈がなかった。その命令は、この世界に対する明らかな干渉、禁じ手である事くらい。

 自分達の手で、この世界に干渉すれば、歴史にパラドックスを引き起こす。場合によっては、世界の歴史を変えてしまう。

「桂三曹。何のために我々は、川の流れに逆らって、川底にある石を動かしに来たんだね?

「グールウィルスの根絶と、川の流れを元に戻すためです」」

「前半は正しいが、後半は間違いだな」

 マサムラはちょび髭を引っ張った。

「我々の目的は、川の水を清浄に保つ事だ。例え川の流れの方向が、多少変わったとしてもだ。考えてみろ、我々がここに来た時点で、既に時という川の流れは変わっている。違うかね?」

「……」

「帰還したら、もうすでに我々の来た時代も、存在すらも無くなっているかもしれん。それも世界が存続してこその話だ。グールウィルスによって人類が滅べば、元も子も無い。個人の存在よりも、人類という種の保存の存続を優先する。これがその作戦の全容だ」

「補充要員は来ないのですか?」

 今まで、沈黙を保っていた蓮が、ようやく口を開いた。

 マサムラはさらりと言った。

「補充はない。このままの人数でオペレーション続行だ。今後、強襲部隊は君たちだけで担当してもらう。後方勤務は、今回軽傷で済んだカスノ陸士長を中心にして回す」

 元々は標本の回収、それだけを目的とした、必要最低限の装備と人員で結成されたチームだった。ミッション内容も最上級レベルの極秘事項として扱われて、世間にも公表されていない。

 軍、警察、官公庁の組織でも知らされている関係者は限られている。その秘密保持のためにも補充は難しい。

 それなのに、今がこれだ。失えば失うほど、任務の達成は難しくなる。

 その状況を招いてしまったのは、他ならない自分だ。圭人はいいようのない罪悪感にかられた。

 マサムラは、席に戻ると圭人の様子を気にかけることなく、淡々と言葉を続けた。

「しかし、感染者も我々の存在に気がついたはずだ。当面は姿をくらますかもしれん。発見は困難になるだろうが、その前にやっておかねばならない事がある」

 微妙な言い回しだった。圭人は違和感を覚えた。

「君たちが監視している須藤典子を、ただちに拘束。身柄をここに連行しろ」

「え?」

 圭人は思わず聞き返した。

「その必要性はどこにあるんです?」

「君たちが遭遇した感染者、一見普通の人間で知能があったと言ったな。それなのに、人を喰っていた」

「はい」

「須藤典子にもその危険性がある、という事だ」

「待って下さい。あの子は人を喰ってません! その兆候も無い!」

 圭人の声は思わず裏返った。表面上とはいえ、今まで穏やかな生活を保っていたのだ。

「現在、その状態であるというだけだ。今後発症しないとも限らん」

「のりこ……彼女の監視は、インセクト・アイを併用して二四時間体制で行っています。拘束の必要はありません」

「遠隔の監視では、限度がある。今この瞬間、自分の親を喰っていたらどうする?」

 言い返せなかった。昨日の深夜から、典子の顔を見ていない。自分達がここにいる以上、何かがあっては遅すぎる。

 隣の蓮がようやく口を開いた。

「圭人、予測は常に最悪を想定しろ」

「蓮!」

「これは予防的な処置として考えるべきだ。万が一、現状で発症すれば、彼女が感染源としてウィルスを拡散することになる。そうなったら、更に被害が拡大する」

「九鬼三曹の言う通り」

 マサムラが静かに割って入った。

「命令だ。桂三曹、従え」

 マサムラがその場を締めくくった。

 話は終わった。

 支部長室を出ると、圭人の足は勝手に医務室に向かっていた。六人の治療はまだ全て終わっていない。しかし、行かずにはいられなかった。

 医療室のドアの上に点灯する赤いランプを見上げる。

 その向こうにいる仲間たちへの祈りと、自責がどっと覆いかぶさって来る。一体どんな顔をして、彼らに会えばいい? 自分のせいで皆の手足を奪ったことを、どんな言葉で詫びればいいのか。

 そして典子の顔が浮かぶ。全てが自分の失敗に直結していると思うと、壁でも何でも殴りつけて、自分の拳だけでも破壊したくなる。

 しかし、それも無駄な行為だ。

 部屋に入れないまま、医務室の前を通り過ぎた。

 廊下の壁に、圭人は背中を叩きつけた。

――うなだれて、目を落とした先に軍用のブーツの先があった。

 顔を上げる。蓮だった。

 ココアの缶が差し出される。圭人は狼狽しながらも、それを受け取った。

「……済まない」

 温かさが手に広がった瞬間、口から言葉がこぼれた。

「下水道の中で、アイツを撃つべきだった」

 今となっては、悔やんでも悔やみきれない。

「おまけに、みっともないとこ見せた」

 典子の食人の可能性の示唆……知能を持ったままの食人鬼が実際に存在し、しかも彼女もウィルスのキャリアなら、当然考えられることだ。それなのに、聞いた瞬間、取り乱してしまった。

 蓮が隣に立ち、壁にもたれた。

「下水道の事は、私の狙撃もかわされた」

「慰めはいいよ」

「事実を述べただけだ」

 ココアの缶が温かい。冷えた手に温度が戻るにつれて、やや気分が落ち着いてきた。

 蓮は黙ってココアの缶をもてあそんでいる。その態度は、下水道に入る前も、そして今も変わらない。

「なあ、蓮」

 圭人は聞いた。

「支部長の命令だけど、お前はどう思う?」

 感染者とはいえ、この世界の住人を処分する決断は、恐らく支部長の独自の判断だ。その裏には本部の承認も決定もないだろう。

「俺はあの人の考えは間違っているとは思わないよ。でも、その決定はここだけで下すには、事の次第が大き過ぎる。下手すりゃ、帰還した時に俺たちの存在自体が無くなっているかもしれない」

 すでに割り切っているとはいえ、向こうにいる家族の顔が浮かぶ。

「存在意義の心配ではなく、己の存在意義を思い出すべきだろう」

 冷やかで静謐な、蓮の声。

「お前は何者だ。お前は何のために存在する? お前は、パブヤン島で何をした?」

 その言葉が、圭人の記憶が脳を切り裂く。その裂け目から見えたのは、楽園の空の下にある、鮮やかな地獄の風景だった。

 悪夢に飲み込まれた、島の善良な人々。

 思い出に残る声が聞こえた 

 ――ケイトのお嫁さんにしてね。

 感染の拡大を防ぐために、自分達が実行したのは、昨日までの良き隣人、島の住人を殺す事だった。

「私たちは、兵器でしかない」

 蓮は圭人を見ようともせずに、横顔を見せたままだ。その真っすぐな視線は前の壁ではない、何かを見つめている。

「兵器であることが、私たちの存在意義だろう。そんな兵器の一つや二つ、例え無くなったところで世界に何の影響も無い」

「……」

「お前は、自分自身が民間人を守る兵器だと思っていたから、パブヤン島で任務を果たした。違うか?」

「……つまらねー事聞いた。忘れてくれ」

 素直に謝罪する。

 その通りだった。感染者の家族に「人殺し」「悪魔」と罵倒されながらも、任務を遂行出来たのは、上の命令には絶対服従という、鉄の掟に従っただけじゃない。

 組織にとって、自分は只の道具であるというわずかな自嘲。その先にある、民間人を守る兵器としての使命感。その誇りと自尊心があった。

 第一、自分はあの島で感染を防ぐために、どれだけの人間を犠牲にしたのだ。次は自分のところに順番が回って来ただけだ。それなのに、今になって自分自身の存在の心配をするなんて、愚かもいいところだ。

 圭人は上を見上げた。医療室の上に点灯するランプは、まだ赤い。

「もう、失敗は許されないな。時間も無い」

 下水道で遭遇した感染者を思い起こす。知能を持った怪物。

「それを考えると、支部長が独断に走ったのは正しいかもな」

「その通りだ。これが命令系統のセオリーに従ってみろ、どうなるか」

 呆れるでもなく、憂鬱の影もない。無表情に蓮は言葉を紡ぐ。

「本部の連中だけで判断できるはずがない。学者や研究者、医療従事者、ありとあらゆる分野の奴らが出て来て大騒ぎだ。最終的な命令が下りるのは、恐らく世界滅亡の三分前だ」

「確かに、残り三分で勝てる相手じゃないね」

 圭人は、蓮を見た。

「次に奴を見つけたら、どう戦う?」

「状況による」

「銃が通用しない相手かもしれないぞ」

「弾を避けるというなら、当たるように撃つだけだ」

「よく言うぜ」

「白兵戦に持ち込むという手もある」

「車をぶっ壊すような怪物と殴り合えってか」

「二人がかりで隙を狙う。定石だ」

「やれやれ」

 あまりにも単純で、真っ当すぎる答え。いつもなら何を無茶なと馬鹿にするところだが、今はその真っすぐな言葉が圭人の気分を晴らしていった。

 そして、もう一つ。圭人は聞いた。

「お前は、典子が発症すると思うのか?」

「発症と食人の可能性は、キャリアである以上当然考えられる事だ。知能を持ったままの感染者はこれまで報告になかったが、あれを見た以上、可能性の一つとして考えられる」

 その声に、感情は一片も無い。カメラのように目の前にある現実だけを捉え、拾い上げたデータを元にして、計算された予測を差し出す。

 だが、圭人は一緒に学校へ登校し、生活している典子の笑い声を思い起こす。あの笑顔の持ち主が、人を喰うのか?

 あって欲しくない可能性。しかし、無視は出来ない可能性。

 圭人は奥歯を噛みしめる。

「私情に流されるな、圭人」

「分かってるよ」

「だが、私もお前と考えている事は同じだ」

 思わず、圭人はまじまじと蓮を見つめた。一片の感情のこもらない、いつもの口調。だが、思いもよらない言葉。

――この瞬間に、足並みが揃った。

「行くか」

 圭人は壁から勢いをつけて背中を浮かせた。

「気は進まねえけど、姫をお迎えに上がるか」

 歩き出す圭人の背中に、蓮が続く。

 途中、廊下の隅に置かれたゴミ箱が目に入った。少し距離がある。二人は何とはなしに顔を見合わせた。

 圭人は蓮へニヤリと笑った。そして二人は同時に空き缶を投げる。

 滑らかな放物線を描き、二つの空き缶は同時に箱の中に落ちた。

                




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